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2002年11月の見聞録



11月2日

 ロジェ=ポル・ドロワ『虚無の信仰』(トランスビュー、2002年)を読む。「仏教」という言葉ヨーロッパで登場し始めるのは19世紀に入ってからであり、この頃から初めて仏教は真剣に対峙されうる対象となった。しかし、解脱をその最高の目標に置く仏教は、当時のヨーロッパ人にとって、危険な宗教と見なされていたことを、当時の知識人たちの言説から探る。序論と結論部分は面白いのだが、本論があまり面白くない。序論を読み終えたときに社会史的な思想史の方向に向かうと思ったら、哲学の方向へと議論が進んでいったのであった。というわけで、面白くないというのも、個人的な嗜好の問題が強いのかもしれないが、それでもどうも哲学者個人の問題に話が集中しすぎのような感がやっぱり強い。近代ヨーロッパの思想史として面白そうな話題なので、もっと話を広げて欲しいかな、と。


11月7日

 冨樫義博『HUNTER×HUNTER』(ジャンプC、集英社)15巻を読む(14巻はココ)。グリードアイランド編も佳境に入り、ビスケによるキルアとゴンの修行、「爆弾魔」によるカード奪取、幻影旅団とヒソカの除念師探しなど、それぞれの行動が微妙に絡み合う…。
 この巻を読んでいてふと思ったのが、TVゲームによる世界観の他メディアへの影響力。たとえば今の『HUNTER×HUNTER』における「グリード・アイランド編」は、ゲームがなければ成立していなかったのではなかろうか。「グリード・アイランド」はカードゲームがベースになっているが、様式は明らかにTVゲームっぽい。永田泰大『ゲームの話をしよう 第2集』を読んだときに、最近はゲームをするとその世界観の不完全性が目に付いてしまいのめり込めない、みたいなことを書いたことがあるが、逆にゲームの様式をマンガの中でうまく活かせば、それは目に付かない。大げさな言い方をすれば、文化の相互作用を垣間見た感じがする。

 三条陸・稲田浩司『冒険王ビィト』(ジャンプC、集英社)1巻。ヴァンデルと呼ばれる魔人が人間を苦しめる暗黒の世紀。その魔人を撃退する職業「ヴァンデルバスター」となった少年ビィトは、兄とその4人の仲間から授かった「才牙」と呼ばれる天力を駆使す武器とともに、暗黒の世紀を終わらすために旅立つ…。
 『ドラゴンクエスト・ダイの大冒険』の作者コンビによる新刊。実はこの人たちの新作が出ることを密かに期待していた。『ダイの大冒険』は『ドラゴンボール』が作り出したバトルものというジャンルの直系の後継者だと考えていたからだ。連載当初の『ダイの大冒険』は決して面白いものではなかった。だがゲームの『ドラゴンクエスト』から徐々に離れていくことによって、バトルものとしての面白さを確立していった。しかも『ドラゴンボール』の超人的な戦いの戦術形式を、決して理屈っぽくなりすぎないようにしながら濃密にして、バトルそのものの面白さを高めていったのが、この作品だと思う。他にもバトルものは幾つもあるが、『ドラゴンボール』の魔人ブウ編の単なるパワーゲームを真似しているのが多いなか、この作品は長期連載にも関わらず、最後まで出来る限り矛盾を感じさせないバトルを繰り広げていたのではなかろうか。
 そして、直系の後継者というのは、あくまでも少年誌の枠組を守ったという点だ。たとえば、ジャンプでいえば『幽遊白書』や『るろうに剣心』などは、バトルものでありながらも、少年誌の枠組を越えた作品だ。作品そのものの評価は別として、その設定にひねりが加えられているのだ。その点、『ダイの大冒険』は『ドラゴンボール』と同じく素直な設定であり、なおかつ伏線の張り方は後者よりも上という点で、その発展型と言えると思う。
 『冒険王ビィト』も『ダイの大冒険』を受け継いで、しかも『ドラゴンクエスト』という原作の縛りがないので、最初から自由に設定が出来るのではなかろうか。もちろん、『ダイの大冒険』という成功があったからこそ出来るのだろうけど。という訳で、これからも個人的な期待は大きい。


11月10日

 信濃毎日新聞社編『北アルプストイレ事情』(みすず書房、2002年)を読む。1999年から2000年までの新聞連載記事をまとめたもの。北アルプスの山小屋において、年々増加する登山者にあわせての糞尿の量も増加していき、その処理が垂れ流しか穴埋めで行われている現状を描きだす。この新聞連載がきっかけとなって、山小屋・行政・登山者(特に山小屋)の間でトイレのあり方を見直し、浄化槽を付けたりするところが出てきたという流れは、素直にやるなと思った。それほど注目されてはいないけど、決して不要ではないなテーマを取り上げて、それが現場を動かすというジャーナリズムもあり得るのだと、少し感動した。


11月12日

 河合克敏『モンキーターン』(少年サンデーC、小学館)22巻を読む(21巻はココ)。洞口が危険なダンプを行ったことに対する批判をされたとき、1パーセントでも勝つ可能性があればそれをすべきだし、お金を賭けている客はそういう選手を支持するはず、というセリフに、「お客さんは選手が1着を取ることしか期待してないのか」と悩む波多野。そして、この行為と言動を見た青島は洞口のプロポーズを断る…。
 波多野の悩みはスポーツと勝つことについてふと考えさせられる。プロはまず勝つことが重要で勝てなくても魅せることは必要だと思うけど、賭けが行われている競技についてはどうなのだろうか。私はギャンブルを一切やらない(麻雀だけはやってたけどかなり前に辞めた)ので、競馬や競艇に普段賭けている人は賭けは外れたけど名勝負が見られたから満足、という考えが一般的なのか聞いてみたい気がする。賭けが行われているから面白いのか、それとも面白い上に賭けが行われているのか。


11月14日

 井上雄彦『バガボンド』(モーニングC、講談社)15巻を読む(13巻はココ)。村の疫病神・不動を斬ることを頼まれた自斎。しかし不動の元へ辿り着いた自斎が見たのは小次郎と不動が退治している場面であった。傷を負いながらも不動を斬った自斎であるが、死んでいる不動に斬りかかった小次郎を見て、小次郎の中の獣性に恐れを抱く…。
 何だかこのマンガに言及するときはいつもマンガのテクニック的なことばかり書いているような気がするけど、この巻でも不動のしゃべり方の描写はうまい。ぶつぶつしゃべっているキャラなのだけれど、いくつかの重要な単語だけ日本語になっていて、あとは線文字になっているのだ。今まで何度かこの人のマンガの「絵」ならではのテクニックについて書いたことかあるけど、まだまだこんな工夫の仕方もあるねんなあ。


11月15日

 山田奨治『日本文化の模倣と想像 オリジナリティは何か』(角川選書、2002年)を読む。文化における模倣の重要性を主張し、近代において著作権がいかにして成立したのかについてみていく。どんな人間にも個性があり、それを伸ばすことが必要であるという見方が盛んに言われている中で、それとは反対の主張をするような本。前者の考え方に難があるのは事実だが、それに対する論理的反論にはとうていなり得ていない。長々と書くのは面倒くさいので、二言だけ。コピーとカヴァーは違うのであり、自分自身の作品として世に出したければコピーだけではなくカヴァーをすべきだろう。また、現代における著作権に疑問を提示しているようだが、それならばこの本を全コピーして輪転機で回して製本して、安価で勝手に売りさばいたら著者はそれに賛意を示してくれるのか。
 また、オリジナリティを重要視する教育が近代の国家主義との中で成立したという見方を主張しているが、これはむしろ近代的な人権観念によってこそ成立したと見るべきであろう。人権観念が近代国家によって支えられているとしても、近代国家とオリジナリティ重視教育を直接に結びつける手法はあまりに安易であり、国民国家批判を行うための単なるこじつけにすぎないとしか見えない。国民国家を批判するにしても擁護するにしても質の高い議論こそが求められているのであり、何でも主張すればよいわけではないという見本。


11月21日

 細野不二彦『ギャラリーフェイク』(ビッグスピリッツC、小学館)26巻を読む(25巻はココ)。今回はそれほどインパクトのある話はなかったような。ものすごく細かいつっこいみを入れておくと、表題にも上げられている「サトゥルヌス」が作中でギリシア神話に出てくる神と言われているけど、ローマ神話とすべきじゃないかな、と。ギリシア神話ならばクロノスと呼ぶべきだと思うので。


11月27日

 みずしな孝之『いい電子』(ファミ通C、エンターブレイン)3巻を読む(2巻はココ)。個人的に笑えたのはサラリーマンプレーとRezのトランスバイブレーターを尻に挟むネタ。サラリーマンプレーとはサラリーマンのコスプレをして町中を歩くだけのものなのだが、この人の日常の寂しさがとてつもなく面白い(そのほかにもバレンタインデーにもらったチョコがクリーニング屋のおばさんから突然渡された1個だけというのも、笑える寂しさ)。Rezのネタは下ネタで、このマンガでは下ネタは滅多に出てこないけれど、個人的にツボにはまる。ところで「ファミ通編集部時間」は『究極超人あーる』の光画部時間のパクリでは?


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