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2001年10月の見聞録



10月1日

 小林多加士『海のアジア史』(藤原書店、1997年)を読む。ブローデルの「世界=経済」論を基本として、西アジアから東南アジアにわたるアジア全域を、海洋交易という観点から読み直す。アジアは決して農耕中心社会のみから成立していたのではなく、イスラム・インド・中国の文化圏を中心とした交易活動による結びつきこそが重要であったとする。しかしながら、近代に入ると西欧の資本主義世界経済によってアジアは周辺化されて、海洋交易も封じ込まれたたとしている。
 言ってることは正しいと思うのだけれど、なぜか釈然としない気がする。極端な言い方をすれば、「アジアの海洋交易」という教科書を読んでいるみたいで、ただ正しいだけなように見えてしまうのだ。この本自体が大まかなスケッチを行うことに主眼を置いているのかもしれないので、それは仕方がないのかもしれないけど。
 もう一つ気になることがあって、商業に対する捉え方。アジアの海洋交易を軽視してはいけない、という考え方は納得できるけど、だからといってそれを必要以上に持ち上げる必要はないのではなかろうか。商業活動が大事であるという考え方は、グローバルな経済活動が一般的となっている現代人には行き渡っていても、古代・中世・近世の人々の間にまで通用する概念であったかどうかまでは分からない。もしかしたら、通用していたのかもしれないのだけれど、この本ではそれに関する記述は一切ない。つまり、アジア世界における交易による世界経済論は、現在のパラダイムにおいてもっとも重要な経済活動を、前近代においては重要ではなかった活動に焦点を当てているにすぎないかもしれないのだ。そうであるとするならば、こうした海洋交易論は、マルクスによる農業を主眼とした発展的進歩史観を商業活動にもあてはめて、現在で最も有用なパラダイムは完全に成熟していないかもしれないけれどもアジアにはすでに存在しており、それが現在の経済活動の基礎となったとする商業的進歩史観に陥るかもしれない危険性があるように思えるのだ。著者がそのようなことを言うことはないだろうけど、この本の主張をを援用してアジアを必要以上に持ち上げる人が出てくるような気がする。海洋交易論というのは重要な観点であるからこそ、それが現在の世界に住む私たちの自惚れ鏡に貶められかねないのは、ちょっともったいない。


10月2日

 小山ゆう『あずみ』(ビッグC、小学館)23巻を読む(22巻はココ)。反乱を未然には防げなかったものの、大きくなることは阻止することに成功したあずみ。しかし、江戸に帰ると、今度は伊達政宗の反乱を防ぐという任務が与えられた…。そういえば、実際に伊達政宗が江戸時代にどのような境遇にあって、どのような活動を行っていたのかって知らないなあ。

 細野不二彦『ギャラリーフェイク』(ビッグスピリッツC、小学館)23巻を読む(22巻はココ)。今回も実際の事件をモチーフにしたと思われるテーマがいくつかあるが、一番興味深かったのは、発掘捏造事件をモチーフにした作品。考古学学会に泥を塗ったとして自責の念に絡まれ続ける人物に向かって、「フェイクなどいつの世にもあり、贋作者はその狭間で右往左往する商売人さ」と言い、「考古学のビジネスマンに成り下がり、下手を打っただけだ」と吐き捨てている。贋作商売人にとって出来るだけ精巧な贋作を作ることが職業的な目的になるのに対して、学者が考古遺物を捏造することは研究者の職業的な目的に反する。まあ、この問題はモラルに反するというところにあるのではなくて、プロであるかそうでないかというところにあるのだと思う。
 しかし、神田の古本屋が道路の片側のみに集中していることとその理由は、恥ずかしながら知らなかった。言われてみれば納得やねんけどね。


10月4日

 天野郁男『教育と選抜』(第一法規、1982年)を読む。ヨーロッパの学歴社会について簡単にまとめ、それを受けて明治・大正・昭和初期における日本の学歴社会がどのように発展したのかについて述べる。欧米の高等教育機関が教養教育を主眼においていたのに対し、近代日本における学校教育は実学をも含む教育機関として存在しており、徐々に職業斡旋機関としての役割を果たすようになったことを指摘する。
 学歴の歴史に関して、手堅くまとめた論文集といった感じ。オーソドックスな教科書のような体裁でもあるため、教育の問題については前に取り上げたことがある刈谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』・広田照幸『教育言説の歴史社会学』・竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』などの方が読み応えはあるものの、これらの本が教育を受ける側の階層格差が厳然としてあったことを強調しているのに対して、こちらはどちらかといえば就職問題を中心に置いている点が少し違っており興味深い。ふと思ったのだけれど、現在の教育問題は戦前と違って身分格差が隠蔽されていることにあるのかもしれない。戦前であれば、明らかに身分格差が目に見えて分かったけれど、戦後は建前として身分格差がないことになっていて、それに言及してはならないことになっているから、教育問題だけではなく他の問題においても、議論がうまく進まないのではなかろうか。


10月5日

 今日「笑っていいとも」を見ていたら、出演者があるテーマに沿った問題を作り、それを他の出演者に出して当てあうというコーナーがあった。今日のテーマは「マラソン」だったのだが、その時「マラソンの語源は何?」という問題を出したタモリが、「ある場所から兵士が走って戦争の結果を伝えたことに由来して、マラソンという名前が付いた」と言っていたのだが、その後に「その兵士が『来た、見た、勝った』と言った」と話していた。「そりゃ、カエサルだ」とテレビに突っ込んだ人が、世の中にたくさんいたような気がする。
 まあ、世の中には「『ボーナス』という言葉の語源は古代ヨーロッパにあり、『ナス』はヴィーナスのことで、裸のヴィーナスという特別のプレゼントから来ている」などという滅茶苦茶なトンデモ解説を、土曜日の朝の時事解説番組で吐いた関西の某評論家のような人物もいるのだから、それに比べりゃましか。


10月6日

 大和岩雄『十字架と渦巻』(白水社、1995年)を読む。3世紀までのキリスト教において、十字架崇拝は異教信仰と見なされて忌避されていた。十字架はそもそも縦と横の長さが同じである正十字が原型で、男根と女陰を組み合わせた両性具有の存在であり、生殖と死・再生の象徴であった。その十字を取り巻いて描かれていることが多い円は、渦巻文から始まりウロボロスの蛇に代表される生と死の輪廻の象徴であった。そうした十字架と渦巻を、広く古代社会全般から拾い上げて考察を行う。
 古代キリスト教の十字架論から、ギリシアやエジプト、シュメールだけではなく、日本や中国までにわたる原始古代社会を広範に扱っており、あまりにも手を広げすぎていて散漫な印象も受けるが、十字架と渦巻という2つの図像に絞っているために論点を最後まで追いやすい。豊富な図像が用いられているので眺めているだけで楽しいし、その図像をめぐる解説も丁寧に論じられているので、図像学・宗教学・社会人類学などに興味のある人は読んで損はないだろう。
 1つ興味深かったのが、初期キリスト教徒がカタコンベにまんじ(「卍」)を描き、イエスの象徴としている例が見られるということ(165頁)。何年か前にアメリカでゲームボーイのソフトである「ポケットモンスター金・銀」が発売されたとき、あるモンスターの腹にまんじが描かれていたことに「ナチスを想起させる」という反発が起こり、卍のマークが消された、という事件があった。キリスト教徒にとってはイエスの象徴であったまんじも、現代のアメリカ人にとってはナチスのマークにしか見えないらしい。宗教といえども、所詮はその時代のパラダイムからは逃れることは出来ない、ということなんだろう。
 また、本書の内容とは直接関係ないが、古代日本の神殿・宮殿は中国思想の影響を受けて南面しているが、神座は東面してるということを、著者は指摘したことがあるそうだ。これについて書かれた本も読んでみたい。


10月7日

 津田雅美『彼氏彼女の事情』(花とゆめC、白泉社)12巻を読む(11巻はココ)。一馬が歌への世界へと入り込んでしまい、一人になったと沈み込むつばさ。そして、それゆえに一馬の歌が聴こえなくなるつばさ。そんなつばさの元を訪れて、一馬はつばさに恋をしていることを告白する。一馬の歌を聴こうとするつばさは、一馬の思いを確認して、2人は再びうちとけあう…。言葉で書くと陳腐なのが悔しい。この人の描いた絵は息苦しいような苦しさを覚えることがある、と前に書いたことがあるが、この巻でも一馬がライヴで歌ってるシーンにそうしたものを感じる。でもこの巻ではさらに圧巻。陰陽のライヴのシーンで、一馬は内部の葛藤を吐き出すかのごとく歌い、締め付けられるようなシーンが続く。ライヴの最後の歌で一馬の心がそうした重苦しさから解き放たれる瞬間、絵のタッチそのものが変化したわけでもないのに、今度は明るくてすがすがしい心象場面へとがらっと変わるのだ。翼が一馬の歌を聴けるようになるシーンもそんな感じのカタルシスが味わえる。絵がうまいというよりも、絵を使ったマンガ表現がうまいということなのだと思う。そういえば、いよいよ次の巻から有馬編が本格的に始まるらしい。楽しみ。あと、この巻には、りかの恋愛編も、おまけっぽく収録されている。


10月9日

 鄭大均『在日韓国人の終焉』(文春新書、2001年)を読む。在日韓国人であり、アメリカ・韓国での在住経験を持つ著者が、韓国の国籍を保持したまま、日本の国籍を保持せずに、日本での参政権の取得を求めようとする動向を批判する。そして、国籍を得れば韓国・朝鮮人としてのアイデンティティが消えてしまうという言説に対しては、すでに在日韓国・朝鮮人は日本社会と同化しつつあり、アイデンティティという観点から主張することを批判する。
 著者自身も言及しているように、アメリカの黒人優遇政策を黒人自らが批判した、S.スティール『黒い憂鬱』(五月書房、1997年)の在日韓国・朝鮮人版というような感じだ。著者のいってることには筋が通っているが、在日韓国・朝鮮人が日本社会に同化しつつあり、また差別もほとんど見られなくなった、という著者の主張が本当に正しいかどうかはよく分からない。大事なことは在日韓国人・朝鮮人の主張が決して一枚岩ではないということであると思う。私自身は、この問題に直接関係していないので、無責任な言い方かもしれないが、別に現状のままで参政権を与えてもいいのではないかと思われる。それが日本の国政に影響を与えるとはあまり思われないからだ。在日韓国・朝鮮人に参政権を付与すればそれなりの政治勢力になるかもしれないが、一枚岩ではない状態ならば、いずれ分裂が起こり、自らの状況から日本人の政治家を支持せざるを得なくなる者も出始めるような気がするからだ。その時にはアイデンティティの消失という主張はもはや使えなくなる。つまるところ、参政権を得ようが得まいが、日本人に吸収されてしまう可能性が高いように思えるもしそのままの政治力を保持し続けてロビー団体のようなものが隠然たる勢力を誇るようにならないと、日本人(私自身も含めて)は自分の問題として考えられないだろう。


10月10日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。岸本斉史『NARUTO』9巻(8巻はココ)。第3の試験の予選が進んでいき、特に物語の進展はないが、1対1のバトルが楽しめる。最初のころは必殺技ですべてが片付く子供だましっぽかった戦闘シーンも、どんどんと面白くなってきて嬉しい。日向ネジvs.日向ヒナタのような血族同士の確執も絡めた「濃い」戦闘も増えてきて読み応えが出てきたのも嬉しい

 樋口大輔『ホイッスル』18巻(17巻はココ)。ソウル選抜に2点を先行され、圧倒されて焦る水野。しかし、チームメイトの喝によってMFの役割と醍醐味を実感し、前半には1点を返し、後半から出場した将の活躍によって同点に追いつく…。このマンガは地味ながらも本当の意味での成長を楽しめるのだけれど、マンガの中でのサッカーのレヴェルが上がっているのに対して、プレイの表現能力がそれに若干遅れつつあるような気がする(偉そうな言い方だけれど)。たとえば1点目の得点シーンで、水野が郭と絶妙なワンツーを決めるシーンを見開きページで表現しているのだけれど、これが、水野とは別の人間がいて水野→郭→別の人間とパスが通っているように見えるのだ。せっかく、リアルな成長が描かれているのに何だかもったいない気がする。

 ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』14巻(13巻はココ)。佐為と塔矢名人によるネット碁対決は、佐為が勝利する。そして、塔矢名人は前言通り現役を引退する。佐為は勝利に満足するも、ヒカルが佐為も塔矢名人も気付かなかった名手を発見したことに、「神はこの一局をヒカルに見せるために私に千年の時を長らえさせたのだ」と悟る…。『少年ジャンプ』本紙ではもう佐為が消えてしまっているみたいだけれど、この後に物語はどう続くのだろうか? やっぱり復活するのだろうか? 人気のある主役級の人間が完全に消えたまま物語が続くというのは、『少年ジャンプ』ではない展開な気がするしなあ。


10月11日

 永田泰大『ゲームの話をしよう 第2集』(エンターブレイン、2001年)を読む。ゲーム制作者やゲーム雑誌編集者などのゲーム関係者と、『週刊ファミ通』編集者である著者が対談を行った本。有名な人物として任天堂の宮本茂氏、納税ランキングでおなじみの「ダビスタ」の園部博之氏、タレントの伊集院光氏、『ポストペット』を作った八谷和彦氏などがおり、他にも「実況パワフルプロ野球」・「ソニックアドヴェンチャー」・「ソウルキャリバー」のそれぞれの制作者、チュンソフトの関係者などが主な対談者。 私はゲームをほとんどしなくなったのだけれど、ゲームに関連する話を読むのは面白い。というか、プロが自分の専門分野のことを鋭く話しているのを読むのは面白い。
 個人的に、この本で最も考えさせられたのが、「ゲームは文化なのか」という話になった成沢大輔氏との対談。成沢氏はゲームは娯楽であり文化である必要はなく、その娯楽性の高さに後ろめたさを感じる人が「ゲームは文化である」という言い訳を持ち出す、と述べている。正論である。だがしかし、このような言い方を認めるならば、ゲームはトランプや麻雀やパチンコと同類であっても、映画・演劇や小説・マンガとは同類ではないことをも認めることになるのではなかろうか。後者が娯楽であって、前者が文化であるなどと単純に区別したいわけではない。ただ、違うのは後者に影響を受けて他の分野で創作活動を行う人はいても、今のところ前者に影響を受けて他の分野で創作活動をする人はほとんどいない、ということだ。麻雀やパチンコをしていて、それぞれのプロになる人間はいても、他のジャンルで活動をする刺激になることはない。せいぜいそれらを題材にして物語を作るぐらいだが、それは影響を受けるということとは若干意味合いが異なる。そして、ゲームを作る人は、他ジャンルに影響を受けてゲームを作ることがあっても、他ジャンルの人間はゲームに影響を受けることがない気がするのだ。ゲームで提示された物語を原作としてマンガや小説やアニメが作られることはあるが、それは影響を受けたということとは違うはずだ。
 ゲームは娯楽でありそれ以上ではないという立場は正しい。それはスポーツゲームやパズルゲームにはあてはまる。しかし一方で、物語を提示するRPGやADVは決してそれだけではないはずだ。RPGやADVがよく「このゲームは映画的」と評されることがあることは象徴的だ。しかしながら、RPGやADVは決して物語の表現手段としては、他のジャンルに追いついていないことは、今のところゲームに影響されて創作活動を行う人間がいないということからも言えると思う。この状況は、宮本茂氏がふと呟いた「ゲームを作る人がゲームを見ながら作るようになっている」という言葉を裏返した状況だと思う。だからこそ、「今のところ、ゲームは格好悪くて、暇つぶしにすぎないという考え方がある」(小西輝彰・恩田講の両氏(共にナムコの開発者))状態になってしまっているのではなかろうか。
 これはゲームが提示する物語が、残念ながらまだ完成度がそれほど高くないからだろう。これは私がアクションやパズル・テーブルゲーム以外のゲームをしなくなった最大の理由であるのだが、RPGやADVはプレイヤーである自分に行動権があるために、物語としての穴がどうしても目に付いてしまうのだ。「せっかく動かせるのに、どうしてこれが出来ないんだ?」という要求がどうしても出てしまう。これが作者が一方的に決めた展開で物語が進んでしまうのならば、理不尽な展開でも納得してしまうこともありえるのだが、下手に自分で動かせるため、ごまかしがきかないのだ。
 しかしながら、これはゲームによる物語の想像がまだ成熟しきっていないからであり、まだまだ深くなる可能性があることを意味する。ゲームはまだ世の中に登場して半世紀も経っていないのだから当然であろう。だからこそ、「ゲームは娯楽である」という正論に留めてしまうのはもったいないと思うのだ。ゲームは人に影響を与えうる文化になる可能性を十分に秘めているのであり、「ゲームは娯楽でもあり文化でもある」と言われるようになることは不可能ではない。「ゲームは娯楽でもいい」と言い切って、娯楽作品を創り出すことに徹する職人がいてもいい。だが、ゲームに関わる言説を生み出す人が「ゲームは娯楽にすぎない」と言い切ってしまい、ゲームの豊饒性を広げる努力を怠ってしまうのは早急すぎると思うのだ。そうでないと、ゲームはそう遠くない日に活力を失ってしまい、宮本茂氏が言うように「俳句みたいに狭いジャンルになっていく気がする」。
 ちなみに、この本の中で最も笑えたのは、ホリ電器のジョイスティック開発担当との対談。植毛ジョイスティックを始めとする色々なわけの分からないジョイスティックを作ったというエピソードだけではなく、この人自身が芸人みたいであるため、話がめちゃくちゃ面白かった。


10月12日

 さいとうたかを『サバイバル』(リイド文庫)910巻を読む(5〜8巻はココ)。少年は集落をめぐり回って、ついに家族が住んでいることが分かった土地へ向かうところで物語は終わる。いままでは自然との闘いが多かったのだけれど、この巻では集落ごとのもめ事を解決していくという展開。同じような舞台設定である『ドラゴンヘッド』よりもはるかに分かりやすい少年誌的な展開なのに、絵はこちらの方が少年誌的ではないというのがなんとなく面白い。どんなピンチに陥っても少年は生き残るということがあらかじめ予想されるだけに、読んでいてスリルがないとも言えるが、そこに至るまでの話は十分に面白い。考えてみたら『ゴルゴ13』もそういう「結末は分かってるけど、途中の展開を楽しむマンガ」な気がする。


10月13日

 望月峰太郎『ずっと先の話』(KC DELUX、講談社)を読む。短編集。不条理な架空世界を描いたものから、『バタアシ金魚』のような普通の日常世界を舞台としながら強烈なキャラクターを描くもの、そしてM.ジョーダン観戦記など、バラエティに飛んでいる。個人的には任侠に生きる男の息子でありながら、その反動からオカマっぽくなってしまたものの、もの凄く格闘に強い主人公が出てくる「僕ちゃん」が一番面白かった。これを連載でやってほしいなあ。


10月15日

 たかもちげん『祝福王』(メディアファクトリー文庫)1巻を読む。人智を越えた予言能力、そして人の心を救う能力を持つ正平をめぐる物語。といっても学習マンガの偉人伝のような教育的なものではなく、正平を神のように敬う人、祭り上げようとする人、それを潰そうとする人と、正平自身の葛藤替えが書かれる濃いマンガ。この巻は、正平に対して攻撃を加える信者600万人を抱える宗派のもとに、正平が乗り込もうとするところで終わっている。宗教という信者以外にはまともに取ることが出来ないテーマを扱ったこのマンガが、どんな風にして終わるのかが楽しみ。

〔お知らせ〕

 急な仕事が入ったため、5月の時ほどではありませんが、更新頻度がかなり緩やかになると思います。このページを毎日見ている人はいないと思いますが、念のために書いておきます。


10月17日

 宮下あきら『曉!!男塾』(スーパージャンプC、集英社)1巻を読む。剣桃太郎の息子である剣獅子丸が主人公。『魁!男塾』の続編だが、バトルものになった4巻(だったと思う)以降よりもバタコメディっぽいごく初期の展開になっている。『魁!男塾』をリアルタイムで読んでいた世代としては懐かしくて読んでしまうものの、まったく知らない世代ににとっては面白いのかなあ。『キン肉マン2世』は今の世代にも受けてるけど、始めからバトルものだったし…。


10月19日

 イザベラ=バード『朝鮮奥地紀行 1』(平凡社東洋文庫、1993年)を読む。『日本奥地紀行』(平凡社ライブラリー、2000年、東洋文庫版は1973年)は読んだことがあったけど、同じ著者が『朝鮮奥地紀行』という本を書いていたとは、恥ずかしながら知らなかった。1890年代にソウルを中心とした地域を旅行した著者によるルポ。当時の朝鮮について恐らく著者が見たままのことを書いていると思うのだが、ふと気になったのはノミやダニに関する描写がないこと。『日本奥地紀行』では著者がノミやダニに悩まされ続けたことがこれでもかと書かれていたのだが、この本ではそういう記述が見られない。日本が非常に不潔で朝鮮が非常に清潔な国であったのか、それとも朝鮮にはノミやダニがそもそもあまりいないのか、どちらだろうか。『日本奥地紀行』のころの日本は汚かったけど、『朝鮮奥地紀行』のころの日本は綺麗だったということは、このサイトで取り上げたことのある紀田順一郎『東京の下層社会』で描かれたような貧民窟があったことからも考えにくいし(ただし当時の朝鮮に似たようなところはあったみたいだけど(72頁))。
 それと釜山には多数の日本人が住んでいて銀行業務や郵便・電信などの公共事業をになっていたという記事も興味深い。日本による朝鮮合併によって朝鮮の近代化は進んだという言い方を見かけることは珍しくないが、この本によれば朝鮮併合以前から日本人による事業は進められていたことになり、朝鮮合併と近代化を結びつける見解は単純すぎる可能性があることが分かる。


10月21日

 バンチCの新刊を読む。原哲夫・武論尊『蒼天の拳』1巻。舞台は1930年代の日本と中国、あのケンシロウの先々代の北斗神拳継承者・霞拳志郎の活躍を描く。この巻ではかつての盟友の敵を討つために拳志郎が上海に乗り込むところまでで終わっている。ところで、北斗神拳って一子相伝で、さらには同時代の伝承者以外の人物は拳を捨てなくてはならなかったような記憶があるのだけど、違ったっけ? いつの間にか「伝承者以外は他流試合で北斗神拳を使うことを禁じられる」という設定に変わっている気が…。まあ、もともとそういうことがよくあるマンガだからいいか。
 どうでもいいけど、26頁の教頭先生の顔が梅図かずおの登場人物みたい。

 北条司『エンジェルハート』1巻。用意周到に仕事を行い顔をさらすことなく任務を終えることから「グラス・ハート」と呼ばれた美しき女性暗殺者は、自らの仕事に絶望し心臓を貫いた。しかし、彼女には強奪された臓器移植用の心臓があてがわれて無理矢理生き伸ばされた。彼女はもとの心臓の持ち主の記憶に引きずられ、新宿へとやってくる。その心臓の持ち主は槇村香。あのシティーハンターの相棒だった女性の心臓だった…。カバーの説明のところに著者自らが、このマンガは『シティハンター』の舞台や登場人物と一切関係がない、と書いているが、槇村香がいきなり死んでいたということに苦情が殺到したんだろうな、たぶん。

 他のマンガを読んでいないし、『コミックバンチ』そのものも読んでいないのであまり偉そうなことを言えないのだが、この雑誌には売れセンを意識しないでいい意味で力を抜いて自由に描くことができる雰囲気があるようで、『蒼天の拳』も『エンジェルハート』も安心して楽しめるマンガだと思う。このままの路線で行くとそのうち雑誌連載のネタが尽きるような気もするけど。

〔追記:2001年11月16日〕

 『コミックバンチ』について、「売れセンを意識しないでいい意味で力を抜いて自由に描くことができる雰囲気があるよう」と書いたのだが、どうもそうではなさそうな雰囲気もあるらしく、連載している漫画家が自分のHPで愚痴を書いているようだ。バイト先の店でもいまいち売り上げが伸びないしねえ…。(ちなみに、バンチについてはちゆ12歳さんの平成13年9月6日のニュースで書いてあることを読んだだけなので、深い事情を知っているわけではないのだけれど)


10月24日

 大塚ひかり『太古、ブスは女神だった』(マガジンハウス、2001年)を読む。日本神話から平安貴族、中世武士社会におけるブスの歴史の本。日本神話において、ブスはその醜さと同時に力を併せ持つ存在であったが、仏教思想の伝来によってブスであるのはは前世の悪行ゆえと見なされて軽蔑されるに至ったとする。その他にもおかめに関する考察、ブス殺しの説話考なども収録。日本のブスに関してかなり文献を網羅的に収集している。ただ、欧米の影響によって現代は美醜で人を判断することに後ろめたさがなくなったという指摘は事実だと思うが、それに対する解決方法としてかつての日本にあった「醜パワー」を見直すべきというのは、なんとなく納得できない。それでは、単なるルサンチマンの思想に近すぎるような気がするのだ。ガングロを醜パワーと見なしているかのような記述もあるのだが、それも倒錯した見方であり、ガングロの女性たちは自分を綺麗と思ってあのようにしていたと思うのだが。醜パワーといっている時点で美醜に判断基準をおいていることに変わりはないだろう。それじゃあ、自分をブスだと思ってドツボにいる人はどうすればいいのかというと代案を出せるわけではないのだけれど。


10月29日

 ようやく一段落。とりあえず、これからいつものペースに戻っていけるかな。

 河合克敏『モンキーターン』(サンデーC、小学館)18巻を読む(17巻はココ)。SG全日本選手権で波多野憲二が優勝。しかし、福岡のレースで左手の手首を皮一枚遺して切断してしまう。カバーの4コママンガには憲二の自己の元ネタと思われる実際の競艇選手のストーリーもある。憲二がSG制覇という大仕事を成し遂げた後に、どういう風に盛り上げていくかと思ったら、こういう方法があったか。でもこれは話を無理矢理盛り上げようとしたためというよりは、恒例のカバー4コマでも描いている著者がインタビューしたことのある実際の選手の事故にインスパイアされたものなのかも。この選手がこれを読んだらかなり励まされるような気がするなあ。

 皆川亮二『ARMS』(サンデーC、小学館)19巻を読む(18巻はココ)。破壊を望むアリスを粉砕する。しかし、カツミの中にそのアリスは移り住んで生き延びていた…。えっ? まだ続くの? 確かにキース=ホワイトやホワンの行方は、破壊のアリスが消滅したときにも描かれていなかったし、アリスが消滅する寸前に消えたくないと言ってカツミに手を伸ばしていたという伏線めいたことも描かれていたけど…。今度の章できちんと終わるのだろうか?


10月30日

 神尾葉子『花より男子』(マーガレットC、集英社)30巻を読む(29巻はココ)。道明寺に冷たくあしらわれたつくしの元に花沢類が現れて「好きかもしれないと告白」。道明寺を好きなつくしだが、道明寺をアメリカに残したまま、日本へと帰る…。うっひゃー、そんな展開ありかね。27巻でつくしが花沢類に昔は好きだったと告白して、花沢類が「知ってたよ」と答えるシーンがあったけど、あのとき花沢類の顔は描かれておらず、実は困ったような顔をしてたらしい。でも、この巻の最後は日本へとつくしに会いに帰って来た道明寺がつくしと一緒にSP連れ去られて、目が覚めたら船に乗っているシーン。もうどうなるかさっぱり分からん。男性向けマンガで延々と話が続くことを「ドラゴンボール化」とよく言うが、女性向けマンガでは「花より男子化」と言われるかもしれないなあ。そんなことないかな。


10月31日

 イザベラ=バード『朝鮮奥地紀行 2』(平凡社東洋文庫、1993年)を読む。以前読んだ1巻の続き。『日本奥地紀行』と違って、それほど面白く読めないのは、当地の人間ではないことと、韓国・朝鮮にそれほど知識がなく興味もないからかもしれない。
 ただ、悪い意味で1つ印象に残ったことがあって、それは訳者と解説者の文章。特に後者は著者の朝鮮人に対する「歴史と社会を観つめるの目の曇り」とやらを指摘して、断罪的な態度がかなり濃く見える。当時の人間の価値観をえらそうに批判するような態度は、読んでいて何だかいい気がしない。


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