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2001年7月の見聞録



7月1日

 S.クーンツ『家族という神話』(筑摩書房、1998年)を読む。アメリカの社会の混乱が古き良き家族の崩壊から来るとする、神話化された理想の家族像をもとに現代の家族のあり方に異議を唱える言説を、具体的なデータを検証することによって鋭く批判する。論点は多岐にわたり、ボリュームのある著作。広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』でも指摘されているように、自分の過去を理想化して古い家族の伝統が崩壊しているとしたり、アメリカの家族が崩壊しているのと同じ道を日本も辿ろうとしているとする主張が日本でも少なからず見られるが、日本だろうがアメリカだろうが言論界では同じような状況が起こっていること分かる。


7月2日

 細野不二彦『ギャラリーフェイク』(ビッグスピリッツC、小学館)22巻を読む(21巻はココ)。19・20巻あたりで「マンネリ化しつつあるかなあ」と感じたが、最近はまた面白さを取り戻しつつあるような感じ。経営がやばい百貨店の元会長である「永嶋」という名前の人物が出てきて美術品の処理を頼む話は、現実の話そのままみたいやけど。ところで、最後の話で登場人物のオリエント学の学者が「平凡な学者は、人の論文ばかり読んでいる」と言っているが、歴史学(だけじゃないけど)は人の論文も読まないと出来ないって。ちなみに129頁でこの教授の肩書きが「○○大学オリエント大学教授」となっているのは「オリエント学」か「オリエント学科」の間違いだろう(…われながら細かすぎる突っ込み)。でも、オリエント大学っていうのが本当にあったら、行ってみたい気がする。


7月3日

 高松正勝・鈴木みそ『マンガ 化学式に強くなる』(講談社ブルーバックス、2001年)を読む。女子校生が科学者に科学の勉強を教えてもらうという設定で科学を学ぶ学習マンガ。このホームページではおなじみのちんげ教教祖の新刊。自分自身のマンガやホームページでもネタにしていたが、企画から出版されるまでに7年もかかっている。ただ、個人的には学習マンガはマンガで分かりやすく表現して分かったような気にさせるだけと考えているので、教祖が書いてなかったら読むことはなかっただろうな。化学式の説明以外の部分は楽しめたからいいけどね。


7月4日

 西部邁ほか7名『市販本・新しい公民教科書』(扶桑社・2001年)を読む。その他の教科書を読んだことがないので比較することは出来ないが、別に過激なことが書いてあるわけではない。1章と2章の公民の意味と現代社会の問題を指摘する部分は、らしい部分とは言える。ただ、この教科書の特徴とも言えるこの部分は、主観が若干強めに出ているだけに授業で教材として使うのは難しいような気がする…と言うか、大半の教師はこの部分を使わないだろうと思う(この教科書について感じたことは、後に『市販本新しい歴史教科書』と一緒に書く予定)。


7月5日

 西尾幹二ほか13名『市販本・新しい歴史教科書』(扶桑社・2001年)を読む。他の歴史教科書を読んでいるわけではないので何とも言えないが、日本の優れた部分をやんわりと主張している箇所がいくつか見られたり、従来の教科書に見られる庶民の生活の悲惨さや国家による弾圧を強調する記述がほとんど見られない以外は、オーソドックスな内容だと思う。著者たちの著作を読んで(著者たちに批判的な人たちも含めて)、より過激なものが出来上がると考えていた人は肩すかしを食らうだろう。
 『新しい公民教科書』も含めて、教科書の内容そのものよりも、新しい歴史教科書を作る会が世論を大きく動かしたという事実の方が重要なのだと思う。私は教科書を変えたところで授業そのものが変わるわけではないと考える立場にあるけれども(これについては後述)、これらの教科書が学校の授業や教科書について世間の人々の関心を高めたことだけでも、大きな役割を果たしたと言えるだろう。そして、市販本を刊行した後に指摘を受けて修正を行った部分について、先日の新聞で自ら公開していた。これは、ほかの教科書が密室的な取り決めを行いこっそりと修正しているのに比べて、オープンな面をアピールすることに成功しており、戦術として非常に優れてるだろう。また、この一連の騒動で反対派はやや正常さを欠いた反対活動を行いすぎており、明らかにイメージダウンしたと思われる。
 しかし、それでもやっぱりこの教科書が学校の歴史の授業そのものを変えるとは思われない。先にも書いたように他の教科書に目を通しているわけではないので断言は出来ないが、この教科書も「暗記科目としての歴史」という性格を変えるようなものには思えない。教科書に書いてある記述や分析が絶対的な事実であり、それを暗記することが歴史の授業であるという、中高生の認識を変えることはこの教科書でも出来ないのではなかろうか。というのは、歴史学が時代とともに新しい研究を提示していき、古い見解から新しくかつより正しい見解を作り上げていく学問であることが、この教科書を読んでも分からないからである。たとえば、日本史の通説はこの50年でも大きく変化し続けており、その代表的なものは網野善彦氏による中世・近世史研究であろう。他の諸学問と同様に、歴史学は通説がよくも悪くも常に変わり続ける学問であるということがこの教科書からも窺い知ることはできないのだ。
 そして、一般的には中高の教師たちも、教科書の記述が変わることのない歴史事実を記載していると考えがちな気がする。こうした教師が教えている限り、その内容がいままでの教科書でには見られなかったような日本の優れた部分を取り上げられたとしても、中高生にとっては暗記する内容が変わっただけで、「暗記する科目としての歴史」という本質は変わらないのではなかろうか。こうした意味において「教科書を変えても歴史の授業は変わらないのでは」と考えてしまうのだ。左翼的な史観を独善的に生徒に刷り込もうとする教師に対してのカウンターパンチとはなりえても、この教科書の著者たちの主張が絶対的と考えられてしまうのは、逆の意味で問題だろう。「人それぞれ考え方が違う」という悪しき相対主義を主張しているのではなくて、歴史学は研究と研究とをぶつけ合って議論を行い、より正しい見解を提示することがその本質ではないのだろうか、と言いたいにすぎない。
 『新しい公民教科書』の第1・2章のように「暗記科目ではない公民」としての教材として使えるかもしれないが、この部分は主観が出ているだけに使いこなすのは教師の力量次第ということになる。教科書の問題だけではなく、学校での歴史・公民教育の問題についても、これら2つの教科書は難問を突きつけたのではなかろうか。


7月6日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。樋口大輔『ホイッスル!』17巻(16巻はココ)。東京都選抜チームの中で存在を認められて実力を伸ばしていく風祭と、孤立していって伸び悩む水野。それぞれの思いが交錯するなか、ソウル選抜チームと試合をするために韓国へと向かう…。
 この巻の作者の言葉に「この漫画は「サッカー」のマンガではありません。サッカーを通して成長する主人公とその周りの人々のお話です」と書いてあるのを見て、何だか納得してしまった。もちろんこのマンガが描くサッカーそのものの描写が面白くないわけではない。そりゃ『シュート』や『キャプテン翼』のような派手さはないけど。でも、ヒーローたちが活躍するこれらのサッカーマンガと違って、このマンガの主人公はあくまでもサッカーに対する熱意を持つ普通の中学生である。つまり、全国大会優勝とか世界を相手に戦いを繰り広げていくような、頂点を目指すスポーツマンガとは違うということになる。この後で書く、『テニスの王子様』では、都大会レヴェルでこれだけキャラを出してしまって話が全国レヴェルになったときにどうなるのか、と思いこのマンガでも同じような心配をしてしまったが、それは余計なことだということが作者の言葉を読んでよく分かった。強力な敵たちをそれ以上のパワーで倒していく展開のマンガが多い『ジャンプ』の中では、地味でも面白いこのマンガはかなり異質な気がする。

 尾田栄一郎『ONE PIECE』19巻(18巻はココ)。秘密結社バロックワークスの策動によって、アラバスタ王国に反乱が生じる…。いままで「ストーリー展開がよく分からなくなってきた」などと書いてきたけど、この巻ではすっきりとまとまっていて、話の筋がよく理解できた。ストーリーの流れが理解できると、クセのあるキャラたちが非常に魅力的に見えてきて俄然と面白くなる。

 冨樫義博『HUNTER×HUNTER』12巻(11巻はココ)。執念で幻影旅団を追うクラピカ。しかし、その存在をついに幻影旅団たちも突き止め始める…。この巻の主役は主人公のゴンたちではなく、完全に幻影旅団の方だろう。幻影旅団のキャラが立ち始めて、それぞれの絡みも緊張感や味が出てきて、どんどんと面白くなってきた。先が楽しみ…なんだけど、このマンガは『ジャンプ』の中でも休載率がピカイチやからなあ。

 許斐剛『テニスの王子様』9巻(8巻はココ)。『ホイッスル!』のところでも書いたけど、都大会予選レヴェルで、これだけ色々と癖のあるキャラを出してしまって、後の方に特色のあるキャラクターを登場させることが出来るのだろうかと、余計な心配をしてしまった。

7月7日

 EMERALD RAIN「BROKEN SAVIOURS」(1998年)を中古CD屋で買う。カナダのグループでHAREM SCAREMっぽいとよく言われているようだが、HAREM SCAREMというよりは、むしろHAREM SCAREMのメンバーがプロデュースをしたDOCTOR ROCK AND THE WILD BUNCHやFIOREに近い感じ。ちょっとマイナーっぽいところがそう感じさせる。決して悪くないのでヴォーカルハーモニーが散りばめられたメロディアス・ハード・ロック好きは買って損はしないだろう。


7月8日

 露木まさひろ『占い師!』(社会思想社、1993年)を読む。図書館でぶらぶらと棚を眺めているときに見つけて、目次を読んでなんとなく面白そうに感じたので借りてきてみた。占い師のルポを行いながら、占いの歴史を交えつつ、現在の社会と占いの関係を述べる。全部で500頁にも及ぶ本なのだが、まとまりが悪い。色々と占い師を取材しているのだが、それを羅列しているだけという印象が拭えないし、占いの歴史に関する記述が唐突に挿入されている感じもあり、非常に読みにくい。その歴史に関する記述も、巻末に参考文献は挙げられているものの原典が明記されていないので、どこかまでが他人の見解で、どこからが自分の意見かが判別できない。さらにいえば、現代の占いの兆候から著者なりの分析を提示しようとしているのだが、その土台をなす著者の基礎的な考え方があまりにもいい加減すぎる。例を挙げるときりがないのでひとつだけ上げると、本格的な西洋占術が日本に定着しない理由が「東洋占術に比べ、曖昧さが少なく、逃げ道がないため、傲慢で自分勝手な日本人の心情に合致しないからである」(390頁)ってあるが、後半部分は単なる主観であって、そういう自らの主観に依って、世の中を説明するのではなく、色々な事例を通じて主観を説明するのがルポっていうものじゃないのだろうか。記録としては役に立つにしても、それ以外は面白みのない本だった。

 ちなみに、ここからは個人的な今日の出来事の業務連絡めいたものを。私たちの研究室の男性陣は女性陣を駅まで見送って、野郎だけでファーストキッチンでお茶していたのだけれど、他のみんなはその後どうしたのだろうか? かなり酔っぱらいが多かったのでどうなったのか気になるんだけど。


7月9日

 さいとうたかを『サバイバル』(小学館文庫)1〜4巻を読む。友達と洞窟を探検していた少年・サトルが、突然の大地震に襲われて外に出てみると、そこは見知らぬ孤島であった。やがて、地震と大津波よって天変地異が引き起こされたことが判明し、サトルは自然の中で必死で生き抜いていく…。4巻まで来て、サトルは生き残りに人々に出会っては、その人が死んでいくという目に遭いながら、東京までやって来て富士山へと向かっているところ。『ドラゴン・ヘッド』に似ている(といっても『ドラゴン・ヘッド』の方が後に書かれているのだが)が、『ドラゴン・ヘッド』のような狂気じみた展開があるわけではなく、オーソドックスなサバイバル冒険ものとして楽しめる。雰囲気は梅図かずお『漂流教室』に近い感じ。


7月10日

 講談社選書メチエ編集部編『学問はおもしろい』(講談社選書メチエ、2001年)を読む。主に人文系の研究者たちが自らの学問との出会いやその思い出を語る。別冊宝島『学問の鉄人』(1997年)と同じような企画だが、他者によるインタビューを再構成したドキュメント仕立てだった後者と違い、こちらは著者自らが書いている。しっかりした取材記事が多かった『学問の鉄人』に比べ、こちらは一人あたりの分量が短く、単に思い出を書いたような文章も見られ、あまり楽しめない。それぞれの著者にとって面白い学問を語っているのであり、その面白さが読者に分かる本ではないような気がする


7月11日

 津田雅美『彼氏彼女の事情』(花とゆめC、白泉社)11巻を読む(10巻はココ)。今回の主役はつばさと一馬。親同士が再婚することによって、血の繋がらない家族となったつばさと一馬。つばさは一馬を慕っていつもくっついているが、人気インディーズグループ「陰陽」のヴォーカルとなった一馬が音楽へとのめり込んで、自分だけの世界へと浮遊していくことに強い不安と嫌悪を感じるようになる。同時に、一馬はあるきっかけからつばさを「オンナ」として意識するようになる…。
 有馬&雪野編は今回もお預け。この人のマンガで事件が起こったり感情が揺れるシーンを読んでいると、切なくなるというよりも苦しくなるような感覚に襲われる。絵の背後に空間が空き気味なのがこの人の画風なのだが、2人の心が離れて行ってしまう過程が描かれているこの巻では特に、その画風が2人の心の透き間の描写を演出し、読んでいて苦しくなるような感覚を倍増させていると思う。


 士郎正宗『APPLESEED illust&data』(青心社)を読む。イラストと色々なデータが載った本…と言いたいところだが、この本はちょっとひどい。イラスト部分については知らないけど、データ部分については以前出た『APPLESEEDデータブック』の完全な使い回しである。一種の詐欺ではなかろうか。


7月13日

 広田照幸『教育言説の歴史社会学』(名古屋大学出版会、2001年)を読む。教育に関する色々な言説を扱った論文を集めたもの。後半部分は同じ著者による『日本人のしつけは後退したか』を学術的にした論文も収められている。教育の語られかたや現代の教育が昔に比べて衰退しているという、安易なステレオタイプに対する批判を、明治・大正期以降の教育の歴史や統計データをもとに問い直す。
 「教育的」という言葉が、「教育の/に関する」という意味合いを排して、昭和初期には規範性を帯びた言葉として批判不能な善のイデアとしてのイデオロギーを強めていったとする指摘をはじめとして、随所に興味深い見解が示されており、優れた研究であると言えよう。
 ただし、巻末に収録された補論を読んで、優れた研究者が優れた現状改革者たりえるわけではない、という感想も同時に持った。補論には新聞に掲載されたいじめ・子育て・日の丸と君が代に関して著者が新聞に書いた記事も収録してあるのだが、気になったのは一番最後の「朝日新聞」に掲載された記事である。ここでは、国民・国家を脱したグローバルな社会を作ることを目指すべきであり、国家・国旗法は「「国民として振る舞うこと」を求める圧力の高まりである」(379頁)としている。
 別に日の丸や君が代に関することをここで述べる気はないが、国家・国旗法が「国民として振る舞うことを強制する」という一面があるとしても、今まで「国家・国旗に反対することを強制する」教師がいたということも事実だろう。日の丸・君が代のような国民国家的なものとらわれずに、グローバルな秩序を作るべきであり、そうすれば全体主義がなくなる、といったような見解を取っているような気がするが、グローバルであることを強制する雰囲気が出てくる危険性を指摘する必要はないのだろうか。G.オーウェル『1984年』(ハヤカワ文庫)でも、世界は3つの国に統合されており、その中での全体主義の恐怖が描かれている。つまり、これまでの言説を洗い直すことに対しては、緻密な分析を行い慎重な態度を取るのに、現状の改革に対してはオポチュニストめいた発言をしているように思えるのだ。
 たいした論文も書いていない自分のような人間が偉そうに言う資格はないのだけれど、研究者として誠実な態度を取ることと、その研究を土台にして時代を作っていく資質は別物なのかな、と感じてしまった。


7月14日

 黒田日出男『姿としぐさの中世史』(平凡社、1988年)を読む。中世の絵巻物や絵図といった絵画史料を用いて、中世の風景や生活を読み取ろうとする。いわゆる社会史的な研究であるが、文字史料だけで行われている研究よりも、中世の生活の具体像が目に見えて分かるため、素人にも理解しやすい。史料的な限界があるとは思うが、社会史研究に非常に有効な手法だと思うので、豆知識的な研究に陥ることなく続いていってほしい分野だと思う。
 ふと思ったのだが、日本以外の場所に絵巻物に似た史料は存在しているのだろうか? 一枚もしくは複数の絵画で物語になっているものは見たことがあっても日、物語となっている続き絵っていうのは目にしたことがないような気がするので(これについては全然知識がないのでそういう慣習のある地域があったらゴメンナサイ)。もしかしたら、何百年後かには現代のマンガも日本の風俗を読み取る史料となるのだろうか?


7月15日

 前川たけし『ブレイクショット』(講談社漫画文庫)12巻を読む。ジャンプボールに天才的なセンスを持つ高校生・織田信介が活躍するビリヤードマンガ。昔このマンガを読んだとき、ビリヤードのプロはこういう技を使いこなすのだと信じてしまい、プロの試合を見て全然派手じゃないとがっかりしたことを思い出してしまった。強烈なショットで自分の手玉を破壊することはともかく、その破片を的玉に当ててポケットに入れてしまう、主人公のライバル・加納涼二の必殺技「ショットガンショット」。いくら何でもこんなの狙って出来ねえよ、などと突っ込みながら読んでしまった。


7月16日

 小林よしのり『新・ゴーマニズム宣言』(小学館)10巻を読む(9巻はココ)。今回は特に教科書問題の話題が中心。『新しい歴史教科書』に関する個人的な見解は以前に書いたとおりであるが、この本を読めば、相当に配慮したがゆえに過激なものを期待した人が読めば拍子抜けするような内容であったことが分かる。相変わらずスリリングでパワフルな読み物であり、闘争の書(何か言い方が左翼っぽいな)として楽しめる。
 ところで、オビタタキに「200万部突破」と書いてあるのはちょっと不思議だ。今まですべての巻数発行部数としたら少なすぎる気がするし、この巻だけの刊行部数としたら多すぎるような気がするので…。


7月17日

 山本英二『慶安御触書成立試論』(日本エディタースクール出版部、1999年)を読む。一般的に1649(慶安2)年に成立したとされる「慶安御触書」とそれに関連する文書を精査に読み直し、その存在を再検証する。「慶安御触書」そのものは江戸期の文書として確認しうるものは存在せず、17世紀半ば頃に甲府徳川領で成立したと見られる「百姓身持之事」がその内容と似通っている最古のものであることを確認する。その結果として、「慶安御触書」は慶安年間に幕府の法令として発布されたのではなく、教諭書としての性格を持つ「百姓身持之事」を源流として、信州から北関東・東北地方へと伝播し、やがて天保の大飢饉の中で民心収攬のために「慶安御触書」という名称で採用されるに至ったとする。それが幕府法令としてみられるようになったのは、近世期には法令を印刷すべきではないという観念が存在したから史料として表れなかった、と近代以降に見なされた背景があるとする。こうした考えに基づき、江戸期の法令と見なされたものが様々な印刷物に活字化された近代以降、特に明治政府の編纂作業によって、その存在が疑われることなく受け入れられるようになったとする。
 「慶安御触書」という1つのテーマについてもの凄く丹念に史料を追究しており、実証史学のお手本のような本。その議論の正否については日本の古文書の読解能力がないので何も言う資格はないが、終章において「慶安御触書」が近代以降にどのように位置づけられてきたのかを記している箇所が個人的には興味深い。これによると、終戦直後の歴史学では、唯物史観のもとで封建制成立の中に「慶安御触書」をいかに位置づけるのかという観点からその研究がなされ、存在そのものを疑うことは行われなかったらしい。歴史学もまた、時代の潮流にとらわれる学問であり、また常にその解釈が変わり続ける学問であると言えるだろう。


7月18日

 野中英次『魁!クロマティ高校』(少年マガジンC、講談社)2巻を読む。1巻はバイト先で意外なほど売れて、結局読めなかったのだが、ギャグマンガなので途中から読んでも分かるかと思って読んでみた。高校生を主人公とした不条理タイプのギャグマンガであり、それなりに楽しめた。最後の頁の一番下に、大きめの字でまとめっぽいツッコミの言葉が書かれているのが、ちょっとした特徴と言えるかな。


7月19日

 T.ヴェブレン『有閑階級の理論』(岩波文庫、1951年)を読む。原著は1899年であり、いわゆる古典と言われるような書だが、読んだことがないので目を通してみた。西欧・日本においては、封建制時代にはいると生活維持のための労働を行う女性と生産活動を行う下層階級のそれぞれから乖離して有閑階級が生まれ、政治・軍事・学問などに従事するようになったとする。そして、有閑階級は自らの地位を顕示するために、富を所有するだけではなくそれを積極的に消費することによって示すようになったとする。
 なんとなくどこかで聞いたことのある話が多いように感じるのは、この本が目新しいことを語っていないからではなく、この本から借りて自分の物言いに利用している言説が数多く存在するからだろう。他の人を通じて知らず知らずのうちにヴェブレンの見解に触れていることは、ヴェブレンの主張が現代の評論家や知識人にとって利用しやすいものであることを示していると思う。というか、現代文明の批判として用いやすいステレオタイプになってしまっており、ヴェブレンを引用することが自分の意見を立派に見せる一種の道具となっているのではなかろうか。その意味で、有閑階級が古典的な学問や言語を尊重しようとする現象について「書く場合でも、話す場合でも、優雅な言葉づかいは、名声をうるための有効な手段である」(367頁)分析している言葉どおり、本書も「名声をうるための有効な手段」として使われてしまっていると言えよう。


7月20日

 青山剛昌『名探偵コナン』(少年サンデーC、小学館)33巻を読む(32巻はココ)。コナンの存在が黒の組織にかなり突き止められつつある場面が結構描かれており、そろそろ佳境にはいるのかな、という雰囲気。さて、『サンデー』の側は、無理に続けることをせず、この人気連載を終わらせるのかな?

 あだち充『いつも美空』(少年サンデーC、小学館)5巻。この巻で完結…というか何なんだ、この終わり方は。「これは日本人としてはじめてアカデミー女優賞に輝いた少女の物語である」みたいな始まり方をしておいて、ちょっとした超能力を持った仲間と共に、同じような超能力を持った悪しき人間と戦う物語になり、その少年と同じ芸能界に入って、その少年を倒して終わり…。主人公の少女の役者としての能力の素晴らしさを描いたわけでもなく、戦いを描いたものとしても中途半端。こんなマンガ、名もない新人が書いたら即打ち切りだろう。これを「味がある」などとは決して言いたくない。売れている漫画家はこんな行き当たりばったりの適当なものを描いても許されるのだろうか。(しかし、あることだけは、面白がらせてくれた、詳しくはココを参照)


 皆川亮二『ARMS』(少年サンデーCスペシャル、小学館)18巻を読む(17巻はココ)。キースシリーズ長兄・キース=ブラックの精神は、実は彼が殺した自分の産みの親キース=ホワイトに支配されていた。彼の策略によって高槻は自分の手で愛するカツミを殺してしまい、破壊者ジャバウォックの力に身を委ねてしまい、世界に破滅の危機が迫る…。さて、そろそろクライマックスのようだ。どうでもいいけど、地球を破壊するほど威力を持つ「力」というのが出てしまうと、それを越える「力」を描きにくい気がする。このマンガでも、もうすでにだいぶ前から地球を破壊する「力」同士の戦いが続いているからなあ。


7月22日

 上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書、2000年)を読む。カルチュラル・スタディーズという言葉は聞いたことがあるが、実体がよく分からないのでこの本を読んでみた。カルチュラル・スタディーズは日常生活・社会生活における様々な問題を、その時代や場所などの特定の文脈に基づいて実践的に分析を行い、その問題解決のための方向を示すものであるとする。
 先に書いたように、カルチュラルスタディーズというものが、どういうものかよく分からないので読んでみたのだが、そういう初心者向けの入門書としてあまりお薦めできる本ではないような気がする。まず、カルチュラル・スタディーズの実体がよく分からない。サブカルチャーまで含めた様々な事象を取り上げるとしているが、それは「社会学サブカルチャー論」とどこが違うのかが、本書を読んでもよく分からないのだ。カルチュラルスタディーズの歴史を扱ってる第1章でも、カルチュラル・スタディーズそのものよりも「〜はカルチュラル・スタディーズに大きな影響を与えた」といったような表現が多く、カルチュラル・スタディーズそのものの研究がどうだったかがあまり取り上げられていない。
 さらに著者たちのカルチュラル・スタディーズに対する態度もあまり納得できない。カバーには「体制的なものと反体制的なもの、権威の中心と外側、といった二項対立を突き崩しながら文化と政治の関係を考える」とありながら、文中には「日の丸や君が代の法制かと、それに伴う日常生活における管理や政治的反動化を真摯に批判し、うちくだこうと努力する研究者や大学人が増えてきたことはとてもいいことである」(244頁)とある。これではカルチュラルスタディーズは反権力の道具でしかない。カルチュラル・スタディーズはニューレフトと深い関わりがあるそうだから、仕方がないのかもしれない。しかしながら、学問を持って自分の主張を訴える道具にすることは別にかまわないのだが、この主張の矛盾がどうにも腑に落ちないのだ。
 つまるところ、カルチュラル・スタディーズも学者にとっての新たな飯の種でしかないのではなかろうか。それもまた別に悪いことではない、とは思う。ただ、本人たちは飯の種だと意識せずに、真剣にこの学問の有用性を訴えているように見えるから、どうも釈然としないのである。


7月23日

 楳図かずお『14歳』(小学館文庫)1巻を読む。近未来、現在の地球上に生きている動植物は絶滅していき、バイオ技術によって合成された動植物が生存していた。そして、ある科学者はチキン培養液の中から、知能を持ち人間のように歩く鳥人間が創り出されているのを発見してしまう。鳥人間はチキン・ジョージと名乗り、人間への復讐を誓う。時は流れ、そして、地球上に緑色の人間が生まれ始め、チキン・ジョージは植物の呪いであると告げる…。
 前から読もうと思っていたけど、なかなかまとまった形で手に入れられそうになかったので、読んでいなかった作品がついに文庫化。これは嬉しい。まだまだ始まったばかりで、プロローグ的な展開だが、世界の破滅していく様を描いている梅図流近未来SFが、どのように進展していってどのような最後を迎えるのかが楽しみ。


7月24日

 岩井淳『千年王国を夢みた革命』(講談社選書メチエ、1995年)を読む。17世紀イギリスの清教徒革命において千年王国の思想がいかなる影響を与えたのかについて見ていく。千年王国思想は既存の国家を打ち倒し神の千年王国実現のために国王の処刑を不可避のことであると断じたり、保守化するクロムウェル政権を攻撃して革命を押し進める原動力にもなったとする。また、千年王国思想はアメリカに移住したピューリタンの間にも流布しており、アメリカ・イギリス両国間のイギリス人の間での知的な相互作用も生じていた。こうしたことから、千年王国思想は狂信的な妄想ではなく革命的な思想としての役割を果たしたと主張する。
 近代的な概念の誕生の背後に、千年王国思想という現代人から見れば非合理な思想もあったことが読み取れる。ただ、本書の多くの章では個々の思想家たちを取り上げて考察するスタイルを取っており、史料上の制約で仕方がないのかもしれないが、清教徒革命の進展との絡みが少し分かりにくいような気がする。

 久しぶりに団欒の食堂を更新。「「アデランスのヘアチェック広告」の法則?」


7月25日

 日高万里『世界でいちばん大嫌い』(花とゆめC、白泉社)12巻を読む(11巻はココ)。扇子と徹がお互いの好きという気持ちをついに確認し、神谷もまた真紀への憎しみから解放されつつあり、モデルのバイトをした万葉は美容師になりたいという自分の将来について悩みつつあった…。さて、この巻でも憎しみが昇華いていった過程が描かれているのだが、これから先の展開はどうなるのだろうか? 終わるのか、それとも新たな登場人物とそれにまつわる憎しみが出てきて続くのか?

 山田南平『紅茶王子』(花とゆめC、白泉社)14巻。最近読み始めたマンガ。高校で紅茶同好会を開いている奈子(これで「たいこ」と読ませるのは無理があるような気が…)が、偶然行った行動は異世界から紅茶王子を呼び出す儀式であった。紅茶王子は呼び出した主人の3つの願いを叶えるまで主人のそばに仕える慣わしがあった…という学園もの。現在4人まで紅茶王子が登場して、この巻では主人を死にしに至らしめたため封印された「ダージリン」の紅茶王子が、実は奈子の父親に仕えていたのではないか、という謎に関する展開が中心。
 紅茶の王子の設定やそれに関する矛盾は突っ込みたくなる部分もあるのだが(なんで他の人ではなく主人公の周りに紅茶王子が固まって存在ししているのか、など)、そういう部分は置いといて読む気になるのは、このマンガが和みながら楽しめるからであろう。あと、絵が綺麗なのもイイ。わりと書き込んであるのにすっきりしていて読みやすい。


7月26日

 広岡守穂『「豊かさ」のパラドックス』(講談社現代新書、1986年)を読む。近代の産業社会においては業績主義が採られており、その中で高い得点を上げることが出来なかったものは、職業を通じて自己実現を図ることが出来ないために、消費活動によって自由を享受しようとする、と述べる。
 読みやすい現代社会の解説書ではあるが、目新しいものではない。こういう本は生モノなんだなと実感させられるのが、各章の冒頭で取り上げられている著者自身の最近の経験談。たとえば第1章の冒頭のフレーズは「ギャルたちのイブ・イメージ」とある。「ギャル」と書いてある時点で現代を読み解こうとしているのに古臭さを感じてしまう。
 現代は保守化が進んでいるというのも、まあよく見られる分析だし、別にどうということもない。ただ、恋愛と結婚がこうした構図からの脱出口と締めくくってあるあたりは、引いてしまうね。職業による自己実現が出来ない場合の最大の逃げ道こそが恋愛による陶酔なんじゃないの?


7月27日

 かわぐちかいじ『ジパング』(モーニングC、講談社)4巻を読む(3巻はココ)。死者を出さずにアメリカ海軍をガダルカナルから撤退させようとする「みらい」に対して、日本海軍と共に撤退したはずの草加は、ガダルカナルの戦場へ戦艦「大和」と共に帰ってきた。草加を責める門松に対して、草加は南海からの日本海軍の撤退を明言しつつ、大日本帝国でもなく無条件降伏の屈辱から始まった日本国でもない「ジパング」という新たな国を作る、と宣言する…。
 ついにこのマンガのタイトルの意味することが現れ始めてきた。ここまでは史実に則ってそれをアレンジすればよかったけど、歴史上の流れが変わり始めたここからは、ストーリーを自分自身で作り上げていかねばならない。単なる戦記物として読者のカタルシスを満たすだけのマンガになるか、そうでないものになるのかは、ここからのストーリー展開次第だろう。


7月28日

 立花隆『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そして僕の大量読書術・脅威の速読術』(文藝春秋、2001年)を読む。『週刊文春』に連載中の「私の読書日記」をまとめたものに、読書論と『捨てる技術』批判を加えたもの。「私の読書日記」は書評であるが、取り上げている本に読む価値があるのかどうかを、簡潔にまとめた本の内容といっしょに紹介している。かなりの数の本が紹介されているが、簡潔にまとめてあるがゆえに自分が読みたいなと思う本を色々と選べ便利だと思う。
 読書論についても共感が持てるところも多くあった、というか自分の考えを再確認することが出来たような気がする。ただ、紙の本は電子メディアに勝るという部分で少し気になったことがある。確かに本はパラパラめくって自分のほしい情報をさっと見つけることが出来る点では電子メディアに勝っていると思うが、分野によって、たとえばこの本がやっているような書評ならば、電子メディアの方が情報の新しさや、検索の速度は落ちても便利さでは上回るような気がする。
 それとSFチックな話になるが、人間の体の中にチップか何かが埋め込まれて、コンピューターと脳を直結するようなシステムによって、本をパラパラめくるという作業を感覚で行えるようになる日がもしかしたら来るかもしれない。まあ、そんな日はまだまだ来ないとは思うけど。


7月29日

 古谷実『ヒミズ』(ヤンマガKC、講談社)1巻を読む。実を言うと、この人のマンガをじっくり読んだことはない。『行け!稲中卓球部』は面白いと思うんだけど、なんとなくピンとこなくて(というかあんまり笑えなくて)途中で読むのを止めたし、『僕といっしょ』は読んだことがない。悔しいけど、私にはこの人のギャグを受け止めるセンスがないということなんだろう。ただ、このマンガのオビに「笑いの時間は終わりました…これより不道徳の時間を始めます」とあったので読んでみることにした。
 自分を選ばれた人間だと考えるものに対して強い怒りを抱き、自分自身も普通の人間だと考え、中学卒業後には母親の経営するボート小屋で働こうと考えている住田。しかしながら、母親は男と駆け落ちし、平凡な生活を送れなくなっていた…。
 読んでいて、「痛い」マンガ。普通に生きることを望み、人生に勝負をかけず夢を持たず「俺は一生誰にも迷惑をかけないと誓う! だから頼む!! 誰も俺に迷惑をかけるな!!!」と吐き捨てる住田に、作者お得意の異常な人物(と夢を持つ「普通の人」)が絡んでくることによって、普通に生きることを望む住田の方が変わっているように見えてきて、奇妙な感覚に陥ってくる。さてどういう風に展開していくのか? このまま気怠い日常を描くのか? それとも不条理な展開へと持っていくのか?


7月30日

 板垣恵介『バキ』(少年チャンピオンC、秋田書店)9巻を読む(8巻はココ)。ドリアン対愚地独歩。ドリアンの催眠術にかかりながらも、その幻影に惑わされず自分の戦いを貫いた独歩が勝利する…。ところで、ドリアンが烈海王と同じ武練場を飛び出たのが40数年前ということは、ドリアンは一体何歳なんだ? でもまあ、スペックも本当は80歳過ぎの老人だったから、このマンガの中では別におかしくはないのか(また突っ込んでしまった…)。


7月31日

  一橋文哉『闇に消えた怪人』(新潮文庫、2001年、原著は1996年)を読む。副題に「グリコ・森永事件の真相」とあるように、結局のところ真犯人が分からずじまいだった「グリコ・森永事件」を綿密な取材をもとに再構成するもの。原著は1996年に出ており、その本編に原著出版後に書いた文章が加えられている。犯人検挙に至らなかった背景に、第1に警察内部における捜査方針の食い違いと捜査ミス、第2に江崎グリコの内部事情とお家騒動、第3に政財官界に隠然たる勢力を持つ団体による圧力の問題があったとする。著者は、犯人が家族のような結束を持つグループであり、最初はグリコに強い恨みを持つ人物がリーダーであったが、後にその人物がいなくなり金銭の奪取が主たる目的へとシフトしたのではないかと推測し、さらには実際には企業と犯人グループとの間で裏取引があったのではないかという仮説も提示する。
 今から見れば、挑戦状や大捕物など、著者が言うように「劇場型犯罪」としてそれまでの犯罪に対する常識を覆したものだが、個人的には自分が中学生のころに地元で起こった事件として思い入れがあり、一気に読んでしまった(ただ、こんなにも自分の地元近辺が現場だとは思っていなかったけど)。というわけで、グリコ・森永事件に興味がある人間には一読の価値ありと言えるだろう。
 ところで、挑戦状の文面に広告コピーのパロディめいたものが多いことから、犯人にはコピーライターが含まれていたのではないか、と警察は考えたらしいのだが、あの程度の洒落ならば、気の利いた関西人ならば誰でも出来るのでは?
 なお、警察の内部事情を扱ったものに、久保博司・別冊宝島編集部『日本の警察がダメになった50の事情』がある。


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