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2004年2月の見聞録



2月1日

 岡本裕一朗『異議あり!生命・環境倫理学』(ナカニシヤ出版、2002年)を読む。倫理学の一分野として、1970年以降隆盛している生命・環境倫理学がすでに行き詰まっていることを、中絶・臓器移植・安楽死・インフォームド=コンセント・遺伝子改造、自然環境保護運動などから指摘しようとする。人工中絶や自然環境保護運動において、人間や自然の保護を訴えながら、結局どこかで線引きして何かを犠牲にすることを認める論法のおかしさがなんとなく疑問だったのだけれど、学問の世界ではそうした問題を曖昧にしていたということがよく分かる。たとえば、人間以外の生物を保護する場合には、意識を持たない昆虫のような生物には苦痛を与えてもよいという種差別主義が動物保護運動には見えるということが挙げられる。
 この本を読めば、確かに上記の現実的な問題について倫理的に解決を図ることが難しいことは、基本的な論点と共に理解できる。著者は指摘していないけれども、生命倫理学の問題について考えていくときに、研究者は比喩的な表現を用いたがる傾向が窺えるが、おそらくこれは直接的な論証では綻びが見えてしまう可能性があるためだろう。ただ、気になるのは著者のとろうとする態度がよく分からないこと。著者自身は、序章で述べているように、生命・環境倫理学が現実に対処できないお題目にすぎないことを明確にすることを目的としている。そのロジックを紡ぎ出す過程が、著者にとっては楽しいのかもしれない。しかし、読んでいる人間からすれば、それでは倫理学は何の役に立つのかという問題に、著者はどのように立ち向かっていこうとするのか、ということがまったく見えてこない。ほぼすべての章が「どうやって答えることが出来るのか」と書いてあって、次の頁からその解答を少しでも導き出すための試行錯誤をしていくのかと思えばそうではなく、新しいテーマに入っていく、ということの繰り返しであった。これではまるで「自分は分からない、ということを知っている」と高みに立って他人の否定をしているにすぎないようにしか思えない。
 もちろん、これは倫理学のみにあてはまるのではなく、人文学全体に言える問題である。したがって、私自身も偉そうに言える立場にはない。ただ、それでは何の役に立つのかと言うことを試行錯誤しようともしないで、学説をまとめるだけの研究はそれこそ不要ではないのだろうか。著者の言葉を借りれば「あなたはどうするだろうか」(139頁、第3章の最後の言葉)。


2月3日

 小熊英二『<日本人>の境界』(新曜社、1998年)を読む。副題にもあるように、明治期の植民地支配から戦後の沖縄復帰に至るまでの、沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮を巡る言説から、日本の植民地支配とそれを巡る意識を探る。日本外部の領域を包摂する場合には日本化が、排除する際には植民地の自治化が理念として現れる背景には、日本にとっての植民地という他者のさらに外側に、欧米という他者の存在とそれに対する国防意識があったことを見落としてはならないとする。そして、琉球では「日本人化」が進められ日本人の枠組の中に組み込まれていくのであるが、台湾や朝鮮も琉球と同じく「日本人化」が推進されたわけではなく、日本化する「内地延長主義」を貫徹するのか、それともあくまでも日本外部の植民地としていくのかで揺れ動き、きちんとした設定をせずになし場当たり的に事態への対処を行っていた政府の対応を暴き出す。たとえば、こうした曖昧さを映し出しているのが朝鮮人として初めて(そして現時点では最後の)衆議院議員となった朴春琴が直面した問題である。彼は、参政権や兵役義務の賦与、内地・朝鮮間の渡航制限の撤廃などを訴えたが、これに対して日本政府はその正しさを認める発言をしておきながら、実行には移さなかった、というよりも移せなかったことからも窺える(第14章参照)。
 テーマは多岐にわたり註込みで750頁以上にわたる大著だが、戦前の植民地政策を語る上で、この本は欠かすことが出来ない本となることは間違いないと思われる。日本人が理想としては大東亜共栄圏を持っていたとしても、その理念の追求が現場レヴェルではお粗末なものとなってしまったし、日本人が朝鮮を近代化させたという言説は、結果から見れば事実であるとしても、あくまでも「「日本人」化とその枠内での「文明化」が指向されていた」(196頁)にすぎないということはおさえておくべきであろう。

 以下、幾つか興味深い記述について、個別的なメモを。琉球が清ではなく日本に帰属すべき根拠として明治政府の提示した論は、琉球の初代国王が源為朝の子供であるというものであったのだが、後に朝鮮を併合したときには初代王の檀君がスサノヲの子孫であるという主張が行われた。これに基づいて、朝鮮出兵は元々日本の一部であった朝鮮を中国の冊封体勢から取り戻すものと理解する動きもあった(30、197頁)。
 外地はあくまでも植民地とすべきという主張を行う際に、民族の独自性や植民地の自治などが唱えられるのであるが、これもあくまで人種主義的な立場で植民地を本国の下に置くべきという考えに基づいて主張されていたとする。そして、これがアメリカの人種隔離を想起させるとする(181頁)。
 日本植民地下の台湾において、文明化の推進と日本化の拒否という動きは『台湾青年』誌において台湾人日本の両方から見られるものでもあり、両者の立場は違うとは言え文化多元主義に近かったと言える(330-35頁)。
 朝鮮における皇民化政策において、朝鮮の女性知識人に社会進出の幻想を抱かせ、総督府はこれをすくい上げることで、政策の正しさを主張しようとした(431頁)。
 敗戦直後には「民族」という言葉は「人民」や「民衆」の同義語として用いられていた。したがって上原専禄は、戦前には民族が国家に従属させられたのであり、これからは民族を主体として形成した上で民主的な国家を作るべきと考えていた(527−28頁)。こうした傾向と同調して、日本の歴史学会において「多民族国家」は征服民族が異民族を支配する世界帝国の同義語としてプラスではないイメージと見なされていた(538頁)。

 …と、ここまで個別的な情報を幾つか書いてみたのだが、読む人によって印象に残る情報はそれぞれ違うだろうが、色々な知識を得られることは間違いないので、ここに書いてあることにぴんときた人は読んで損はない。ただし、多岐にわたるテーマに関して詳細に考証することは構わないのだが、戦後の沖縄に関する第4部は少し冗長すぎる気がすぎるので、内容を絞るべきだったような気はする。


2月23日

 島田博司『メール私語の登場』(玉川大学出版部、2002年)を読む。大学教員である著者が、学生アンケートとその検証を中心として現代の大学教育における私語の問題を見たもの。サンプルデータが限られている統計もあるが、総じて言えるのは、私語をすることや教員とのコミュニケーションに非積極的なのは、仲間から浮くことを恐れての行動であるということ。あと、授業に関連する話が私語ではないと考えられているのは、教員の間でもごく一般的な認識だと思うのだが、教員がする無駄話も私語であるのだから、そうした無駄話の間は生徒である自分たちも私語をしても構わないと考えている学生が多いというのは、なかなか面白い。そもそも大学が見せかけの教養の場である限り、私語はなくならないだろうけど。学生にとって、大学は資格取得の場にすぎないのだから。さらに言えば、聞く気のある学生だけくればよいと考えても、学生による授業評価が取り入れられている以上、授業に出席する人数を減らす訳にもいかず出席をとる教員も多いのだから、ゼミ形式ではない講義形態である限り、現状のままではおそらくどうすることも出来ない状況が続くと思う。


2月27日

 みずしな孝之『いい電子』(ビームC、エンターブレイン)4巻を読む(3巻はココ)。個人的に一番面白かったのは、とうとう30歳になった著者が、「みんなのゴルフ」オンラインの30代限定大会にエントリしたときに、他の30代の人たちが30代のしんどさについて呟いたセリフで、「鼻毛に白髪が混じる」。ちなみに、背景として参加してゲームショーで、本当に酒盛りをしてて編集長に見つかって、終了5分前に事務局にセットを撤去されてしまったのだろうか? この人のギャグは、本当の出来事なのか思いつきのネタなのかが微妙なところが面白い。ところで、何だか画風がかわいくなってきた感じで、オッサンぽさがなくなってきているような気がする。


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