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2006年8月の見聞録



8月1日

 柳原慧『パーフェクト・プラン』(宝島社文庫、2005年(原著は2004年))を読む。第1回『このミステリーがすごい!』大賞の金賞受賞作品。代理母が生んだ息子を誘拐してしまうが、かつての仲間がそれを基に、息子の父親との奇妙な共存関係で「身代金はゼロで5億円をせしめる」計画を立てる。しかし、事件を密かに嗅ぎつけたハッカー、代理母の思わぬ行動や、現在の母親の半分狂気に満ちた暴走などにより、思わぬ方向へと動く…。
 うーむ、これで大賞なのか。アイディアやモチーフには、幼児虐待、オンライントレード、ハッキング、ES細胞など、現代の動向をたっぷりまぶしてあるとは言え、トリックや物語の展開そのものは、あっと驚かされるものでもないし、やられたと思えるものでもない。ただし、面白くないわけではないし、一気に読めるのだから、実のところそれはたいした問題ではない。それよりも問題なのは、読み終わって、「終わった」ということ以外、特に感慨がわかないこと。これは、登場人物の行動がちっとも心に響いてこないことに由来する。わざとらしい大げささがどうも目立っていて、説明過剰な下手な芝居を見ているようだ。各人の感情が描かれているにもかかわらず、薄っぺらく感じてしまうのは、キャラクター造形の文体に説得力が薄いからと、キャラクターがストーリーを動かすのではなく、ストーリーにキャラクターが嵌め込まれているように見えてしまうからだろう。焦らずにじっくりとキャラクターに動いてもらうような、説得力ある文体を身につけないと、アイディア勝負だけになり、やがて苦しくなるのではなかろうか。


8月2日

 朝倉卓弥『四日間の奇跡』(宝島社文庫、2005年(原著は2003年))を読む。柳原慧『パーフェクト・プラン』とおなじく、『このミステリーがすごい!』大賞の金賞受賞作品(こちらは第2回)。指をなくしたためピアニストへの道を諦めざるを得なかった青年は、そのきっかけとなった事故に巻き込まれた脳に障害を持つ少女・千織が、ピアノの天才的な才能を持つことを知る。二人はピアノの演奏をしてまわっていたが、ある山奥の診療所に招かれる。そこにはかつて青年にあこがれていた女性が働いていたが、千織と共に事故に巻き込まれて重体となるが、女性の精神が千織に宿ってしまう。
 中に挟まっている広告を読むまで知らなかったのだが、映画化されたらしい。ラストは悲しみを漂わせながらも、希望がほのかに見えるさわやかな終わり方なので読後感も良い。『パーフェクト・プラン』に比べると、格段に人物描写がこなれている。やや作り物めいた感が強いとはいえ、まあ許容範囲だろう。ただ、楽しめたのだけれど、これはミステリーなのだろうか? ミステリーの新しい形、と言えるのかもしれないが、金賞というのは何か釈然としない。この先、『このミステリーがすごい!』大賞受賞作品を読むべきか迷うところだ。
 ところで、舞台となっている診療所は、いつのまにやら入院患者の家族同士で助け合う環境になり、核家族とは違う1つの大きな家族を作り上げたと述べている。ただ、前近代的な家同士のしがらみに縛られることが嫌だったからこそ、そういう相互扶助を捨ててでも核家族化していったのが近現代なのではなかろうか。越智道雄『孤立化する家族−アメリカンファミリーの過去・未来』などは、現代アメリカのそうした事例を取り上げている。また、E.ショーター『近代家族の形成』が、心性的な面についての言及はともかく、統計的に指摘しているように、19世紀に現在のような核家族が進んでいったのは、やはり近代化に伴う脱・村社会の動向が関連していると捉えられる。こうしてみると、人の結びつきへの安易な過信は、何となく楽観的な理想論に見えてしまうのは気のせいだろうか。著者の意識と登場人物の言動は別々のものであるのだろうけど、この作品の場合は、物語の展開やラストの流れからすると、どうも著者自身の主張と重なっているように見える。実を言うと、この辺が気になって、この作品にもやはり「楽しかった」という感想以上を出しにくい。ある意味で、これは古典的な作品なのかもしれない。


8月3日

 呉智英『言葉の常備薬』(双葉社、2004年)を読む。『言葉に付ける薬』(双葉社、1998年)『ロゴスの名はロゴス』(双葉社、1999年)に続く3冊目の日本語シリーズ。1つの解説につき3〜4ページという従来通りのスタイルを取っている。いつも通り、興味深い指摘は少なくない。たとえば、「ギョーザ」は支那語では「チャオズ」であり、なぜ「ギョーザ」になったのかに対して、従来の訛ったという説ではなく、朝鮮語読みの「キョジャ」に由来したのではないか、と推測している(48〜51頁)。また、ロシヤ語では目覚めさせるを「ブジーチ」と言うそうだが、これは仏陀、すなわち目覚めた人から来ており、インドとロシヤの近さを指摘している(64〜67頁)。若者同士の言葉は流行と共に消え去るのだから目くじらを立てない代わりに、正しい言葉を使うべき人の誤用や、通ぶっていながら正しくない用法には手厳しいのは相変わらず。そうした誤用のインチキ臭さが一番笑えるのは大川隆法のイタコへの突っ込み。彼が孔子の霊を呼んだとき「わしは孔子じゃ」と話したのに対し、「子」は敬称で「先生」の意味だから、自分で自分のことを「孔子」と呼ぶはずはない、というもの。本当ならば名の「丘」を使わなければならない(60〜61頁)。
 だんだんと突っ込みが細かいところに向かっているような気もするが、これまでのシリーズが楽しめた人ならば、まずまず満足できるだろう。


8月4日

 加納朋子『月曜日の水玉模様』(集英社文庫、2001年、原著は1998年)『掌の中の小鳥』(創元推理文庫、2001年、原著は1995年)を読む。いずれもちょっと勝ち気な女性と、それに引っ張られるような男性(立場が下か対等かという違いはあるが)を主人公とした短編の連作。殺人事件など起こらない、ごくありふれた日常の一コマで起きたふとしたミステリーを解き明かしていく。じんわりと面白いのだけれど、『ななつのこ』・『魔法飛行』ほどの巧みな伏線の張り方は欠けているかな。


8月5日

 逢坂剛『禿鷹の夜』(文春文庫、2003年(原著は2000年))を読む。ヤクザにはたかり、弱い者を足蹴にすることも厭わない刑事・禿富鷹秋。ヤクザと南米マフィアのいざこざに立ち会った禿富は、平然とヤクザにたかりながら、南米マフィアのちょっかいをヤクザも呆れるほどの傍若無人さでいなしていく。しかし、恋人を殺害された禿富は、冷酷にマフィアを追いつめていく…。
 まあ、面白くないというわけではないのだけれど、いまいち納得できない。主人公が性格の悪い悪漢というのは、人物造形として別に問題はない。ただ、警察の人間が犯罪としか思えないような行為を出来るのかに関してほぼ説明がないので、どうも釈然としない思いの方が強い。これはシリーズもののようだから、後々の巻で説明されているのかもしれないけれど、この巻を読んだだけでも分かるようにある程度は書いてもらわないと、ストーリーを楽しむ以前に、「何であんたは捕まらないの?」との疑問が常に頭に残って、ストーリーに集中できない。まあ、こう言うのはドラクエを初めとするRPGの主人公がアイテム探しをするのに対して、「他人の家のタンスを荒らしまくるなんて、正義の味方じゃない」というような突っ込みをするようなものなのかもしれない。面白いのだから、つまらん突っ込みを入れるな、と。でも、RPGが現代日本とは違う世界を舞台にしているのに対し、こちらは明らかに現在を舞台としているのだから、やはり違うか。さて、次の巻を読もうか読むまいか…。


8月6日

 佐藤弘夫『神国日本』(ちくま新書、2006年)を読む。「日本は神の国である」という、ナショナリズム的なイデオロギーと見なされがちな言説を、古代と中世を中心に再考察を行い、その原義と歴史的な展開を捉え直す。天皇の神聖化によって制度を確立した諸神社は、平安後期の律令制の衰退に伴って大きく動揺する。それと同時に天照大神の権威も揺らぎ、様々な有力神が自分の優位を主張し始める。この結果として、諸処の神々は地域との密接度を高め、それは一定領域の排他的なに独占を試みる指向性を有するようになる。そして、本地垂迹説の成立と共に、仏像に習って神像が造られるようになると、人格が与えられて不可測な意志を持ち、祟りを与える「非合理的」な存在から、応報と罰を下す「合理的」な神々へと性格の変化を促す。
 こうした中で神国思想も変化していく。『日本書紀』に初めて登場する古代の神国思想は、天照大神を中心とした序列を持つ神々が、国土・人民を守護するという共通点を持っていた。末法的な雰囲気が蔓延した中世には、本地垂迹説に基づき、仏が神として垂迹したから日本は神国である、という思想へと転換する。その延長線上に『神皇正統記』の「日本は神国なり」という一文が登場したのであり、そこには外部に対して日本の優位性を主張する意図はない、とする。しかし、中世末期から近世には、彼岸的な要素が薄れていき、それによって日本の優越性を「神国」思想に則って訴える動きに歯止めがかからなくなっていく。
 『偽書の精神史』は近代的な概念で中世的な思想を判断するところが見られたが、この書にはそのような点は見受けられないのもよい。「日本は神の国である」という言説を批判するにせよ利用するにせよ、そこに日本的なアイデンティティの主張を見出す点は、現在ほとんど揺らいでいない。しかし、本書を読めばそうした考えは勝手な思いこみだということが暴かれる。これは、歴史学の面目躍如とも言える書ではなかろうか。しかし、「あとがき」によると、本書の基になった論文は歴史学者からほぼ黙殺され、反応があってもほとんどは批判だったらしい。歴史学は実証ばかりに重きを置くがゆえに、思想的なものは排除するか、もしくはイデオロギーそのものにならないと存在できなくなってしまったのかもしれない。
 メモ的なものを。法然や親鸞をはじめとする鎌倉神仏教が弾圧を受けた理由も、中世の神国思想から説明している。たとえは国家批判的な色合いはなくとも念仏を唱えることで身分や階層に関係なく極楽へ行けるとする教義は、本地垂迹説に基づく神国思想を経由しないがゆえに、旧来の勢力の反発を招いた、とする。この説明はなかなか面白い。単なる鎌倉仏教内の勢力争いではなく、日本的な思想に基づく対立だったということになる。


8月7日

 本田孝好『MISSING』(双葉文庫、2001年(原著は1999年))を読む。短編集だが、特に特筆すべきことはない。オーソドックスなものも恋愛的なものも現代社会を皮肉ったようなものでも、何かひねりを加えているつもりなのだろうけれども、読んでいる方からすれば、この程度はマンガの短編集ならば軽くクリアしている内容に見えて、特に気が利いているとも思えない短編しかないと思う。


8月8日

 稲見一良『セント・メリーのリボン』(新潮文庫、1996年(原著は1993年))を読む。中年の哀愁をモチーフとした短編集。感動ものとして評判のようだが、本田孝好『MISSING』と同じく、特に面白いとは思えない。もしかしたら、こういう作品こそ文学的である、というような言い方で持ち上げる人がいるのかもしれないけれど、高尚なつもりの言い方で自分だけは分かっているというような物言いになった時点で、文学とやらは終わりだろう。
 今になってようやく気づいたのだけれど、ノスタルジーが醸し出されている小説は、個人的には好みではないのだな、と。香納諒一『幻の女』、藤原伊織『テロリストのパラソル』、志水辰夫『行きずりの街』、原ォ『そして夜は甦る』・『天使たちの探偵』などもこれに当てはまる。好みではないものを読んでいるのだから、文句が出るのは当然であり、こちらが間違っていた。これからは気を付けて、こういうのを読まないようにしよう。


8月9日

 梅原克文『ソリトンの悪魔』(朝日ソノラマ文庫、1998年(原著は1995年))上を読む。2016年の日本では沖縄沖に海上都市が築かれていた。主人公はその近海の海底にて石油採掘プラントを操っていたが、正体不明の生命体が海上都市を破壊する現場に遭遇してしまう。さらに、それを追っていた自衛隊の潜水艦と接触し、その正体不明の生命体と向き合う派目になる…。
 近未来を舞台とした海洋SFであり、ソリトン生命体という未知の海洋生命体が物語の鍵を握る。潜水艦と生命体の攻防、ホロソナーという新たな知覚装置、海底プラントでの新たな生命体との邂逅、生命体同士の争い、海底油田の爆発という危機、など、様々な近未来的なモチーフを用いて、これでもかと新たな展開を与えつつ、伏線もうまく決めている(少女の手品がこんな風な伏線に使われるとは思わなかった)。うまく映像化できるのであれば、映画化すればそこそこのヒットを狙えるのではないか。
 ただし、上記の様相にもかかわらず、ラストの部分以外はあまり気持ちよく読めない。というのは、海洋醜聞劇とでも言えるほど、たいていの登場人物が非常にエゴ丸出しで、自分の行為を正当化し続け、ヒステリックに他人を攻撃し続けるから。特に主人公とその別れた妻の争いは酷い。たとえ意図的であろうとなかろうと、本書の場合は明らかにそれが強烈な負の印象を読者に与えてしまっている。これは著者の会話時の状況描写に問題があるからと思う。物語の構成上、登場人物の性格を醜くすることはあるだろう。極限状態の時、ほとんどの人は冷静な判断を保てないだろうから、それを狙っているのかもしれない。確かに、パニック状態でも普段とさほど変わりないような会話をしていれば、いくらエンタテインメントといえども、あまりに作り物めいた感じが強くなってしまうから、それを避けたかったのかもしれない。けれどもそのようにしたいのであれば、人物の会話と会話の間に挟まれる、地の部分でうまくクッションをおかないと、読んでいるものは極限状態の心理状況や、こういうときにこそ出てしまう人間の醜悪な部分をを生々しく感じとる前に、読むことそのものが嫌になってくる。「生々しいこと」と「生々しさを描くこと」の間には、大きな隔たりがあり、後者にこそ物書きとしての力量が問われるのだなあ、と。内容そのものは非常にスリリングで面白いからこそ、こうした部分が引っかかってしまった。
 ちなみに、本編より2年後に位置づけられるエピローグ的なラストの部分で、軍事機密であったホロソナーが、一端その存在を知られると、あっと言う間に日常社会へと広まっていった、という描写は本当にありそうな感じでもある。また、同じくラストで、退官した潜水艦の艦長が海と関わる仕事を辞めて、「もう二度と海に出るつもりはない。出なくても、たとえば本の中でなら、一九世紀の海でノーチラス号にだって乗れる」(437頁)という部分があるが、皆川博子『死の泉』のミヒャエル少年の言葉を思い出した。
 ちなみに、稲見一良『セント・メリーのリボン』の表題作の短編は、犬探しの探偵を主人公にしているが、この中は盲導犬はボランティア活動で育成されている、とあった。盲導犬に関しては詳しくないのでよく分からないが、もしこれが本当ならば、ラスト部分でホロソナーが実用化したから、盲導犬はのトレーナーは商売にならなくなった、という記述は、微妙に間違っていることになる(まあ、近未来が舞台なので、そのころには商売になっていた、とも解釈できるが)。


8月10日

 帚木蓬生『逃亡』(新潮文庫、2001年(原著は1997年))上を読む。憲兵である守田軍曹は、香港で終戦を迎える。反日感情が高まる中で、憲兵であった自分に降りかかるであろう戦犯としての裁判に危機感を募らせ、密かに離隊する。香港を脱出し故郷へ帰ってきたが、追っ手からに逃げるために、「逃亡」せざるを得なくなり、長い逃避行が始まる…。
 敗戦後の現在の描写に、憲兵隊での仕事の回想が挟み込まれる構成になっている。あくまでも一兵士の立場から描いた戦前・戦後の描写は、フィクションであることを割り引いたとしても、太平洋戦争の現場の雰囲気を分かり易く説明する入門書と言えるほど。むしろ、下手なイデオロギーに固められた歴史書よりもこっちを読む方がよい。戦争を描くときには、その残虐さを被害者の記録から伝えようとしたり、兵士も国家の被害者だとしてその悲惨さを訴えたり、逆に戦争にはよいところもあったと兵士の英雄的な姿を描くものがたくさんある。しかし、それらに対しては反論が許されない立場に立たされてしまいがちである。戦争に関しての知識を得ることは決して無駄にはならないとは思うが、初めからそうした暑苦しいものに向き合わされるよりは、本書や荒俣宏『決戦下のユートピア』などを読む方がイメージを掴みやすいのではなかろうか。とはいえ、そもそも本を読まない人には、アピールすることも無理だろうけど。


8月11日

 加藤徹『漢文の素養 誰が日本文化をつくったのか?』(光文社新書、2006年)を読む。日本には弥生時代に文字は入ってきていたが、漢字とそれに基づく漢文文化が根付くのは6世紀以降であった。それ以前は、言葉に霊力があり言霊思想が信じられており、文字はそれを妨げるとの考えがあったため、漢字の定着を阻んでいた。漢文文化の浸透に伴い、アジアの他の地域では行われなかった漢文の訓読がなされるようになる。そして、中国・朝鮮では漢文のリテラシーを持つ士大夫階級が支配階級となるが、中世日本で支配階級となったのは武士階級であり、漢文能力を保持する知識人階級は寺家勢力であるという、一元的ではない構造となった。やがて、戦国時代の到来と共に、公家や寺家は地方へと戦乱を逃れ、それにより漢文文化は全国へと広がっていく。そして、江戸時代には漢文の訓読は町人や農民にまで浸透する結果となる。こうした素地があったために、日本は西欧文明を受容できる素地が固められており、アジアでいち早く近代化に成功した、とする。
 主な流れはこのような感じだが、それ以外にも興味深い描写がいくつも見られる。以下、メモ的に。古代の大和民族は色彩語や時空把握用語に乏しく、前者に関しては漢文を取り入れた7世紀に入ってから一転して色彩の美を追究するようになった(26〜28頁)。日本の国号を支那が認めたのは、則天武后という国号を改めたり新しい漢字を作ったりするような皇帝だったからかもしれない(106〜7頁)。今も昔も支那人にとって歴史はイデオロギーであり、一義的な定説でなければならないが、『日本書紀』は多数の異説を紹介しており、支那の歴史学とは異なっていた(115〜16頁)。
 奈良末から平安初頭にかけて、朝廷は漢字の新しい発音である漢音を普及させようとしたが、僧侶や庶民は呉音を用い続けたため、漢字の読みは二重構造となった(157頁)。宋の太宗は、日本の天皇が万世一系であり、臣下も世襲であることを知り、日本こそ自分たちの古の理想を実現していると嘆いた(150頁)。
 八幡太郎義家は大江匡房に「惜しむらくは兵法を知らず」と言われて、彼から『孫子』を伝授され、それを学んだ。その後、奥羽の戦場で鳥が乱れたのを見たとき「鳥の起つ者は伏なり」を思い出して伏兵を見破ったが、この逸話は宣伝戦の匂いがし、そうであるならば、『孫子』の神髄を理解していたことになる(155〜57頁)。このエピソードは、菅野覚明『武士の逆襲』において、武士は強いというイメージを作ることが大切、と述べられていたことを思い起こさせる。
 江戸時代の日本に渡ってきた朝鮮通信使は、日本では漢籍の出版物が豊富なことに驚き、しかも朝鮮漢文の書物まであったため、18世紀初頭には、日本側に今後漏らすな、との決定がなされたほどだった(198頁)。同じく、清国内では機密文書だった実録も江戸時代の日本では販売されていた(200頁)。
 それ以外にも日本人が作成した漢文や漢詩も紹介しつつも、コンパクトにまとめてあり、日本の漢文について簡単に抑えておくには非常に便利だろう(参考文献を付けて欲しかったが)。ただし、ところどころで、やや文章がぶつ切れのような感じを受ける箇所や、情報を無造作に放り込んだようになるところがあり、情報が重複するところもある。特に、中流実務階級が漢文の訓読を出来たことが、日本の近代化に有利に働いた、という件は、何度も、しかも初出であるかのように出てくる。その辺りを決めの言葉として要所にまとめれば、実はもう少し内容を圧縮できたと思うし、さらに情報を盛り込むことも出来たと思う。これは作者ではなく、編集者のミスだろうな。
 あと、気になるのは現代は漢文が廃れつつあることから、現代の文化を批判しようとしている点。広田照幸『教育言説の歴史社会学』でも書いたが、研究者は現状に対する優れた提言者にはなりにくいらしい。平成の若者が教養として持っているのはマンガやアニメであり、議論もメールか2ちゃんねるへの書き込みが精一杯と嘆く(226頁)。どうして、新しい文化を漢文の文脈から解説してみようとしたり、漢文という長い伝統を持つものへ取り込もうとする戦略を考えだそうとしないのだろうか。いや、してないわけではないのだが、それも決して現実的ではない。著者が打ち出すのが、漢字文化圏のアジア人同士の漢文でのメールのやりとり。漢字の種類も違うし、漢字を廃している国も多いのだから、見通しとしては甘すぎるし、そもそも英語を使う方が楽だろう。日本以外の国では特に、漢文はもはや文化の中心ではないのだから、文化や国を超えてお互いで語り合うにあたっては、意思疎通をしやすい言語を使う方が便利なのである。また、漢文が古くて新しい知恵の宝庫ともしているが、漢文という過去から現在を説くのではなく、現在の社会を漢文から照らし出す、ということをしなければ、古い価値観を振りかざして上からものを言っているように思われて、大多数の普通の人々は振り向いてくれない。古いものの良さを語ってはいけない、ということではない。自分は良いことを語っているという思い上がりを捨てて、流れゆく時代の中に自分もいるのだという意識を欠いてしまえば、思いは読者に伝わらないということだ。それならば、まだ現代を意識した発言などしない方が、一定の読者には伝わると思う。
 結局のところ文化というものは、新しい動向を嘆く時点で衰えていることを示すということなのだろうか。


8月12日

 ひさうちみちお『托卵』(青林堂、1991年)を読む。中世ヨーロッパをモチーフにした架空の世界。カッコーと呼ばれる、国を持たない虐げられた民族がいた。鳥のカッコウが他の鳥の巣に卵を植え付け、しかも生まれた雛は他の卵を蹴落として、あたかも本当の子であるかのように振る舞うのと同じく、カッコーは生まれたばかりの一般人の赤子と自分の子供をすり替えると見なされて、迫害を受けていた。自分の母を知らずカッコーかもしれない修道士は、ある町へ赴きカッコーを撲殺した人間の不当を訴えることになったが、政治家や宗教性力の抗争に巻き込まれる…。
 物語の中心的存在であるカッコーは、明らかにユダヤ人やロマ民族をモデルにしている。物語に込められたモチーフについては、巻末の呉智英の解説が、「カッコーに対する妄想が抑圧される原因であるのに、この妄想がなければカッコーたり得ない」などをはじめとして、この上なく適切に語っているのでそちらを参照。そのようなある意味で文学的な深読みをせずとも、ひさうちの輪郭をはっきりさせた特徴のある線が、初期中世ヨーロッパの図像を思い起こさせるので、そのような雰囲気に浸りたいのであれば、おすすめ。ただし、ドラマティックな歴史物を求める人には勧められない。とはいえ、ドラマティックな歴史物というのは、現実にはあまりないだろう。歴史とは、本書で描かれているように、ほとんどの場合は淡々と、しかし冷酷に織りなされるものだと思うので。


8月13日

 宮部みゆき『模倣犯』(小学館、2001年)上を読む。上下巻あわせて1400頁以上、上下二段組みという大作。都内の公園のゴミ箱で見つかった女性の腕。それは、その後に起こる衝撃的な事件の幕開けにすぎなかった…。事件から犯人が死亡するまでの第1部、犯人の過去から死亡に至るまでの内情を描いた第2部、そしてそれまでがプロローグにすぎない展開が待ち受ける第3部と、まどろっこしいくらいじっくりと描きながら、物語を展開させていく様は圧巻。どうオチを付けるのかと思っていたら、『模倣犯』というタイトルの真の意味が分かるラストの展開も見事。これは『週刊ポスト』に連載されていたそうだけど、初めからこのオチを考えていたとしか思えない。
 もしこの本で描かれているような事件が起これば、世間に衝撃を与えることは間違いない。だが、だからといって本書で描かれている事件が荒唐無稽のものであったり、無駄にスペクタクルだというわけではない。こういう言い方は正しいのかどうか分からないけれども、「地に足の着いた」事件という風に映る。なぜそうなるかといえば、事件に関わっているありとあらゆる人間の意志を感じとることが出来るから。一般的な小説であっても、主役・脇役級の主要な人物だけではなく、エキストラのような端役が登場しなければ、特殊な設定の小説でない限り、物語は成立しない。しかし、本書ではそれが徹底している。主要な人物の徹底的な書き込みならず、エキストラにしか思えない人物でも、出来る限りの描写がなされている。
 普通の推理小説の場合は、得てしてそのような部分がそぎ落とされて、中心人物に焦点を当てるか、事件そのものに焦点が当てられる。もちろんそれが悪いわけではない。それによって語りたいことがきちんと読者に伝われば、それはそれで何の問題もない。しかし、うまくいかなければ、それは箱庭的な一本筋の作り物に見えてしまう。言葉を換えれば、登場人物が結論にむけて動かされている操り人形のように見えてしまう。しかし、『模倣犯』の徹底した描写は、事件には被害者や加害者、容疑者や捜査をする人間といった直接の関係者のみならず、それ以外の様々な人間が関わっていることを想起させる。現実の事件であるならば、そのようなことは当たり前なのだが、事件は人間が作りあげるものであり、それを様々な人間が、見たり考えたりしているのだということを、小説という仮想の世界で再現してしまった。先に書いたように、オチは最初から考えていたはずだ。にもかかわらず、ラストへと誘導しているように見えないのは、一握りの登場人物の働きで物語が完成したのではなく、様々な人間の行動と思惑を組み上げるようにして、事件を描き出したからだろう。だからこそ、犯人の告白場面も下手な三文芝居のように大げさには見えない。
 言わば、この小説は群像劇とみなしうる。群像劇は何も英雄的な人間だけが創り出しているわけではない。世の中には、幾つもの群像劇がある。いわば、事件という1つの大きな物語が中心に添えられていても、それぞれの物語がそれぞれの人間にはあり、個々の物語同士が絡み合うことはあっても、人と意識の数だけ物語はある。そして、ラストのさりげない描写も、その中の1つの群像劇の終演とみなせば、うまい幕の引き方といえる。
 『理由』はルポルタージュ形式を取り、様々な人物の証言を基に事件を再構成させるという手法を取ったが、『模倣犯』はそれをさらに一歩推し進めて、小説の形式で提示したと言える。ミステリーにおける普通の人物の描写は、著者が得意としてきたことだが、本書は著者の最高到達点の1つではなかろうか。
 また、群像劇であるからこそ、この作品の舞台となった20世紀後半における日本の社会の様相を図らずして物語ってくれていると言える。その中でも個人的に印象に残っている特徴が2つあり、1つはマスコミの力。本書ではマスコミ関係者の姿が色々な箇所で出てくる。そして、マスコミの力によって、事実とは少し、それでいて決定的に異なった情報が、一度でも流布されてしまえば、それを別の方向へ揺り動かすのは非常に難しいことが、本書の中でも特に第3部において、悲劇を引き起こす重要なモチーフとなっている。それを象徴する文章を。「どちらがより迅速に、効果的に、言いたいことを言いたいように言い、それをどれだけ広く報道してもらえるか。今や、善悪の判断基準はそれしかない。」(上巻、第1部第15章、278頁)。
 そしてもうひとつは、自分が他者とは違うと感じたい願望。これも本書の主題であろう。本書の言葉を使えば、「英雄願望」と「退屈しないことが大切という指向性」の2つが一番的確にまとめている。自分こそが英雄であり、それを妨げるものは許せないという感情。「ある種の事件を起こしやすいタイプの人間をして事件の方向へ向かわしめるのは、激情でもなく我執でもなく金銭欲でもない。英雄願望だ。…彼らほど、「英雄」という言葉に魅せられ易く、他人の上に君臨し人々から賞賛されたいという欲望の強い人種はいない」(上巻、第1部第16章、293頁)。そして、英雄願望を他人にも投射して、平凡で地味な人生に意味を与えてやって、自分こそが退屈させなくしてやるという、勝手な指向。「何よりも恐ろしいのは、人生に何も起こらないこと。誰にも注目されず、何の刺激もない人生を送るくらいなら、死んだ方がましだっていう、そういう指向性」(下巻、第2部第19章、489頁)。それは、今やネットやブログによって、より肥大化していると言える…まあ、私自身もこのようなサイトを作っているので偉そうには言えないのだが。著者は、そうした現代社会に対して、身の丈にあった平凡へと回帰するように、とメッセージを発しているのではないか、と勝手ながら考えた。
 もちろん、これらはあくまでも個人的に感じとった1990年代後半の社会であり、人によっては違う意見であるかもしれない。人によって違う意見が出てくるのも、しつこいようだが、これが普通の人々の群像劇だからだろう。柳原慧『パーフェクト・プラン』もこれくらい描いてくれたら、21世紀初頭の雰囲気を後世に伝える作品になったかもしれない…というのは勝手な言い草か。
 ちなみに最後にどうでもいいことを。栗橋宏美は、内田春菊『ストレッサーズ』の終盤部分での日常はじめを、なぜだか思い出した。ピースは、上巻だけだと浦沢直樹『MONSTER』(ビッグC)のヨハン。「本当の悪は理由なんかない」(上巻、第2部第17章、659頁)という台詞などは、特に。上巻のみだけれどもね。


8月14日

 ロジェ・シャルチエ(松浦義弘訳)『フランス革命の文化的起源』(岩波書店、1994年)を読む。フランス革命がなぜ起きたのかという原因論からではなく、フランス革命に至ることを可能にしたものは何かという条件論から、文化史を中心として革命前のフランスの状況を捉え直す。まず著者は、啓蒙思想によって王政の基盤が掘り崩されて、フランス革命に至ったとする教科書的な構図を否定する。確かに、18世紀のフランスではキリスト教に対する離心が緩やかに生じており、同時に王に対する聖性の意識も薄れつつあった。国家式典が宮廷儀礼になることで、国王は民衆の目からは隠れた存在になり、それゆえに「王様風料理」という聖性が感じられない様な名称も用いられるようになる。こうした意志は書物によって広がり、さらには意見を交換できるサロンやカフェによって、共通の意識として形成される。しかしながら、こうした雰囲気を促進したものこそ、実は中央集権化が進む国家権力であった。国家権力によって公的な空間が形成され、私的な空間が分離したのであり、まさしくその私的な空間において、「共通の意識」が育まれたからである。
 これ以前にも読書論に関する著作や編著書があるが(『読むことの歴史』(G.カヴァッロとの共編)、『書物から読書へ』など)、それを基にフランス革命を論じたと言える。フランス革命に関してはいくつも本が出ているが、がちがちの政治史などよりははるかに読みやすく面白い。まあ、今のフランス革命研究は、どちらかといえば本書のようなものの方が主流ではないかと思うが。
 著者のこうしたバックボーンゆえか、やはり読書や書物に関する説明に興味深いものが多い。18世紀に入って、識字率や蔵書数は急上昇する。ただし、下層階級は書物を買うだけのゆとりがない。ただし、彼らも含めた民衆は読書室や貸本屋や店の屋台で、新聞や書物を読むことで、読書に対する渇望を満たした(104〜6頁)。当時の「哲学書」とは「ポルノ文学」の別名でもあった(113〜22頁)。政治的な誹謗文書の購入者に関しては、58%という大部分を占めるのは、王権に対する批判者よりもむしろ官職保持者であり、彼らは顧客全体においては30%しか占めていないのだから、誹謗文書に対する関心が高かったのが分かる(208頁)。


8月15日

 東野圭吾『名探偵の掟』(講談社文庫、1999年(原著は1996年))を読む。密室殺人、フーダニット、閉ざされた空間、ダイイングメッセージ、時刻表トリック、バラバラ殺人、叙述トリック、見立て殺人、殺人手段など推理小説によく見られるトリックや設定を使った短編の中で、名探偵とその引き立て役の警部という登場人物の口を借りてこき下ろす。何となく清水義範が書きそうな感じの小説だ。ちなみに、こういった定型的なトリックや設定は、人気のあるシリーズものに多い気がするが、その理由も本書の最終章で述べられている。シリーズものの主役級の人物を犯人にすることが出来ないから、定型的な、言葉を換えれば絶対に正解があるパズルを提出をせざるを得ないというわけだ。まあ、世の中には定番があるからこそそれを乗り越えようとする動きもあるので、圧倒的多数の定番もなければならないとは思うけれども。
 ちなみに、こき下ろされている設定やトリックを読みながら、私が頭に思い浮かべたのは小説ではなく、『名探偵コナン』や『金田一少年の事件簿』といったマンガだったりする。以下、それを思い起こさせるような記述を。孤島なり、閉ざされた山荘で事件が起きるパターンについて。「登場人物の立場から少しいわせてもらいたい。もうちょっと工夫できないものか。いつもいつも大雪で山荘が孤立したり、嵐で孤島の別荘が孤立したりするのでは、読者の皆さんも飽きてくると思うのである」(71頁)。大がかりな仕掛けについて。「こんな大がかりな仕掛けを作る金があるなら、その金で殺し屋でも雇えば話が早いではないかという考えが頭をかすめたが、それはやっぱり本格推理の場ではいってはいけないことなんだろうなと思うのであった」(79頁)。見立て連続殺人について。「名探偵というキャッチフレーズなのに八人も被害者を出しておいてまだ事件を解決できないでいるのだ。こんなところで犯人を捕まえてしまっては、作者が十番まである歌を用意した意味がなくなってしまう」(211頁)。
 前二者は笑ってすまされるが、最後のものに関してはあまり笑えなかったりする。確かにこういったマンネリが一番気楽なのは確かだ。しかし、浅羽通明『野望としての教養』(時事通信社、2000年)で指摘されているように、後出しで推理する探偵は、世の中を俯瞰してもっともらしい説明をしている近代の知識人にそっくりでもある。それどころか、現代人は、世の中の事象について後付で分かり易い説明をマスコミから聞くことで、分かったつもりになってしまうことが多い。推理小説における後出し解説の名探偵とそれを読む読者は、現代の社会の縮図でもあるような気がする。
 ところで、こき下ろした設定やトリックの説明で、『名探偵コナン』や『金田一少年の事件簿』を思い出したのかというと、小説であるならばこうしたものに頼らない新しいスタイルの推理ものがどんどんと生み出されているが、マンガでは本書でこき下ろされているような話しかまだ創られていない気がするから。原作付きマンガを除くと、ほとんど思い当たらない。推理ものというジャンルでは、まだマンガの文体を生かして生み出されていないと言えよう。ただし、今後生まれてくるのかというと若干懐疑的だったりする。マンガは1コマに詰め込める情報量が限られているにもかかわらず、基本的に個人で作業を進めるから、作画にものすごく時間が掛かる(この辺りは、中野晴行『マンガ産業論』を参照のこと)。しかも、推理ものとなれば、感情や動きよりも情報が重要であり、他のジャンルに比べて膨大な量の情報を詰め込まなければならず、どこまでもページ数が増えてしまう。いわば、推理ものはマンガが苦手なジャンルだと思うのだ。
 ちなみに、二時間ドラマの最後で車に轢かれて死ぬはずが、車メーカーがスポンサーなので、潜水艦にぶつけられて死ぬ、というオチ(149頁)を読んだとき、笑いそうになったのだが、「ポチは見た!〜マスコミにおける嘘と裏〜」における「あの自動車会社の大事件が報道されない本当の理由」の内容を思い出したら、笑いも凍り付いてしまった。


8月16日

 ノーマン・G・フィンケルスタイン(立木勝訳)『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』(三交社、2005年)を読む。大澤武男『ユダヤ人とローマ帝国』を読んだとき、本書の最初に紹介されていた『ホロコースト・インダストリー』に関する説明の部分が一番面白かった、と書いていたら、翻訳されていた。ホロコーストの被害者を利用して、強請を行うアメリカのユダヤ人団体の所業を、ホロコースト被害者を母に持つ作者が暴いていく。
 ホロコースト問題がアメリカで大きく取りざたされるようになったのは、第3次中東戦争のあった1967年からであった。これによってイスラエル支援へと政策を大きく転換したアメリカと足並みを揃えるように、ユダヤ人のエリート団体はホロコースト補償問題を運動化していく。その結果として、アメリカには各地にホロコースト記念館が設立されていく。
 そして、こうした団体は、戦後も貧困状態にあるホロコースト被害者のユダヤ人を旗印に、ホロコースト加担者と名指しして補償を持ちかける。特にその標的となったのはスイスであった。スイス銀行はナチスがユダヤ人から没収したものと知りながらその預金を受け入れ、戦後には凍結口座としてユダヤ人に返還しなかった莫大な預金が眠っていると非難した。そして、アメリカ政府を動かして貿易拒否というカードをちらつかさせ、結局12億5千万ドルもの補償金を捻出させた。しかも、口座に関する調査が進んでおり、それが完結すればおそらく本当はそんなにないことが判明するから、圧迫を掛けて急いで和解に持ち込ませたのである。さらに問題なのは、たとえ補償金が得られたとしても、実際の被害者にはほとんど分担していないことで、ユダヤ人団体は公共の目的のためと説明して、個人への支払額を凄まじく低く抑えている。本当の被害者が死ぬまで待つためであろう。
 また、ホロコーストの唯一性を持ち出してユダヤ人に対する批判を封じ込めるだけではなく、黒人に対するアファーマティヴアクションすら、反ユダヤ主義の政治抗争だと非難した。だからこそ、ホロコーストの被害者にロマ民族がいることを認めようとしない。そして、アメリカにもユダヤ人の凍結口座があるはずなのに、それを調べろという声は起きなかった。
 本書の最初の方には、ホロコースト被害者を装ったユダヤ人の実例が挙げられ、年々ホロコースト被害者が増加していく話も出てくるので、伊藤明彦『未来からの遺言 ある被爆者体験の伝記』(青木書店、1980年)に近いかと思ったが、後半を読めばむしろ寺園敦史・一ノ宮美成・グループK21『同和利権の真相』に近い。同じような主題を扱いつつ『未来からの遺言』は少し違うように思えるのは、本書が嘘を語る人間について記しながらも、著者自身は被爆体験の聞き書きをライフワークにしており、それらの人々に対して許しの視線も持っているのに対して、『ホロコースト産業』は金を稼ぐためにやっているとしか思えない人間に対する怒りが発露しているからだろう。いずれにせよ、これが話半分だとしても、プロ顔負けどころかプロそのものの強請とたかりが行われていることになる。本章が終わった後に、ペーパーバック版の後書きが100頁ほどあることが、この本が巻き起こした反響の大きさを物語っている。ホロコーストが戦争犯罪として記憶されなければないのは事実だが、その後にそれを食い物にした人間も同じように記憶されなければ、戦争の負の遺産を学ぶことは出来ないだろう。


8月17日

 貫井徳郎『慟哭』(創元推理文庫、1999年(原著は1993年))を読む。幼児を狙った連続誘拐殺人事件が起こる。捜査を担当した若手キャリアの捜査一課長・佐伯への風当たりが強くなる中で、彼の私生活にマスコミは関心を寄せ、パフォーマンス的な会見を機に、事件は佐伯の身内にまで及び急展開を告げる…、佐伯の側の行動と「犯人」の行動が章ごとに交互に展開され、行き詰まる捜査と犯人の悲痛な思いで繰り返される殺人が最終的に真実へと至る構成を取っている。いわゆる叙述トリックを使っていて、個人的には面白かったのだが、こういうのは好きではない、という人もいるだろう。東野圭吾『名探偵の掟』に出てくる天下一探偵ならば「アンフェアの見本」というかもしれないので。でも、捜査側と犯人の側が交互に語られることで、徐々にスピードを上げていく展開の中で、一点へと至る同じ破滅的な終末へと盛り上げていく手腕は、並大抵のものではない。
 ちなみに、犯人の宗教団体への、しかも新興宗教っぽい団体への関わり方の描写が妙にリアルだな、と思っていたら、参考文献に『いまどきの神さま』(JICC出版局、1990年(リンクは2000年の文庫版))が挙がっていた。この頃の「別冊宝島」シリーズは面白かったなあ、などと少し懐かしかったりもした。


8月18日

 柄澤齊『ロンド』(東京創元社、2002年)を読む。たった三日間の展示の後に行方不明になり、写真や図版が存在しない幻の絵画「ロンド」。この絵に魅せられ、作者である三ッ桐威の個展の企画運営者となった美術館員の津牧は、正体不明の個展の招待を受けて現地へ向かうと、ダヴィッド「マラーの死」に見立てた美術評論家の死体を見つける。それは、この後に続く死の芸術とも言える陰惨かつ退廃的な事件の幕開けにすぎなかった…。
 「マラーの死」以外にも、「九相詩絵巻」やカラヴァッジョなどがモチーフとして出てくるので、絵画についての描写が下手くそだったら、ちっとも面白くなくなる。その点、著者自身が版画家であり評論も行っているらしいので、もちろん絵画の写真も載せてあるとはいえ、絵画の様相に関する筆致が巧みであり、読者の没入度を深めることに成功している。「ロンド」に関しては、その見るものを引きずり込むかのような魔性さの描写が、4頁ほどにわたって続く。「見る」ということを言語化するのには、見ることに対する感性が必要なのだな、と。本書の中で「絶対視覚」なる言葉を使っていて、これが本当に使われている用語なのかどうかは分からないが、本書も絶対視覚を持っている人間が描いたものと言えるのかもしれない。そういう意味で芸術を理解する人間だけが書きうる文章もある、ということが分かった。まあ下手をすると酔っぱらった文章になるが。
 見えすぎてしまうがゆえに対象に愛情を注ぐためのカンフル剤がいる、と絶対視覚を持つ不幸が犯人の動機付けとして語られているが、実はその絶対視覚ゆえの欠点のようなものが本書にもある。それは描写が長すぎてしまう箇所があること。本書は600頁以上の大著だが、犯人が犯行について語っているシーンが100頁弱ほどある。ここは車に乗っているシーンなのだが、いつまで続くのだろうと思わず先の頁を確認してしまったほど長い。これだけ語るにはどれだけ車に乗り続けているのだ、というしょうもない突っ込みはおいておくとしても、あまりにも冗長すぎる。まあ、犯人は見えすぎてしまうがゆえに語り続けたという解釈も出来るのだが、読まされる方としてはもう少しコンパクトにするか、情報の提示の仕方に工夫が欲しいところではある。


8月19日

 山中恒『児童読物よ、よみがえれ』(晶文社、1978年)を読む。パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』で紹介されているのを見て、興味があったので読んでみた。著者は児童読物作家(著者自身は「児童文学者」という呼称を自身の主義として使わない)であり、その立場から教育や子供向けの読書に対して、見解を提示しているものが大部分を占める(なお、それらのほとんどは様々な雑誌に連載された短文である)。それ以外に児童向け図書に対する書評が載っているという構成になっている。前者の内容を統合してまとめると、以下のような感じか。
 まず、著者自身の戦争と学校体験が、思想形成に重要な役割を果たしていることは、本書にて繰り返し述べられていることから分かる。それは、戦時中は軍国主義的な教えを生徒にたたき込んでいたにもかかわらず、終戦後には掌を返したように民主主義へと転換したことに対する不信感である。そして、こうした節操なき転向が、児童「文学」にも影響を与えているとする。なぜならば、戦前の軍国主義であろうと、戦後の民主主義であろう、子供を教育するという目的で児童文学が使われているからである。そして、子供はこうあるべきだという思想は、課題図書にも受け継がれている。それどころか問題となるのは、課題図書に指定されることで通常は数千部しか売れない児童向け図書が、数万部も売れるということで、課題図書向けの「教育的」な図書を意図的に書くようにとの動きが生じる。こうしてつまらない本が生産されるのに、子供が本を読まないことをしたり顔で嘆いて批判することに、痛烈な批判を浴びせている。
 今から30年近く前に出た本だが、本書で取り上げられている読書や子供の問題は、現代でも参照の価値があるほど重要だと思う。たとえば、冒頭の「子ども観の歴史を越えて」において、古来より日本では「子は宝」という考えがあったとしても、それには多分に経済的な理由も関連しており、だからこそ間引きによる嬰児殺しも平然と行われていたと述べている。いわば、フィリップ・アリエス『子供の誕生』(みすず書房、1981年)の日本版ダイジェスト編のような内容である(なお、アリエスが正しいかどうかについては疑問も多いが、子供は誰もが絶対的な愛情を注がれていたわけではないことに疑いはない、と個人的には考えている)。
 また、これまで万人が本を読むべきであるといった言説や、本を読むことが高尚であるかのよう自尊心に対して疑問を呈したことがあるが(たとえば、佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』の項を参照)、本書では子供に対してそうした言説をあてはめようとすることに警鐘を鳴らしているかのように見える。「こどもの頃の読書体験がその子の将来に決定的な影響を与えるというような迷信に、大まじめで支配されていることである。〔中略〕もしそれが真実なら、戦時中に子ども期を送り、そのことの子どもの本を読んだ人間はすべて、いまだに天皇制ファシズムの忠君愛国思想の持ち主になっていなければならない」(51頁)。そして、マンガと本との関係に当てはまる、このようなことも言っている。「おもしろければ子供はポケットマネーをはたいても本を買う。だが、教育的効果が予測される教材的なものにはそっぽを向く。しかも一番困るのは、おとなたちが子どもが喜ぶそれらのものを「子どもの本」として認めたがらず、認めても<通俗的なもの>として、市民権を与えたがらないことである」(同上)。同じようなことを、阿部謹也『大学論』の項でも書いたけれど、この辺の感覚のずれは30年前と変わっていないのだなあ、と。さらに鋭い一文は以下。「劇画やマンガに比して児童文学にはタブーが多すぎる。これもまた児童文学が伝統的に<教育>に従属する形を取っており、教育文化材の範疇を出ようとしないからである」(56頁)。
 読書は教育的な善きものという正義感にまみれた人間ほど、正義と勘違いして妄言をばらまく。これは『反社会学講座』でも引用されていたが、課題図書選定の事務局長は、本を読まずに思考力を欠いた青年が、連合赤軍のような事件を引き起こした、などと書いていた(208頁)。テロを起こしたのはどう考えても本を読んでいる連中のはずなのに、これではまるで課題図書を買えと恫喝しているようなもので、その背後に利益的なものがうごめいていると深読みされても仕方がない。
 「子どもの読書」だけではなく、「読書」そのものに対する幻想を振り返るにあたって、今でも十分に参照の価値がある。


8月20日

 吉田秋生『イヴの眠り』(小学館、フラワーC)全5巻を読む。副題に「YASHA NEXT GENERATION 」とあるように、『YASHA』の続編のような感じ。といっても主人公だった静は、自分のクローンに襲われて重態であり、静が一度もあったことのない娘・アリサが主人公で、クローンとアリサの静と同じ超人的な能力を中心とした戦いが繰り広げられる。面白くないわけではない、というか面白いのだけれど、そろそろこの『BANANA FISH』から続く世界を抜け出した方がいいのではないか。それは、キャラクターの扱い方があまりにも無慈悲だから。作者が創り出した世界なのだから、そこで動く人物たちの扱いに文句を言うべきではない。だが、『YASHA』も本作も、前作でせっかく生き延びた人物が、あまりにもあっさりと死ぬことが多すぎる。何とか生き延びた人物のその後を想像していたのに、数年後にそれがあっさりと死んでしまうと(しかも描写はほんの数行の文字の説明だけ)、いくら作者には人物の命運を定める権利があるとしても釈然としない。これに比べれば、富樫義博『HUNTER×HUNTER』(集英社、ジャンプC)19巻のポックルなど、きちんとその悲惨さが描かれているだけまだましだ(まあ、このサイトを見ると、ポックル好きの人がちょっと可哀想になったけれども)。
 繰り返すが、作中において登場人物が舞台から退場するのは、そこに必然性があれば全くもって構わない。無駄に生きながらえさせているために、物語の完成度が落ちてしまうよりもよっぽどよい。しかし、本書のやり方は後出しジャンケンのような歯がゆさを覚える。面白くない物語を生み出しているわけではなく、ストーリーテラーとしてはまだまだ健在なのだから、全く新しい設定の物語を描いて欲しい。


8月21日

 霞流一『スティームタイガーの死走』(角川文庫、2004年(原著は2001年))を読む。玩具メーカーの社長が再現した幻の機関車C63。そのお披露目の日、出発駅では殺人事件が起き、C63は乗っ取られ、しかも消失してしまう…。ギャグっぽいミステリーだが、あまり面白いとは思わなかった。これはセンスの違いに由来すると思うから、本書を責めるつもりはないけど、一昔前のそれほどメジャーではなかった芸人のコントを見させられているようで、個人的には空回りしているような気がするなあ。


8月22日

 高野和明『13階段』(講談社文庫、2004年、原著は2001年)を読む。殺人罪の刑に服して出獄した青年・三上は、刑務官・南郷にある殺人犯の冤罪を晴らすという仕事を持ちかけられる。やがて少しずつ輪郭を表していく事件の中で、逆に三上こそがその真犯人ではないのか、という疑いが掛けられる証拠が出てきて、事件は思わぬ方向へと進む…。うまくどんでん返しを決めているのだが、最後のどんでん返しは必要ないような気もする。わざとらしいドラマチックな悲劇のように見えてしまったので。
 なお、日本の絞首刑は首を縄に掛けると床が抜ける方式で階段を上る方式ではない、というのは聞いたことがあったが、死刑に至るまでの手続きが13ある(39頁)、というのははじめて知った。


8月23日

 船戸与一『虹の谷の五月』(集英社文庫、2003年(原著は2000年))上を読む。現代のフィリピンの山村で暮らす少年・トシオを主人公とした小説。闘鶏用の養鶏を営むトシオが、元兵士の祖父、幼馴染みの少女、村の物知りな青年、癒着をする村長、日本人に見初められ金を得て帰ってきた女性、ゲリラの生き残りの伝説の闘士、そしてその敵などと出会い、そしてぶつかりながら、悩んで行動する様が描かれている。
 この小説を読もうと思ったのは、解説に「教養小説」とあったから。現代フィリピンの状況については、知らないに等しいので、小説中のフィリピンに関する描写がどこまで正しいのかどうかは全く分からない。確かに少年が思い悩み、時には取り戻しようのない失敗をしながら成長していく姿が、じっくりと描かれており、少年の成長物語と言える。ただ難しいのは、その少年に重ね合わせるような同じ立場の読者層はこの小説を読まないだろうな、と。少年少女のためでもある教養小説が、大人向けの娯楽小説になっているというのは、どうなのだろう。大人が読んでも、人それぞれの立場によってここから学ぶこともあるとは思うので、それはそれで構わないのかもしれないが。
 とはいえ、現代フィリピンを知るものからすれば、この小説には入り込めないようである。Amazonのカスタマーレビューを見ていても、事実との相違をかなり厳しく指摘している感想が散見される。事実を知りすぎているということは、思考を練り上げるにあたって必ずしも有用ではないのかもしれない、とも思った。


8月24日

 皆神龍太郎『ダ・ヴィンチ・コード最終解読』(文芸社、2006年)を読む。その名の通りダン=ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』に対する解説本。『ダ・ヴィンチ・コード』の冒頭に「この小説における記述は、すべて事実に基づいている」とあることから、フィクションではなく歴史的事実を取り扱うものとして、物語の中心となっているダ=ヴィンチ「最後の晩餐」とシオン修道会について、その解釈に対する批判を行う。『ダ・ヴィンチ・コード』の核となる設定は、イエスはマグダラのマリアと結婚し子供をもうけたことをローマ・カトリックが隠し続けてきた、というもので、「最後の晩餐」にはその秘密が密かに暗示されているとするが、本書ではまずそれに対する批判を行う。幾つか論点はあるが、的確な批判を1つだけ挙げてみたい。マグダラのマリア説の最大の根拠は、ヨハネと解釈されている人物が実はマグダラのマリアであり(だから女っぽく描かれているとする)、ペテロはこのマリアに手刀を突きつけて脅している、というもの。しかし、『新約聖書』の「ヨハネ福音書」を読めば分かるが、最後の晩餐の裏切りの予告の場面において、ペテロはイエスの最愛の弟子に誰が裏切るか聞いてくれ、と頼む場面があり、ここから考えればペテロはヨハネの肩に手を掛けて、尋ねているとする方が自然である、とする。そもそも、作者が述べているように、師であるイエスが弟子の裏切りを予告している場面で、弟子たるペテロが他人を脅そうとする行為を行っていたとする解釈は、極めて不自然である。
 内容に関してはシオン修道会についてのものが全体の7割ほどを占めており、こちらがメインとも言える。元ネタ(というよりパクリ元)からの影響が非常に多いことが暴かれているが、その元ネタの間違いまでしっかりと引き継がれていることが分かる。元ネタとなっているパリ国立図書館に所蔵されている「秘密文書」とやらが、シオン修道会は11世紀に作られたと記している。しかし実は、シオン修道会の設立届け出書も国立図書館に所蔵されている。そこには1956年に設立されたものと書かれており、この書類を作成して登録をした人間がネタだったと告白している。この事実だけ挙げておけば十分だが、本書ではこのまがい物の伝説が造り上げられていく過程も述べられており、トンデモ説がどうやって形成されるかの舞台裏を見ているようで興味深い。
 エンタテインメントとして『ダ・ヴィンチ・コード』を楽しむ分には、まあ構わない。『ダ・ヴィンチ・コード』にはパズルを解いていくような興奮はあるのだろう。私は、あまりそういったものをエンタテインメントに求めていないので、特に読みたいと思わないが、それは人それぞれの嗜好だ。ただ問題なのは、本書、特に巻末の竹下節子との対談を見ていると、『ダ・ヴィンチ・コード』を教養書として読んでいる人が少なくない、ということだ。そして対談でも指摘されているように、研究者は『ダ・ヴィンチ・コード』に対して特にリアクションを起こしていない。あんな低俗なものに反応する必要はない、とでもいわんばかりの傲慢さよりもむしろ、アカデミックの側から反応したくてもエンタテインメントへの通り道が全く存在しないから反応のしようがないようにみえて、そちらをどうするのかの方が難問な気がする。トンネルを抜けたら、気が付いたらいつの間にかもと来た道はふさがれていて、どうやって切り開ければいいか分からないから、悠然としたふりをしていながら内心では歯ぎしりしているみたいな。何だか手垢にまみれた表現になってしまうのだが、通俗的な教養主義とタコツボ的なアカデミックな研究の乖離が、『ダ・ヴィンチ・コード』を通して透けて見えるのかもしれない。

追記:2008年9月14日〕
 なお、『ダ・ヴィンチ・コード』における「モナ・リザ」の解釈も、根拠がかなり薄い。これに関しては、西岡文彦『モナ・リザの罠』に関する見聞録を参照のこと。


8月25日

 加藤大地『女子大は憲法違反か!?』(三一書房、1996年)を読む。女子大の教員である著者が、女性の進学を助けることで女子大が女性差別を是正する意味を持つ一方で、女子大が女子大であるというだけで企業や世間から蔑視されているという女性差別の温床でもあるという二律背反的な性格を持つ、との見解から、匿名で女子大の現状を報告する。
 まず、落ち込みが激しい女子大を駄目にする教授たちとして、有力国立大や有名私立大の天下り教員、そして当該女子大出身の生え抜き女性教員を挙げて批判する。天下り教員は、余生を過ごすために女子大にやってくる利権に群がるアリのような存在であり、たとえ大学経営にとっては有益であっても、学生にとってはつまらない授業を聞かされるだけ、とする。生え抜き女性教員は、女性らしさを喪失したハイミスの姿を学生に晒すことで、学生に女性として生きていくことの規範たり得ていないとする。また、アナクロニズムな厳しさを持つ校則のある大学の実例を挙げ、女子教育の大義名分の元に女性を縛り付けて健全な女子教育を阻害している、と疑問を呈する。
 今から10年ほど前の本だが、恐らく現在でも状況はたいして変わらないのではないだろうか。これらの問題点の改革案として、女性に相応しいカリキュラムの再編、教授人事の抜本的改革、共学大学との積極的交流を挙げており、人事は確かにその通りであろう。交流もまあいいんじゃないと思う(という可かもなく不可もないように見える)のだが、カリキュラムの再編に関しては、果たして可能なのだろうか、と思う。女子大に限らず、大学のカリキュラムそのものが、大学で教える講義であるからと学問的にすればするほど、普通の(学力がない、という意味ではない)学生にとって見れば社会に出てからそれほど役に立たない可能性が高くなる、というジレンマがある。そもそも、著者自身は女性の幸せの道として結婚を1つの有効な手段として勧めており、それは女性のためのカリキュラムという主張と相反するのではなかろうか(フェミニズムの人間からすれば、こういう人間がいるから女性差別がなくならないんだ、と怒るところだろうが、それは置いておく)。お茶の水女子大を卒業して大手企業に就職した女性が、働いて1週間後に「お茶くみやコピーをするためにお茶の水に入ったんだから専門的な仕事をやらせてくれ」と泣き出したというエピソードと、それを聞いた著者の大学の学生が「コピーとお茶くみだけで給料もらえるなら喜ぶ」との言葉を紹介している(139〜40頁)。前者の鼻持ちならなさはともかく、後者は著者の勧める玉の輿にのるために、著者自身が自嘲的に言う「三流女子大」生にとっていちばん近道ではなかろうか。何となくその辺に矛盾を感じてしまう。
 ところで、悪い意味で厳しい学則がある大学の例として昭和女子大をこれでもかと挙げているのだが、それよりも前の箇所で匿名で批判している大学もどうみても昭和女子大学としかおもえず、匿名で書いている意味がないと思えるほど。ちなみに、後書きによれば続編を出すとのことだが、今のところまだ出版されていないようである。この批判に関連して何かトラブルが起こっていたりして。


8月26日

 佐々木譲『ベルリン飛行指令』(新潮文庫、1993年(原著は1988年))を読む。ある日本人技術者が、第2次大戦中のドイツで零戦を見たというドイツ人に会い情報を集めているときに著者と出会う、というノンフィクションっぽいイントロから始まる。1940年のドイツ、ヒトラーは日本で画期的な戦闘機、つまり零戦が開発されたという極秘情報を聞きつけ、同盟国である日本に零戦の提供を持ちかける。しかし、海路は当然不可能であり、ドイツがソ連と敵対してしまった以上、ソ連近辺を通ることも無理であり、アジアを西に横切るしか方法ない。この困難な指令に挑むべく、当地での飛行場の手配とパイロットの選出が、密かに水面下で動くことになる…。
 実際に零戦が飛び立つまでに全体の3分の2ほど使うので、飛行機の隠密行動や空中戦の描写が見たい人には向いていない(最後は1対1の空中戦で締めるが)。とはいえ、戦争とは戦う前の準備が大事なのだから、そうした意味で地に足の着いた描写ということでは本書はなかなか面白い。ところで、本書の中で将官クラスの人間がアメリカと戦えば敗北するとの主張を行っているが、こうした描写はよく架空作品の中で出てくる。実際のところ、このように考えていた人は果たしてどれくらいいたのだろうか。大橋良介『京都学派と日本海軍』はそうした人の存在を裏付けているとは言え、もしそう考えている人がいたとしても、やはりそうした流れに持っていくことはできなかったのだろうか。


8月27日

 上野顕太郎『夜は千の眼を持つ』(ビームC、エンターブレイン)を読む。1話につき10頁にも満たない話で締められたオムニバス形式(シリーズものも少なくないが)の短編ギャグマンガの連作。全部で70話以上あるが、初出一覧を見ると約4年間にわたって『コミックビーム』に毎月連載していたことになる。ギャグ漫画家は寿命が短いと言われるのは、連載ものはキャラクターが固定されて一定のフォームに沿ったものしかギャグをひねり出せなくなるからだと思うが、だからといって本書のようにオムニバス形式でギャグを生み出すのはもっと辛い気がする。そのため、何となく日夜精進し続ける武道家のようなストイックさを感じてしまうほど。多分作者は真面目な人なのだろうな。相原コージ『なにがオモロイの』のときは、著者が狂っていくように思えた…いや思えただけで本当には狂っていないのだが、それとは少し違う意味での狂い方で理解不能の狂い方というか。非常に俗っぽい表現になるが、真面目な人ほど壊れてしまうと狂う、ということなのだろうか。リリー=フランキー『増量 誰も知らない名言集』の項で、ギャグならば今ではウェブ上でいくらでも面白いものがあると書いたことがあるが、本書の様な冷静な狂気に匹敵するマンガを、「コンスタント」に「継続して」生み出しているサイトはまだないように思える。


8月28日

 貴志祐介『黒い家』(角川書店、1997年)を読む。保険会社に勤める若槻は、顧客である菰田に呼ばれて彼の家に向かう。そこで眼にしたのは小学生である彼の息子が首をつって死んでいる姿であった。静かな狂気をたたえて、息子へ掛けられた保険金を出すようにと、執拗に事務所へ押しかけて督促する菰田に疑いを持つ若槻は独自に調査を進めるが、上層部の決定により保険金を出すことが決まってしまう。しかし、菰田が腕を切断する事故に遭遇することで、事件は急展開を迎え、若槻にとって恐怖の舞台の幕開けとなる…。
 どこまで事実に沿っているのかは分からないが、保険業界の事情をうまく活用しつて現実味のある世界観を構築しながら、中盤の急展開で非現実的とも言えるホラーへと持っていく手腕は見事。さらに、オチを二段構えで構成して、読者の恐怖を煽っているのも巧みだ。本書は第4回日本ホラー小説大賞の大賞受賞作品であり、巻末に評者のコメントが載っているが、高橋克彦の「『ミザリー』よりも数倍怖い」というのは大げさかもしれないとは言え、本書の内容を的確に表現している。
 ちなみに本書の中で、登場人物である研究者に、サイコパスが遺伝によって伝わり、遺伝子に直接影響する科学的環境の変化によってその数が増大している、という仮説を語らせている。現在の食品に含まれている化学物質が、人間に影響を与えているとしても、栄養不足が減ったのだからいいではないか、という考え方もあるだろうし、何とも言い難い。いずれにせよ、単純な決めつけは危険だろう。なお、これは登場人物の言葉であり、著者自身の言葉ではないので念のため。
 ただし、最後の部分で語られている保険業界の現状に対するコメントは著者の意見な気がする。曰く、現在の損保業界ではすでに請求額の半分が詐欺であり、それは現代の日本がモラルの崩壊しているからだ、と。単に現代は金が一番の目安になっているだけで、いつの時代もずるをしてでも楽をして幸せになりたい、というのは一緒だと思うのだが。この保険に対する言葉からすると、上記のサイコパスに関する意見も、登場人物の口を借りて自分の考えを言わせているような気もする。


8月29日

 岡崎玲子『レイコ@チョート校 アメリカ東部名門プレップスクールの16歳』(集英社新書、2001年)を読む。アメリカの名門寄宿制私立高校に奨学金付きで合格した15歳の少女が記した、1年間の学生生活記。著者は帰国してまもなくこの本を出版したのだから、出版当時16歳か17歳ということになる。たとえ編集者による校正があったとしても、この年齢でこれだけの文章は書けることに驚くと共に、こうした学生を育て上げるだけのエリート教育を持つアメリカには、日本のエリートでは太刀打ちできない気がする。たとえば、最初の方に、世界史の授業で論文を書かされているが、典拠をきちんと示すことが、当たり前のように求められている。また、「近世ヨーロッパの変革」というテーマに基づいて主題を設定するとき、「絶対主義」にしようとしたら、大まかすぎるから「エリザベス1世の生涯」や「ルイ14世の政治」のようにしなさい、と注意されたという(ちなみに、著者はスペインの絶対王政を選んだ模様)。これなどはある程度の学力がある大学の、そこそこの卒業論文に匹敵するレヴェルではなかろうか。また、後にはパリ講和会議の代表になりきってスピーチとディベートを行うという授業もある。アメリカは身分格差が激しいので、平均で見れば日本のが上かもしれないが、本書を見る限り、エリートだけを比べれば、単なる学力云々だけではなく教養的な部分で圧倒的に深みに差が出るだろう。
 にもかかわらず、現大統領からあまり賢いとは思えない発言がちょくちょく発せられるのはなぜだろう? 


8月30日

 杉本厚夫『スポーツ文化の変容 多様化と画一化の文化秩序』(世界思想社、1995年)を読む。スポーツを社会学的に考察した書。スポーツはマスメディアを通じて他者の眼差しに晒されることが一般的であるが、これは現代社会の傾向でもあるの劇場化の文化様式の再生産でもある。さらに、スポーツの近代化のメルクマールとして、世俗化・平等化・役割の専門化・合理化・官僚制的組織・数量化・記録の追求が挙げられるが、これらは産業社会を支えてきたイデオロギーでもあり、近代化のイデオロギーとしてスポーツが活用されてきたことを物語っている。だからこそ、スポーツは「遊び」として存在できず、その構造は学校という枠からスポーツが抜け出られなかったことにも由来する。近代化の中産階級によって作りだされた「スポーツマンシップ」や「フェアプレイ」というイデオロギーは、マスメディアと学校教育によって再生産されていると言える。
 社会学的な立場から、現代のスポーツの様相を捉えた本と言える。語り口調は平易で、題材もスポーツという身近なものなので、社会学の入門書としても適しているだろう。ただし、スポーツに関する描写を積み重ねていって、それを学術的に考察するというよりは、文化としてのスポーツというある種の枠組を形成した上で、スポーツをその中にあてはめるように語っているので、「スポーツそのもの」に興味がある場合は、やや当てが外れるかもしれない。たとえば、スポーツマンガに関して、『週刊少年ジャンプ』の「努力・友情・勝利」のテーゼや、『あしたのジョー』・『キャプテン翼』・『スラムダンク』におけるコマ割の差異を指摘しているが、取り立てて目新しいわけでもない(ただし、目新しく見えるようには書いてある)。まあ、そうした意味でも社会学的とも言えるのだが。一方歴史学的とも言えるのは坂上康博『権力装置としてのスポーツ』であるが、こちらは積み重ねっていった事実の上に導き出される結論が、やはりさして通俗的なものと変わらないわけで、なかなかに難しいところではある。
 本書では、様々な分野におけるスポーツ文化が語られていくので、その中で目にとまったものを幾つか。スポーツクラブのことを「運動部」、音楽クラブや理科クラブなどのことを「文化部」と呼ぶと言うことは、運動は文化的なものと見なされていない状況を示唆している(11頁)。「好きな女性のタイプ」はと聞かれて、「スポーツのできる人」という答えがほとんど返ってこない事実は、スポーツが男らしさを表現する道具として使われていたことを意味する(107頁)。近代イギリスのパブリックスクールのイートン校では、クリケットにかなりの時間が割かれ、指導力のみに付け方、集団への忠誠などがクリケットを通じて学ばれた(143頁)。


8月31日

 瀬名秀明『パラサイト・イヴ』(角川文庫、1996年(原著は1995年))を読む。事故死した妻はドナーに登録していたため、その死体から腎移植が行われるが、夫である若き生化学者・永島はその肝臓を密かに取り出して細胞の培養を行い、「Eve 1」と名付ける。狂気とも映るその行動は、実は妻の体内で密かに息づいてきたミトコンドリアに思考誘導される形で行われたものであり、「Eve 1」は人間に代わって世界に君臨すべく長い雌伏の機関を終えて行動を開始する…。
 面白いのだが、腎移植された女の子の側の描写がいまひとつ事件の真相との関連性が薄いので、少し散漫な印象を受ける。この女の子にも、事件の真相と関連がある伏線が張ってあれば、さらに密度の濃いものになったのではなかろうか。あと、ミトコンドリアの設定は専門的な知識を踏まえたものであり、だからこそホラーにリアリティを持たせることに成功しているのだが、そのあおりを食って物語が大きく展開するまでにやや時間が掛かりすぎている気もする。あと、ラストに至る展開の部分はもっとスピードを出して読みたいのに、専門的な説明がラストのネタの核心であるため、ややつっかえてしまうところも少しもったいない。とはいえ、ここを端折ると薄っぺらくなってしまうし、匙加減が微妙なところではある。短編であろうと長編であろうと、一回完結の物語で専門的なテーマを扱う上での難しさを垣間見た気がする。


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