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2006年3月の見聞録



3月10日

 恩田陸『三月は深き紅の淵を』(講談社文庫、2001年(原著は1997年))を読む。タイトルにもなっている『三月は深き紅の淵を』というミステリが、作中では幻のミステリ作品として登場し、これをめぐる4つの短編の連作からなる。それぞれの短編での『三月』の扱いが異なっており、純粋な意味では連作とは言えない。ちなみに、第3話までは普通の構造を持つ小説だが、第4話は作者の独白のようなメタ展開とも言えるような内容。
 ミステリとしてそれなりに印象に残るのは第1・2章で、第3章は可もなく不可もなく、第4章はよく分からない。したがって、ミステリとしては特に面白いとは思わないのだけれど、それとは別に本について色々と思いをめぐらすシーンに惹かれる場合が多い。特に第1章は、「本を読むこと」に関して、著者自身の皮肉が感じられシーンが多く、考えさせられるものが多い。
 第1章は、ミステリ好きの主人公のサラリーマンが自分の会社の会長の家に呼ばれて、この家はある人物から譲り受けた家なのだが、どこかにその本が隠してあると生前に語っていた、だからその本を探せ、と依頼されるもの。このときの、会長の家に集まっていた3人の友人と会長自身の行動が興味深い。会長も含めて彼らはミステリ好きのハイソな人間なのですが、この中の一人がオタクはアングラと違うといって、自分たちはアングラだと暗に主張して、オタクは生理的に受け付けないと言い放つ(35頁)。ところが2日目の朝の場面に、4人が朝食を取り終えると、各々が自分の好きな場所を陣取って、それぞれ読書に没頭し、それを見た主人公は誰も自分を気に掛けないので部屋に戻る、というシーンがある。これこそオタク的でなくて何なのかということを、本を読んでいる人間はさっぱり自覚していないシーンと言える。もちろん、著者自身は分かっていて書いているに違いないのだが。
 ちなみに、オタクはアングラと違うと訴えるシーンで、オタクはエロス的でありアングラは性を超越しているとも訴えている。ところが、主人公は幻のミステリの話を聞いているうちに、これを読みたい衝動に駆られ、こんなことを言っている。「読んでみたい、その本を。時間を忘れてむさぼるように本を読む幸福。そういう喜びを知ってはいるけれど、最近ではなかなか体験できない」(53頁)。これこそ読書のエロス的な側面と言える。これも著者は分かっていて書いているんだろうな。
 また、本を読む人間に対して社会は冷たい、と主人公は主張し、ゲームをしたいから飲み会を断れば、オタクだからと苦笑されるが、本を読みたいからという理由だと、反感を買う、と話している。なぜならば、本を読むことは、保守的な大多数の人間とは違うことをするのと同じ意味だからだ、と(96〜97頁)。これは悪い意味で取れば本を読むことの選民願望にも読めてしまうのではないか。こうやってみてくると、第1章の事例は、どうも本を読むことのネガティヴな側面が浮かび上がっているような気がする。
 また、第2章では一種の小説論が語られている場面が多い。そのなかでそういえば、と思ったのが、ミステリは外に開かれているという箇所。純文学は小説が箱の中でも構わないけれどんも、ミステリは読者の理解と意識をどこかで仮想しなければならない、と述べている(181頁)。誰も知らなければ事件にならない、つまり物語にはならない、ということか。だからこそ、下手なミステリだとわざとらしさや無意味なドラマ性が目に付くのだろうな、と。
 ちなみに、第4章で、ゲームでのストーリーの消費は、英雄伝説か英雄になるための成長物語に統合されている、とあるのもその通りだろう。興味深いのはこのビジュアル時代の次に来るのは、絵のない世界で、ダイレクトに脳に映像が送られるか、耳から聞く物語が復活するのではないかと書いている(369頁)。後者から、何となくレイ・ブラッドベリ『華氏451度』(ハヤカワ文庫)のラストを思い浮かべたのは私だけだろうか?
 こんな風に、いまという時代に本を読むことは、どういうことなのか、についてちょっと考えてみたい者にとっては、何らかのヒントを得られるのではなかろうか。


3月18日

 宮部みゆき『魔術はささやく』(新潮文庫、1993年(原著は1989年))を読む。連続自殺事件に巻き込まれた高校生の守は、事件と関わりを持つうちに、自分と母を捨てて蒸発した父親の真相にまで迫ることになる…。
 タイトルにある「魔術」が、催眠術でありサブリミナル効果である、という点に反則を感じる人もいるのかもしれないが、筋の展開が面白いので、個人的には気にならない。そして、舞台設定が現実離れしていても、この人の描く人間は、嫌なところまで等身大だからそれが気にならないと言うのもある。たとえば、引き取られた先の父親も事故を起こしてしまった主人公の守に、陰湿な嫌がらせをする裕福な同級生の人物描写を主人公に語らせているシーン。「ただ、貪欲なのだ。守は思う。自分には足りないものはないが、同じように足りないものがない人間は他にもたくさんいる。となりの人間が十持っている状態で、その隣にいる人間に対して優越感を感じたいと思ったら、相手から何かを取り上げてしまうしか方法がない。〔中略〕〔いまを生きる大多数の人間は〕もう足し算ではダメなのだ。引き算しながら生きていくしかない」(54頁)。これは作者による説明だが、こうした観察がキャラクター造形にうまく生かされている気がする。ただし、そういう意味からすると、主人公は少し格好良すぎるとも思ったのだけれど。


3月19日

 野村進『コリアン世界の旅』(講談社プラスアルファ文庫、1999年(原著は1997年))を読む。在日韓国・朝鮮人に関する様々なテーマを集めたルポ。これは非常に面白い。どのテーマも読み応えがある。とりあえずテーマだけを挙げてみると、にしきのあきらと「帰化」、焼き肉、民族教育、パチンコ、在米朝鮮・韓国人、サイゴンと元・韓国兵、韓国人ボクサー、済州島、金日成、阪神大震災と在日、Jリーグと在日、歌手・新井英一。まずは、特に興味深かった焼き肉とパチンコのテーマについて、やや詳しくまとめてみる。
 日本では決して主流ではなかった焼き肉料理を広める契機となったのは、焼肉店を経営する在日韓国・朝鮮人であった。そして、焼き肉を戦後の日本で普及させることに貢献したのが、無煙ロースターと焼き肉のたれであった。1967年に関東でエバラ焼き肉のたれが発売されることで、肉料理の主役はブタから牛へと変わっていった。ただし、もともと日本で暮らすためにそれを行っていたのだが、彼ら自身にとって長らく隠すべき恥と認識されていた。これは飲食業や食肉業を卑しむ朝鮮民族の考え方に由来する。さらに、日本の焼肉店で働く韓国本国人の多くは全羅道出身者だが、これはこの地域が差別の対象となっていることに由来している。なお、『同和利権の真相』にも取り上げられているように、食肉問題に関しては同和問題も関連している。こうしてみれば、日本人にとっては汚いと考えられていたがゆえに、食肉業は被差別民の間で営みとされていたと言える。
 パチンコの日本全国での売り上げは、94年で30兆円に達した。統計やデータは皆無に近いものの、全国にある1万8千軒のパチンコ店(当時)のうち、在日または帰化者が経営する店の割合は6、7割といわれている。パチンコは脱税業種の第1位であるが、ここに在日の事情と問題が関連している。パチンコは売り上げの割には、そのうちの9割は出球への換金となるため、純益は上がらない。そのため、選挙権もない在日韓国・朝鮮人は税金を払う気がなくなり裏金を作る、という構造があるらしい。それが暴力団とのつながりを生むことにもなった。
 マルハンに代表されるようなパチンコを正業化する流れもあるものの、裏のルートもやはり存在し続けており、それに拍車を掛けたのが、パチンコ店を厳しい監督下に置いていた警察によって、導入が推し進められたプリペイド・カードである。カードによって暴力団とのつながりを断ち切るという警察のもくろみとは反対に、偽造カードが大量に作られた。しかも、カードの売り上げを伸ばすため、警察はカード専用の「CR機」のギャンブル性を高め、しかもカード会社には警察官が天下りしていった。
 焼き肉もパチンコも、いまの日本においてはごく普通のものであるが、そこに在日の問題が絡んでいることが分かり易く述べられている。特に焼き肉に関して言えば、私たちがごく当たり前と思って食べているものが、決して歴史的に古いものではない、ということに気づかせてくれる点で、歴史学的に見れば社会史の格好の素材とも言える。
 歴史とルポという文体の相違はあれ、小熊英二『<日本人>の境界』と類似したテーマであるとも言えるが、単純に読みやすさと面白さという点でいえば、こちらの方が上だろう(もちろん、内容の優劣を言っているわけではない)。他にもいくつも興味深い事例がある。以下、興味を覚えたそれぞれの個別事例について、思うところも交えつつ書いてみたい。
 在日朝鮮・韓国人が日本国籍をとって帰化しない理由について、それまでに被ってきた民族差別にあると記している。自分たちを貶める者や植民地化したことがある国に、自らどうかしようとすることは屈辱でしかなかった。だが、それでも、日本人との結婚によって帰化者は急増しているらしい(46〜47頁)。結局のところ、畑中敏之『部落史の終わり』でも述べたように、感情的な面に関しては当事者ではないので分からない、という無責任な言い方になってしまうのだが、もし本当に帰化者が増加しているのであれば、あと百年もすれば、在日ではなく、韓国・朝鮮系日本人という立場になるのかもしれない。ただ、在米韓国・朝鮮人はアメリカに移住しても、韓国人としてのアイデンティティを維持する傾向が強く、自分たちをマイノリティと考えない傾向が強いそうである。そのため、ロス暴動の再発防止として、「もっと警官を、もっと刑務所を」という白人と同じ論理を持ち出し、黒人やヒスパニックの嫌悪感を募らせる、とある在米韓国人は述べている(189頁)。こうしたアメリカの現状からすれば、やはり日本でもそういうことは起こらないのかもしれないが。ただ明らかに違うのは、日本社会とはやや混じり合いつつある点だろう。アメリカでは、韓国系とヒスパニック・黒人系の両者の居住地域は、現在でも分かれているそうだ。その点で、過程にネガティヴなものが混じっているかもしれないとは言え、同化していく可能性はアメリカよりも日本の方が高いのかもしれない。なお、アメリカの市民権は「国籍」と「民族」を分けている。日本では「国籍=民族」のため、日本国籍を取ることは民族を失うことにつながってしまう(427頁)、との指摘は鋭いが、逆にだからこそ百年単位で考えれば、アメリカよりも同化は進む確率は高いのかもしれない。
 ところで、著者は今西錦司の「棲み分け」理論を思い起こし、秩序が失われると昆虫の世界に似てくるのでは、と述べている(204頁)のは、非常に興味深い。ちなみに、ロス暴動の報道に出てきた、「黒人対韓国人」は作られた言説という黒人もいる。実際にはヒスパニックの方が掠奪に加わっているし、人種問題というよりはただ単に店を襲って生活品を盗んだだけとの意見もある。
 ただし、やはりアイデンティティの問題から、こうした韓国・朝鮮系日本人の誕生は生じないのかもしれない。にしきのあきらは、高松塚古墳の壁画や仏像を見たときに、韓国のものとの類似性を感じ、そのルーツが韓国にあることから優越感を感じた、という(50頁)。こうした感情の問題がある限り、日本という国への同化は起こりにくい気もするからだ。
 そして、もしかするとこれは韓国内部の問題から進展する僅かな可能性も感じる。韓国内部においてどちらかと言えば虐げられているマイノリティに属する人間が、韓国の外部にすり寄ることももしかするとあり得るのかもしれない。1948年〜49年に済州島で起きた「済州島四・三事件」は、島の人口28万人のうち3万人が犠牲になったといわれる事件である。南北分断に揺れたこの時期、北と密接に関連した派閥が反旗を翻したところ、軍隊によって鎮圧されたのだが、その後の調査によって、政府軍から担当地域ごとに掃討人数の割り当てが行われていた事実が明らかになった。証拠はないが、ここには過去から現在まで存在し続ける、済州島への根深い差別意識もあったのではないかとの推測を著者は行っている。こうした人々が、韓国人としてのアイデンティティに違和感を持つ日が来ることも考えられるのではなかろうか。韓国人としてのアイデンティティはかなり強固だから、これはあくまでも勝手な未来予想にすぎないのだが、強固な分だけ分解も早いように思えてしまう。
 そういえば、強制連行された当選人は戦後まもなく日本政府の計画送還で帰国しており、在日一世の大半は戦前から日本に住み続けているか密航できたのかのどちらかであることは、研究者の間で定説になっている、と述べている(307頁)。これに関しては定説というけれども、前に鄭大均『在日・強制連行の神話』の項でも書いたように、決して納得できるデータを提示できているとは思えない。この説が間違っていると言いたいのではない。たとえ正しいにしても、この程度の論では反対派を納得させるものではないというだけだ。
 つらつらと書いてきたが、力作であり読み物のとしても面白いので、在日のみならず、現代の日本のあり方に関心がある人には一読をお勧めする。ただ、最後に1つだけ書いておくと、たとえ簡単なものでもいいから参考文献一覧をつけて欲しかったな。


3月24日

 ロジェ・シャルチエ編『書物から読書へ』(みすず書房、1992年)を読む。何人かの研究者による講演発表をまとめたもの。そのタイトル通り、近世・近代のフランスを題材に、「本を読むこと」について関して歴史学的に考察している。永峰重敏『雑誌と読者の近代』のヨーロッパ版とも言えるが、当然のことながら、こちらの方が社会史の雰囲気を強く醸し出している。
 現在だと、書かれた文章に内在される意味を、ある意味で機械的に探るにすぎない読書という行為が、社会的状況が異なれば、全く違った側面を持っていたことを教えてくれる。個人的にもっとも面白く読めたのは、本書のタイトルにもなっている、ロジェ=シャルチエ「書物から読書へ」で、「本を読む」という行為そのものを、近世フランスを中心に論じている。読書は現在では黙読をさすが、これが世俗的に広まったのは14世紀に入ってからであった。そもそも、9〜11世紀には修道僧が音読による写本作成を行わなくなり、13世紀には大学で音読が広まり、最終的に貴族へと伝播した。ただし、一般的な家庭での読書とは、家族の間で、もしくは教会で繰り返し音読される文章を聞くことであった。そもそも、手書きの文字と印刷された活字体は根本的に異なっており、文字を書くことが出来る人のみが前者を判読できた。家庭内のみにならず、職場や集会にて行われた音読行為によって、文字が読めない者でも、次第に読む能力を身に付けていくことが可能になった、とする。
 その他にも断片的なメモを、ダニエル=ロッシュ「社会のなかの文字文化」では、街のなかに描かれた文字のイメージを取り上げているが、看板が都市民にとっての刺激剤になっていたと指摘している(270頁)。また、フランス革命時に実際された番地表示を通じて、民衆は番地を知覚によって測定可能となり、平等の意識を形成させた、と述べている(274頁)。
 ダニエル=ファーブル「書物とその魔術」は、20世紀に至るまで、本を読むことがある種の魔術的な力と見なされていたことを示しており、興味深い。だからこそ、本を読む能力がまるで秘儀のように捉えられていた実例を紹介している。
 「最近の若者は本を読まない」という言い方はよく見かけるのだが、そうした本の読み方が古い昔からあったわけでもないことは容易に確認できる。そして、『雑誌と読者の近代』でも、音読こそが読書である、という明治時代の考えを紹介しているが、この意見を古臭いと言って笑い飛ばすことは出来ないだろう。本書で紹介されている、音読の場を介在することで読書を身に付ける習慣からすれば、音読によって言葉は書物から浮き上がって実体化して、言語は自分の身体の一部となるのだ、という考え方も可能だからだ。さて、IT化が進んでいった近未来において、読書の形態はどのように変化するのだろうか。「最近の若い者は黙読をせずに、IT読書(適当につくった造語)ばかりする」というような文句でもぶつくさと呟かれているのだろうか。


3月27日

 加納朋子『ななつのこ』(創元推理文庫、1999年(原著は1992年))『魔法飛行』(創元推理文庫、2000年(原著は1993年))を読む。「ななつのこ」という絵本を読んで感動した女子大生・駒子が、その作者に送った手紙のやりとりを軸にした短編連作集。
 いずれの話でも、駒子の日常で起こった不思議な出来事についての描写があり、その章の末尾に作者からの返信でその謎が解き明かされるという形式を取っているが、『ななつのこ』では絵本の作者について、『魔法飛行』では不思議な手紙について、それぞれの最後にそれらの謎が明らかになるという意味で、それぞれ独立した短編も大きな物語として1つにつながっている。殺人も誘拐もないし、ドラマティックでスペクタクルな展開も何もない、ごく日常生活の謎を解き明かすミステリだけれども、決して飽きを感じさせずに読ませてくれる。さりげなく張られている伏線が、最後にきちんと明かされるところは、あっと驚くトリックなどではないとしても、全体の構成作りのうまさを感じる。
 もちろん、小説としても面白いのだけれども、それとは違った意味に、この本は位置づけられる気がする。以前、福本伸行『最強伝説黒沢』に対して、「このマンガはビルドゥングスロマンになるかも」と書いたが、この小説は明らかに現代人向けのビルドゥングスロマンとしての体裁を持っていると思う。日常のささやかな謎を記す駒子の手紙に対して、絵本の作者はそれについての謎解きを返事に書くだけではなく、場合によっては駒子の悩みに対して、さりげなく道しるべを示してあげる。これはまさに少年少女向けの教養小説の体裁とも言えるのではなかろうか…という文章を書いていたら、ものすごく長くなってしまったので、とりえあずこの先はカット。時間があればいずれもっと詳しく書きたい。


3月29日

 宮部みゆき『理由』(朝日文庫、2002年(原著は1998年))を読む。東京都荒川区の高層マンションで発見された4人の死体。一人は部屋から転落死し、残りの3人には部屋で殺されていた。しかし、これらの死体はこの部屋に住む人間のものではなく、しかもこの4人にはつながりが全くなかった…。
 これだけだと、ごく普通の推理小説なのだけれど、この小説が独特なのは、この事件をルポルタージュ風に叙述していく文体を取っている点。この部屋の元の持ち主の顛末、いつの間にか入れ替わっていた住人、事件当日の状況、死者の身元、そして殺人が行われた瞬間、などが関係者の証言を重ねていくことで、徐々に明らかになっていく。こういう手法があったのか、と思わず唸らされた。いかなる小説だろうと、読者へ出来事や状況の説明をする必要がある。説明かリアリティかのバランスの取り方が下手だと、舞台に上がっている登場人物のはずなのに、まるで神の視点から眺めているような説明口調になってしまうことがある(本当に話し言葉だけだとどうなるのかは、清水義範『ビビンパ』(講談社文庫)を参照)。しかし、ルポ形式という手法によって、登場人物がいかに詳しく説明していても、不自然を感じさせずに、事件の深部を読者に見せつけることに成功していると言える。
 ところで、この小説がルポ形式であるとは言え、もし何の背後関係もなく100年後にこの本が発見されたとしても、史実として語られることは起こりえないだろう。実を言うと、これが少し不満な点とも関連してくるのだが、こうした文体が必ずしも全体を通じて貫かれているわけではない。基本的に、事件は当事者の証言から再構成され、証言を基に実際の出来事を再現する箇所もあるが、それもルポ的な手法の枠組のなかにある。ところが、何人かの登場人物の場面だけ、普通の小説の文体に戻っている。この部分を読んだとき、実はこのルポがこの登場人物によって書かれている、という体裁を取っているのではないかと思ったのだが、そういうこともなくラストを迎える。たとえば、最後にあとがきがあって、この登場人物が書いたルポでもありながら、回想でもあるという叙述的な仕掛けも施せたのではないだろうか。
 なお、ルポ的な手法を取っているために、現代社会の特質めいたものも、登場人物の口から語られている。家庭や家族の問題が本書の主題なので、それに関するものが多い。たとえば、無名大学へ進もうとした息子に、それまで特に怒ることもなかった高卒の父親が、そんなところではなく東大へ行け、と言ったシーンや、現代社会には本当の意味での核家族など存在せず、親の面倒を見ながらいずれ自分が邪魔者扱いされることに怯えてる、と語った失踪した夫の代わりに義母の面倒を見ている女性の話、など。だが、一番興味を持ったのは、教師に関するごく短い挿話。関係者の親族である教師が、事情徴収後に捜査に係わるので情報を教えてもらえない事態に直面して心外に感じたことに対して、後に考えれば教師として一番上に立っているので、事が起こったときに埒外に置かれる経験をしていないため、そのように感じてしまうと述懐しているシーンがある。この辺については、柳治男『学級の歴史学』で語られていた、司牧としての教師について、具体例でもって説明したものと言えるだろう。


3月31日

 原ォ『そして夜は甦る』(ハヤカワ文庫、1995年(原著は1988年))『天使たちの探偵』(ハヤカワ文庫、1997年(原著は1990年))を読む。西新宿に事務所を構える私立探偵・沢崎が主役のハードボイルド仕立てのミステリー。『そして夜は甦る』は、ルポライターの失踪事件をきっかけとして、過去の東京都知事狙撃事件の全貌へと迫る長編。『天使たちの探偵』は、未成年者が絡む事件の短編集。
 いずれの話においても、意外などんでん返しが連続して表れてきているために、先へ読み進みたい気分になり、うまく構成が練られていると言える。文体はオッサン臭さのない渋みが出ているため、読んでいてうんざりする気分にもならない。ただ、主人公の沢崎があまりにも真実に迫りすぎるため、作者には不本意だともうのだけれど、何となく青山剛昌『名探偵コナン』(少年サンデーC)の大人版とも感じてしまった。いやむしろ、『名探偵コナン』がハードボイルド小説の子供版というべきなのかもしれない。となれば、『名探偵コナン』の読者にお薦めのミステリ小説特集というのをすれば、ミステリ業界もまだまだ需要を掘り起こせるのではないだろうか。もう誰かがやっているかもしれないけれども。


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