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2006年4月の見聞録



4月1日

 光原百合『遠い約束』(創元推理文庫、2001年)を読む。ミステリ好きで大学入学早々にミステリ研究会に入った女子大生と3人の先輩が主人公の短編連作ミステリ。亡くなったおじさんとの「ミステリを合作で書く」という、昔にかわした「遠い約束」がメインのストーリーになっている。表紙から想像されるように、全体的に少女マンガっぽい。ところで、ミステリを「読む」という行為と、ミステリを「書く」という行為は、ミステリ好きの人たちにとって、一致するものなのだろうか。ごく当たり前のように、ミステリ作家はミステリが好きだからミステリを書くようになった、と考えていたけれど、この両者に対する心構えは何となく違っているようにふと感じたので。ミステリ好きの人は、何がきっかけでミステリを自分で書くようになったのだろうか、ということが何となく気になる。
 ちなみに、舞台となる大学名が浪速大学になっていることからも分かるように、大阪とその近辺の地名が実名で出てくる…のだが、ある事件の舞台となる公民館のある場所だけ「I市」となっているのは、何か理由があるのだろうか? あと、全く余談だが、塩をまいて追い返すときの迫力を比喩する表現で「水戸泉並みの迫力」とあるのだけれど、これはどの年代の人まで通じるのだろうか?


4月2日

 殊能将之『ハサミ男』(講談社ノベルス、1999年)を読む。ハサミで女子高生ののどを切り裂く手口から、「ハサミ男」と呼ばれていた犯人が、新たな犯行計画を立てて忍び寄ったところ、「ハサミ男」と同じ手口ですでに殺されていた…。
 「ハサミ男」が自分の手口を真似た人物を捜す動きと、派遣された心理捜査官と警察の動向が交互に出てきて、徐々に真相へ迫っていく…と見せかけて叙述方法もトリックに使ったどんでん返しが待っている。このラスト前の工夫は、思わず「あっ」と言わされた。これをマンガやドラマで再現するのは、かなり難しいだろう。小説だからこそ出来る物語の作り方があるのだ、ということを本書を読んで改めて気づいた。


4月3日

 高村薫『マークスの山』(早川書房、1993年)を読む。南アルプスで起きた殺人事件をプロローグとして、その背後に隠された事情が16年後の東京で連続殺人を引き起こしていく…。
 最後に一気に謎が解ける作りになっているのだが、そこにさほど意外性がないので、ミステリとしての爽快感は薄い気がする。オビタタキの宣伝文に「警察小説」とあるように、刑事がどのような行動をとって犯人を追いかけているのかは、おそらく非常にリアルに描かれている。警察の内部事情的なものを味わう小説なのだろう。


4月9日

 南直人『ヨーロッパの舌はどう変わったか 十九世紀食卓革命』(講談社選書メチエ、1998年)を読む。原題のヨーロッパ風の食卓が形づくられた19世紀を、ヨーロッパの食卓の画期と見なしながら、近世・近代のヨーロッパの食事の産業化や、食習慣の変化を見ていく。19世紀を画期とする根拠として、19世紀後半以降に欧米人の平均身長が急激に伸びたことを挙げている。実際にヨーロッパでは、中世末期から近世に掛けて、小氷河期や人口増加の影響で、飢饉の状態が長く続いていたらしい。そして、肉食は中世末期にはやや普及したけれども、飢饉と関連して減少し、19世紀後半に乳製品と共に消費が増大した。ヨーロッパの食卓というと、肉食が思い浮かべられるのが普通だが、それも決して古い歴史を持ったものではないことが分かる。となると、日本で肉食が普及するきっかけとなったのは、ヨーロッパではないのかもしれない。野村進『コリアン世界の旅』で触れられていた、日本での焼き肉文化の状況を考えると、肉食のそもそもの始まりは朝鮮半島由来だったのかもしれない。とはいえ、アジア圏の肉食の状況がよく分からないので何とも言えないが。
 なお、19世紀前半にはジャガイモの消費が増加しており、これがヨーロッパの人口増加を支えていたらしい。近世の北西ヨーロッパでは独立して財産を持たない者の結婚が制限されていたが、ジャガイモは僅かな農地で収穫が期待できるから、貧農の結婚を助成したらしい。となると子どもが産まれて人口は増えるが、その人口を何とか支えたのがやはりジャガイモだった。
 この中で缶詰や加工製品の開発、流通改革など食の近代化が進んでいくわけだが、共通の皿から手づかみで食べるという食事法から、17世紀以降のフォークの普及や個人用の皿の配膳など、現在のスタイルへと変化していった。本書でも触れているが、古くは高取正男『日本的思考の原型―民俗学の視角』(講談社現代新書、1975年)も記しているとおり、日本では昔から箸と茶碗は別々だったことから考えれば、ヨーロッパ人の方が遅れていた、とも言えてしまう。
 本書を読めば、ヨーロッパ風の洗練された食事、などというイメージはたかだか百年ほどのものであることがよく分かる。書き方も非常に平易で読みやすいので、近世・近代ヨーロッパ史の入門書としては最適だろう。


4月11日

 真保裕一『奪取』(講談社、1996年)を読む。偽札作りを題材にした犯罪小説。全体の構成が3部に分かれているのは、3回挑戦したから。それぞれの部においてかなり詳しい偽札の作り方が出てくるのだが、これはかなり真に迫っているのではなかろうか。ストーリーはというと、面白いしスリリングではあるのだけれど、実は最後の第3部でもういいかな、という気がして読み流してしまった。最後にポカをするというパターンが読めてしまったからなのだけれど。これで最後にもう一捻りあれば、というのは贅沢な要求なのだろうな。


4月23日

 山口雅也『奇偶』(講談社ノベルス、2005年(原著は2002年))を読む。推理作家・火渡雅は、偶然の出来事の重なり合う経験を重ねているうちに、片目を失明してしまう。そして、入院先で出会った教祖の宗教団体「奇偶」と関わり合ううちに、密室殺人に遭遇し、「奇偶」の教えでもある易と、やはり偶然が交錯する奇妙な世界へと入り込んでいくことになる…。
 小説と絡む形で、量子力学や不確定性原理の話が挿入されているけれども、これが割と面白い。この本は、ある意味でそれらについての入門書になるかもしれないくらいレヴェルにはなっていると思う…が、自分自身が初心者なので、本当にそう言い切れる自信はない。というのも、タイトル通りに、「偶然」がストーリー展開の大きな鍵を握っており、ラストも「偶然」と「シュレーディンガーの猫」の多世界解釈を用いたものとなっている…のだが、正直言って、私のようにすっきりしないという人もいるのではなかろうか。結局のところ謎が解き明かされているわけではないので。ただし、すっきりしたラストを期待しなければ、量子力学論を人文学的に描いた物語として十分に楽しめる。
 ところで、本書では猿を研究する生物学者が登場し、彼女が実験している猿は人間の幼児に近い知能を得ている。これに関して、この人物は、もし何らかの人為的なものが介在しているとすれば、それは神の手によるものである、としている(ただし、別の学者の手によるものではない、ということを強調するためでもあるのだが)。一方で、「神」は「偶然」の別名であり、神が遺伝子情報の上で骰子を振ったことによって、生じたと確信している。これを読んで思い出したのが、P.C.W.デイヴィス『神と新しい物理学』(岩波同時代ライブラリー、1994年))において語られていた、トマス=アクィナスの創造論に、科学者が宇宙論でそれを越える議論をどう打ち立てるのかについて。トマス=アクィナスは、以下のように語っているという。「眼に見える世界では、原因は連鎖をなしている。しかし、このような原因の連鎖はどこかで止まらなければならない。連鎖においては先のものが後のものの原因となるが、最初のものがなければ後のものもなくなる。従って、最初の原因を考える必要があり、これは「神」と呼ぶ」。その後に、宇宙は「なぜ」生まれたのかという神学的な議論を越えるものが不確定性原理だったとあったはず。だが『奇偶』では、結局のところ科学者は神学へと帰らざるをえなかったところで、科学のある意味での限界を垣間見ているような気になる。
 以下、簡単なメモ。火渡と教祖が初めて語り合っているシーンで、『旧約聖書』の「ヨブ記」における、ヨブの失明と神への絶対の信仰に対する揺らぎの場面が語られているが、もしかして遠藤周作『沈黙』はこれをモチーフにしたのかな、といまさらながら気づいた。
 また、言葉はいくら喋っても思いを書き尽くすことが出来ない、だから聖人は易で六十四卦をつくり宇宙の意味とその変化を表し尽くそうとした、という『易経』の言葉がでてくる。だからこそ占いは、どうとでも解釈できる曖昧な言葉しか語られておらす、易者の恣意的な判断ができるのだな、と思ってしまった。語り尽くせないということと、曖昧にしておくということには、大きな隔たりがある。だから、語らねばならないのだ、と。


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