竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』(日本の近代12、中央公論社、1999年)を読む。知り合いが「江戸から明治への教育の変化」についてレポートを書いているとのことなので、それにつられて読んでみる気になった。彼女は本当は「文明開化によって何が変わったか」に興味があるそうだが、それは私も興味のあることなので、知りたくなってしまった。読了。旧制高等学校を中心とした教育・教養の変遷が、明治から戦後に到るまで手際よくまとめられており、読みごたえがある。豊富な統計データもうまく活用してあり、非常に参考になった。
学歴エリートの社会的再生産が日本でも起こるはずだったのに、戦争によってご破算になり、逆に教養主義が戦争によって延命して戦後に蘇ったとするあたりは、著者の自分たちに対する一種の皮肉に思えてしまう。浅羽通明氏の言葉を借りて表現し直すと、戦争のおかげで国政を担う知的エリートが滅んでしまって、国を担う一流エリートにはなれなかったのに偉そうにしていた「知のオタク」が、さらに偉そうになった、ということになるのかなぁ。私自身もそこに足を突っ込んでいるから偉そうに言えないのだけど…って、大学教授である著者と、単なる学生である自分を、そもそも同一視したらあかんねんけど。
そういえば、江戸から明治への転換という点では、明治初期に藩校が高等中学校に変わっていったという記述が興味深い。地方レヴェルでの人材育成が、国家レヴェルの人材育成に変わっていき、「地方への郷土愛」から、「国家への祖国愛」へと転換していったのだろうか? 最近読んだばっかりの、江森一郎『「勉強」時代の幕あけ』(平凡社、1990年)に収録されている「『勉強』と賞罰論の時代」という論文は、江戸後期の藩校でも、近代的なテストが導入されているところがあった、と指摘しているし…。と言っても、これは単なる素人の思いつきにすぎないので、専門家からは「勝手な妄想」と突っ込まれそうやなぁ。
日高万里『世界でいちばん大嫌い』(花とゆめC、白泉社)9巻を読む。今さらながら、このタイトルの意味に気づいた。9巻のメインテーマとなっている異母兄弟である沙紀の真紀への憎悪、そして今やお互いに好き合っている万葉と真紀も、昔は嫌い合っていたというモチーフを見てようやく気づいた。そして、そういうテーマは登場人物のほとんどにあてはまるということが分かって、「登場人物それぞれが、嫌いだったはずの人間に惹かれていく物語だったから、こういうタイトルが付いているんだな、このマンガは」とようやく気づいた。愚か者である。でも、ということは、このマンガの中での最大の憎悪感情、つまり真紀への憎悪から、沙紀が解放されたとき、このマンガは終わるのだろうか? それとも、新たな登場人物が登場して、新たな憎悪とそこからの解放の物語が始まるのか? 希望としては、沙紀と真紀の話が終わった後に、エピローグへと向かって欲しいなぁ。長すぎてだれてしまったマンガのはいっぱいあるし。
ところで、私はこの人のマンガを他に読んだことがないので、副題の「秋吉家シリーズD」というのがどういう意味なのか分からない。Dということは、@からCがそれ以前にもあると思うのだけど、それはどういうものなんだろうか。誰か教えて下さい。
あだち充『いつも美空』(少年サンデーC、小学館)1巻を読む。あんまり面白くない。いつものあだち充のスタイルとちょっと違っていそうだったので、少し期待していたんだけれど…。正直言って、あだち充のマンガで「まあまあ面白いかなぁ」と感じたものは『みゆき』(小学館)ぐらいしかない。個人的には、『みゆき』を除くと、どのマンガも設定が違うだけで、何だかマンネリな気がしてならない。
同じ少年サンデー系のマンガでいうと、『うる星やつら』(古いか)や『かってに改蔵』という例があるから、マンネリなマンガが悪いとはいわない。マンネリでも、面白いものは面白いし。けど、基本的に時間が進まないこれらのマンガとは違って、物語が起伏を持って展開するタイプのマンガのはずなのに、マンネリを感じさせてしまうのは、やっぱり良くないんじゃなかろうか。だれか、分かりやすく納得できる言葉で、あだち充のマンガの魅力・面白さを教えて下さい(なんか今日は「教えて下さい」ばっかりやなぁ)。
藤子・F・不二雄『俺と俺と俺』(SF短編PERFECT版3巻、小学館)を読む。文庫のダイジェスト版は読んだけど、全部の短編が収録されていたわけではないので、これからもこのシリーズが楽しみ。SFとして、それほど斬新な話はないのだけど(「ミノタウロスの皿」(1巻に収録)という傑作もあるが)、何だか懐かしい感じがして楽しめる。実は、私はアニメ化されたものを偶然見て、それからかなりの時間が経ってから、文庫版のマンガを読んだのだけれど、やっぱりアニメ化されているものは、それなりに面白いものであることが分かる。例えば、3巻でいうと「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」、「おれ、夕子」、「みどりの守り神」など。
一番気に入ったのは、アニメでも見た「みどりの守り神」かな。雪山に墜落した飛行機に乗っていた少女が目覚めると、周りはジャングルになっていた。何度も苦境に陥るが、その度に植物に命を救われる。やがて、実は人類は、何百年も前に未知のウィルスによって、ほとんど滅んでいたことが判明する。少女は、雪山で仮死状態のまま冷凍保存され続けたために助かったのだった。その間に植物は進化し、自分が生きるために必要な炭酸ガスを、吐き出してくれる人間を含む動物を救うように、意志を持つようになっていた、ということが分かって物語は終わる。このまま時が流れ、人類が植物を脅かす存在になったときにはどうなるのか、という続きがあったら面白いのになぁ。
ちなみに、マンガの内容とはまったく関係ないけれど、巻末に初出一覧が付いているのは、すごく良いことだと思う。愛蔵版とか、文庫化されたマンガって、こういうことに無頓着なものが多いので…。
続けて、小林よしのり『新ゴーマニズム宣言』(小学館)9巻を読む。正直に言うと、ちょっと前まで、「最近は国家とか道徳とかテーマが大きくなっていってるので、昔みたいにもっと身近なテーマでゴーマンかまして欲しい」と思ってたけど、後書きを読んで考え方が変わった。引用すると「以前は「私」的なことにこだわって身辺雑記風に描くことを心がけていたが、どうやら「私」というものを知るためにも「世界」というものに目を凝らしてみることが必要なようである。〔中略〕「私」がどのような世界に生きているのか、どのような世界に投げ出されているのか、世界の変化がどのように「私」に影響を及ぼしうるか、「私」が快適に生きていく上で世界はどのようにあり続けてくれるのが好ましいか、そのためにはとりあえず「私」は今何をどの範囲まで為しておけば将来後悔せずに済むのだろうか、そのようなことまで考えざるを得ない」(187-88頁)。
つまり、小林氏は小さな世界から大きな世界へと飛び出して、大きな世界の中に自分をおいて、そこから物語を紡ぎ出す方へと向かっている。というよりも、向かわざるを得なくなっている。数多くの知識人が、自らを高みにあげて下界を見下ろして俯瞰的に、言葉を換えれば偉そうに、さらに言えば自分が傷つかない位置から書くのに対して、あくまでも自分も一部分に含まれる世界を、同じ高さで描き出そうとしている。ある意味で、橋本治・浅羽通明の両氏に近いスタンスを取っているのだと思う。本当はこういうことこそ知識人がやらねばならないのに、ほとんど誰もやらないから、小林氏がやらねばならなくなっているのだな、と実感した。「世界にいる自分」という視点から、世界を描こうとしないと、他人にとって血や肉となるような言説は、生み出すことが出来ないはずなのになぁ。偉そうに言葉をこねくり回している人たちは、虚しくないのだろうか? しんどいとは思うけど、このまま突っ走っていって、描き続けて欲しい。
中古CD屋で買った、SONATA ARCTICA「ECLIPTICA」(1500円)を聴く。こりゃいいわ。北欧メタル・様式美ファン・ジャーマンメタルファンは必聴じゃないかなぁ。一緒に買った「るろうに剣心・オリジナルサウンドトラック3−京都決戦−」(800円)もいい。ちなみに、『るろうに剣心』の京都編のアニメって、原作付きのものとしては最高レヴェルのものやと、個人的には思うねんけど…って、それほどいろんなアニメを見ているわけではないので、何とも言えないが。ただし、アニメオリジナルのストーリーになると、途端に面白くなくなるのだが。
新保良明『ローマ帝国愚帝列伝』(講談社選書メチエ、2000年)を読む。愚帝を数多く輩出し、暗殺された皇帝も無数に存在するにもかかわらず、帝国としてのローマはなぜ存在し続けることが出来たのかを、6人の「愚帝」の姿から検証する。帝国の中心は「小さい政府」であり、地方レヴェルの行政はその地方の名望家に任されていたため、たとえ帝国中心で騒乱が生じても、その屋台骨は揺らがなかった、という結論は説得力があって示唆に富むし、何よりも「愚帝」という普通の読者にも分かりやすい実例から、ローマ帝国の本質に迫る手法は、専門の研究者による一般向けの本として、非常に優れていると思う。見習わねば。
「Kissだけじゃイヤッ」(読売TV)を見る。島田紳助と熊谷真実が一般人のカップルを招くトーク番組なんだけど、今回のはなかなか笑えた。二人は小・中学校時代は同級生の「男友達」。中学を卒業した後は、ずっと会わなかったけど、7年ほど経ってから再会したときには、片方の男はすでにニューハーフになっていた。そしてもう片一方の男性は、「彼女」に一目惚れ。付き合って2年ほど経つが、男の方は結婚したいけど、女の方はもっと彼にしっかりして欲しいと悩んでいる、という状況。
これを見ていて面白かったのは、「男同士は結婚できるか」ということは、二人の間ではすでに問題になっていないということ(VTRで登場した彼女の母親も問題にしていなかった)。普通のヘテロセクシャルの男女が、結婚前に不安になっているのと同じような感じで、この二人は悩んでいた。男同士が結婚できるか、という問題は、法律上は問題になっても、社会的には問題にならないかもしれない。だって、もともと男として生まれたこのニューハーフの「女性」は、見た目も十分「女性」なんやし。「男同士じゃ子供が産めない」と言う人もいるかもしれないが、すでに橋本治『蓮と刀』(河出文庫)が述べているように、今や子供を産まない夫婦はいっぱいいる御時世なので、そんなことは別に問題にならない。
問題になるのは生物学上の問題だけか、実際に子どもが欲しくなってしまう時が来ても、男は子供が産めないからなぁ、などと考えていたら、以前に新聞で、男でも腸に受精させることによって、子供が産めることが論理的には可能、ということを伝える記事があったのを思い出した。もしこれが本当に実用化するとなると、男と女ってどこがどう違うことになるのだろう?
ちなみに、性転換した女性は精子を体内で作ることが出来るのだろうか? もし出来るとするならば、男女の性差を生物学上の問題だけで判断する言説は、すべて無効になってしまう。つまり、男女の性差による性格の違いを、染色体や遺伝子では説明できなくなる。そうなってくると、男女の性差を決定的に性格づけるものは、J.マネー・P.タッカー『性の署名』(人文書院)が論じたように、生物学上の性差ではなく、その人が属する文化、ということにやっぱりなるのかなぁ。母性本能は女性のもの、父性本能は男性のもの、と言えなくなる時代がもうすぐ来るのかもしれない…。
今の私たちの暮らしに、特に不足しているものはなく、不自由のない生活を送っている。なのに、「楽しいことがない」とか「最近つまらない」などと、私たちがつい口にしてしまうのはどうしてだろう。そんなことを考えながら、荒俣宏『決戦下のユートピア』(文藝春秋、1996年)を読む。第2次大戦中の洋服・グルメ・喜劇などの風俗から、戦時下におけるごく普通の庶民の生活体験を捉え直すしているのだが、なかなか興味深い。戦時中という危機的状況においても、人間は飯を食って、服を着て、糞をしなければならないし、贅沢もしたくなるし、笑いたくなるのであり、何とかしてちょっとでもいいことが起こるように務めていたのだなぁ、と思う。
このころに比べて、今は贅沢になりすぎた、といちゃもんを言うつもりは毛頭ない。その贅沢のおかげで、私自身も快適な暮らしが出来ているのだし。ただ、それでも「つまらない」と感じてしまうのは、あまりに快適すぎて、楽しいという感情が麻痺させられているからか。それとも、楽しすぎるから、麻薬のようにもっと楽しいことを求めるせいか。でも本当は、仕事や学校が楽しければ、そんなに「つまらない」を連発することもないと思うんだけど。仕事が楽しければ、「つまらない」なんて言ってる暇はないぐらいに、忙しいだろうから。ただし、忙しいだけでは、単に「つまらない」時間を無理矢理に仕事や学校の授業で消化しているだけで、楽しくはないだろうが。
バイトでちょっとへまをやらかして、ブルーな気分になってしまった。気晴らしでもと思い、ゲームをしようとする。といっても、我が家にはプレイステーションはあっても、ゲームはほとんどない。そこで、あんまり気は進まなかったが(さらには「いまごろやってんのか」と突っ込まれそうだが)、以前に知人から借りてちょこちょこやっていた「ファイナルファンタジーZ」を再開する。結局、ウータイとかいう町に着いてから、何をすればよいのか分からなくなる。ついに本当にやる気がなくなった。たぶん、このゲームをすることはもうないだろう。
なんでこんなにしんどいゲームなんだろう。ザコキャラとの戦闘がイベントとイベントの間の時間稼ぎにしか思えないし、うざったい。ボスキャラとの戦闘はそれなりに面白いから、いっそのこと戦闘はボスキャラだけにしたらよかったのでは? でも、それじゃRPGじゃなくなってしまうか。
それよりも、ストーリーがどういう展開になっているのか、分からなくなることが多いのは勘弁して欲しい。しかも、一本道のシナリオのはずなのに、である。別に、一本道のシナリオであることを批判しようとは思わないけど、それならばもっとグイグイ引き込まれるようにして欲しい。分かりにくいシナリオが高尚だ、という考えでもあるのかもしれないが、高尚なものが分かりにくいことがあるからといって、分かりにくいものが高尚であるわけでは決してないはずだ。分かりにくい上に、ダラダラと長い。SF版NHKの朝の連続テレビ小説みたい、と感じたが、もしこれを放送したら、視聴率は絶対に史上最低になると思う。SFだからではなくて、シナリオが面白くないからである。
それにしても、楽しむためにしてるはずなのに、なんでこんなに腹が立つほどの苦行を味あわせるんだ、このゲームは? それとも、ゲームに対する私自身の感覚が鈍くなって(遅れて)しまって、ゲームの良さを見いだせなくなってしまったのであろうか…。
気を取り直して、細野不二彦『ギャラリーフェイク』(ビッグスピリッツC、小学館)20巻を読む。美術関係の知識は相変わらず興味深いのだけれど、肝心のストーリーの方が最近楽しめなくなってきた。そういう意味では『美味しんぼ』に近い。料理でいえば、知識はスパイスのはずで、ストーリーこそが主たる素材であったはずなのに、両方ともだんだんとスパイスの方がきつくなってきて、素材がないがしろにされつつあるような気がする(『美味しんぼ』は現在進行形ではなくて、とっくの昔に過去形になってるけど)。