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2006年5月の見聞録



5月6日

 藤原伊織『テロリストのパラソル』(講談社文庫、1998年(原著は1995年))を読む。かつて学生運動をしていたバーテンダー・島村は、新宿での爆弾テロに遭遇する。その被害者にはかつての恋人がおり、また友人と起こした爆弾事件を起こした過去を持つために、事件へと巻き込まれ、事件の真相へと迫っていくことになる…。
 徐々に事件が解き明かされていき、ある程度は予想が付くラストながらも、その展開の巧みさでなかなか読ませる作品に仕上がっている。ただし、どうもオジサン臭いハードボイルド小説ではある。不遇な日常を過ごしつつも、実は才能を持っているというところが、オジサンにとって実際の自分を越えた理想像に見えたのではなかろうか。その点では原ォ『そして夜は甦る』・『天使たちの探偵』に似ていると言えるかもしれない。だが、こちらの方は主人公が全共闘崩れっぽいということもあり、その辺が乱歩賞と直木賞をW受賞した要因な気もする。
 たとえば、ある特徴的な言い回しだけれども、オジサン臭さを比較できるシーンがあって、ラスト付近の金の価値に関する言及。金を積めば、やがてどんな人間でも転んでしまうことに関して「金を積み上げていけば、どんな人間にもいつか沸点はやってくる。それがこの二十年あまりでぼくの学んだ法則なんだ」という言葉に対して、島村は「人間が確かな法則で動くというのは、はじめて聞いたよ」と言い返している。まあ、格好良くあるのだけれど、格好つけすぎているとも言える。同じような台詞回しと場面が、福本伸行『銀と金』(アクションビザッツC)5巻にも出てくるのだけれど、こちらでは大会社の社長の息子が同じようなことを言い放ち、それに対する女性たちの反応が描かれている。どら息子のどこかネジの外れた奇妙さ、金に転びそうになる女性、どら息子の台詞を聞いてぞっとする女性と、格好良くはないけれども、個人的にはこちらの方が印象に残る。格好を付けるのがオジサンの悪い癖なのかもしれない。


5月7日

 志水辰夫『行きずりの街』(新潮文庫、1994年、原著は1990年)を読む。かつて女子生徒との恋愛で東京の学校を首になった教員が、失踪した郷里の塾の教え子を探そうと東京へ戻ってきたのだが、その中で自分の追放事件の背後にあった真相へと迫ることになる…。
 これも、藤原伊織『テロリストのパラソル』と同じで、展開はなかなか面白いのだが、どうもオジサン臭い。それに加えて、仕方ないとは言え、どうも時代を感じさせるところもある。たとえば、関西の若者が東京に来てまず夢中になるのはスキーと相場が決まっているという文章。その他にもいまの六本木は経済効率を剥きだしにした、マスとしての賑わいだけだ、といったような言い回しや、教育者に必要なのは言葉だが、「経営者の頭に必要なのは数字なんだよ。数字、数字、数字…」といったいかにも演技が思い浮かんできそうな文章、かつての恋人である女性に、都会の生活を捨てて、「中身の濃い」田舎の生活を送るべきであり、「ぼくは君に新しい環境と新しい幸福を用意してあげることができる」という主人公の台詞、など。
 ちなみに、多摩で4年間過ごすというんじゃ、いまどきの娘は来てくれない、という台詞もでてくるが、これはいまでも同じだろう。ただ、やはり「オジサン」の嘆きなんだけれど。


5月11日

 折原一『倒錯のロンド』(講談社文庫、1992年(原著は1989年))を読む。自分が書き上げた絶対の自信作のミステリが、他人の名前で賞を受賞していた。原作者のはずの人間と盗作したと見なされた人間との間の、絡み合った「倒錯」した関係は、思いもよらぬ結末へ…。
 …とは書いてみたけれど、私自身は種明かしにあまり心を動かされるものがなかったというのが本音だったりする。これはわざとなのかもしれないけれど、解答編で「○○頁」といった感じで本書中の箇所を指す部分が多い。何だか推理クイズの本を読んでいるようで、種としては面白いのかもしれないけれど、種明かしの方法としてはあまり楽しめなかった。
 ただし、本書を読み始めると止まらなかったのもまた事実だったりする。というのは、出題編とも言える前半部分での盗作をめぐる展開が、ミステリ的な話の流れよりも圧倒的だったから。何かを書こうとしたことがある人間にとって、序盤の書けぬ苦しみは人ごとではなく感じると思う。途中で狂ったように同じ言葉を原稿用紙に何十枚も書き続けるところまで同調できるかどうかは別として…というよりも同調できたらやばいけど。


5月20日

 奥田英朗『邪魔』上下(講談社文庫、2004年(原著は2001年))を読む。2人の子供を持ちごく普通に慎ましく暮らしていた主婦が、夫の会社のぼや騒ぎとパート先の揉め事をきっかけに、人生を踏み外していく…。
 本書では、主婦とその夫が、パート先の問題に顔を出す運動家、事件を担当した刑事とその周囲の人間などとの、ちょっとした偶発的な関わり合いから、あっと言う間に奈落へと転がり落ちていく様が、細かいディテールを積み重ねつつ描かれている。この積み重ねというのが重要で、偶発的ではあっても奇跡的な偶然の積み重ねではない。急速な展開のように見えて、決してそれが駆け足であるように見せない、それでいて読む方はノンストップで引き込まれる叙述は、作者の力量を物語っていると思う。はっきり言って救われないラストだが、だからこそ説得力がある。
 ちなみに、実を言うと、これを読んで思い起こしたのは、「ひぐらしのなく頃に」(07th Expansion)の出題編。「ひぐらしのなく頃に」に関しては、完結してから見聞録に何か書こうと思っているが、この作品においては、楽しい日常をくどいほど描いたあとに、ほんの小さな勘違いや思いこみによって、悲劇の道へと歩んでしまう不幸が「繰り返し」描かれている。ただ、完結していないから断言は出来ないが、物語の構造上、こちらではおそらく救いを得る方向へと進む。同じような題材を扱いつつも、作者が描きたいと思っているものが違うだけで、これほど様相が異なるものが出来上がるというのは興味深い。


5月21日

 西澤保彦『人格転移の殺人』(講談社文庫、2000年、原著は1996年)を読む。アメリカの某所にある正体不明の施設「第2の都市」。そこに入った人間は、人格が転移してしまい、しかも不規則な間隔で転移する「マスカレイド」と呼ばれる現象が、死ぬまで続く。現代の科学では解明できない謎の施設に、不慮の事故で入り込んでしまった6人の男女は、CIAによって密かに隔離されるが、そこで連続殺人が起きてしまう…。
 これは、エンタテインメントとしては最高レヴェルにあると思う。「第2の都市」の構造は全く明らかにされず、その結果を前提として物語が進むので、パズル的な要素を嫌う人からすれば、味気ないものに映る可能性もある。しかしながら、そこを受け入れることが出来れば、中盤の急展開、壁にぶつかる主人公たちとそれを乗り越えていく成長、意外な真実など、極上のエンタテインメントに必要な要素はもれなく盛り込んであるからだ。とはいえ、大団円に終わるラストは、推理小説にエンタテインメント性よりも現実的な意味でのリアルさを求める人にとっては、ご都合主義に映ってしまうかもしれない。なんだか、こう書いていると貶しているようだが、決してそうではない。こんなに面白くても、受け入れられない人もいるんだろうな、と読みながら何となく考えただけだ。ちなみに、受け入れられない人を責めているわけでもない。何を言いたいのかというと、この作品には悲劇的なヒロイズムやドラマ性はあまりない気がするのだが、そういう部分を求めている人は、それほど高く評価しないのではなかろうか、ということ。シリーズもの以外で、ベストセラーになりうるような一般的な読者の共感を獲得するためには、もしかして悲劇性が不可欠なのかもしれない。
 何だかよく分からない文章になってしまったが、面白くて楽しめる小説を読みたい人には、迷うことなくお勧めできる。


5月27日

 桐野夏生『柔らかな頬』(文春文庫、2004年、原著は1999年)上を読む。故郷の北海道を捨てて結婚したカスミ。しかし、夫の友人と不倫を続け、その友人の北海道の別荘へと家族で旅行へ行った際に、幼い娘は行方不明になる。カスミは娘を捜し続ける中で、自分の家族も友人の家族も徐々に崩壊していく。やがて、カスミは余命幾ばくもない刑事の協力を得るが、二人は真相とも付かない夢を見始めていく…。
 疲れて荒んでいる状況に関する描写は非常にうまい。冒頭からしてそういうシーンであり、田舎が嫌で東京に出てきたものの、日々の生活に追われて夢と現実が食い違うところを嘆いている。こういった描写がそこかしこに出てきており、どんよりとした描写が、娘の失踪という重苦しい雰囲気を引き立てている。
 ちなみに、娘を捜すのに疲れたカスミが、ある宗教家のところに通うのだが、夫はその人物をうさんくさいと見なす場面がある。文章を読む限り、この宗教家をうさんくさく見えないように書いているため、いかなる宗教と言えども信者以外にはいかがわしく思えるという情景がうまく描き出されている。
 推理小説ではあるものの、結末部分の描写がおそらくは事件の真実であろうとは想定できるけれども、絶対的な解答とははっきりと明示されていない。隠された真相がどのようなもので、それがどのように明らかになるのかを楽しむというよりは、むしろ関係者の生々しい立ち振る舞いや心情の内面を味わうべき作品だろう。


5月31日

 飯嶋和一『始祖鳥記』(小学館文庫、2002年(原著は2001年))を読む。天明期に実在した、空を飛ぼうとした備前の幸吉なる人物を中心とした、江戸時代の群像劇。群像劇と言っても歴史上の著名な人物を取り上げているわけではないし、司馬遼太郎の歴史小説のような著者自身の歴史観が込められている作品でもない。人によっては淡々と物語が進んでいるような印象を受けるかもしれない。にもかかわらず、というよりもだからこそ、長屋者や同心、廻船業者や塩商人という様々な人物の目線を通じて、江戸という時代が生き生きと描かれていると言える。もしかすると江戸時代の時代考証からすれば間違っている箇所もあるのかもしれない。けれども、江戸時代に関して初心者が学ぶためには、歴史学関係の入門書よりも、たとえ細かい間違いはあったとしても、本書を読む方が時代の雰囲気を掴めるのではなかろうか。
 個人的に一番印象に残ったのは、幸吉を取り調べた目付が、「その方の身内にも風羅坊が住むか」と呟いたシーン。風羅坊とは松尾芭蕉の言葉で、この魔物が自分の中で騒ぐがゆえに終始身が定まらず、俳句を作って生きるしか術はなかった、と自嘲気味に語っているそうだ。限られた世界に住むことを当たり前のように感じていた江戸の人々にも、そこから飛び出ようとする心情は、秩序を守るべき目付の中にも、おそらく本当に密かに脹らんでいたのだろう。確かに、「都市の空気は自由にする」のかもしれない。


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