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2002年10月の見聞録



10月4日

 津田雅美『彼氏彼女の事情』(花とゆめC、白泉社)1314巻を読む(12巻はココ)。いよいよ有馬編開始。有馬のすごさにはどんどん高まっていくのだが、親族への復讐心を父母や雪野には見せられずにいた。そんななか、有馬の実の母親が姿を現して、雪野もまた有馬の何かがおかしいことに気がつき始める…。嵐の前の静けさみたいな感じ。水位がじわじわ上がってきている決壊直前のダムのような怖さを感じて、この先の展開が楽しみ。ただ、ひとつだけ気になるのは秋葉の存在。秋葉に関するサイドストーリーがあれば、何故有馬が秋葉にだけには自分のドロドロした内面を見せることが出来るのかが分かり、ストーリーがさらに深いものになっていたような気がしたのだが。それとも、これから語られていくのだろうか?


10月6日

 『収支決算!ワールドカップ』(別冊宝島Real、宝島社、2002年)を読む。チケット問題、メディア報道当事者の談話や韓国に関する報道を巡る問題、スタジアム建設地やキャンプ地の現状、およびこれからのサッカーの動向などワールドカップに絡む諸テーマを取り上げる。ほとんどの記事がこちらが想像していた範囲内に収まっており、それを詳しく書いただけという点で面白みがない。割と読めたのは、与那原恵の手作り日の丸を巡る原稿を除くと、杉山茂樹のようなサッカーを専門的に扱っているジャーナリストの記事だった。ただし、彼がここで書いている原稿よりも、『Number』(『Sportiva』だったかもしれない)で書いていたもの方が、たとえばメディアを巡る議論などは、全然刺激的で面白かったのだけど。今年のワールドカップそのものが瞬間的な娯楽でしかなかったのかもしれない。


10月16日

 川原正敏『海皇紀』(月刊マガジンC、講談社)15巻を読む。近衛艦隊との開戦の勝利から2ヶ月後、新たな海王選出の儀が行われるなか、ファンは王位継承の権利がある紋章を示し、ソル=カプラ=セイリオスと王位を決めるための王海走で競うことになる…。ちなみに、第1巻以後まったくなかったあとがきがあり、帆船同士の戦いというやや専門的な描写をしていて「読者はどこまでついてきてくれるのか」との不安が述べられている。著者がこんな弱小サイトを見ているとは思わないけど、一言。確かに帆船のごく専門的な事柄についてはよく分からないところもある。でも、分からないながらもリアルに近いことが実感できるから、読んでいて荒唐無稽に感じずにすんなりと話に入り込めるわけだし、リアルさを取り入れることは決して悪いわけではない。そもそも専門的なディテールにこだわっていても話が面白くなければ、読者はついてこない。そうした専門性を土台にしていようがいまいが、物語としての質が低ければ読者はついてこない。『海皇紀』は架空世界を舞台とした海の物語としての面白さが、帆船という舞台設定を土台にしてしっかりと確立していると思う…と、ごく当たり前のような偉そうなことを書いてしまったが、要はこのまま突き進んでいって欲しいということ。


10月22日

 保坂智『百姓一揆とその作法』(吉川弘文館、2002年)を読む。江戸期の百姓一揆を様々な観点から検証していくのだが、内容の構成がすっきりしていないので、非専門家向けに書かれている割には、専門外の人間には主題を捉えにくい気がする。江戸期の一揆は幕藩体制の構成員たる百姓たちが自分たちの要求を訴える手段として用いられており、幕府も直訴を含めた訴訟権を認めた上で、支配体制を確立していた、ということが主題か? 他にも一揆の作法論など目に付くテーマもあるのだが、いまひとつ全体の構成と噛み合っていないと思う。


10月24日

 福本伸行『賭博破戒録カイジ』(ヤングマガジンC、講談社)7巻を読む(6巻はココ)。「沼」を攻略しようとして、まんまと策にはめられ、用意した5000万円のうち4400万円を搾り取られた坂崎とカイジ。しかし、その裏を取る策を思いついたカイジは、自分を地下での強制労働へと送り込んだ金融屋の遠藤と手を組み、その攻略に乗り出す…。時間から本格的にパチンコ攻略に乗り出す前置きみたいな巻。この巻で面白いのはダメ人間のへっぽこぶり。たとえば、坂崎の手元に残った600万円を奪おうとはするけれども、やっぱり辞めてしまって、砂場でじたばた暴れるカイジとか、その600万円を娘と近い名前を持つ馬に賭けようとし、さらに騎手の名前が「木崎」だからその音に近い「奇跡」が起こると言い張る坂崎のアホさ加減とか。この人のマンガの中に女性がほとんど登場しないのは、勝負をする女性が描けないというよりもへっぽこな女性が描けない、ということから来るのかもしれない、などと思ってしまった。


10月26日

 佐藤弘夫『偽書の精神史』(講談社選書メチエ、2002年)を読む。タイトルに惹かれて読み始めたのだけれど(ちなみに副題は「神仏・異界と交感する中世」)、「偽書」をキーワードに中世日本の思想史を読み解いているのだが、どうも「偽書」と中世日本思想史のつながりが弱いような気がする。中世の思想史という意味では、その最新版概説という感じでいいのかもしれないが。
 それに関連して気になった点が2つほど。まず偽書の扱い方。偽書が作成されたことに中世の心性の特徴を見出すことには、少し疑問を感じる。たとえば、つい最近までノストラダムスの大予言をもてはやす人は少なからずいたのであり、ノストラダムスを持ち上げて1999年に地球は滅亡すると書いた書物は、後世の人から見れば偽書になるだろう。
 これよりも疑問を感じたことは、中世的精神への向き合い方。仏教学者や実証主義に重きを置く歴史学者(この本では家永三郎の文章が引用されている)が、近代的合理主義的な概念の元に偽書の史料的価値を否定することに対して、そうした態度からは何も生まれず、それを受け入れていた時代背景を探求すべきという主張は正しいだろう。しかしながら、このように述べているにもかかわらず、中世以前の概念に対しては非合理的と考えている節が見られる。
 古代において、神々は社会の至る所に偏在していたと考えられる一元的世界観が支配していたが、中世においては他界−此土の二重構造世界観が形成され、それは古代の律令国家のように神々との回路を独占する状況から、誰もが神仏の声を聞くべく寺社に訪れられるようになったことを意味する、という見解が正しいかどうかは置いといて、納得は出来る。だが、古代の神の啓示が一方的で「非合理的」な色彩を持ち、中世のそれは人間と双方向であり、ある意味では「合理的」であったとする(215頁)のは、先の実証主義的な考え方と変わらないのではなかろうか。中世の人間から見れば古代の世界観は非合理であったと認識するのならば構わないのだけれど、現代から中世の概念を捉えて、古代の「非合理性」を指摘するのはあまりよくない気がするのだけれど。
 なお、中世においては下の身分から上の身分への訴訟が盛んに行われるようになり、「法の下での平等」が成立したとの指摘もある。


10月28日

 五十嵐太郎『新宗教と巨大建築』(講談社現代新書、2001年)を読む。明治以降に成立した宗教とその建築物を、建築学的観点から批評した上で、そこに込められた意志を読みとろうとする。
 建築に対する考察は置いておくとして、その前提となる宗教への視点に危険を感じる。現在の建築学は、古くからある前近代の宗教建築物を高く評価するものの、近代以降に設立された宗教建築物を低く評価しがちであるとしている。恐らく、それは間違いではなかろう。そして、現代において高く評価されている前近代の建築物も、その宗教が成立してから長い時間を掛けてようやく作られ得たのであり、こうした視点を持つことが必要だとする。これもまあ、そんなに的はずれではない。ここからが問題なのであるが、その例としてオウム真理教を挙げるのだ。たとえ、それぞれの様式に基づいた宗教建築物を造るのに何百年もかかるものだとしても、オウム真理教がいずれは優れた宗教建築物を作り出せたとはとうてい思えない。それはオウム真理教が作り出した攻撃武器やそのアイディアのちゃちさを見ればよく分かる。麻原彰晃が「機動戦士ガンダム」に影響を受けていたことはよく知られているが〔追記へ〕、サリン事件の直後にガンダムの制作者たる富野由悠季が「俺のアニメをみて、あんなものしか作れなかったのか」と吐き捨てたとされる事実に集約されるだろう。ちなみに、この言葉がどこに書かかれていのかについてはきちんと覚えていないので、もしかしたら間違っているかもしれないのだが、それでも、麻原の頭の中から作られたイメージが貧困であったことは容易に見て取れるのではなかろうか。
 そもそも、近代以降に成立した宗教に関連する建築物が、高く評価されない可能性が高いのは別の理由であろう。近代以降だからではなくて、その宗教が社会とそこに属する人間の生活にとって異物であるかないかの差が大きいのではなかろうか。つまり、今の日本において近代以前の宗教は、世間を脅かすものではなくなった、嫌な言い方をすればそれほど影響力がなくなったから、それに関連する建築物も単なる観光スポットとしての意義が大きくなくなったに過ぎないのではなかろうか。たとえ意味を持っているとしても、それは決して世間の異物としてではなく、御利益を与えるお得なモノとして認識されているだろう。新宗教の建築物は評価されないというよりも、社会の異物としての意味合いが強いために、信者以外にとってはその意味を読み取るのが難しいというだけだ。
 こうした見方は、現代という観点から建築物の善し悪しを判定して、建築物が建設された時代や場所のコンテクストを無視しているとも言える。だからといって、あのちゃちな物体しか作れなかったオウム真理教が、未来に優れた建築物を造れたかもしれないという中途半端な擁護は、サリン事件以前にオウム真理教を異物として評価しようとしていた人たちの態度と本質的に変わらないのではなかろうか。そのため、本論部分の考証は正しいのかもしれないのだけれど、最初に書いたような序論の部分の視点の危うさを感じてしまった。

〔追記:2009年10月21日〕
 この文章が2チャンネルのあるスレッドで引用されて、リンクが張られている。ただし、実を言うとこの部分と富野由悠季の発言に関しては、実際に何で読んだのか記憶が曖昧できちんとした裏付けがあるわけではない。だから、この言葉が勝手に一人歩きするのを避けるためにも、元となった文章を探しているのだが、なかなか見つからない。いまのところ見つけたのは、切通理作「お前が人類を殺したいなら」『オウムという悪夢(別冊宝島229)』(宝島社、1995年)に書かれている文章(191〜192頁)だが、これも直接的な証言にはなっていない(なお、原文がネット上で公開されている)。というのは、麻原が「宇宙戦艦ヤマト」に興味があったことは書かれているものの、ガンダムについては、麻原の運転手による「ニュータイプに興味があった」といった証言しか書かれていないからだ。
 この部分が勝手な憶測や思いこみでの発言であれば、それをきちんと正す必要があるので、以後も少し調べてみたい。


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