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2000年10月の見聞録



10月1日

 吉村明美『海よりも深く』(フラワーC、小学館)6巻を読む。今のところ、同じ作者による『麒麟館グラフィティー』や『薔薇のために』には到底及ばないと思うけど、そこそこ面白い。この人のマンガのテーマは、個人的にはどれも「心の成長」が中心テーマだと思う。そして先の2つの作品は、そのテーマを見事に描ききって、ハッピーエンドにもかかわらず、思わず涙が出そうになる作品だった。悲しいドラマで泣かせることはできても、希望を感じさせるドラマで泣かせるのは、相当の力量がないとできないと思う。人に嫌われることを恐れ、傷つくことを恐れている、主人公・眠子がどのようにして自分から自分の感情を表に出せるようになるのか、とりあえず先を見ないと、『海よりも深く』の最終的な評価はできないかな。ちなみに、このタイトルの意味がまだ分からないねんけど、すでにそのことを暗示するような話が出てきたのだろうか? どこか見落としたかなぁ。


10月3日

 副島隆彦『ハリウッドで政治思想を読む』(メディアワークス、2000年)を読む。非常に挑発的な本。著者自身も何度も述べているように、狙って挑発をしているのだが。アメリカの映画を検証することによって、その中からアメリカは世界帝国であり、日本を含む世界の諸国のほとんどがそれに従属する属国である、という「『世界基準』では当たり前」と強調する国際政治学の理論を随所で展開する。そして、これに気づかずに、日本国内で偉そうな顔をして知識を披露している知識人を罵倒しまくっている。
 この人の主張には唸らされるものがいっぱいあるのだが、それよりもすごいと思うのは、「世界基準」内部における自分の位置をきっちりと把握して、そこから思想を組み立てていこうとする姿勢であると思う。「恐らく、私が若手評論家としては、日本で一番頭がよいだろう。私はここまで豪語する」(84ページ)と書きながらも、「私は、自分が頭が良いと、うぬぼれて言っているのではなくて、私程度知識や思想の水準は、アメリカなら三流大学を出て、スーパーの店員でもやっているアメリカ人とほぼ同等なのである」(同上)と自分自身の位置を把握している。そして、「私はいつ、打ち倒されるのだろうか。どのようにして、次の世代の優秀な若者たちに乗り越えられていくのだろうか」(85ページ)と自分の切り開いている道を、さらに切り開いてくれるように読者を促している。つまり、この本は著者からすれば、「世界基準」の知識から日本は遅れていることをまず認識し、その知識をきちんと理解して、日本の世界における位置をしっかりと把握し、その上で日本の取るべき戦略を冷静に練ってくれるように、後に続く世代に託した「孤独な戦いの書」なんだろうと思う。
 しかしながら、と私は心配する。この本は結局「孤独」なままで終わってしまうのではなかろうか、と。副島氏が「猿」と罵倒する日本の知識人は、絶対に自分が「猿」と認めないと思うし。というよりも、知識人に一流から三流までのランキングがあることが認識できないだろうな。副島氏が言うように、「自然科学」・「社会科学」・「人文科学」などという「平等」な棲み分けがなされている以上、どの知識人も自分は一流だと思い続けるんだと思う。
 そうではなくて、知識人には一流も三流もいて、自分はそのどこに位置するかを認識せねばならないだろう。そして、一流の知識人は副島氏の言う「世界基準」の知識を持って、世界で戦う知的エリートにならねばならない。三流知識人は三流知識人なりに、知的エリートだというプライドを捨てて、日本という小さな世界でその需要を満たす存在にならねばならないんだと思う。知的エリートの言葉を分かりやすく、かつ必要な形に翻訳して広める長屋のご隠居みたいな存在は、どんな時代でも不要ではないはずだ。一流には一流の、三流には三流の役割があり、それぞれの役割分担と共同が必要であるのではなかろうか。
 小林よしのり氏が、『厳格に訊け』(ヤングサンデーC、小学館)で厳格和尚に言わせた台詞は、これをよく現すのではなかろうか。「『井の中の蛙、大海を知らず。されど空の深さを知る』。大海を知らずとも空の深さを知っていればいい。自分の世界を極めろという意味じゃ」(2巻、14ページ)。自分が二流や三流だと認識して、偉そうに上から言葉を投げつけるのではなく、自分の属する世間の中で、普通の人が普通に生きていくために、どうしたら自分の知識が少しでも役立つかを考える。今の文系知識人に必要なのはこういう生き方なんじゃないかなぁ…。もちろん、なれたとしても所詮三流にしかなれない自分自身も、考えていかねばならないことだけど。

 ただ、内容に少しだけ疑問のある箇所があって、神学と学問(サイエンス)は対立しているという部分(44−45ページ)。副島氏は、ガリレイやニュートンをサイエンティストとみなして、神学に対立する者たちとしているが、村上陽一郎氏の諸著作から明らかなように、ガリレイやニュートンはごりごりのキリスト教徒であり、学問的知識で神の完全さを証明しようしていた。それはサイエンスが勃興した近代初期のことであり、現代のことではないとの反論があるかもしれない。しかしながら、現在の最新の物理学においても、科学的合理主義でどうしても解決できない問題、例えば宇宙はなぜ存在するのかという問題は厳然として存在する。こうした問題に対して、サイエンティスト自身が、サイエンスよりも神学的な方向へと向かう可能性があることは、P.C.デイヴィス『神と新しい物理学』(岩波同時代ライブラリー、1994年)がすでに指摘している。従って、サイエンスと神学は対立しているのではなく、表裏一体の存在であり、見る人の立場によってどちらも表に成りうる存在でもあるのではなかろうか。
 あと、細かいことだけど、映画「スパルタカス」の論評のところで、当時の元老院では名門の大貴族政治家と新興の軍人貴族の対立があった、としているけど、「世界基準」の最新のローマ史の学説では、名門と新興との間に基盤の違いがあったわけではなく、両者が共に大土地所有者であり軍人であったとされているのだが…。まぁ、だからといって本筋の議論が間違っているわけではないので、どうでもいいことだと思うけど。

 そういえば、昨日の産経新聞の夕刊に「日本のハリウッドと呼ばれる太秦」と書かれた記事があったけど、この本を読めば、政治的や社会的な面など様々な意味で、アメリカをコントロールしているハリウッドと、単なる映画撮影所にすぎない太秦を、同等に並べることのアホらしさがよく分かる。


10月4日

 安野モヨコ『ラブ・マスターX』(宝島社文庫)全2巻を読む。これを読もうとしたきっかけは、浅羽通明『大学講義 野望としての教養』(時事通信社)のなかで紹介されているのを見て、興味を持ったため。これに関して思ったことは、長くなりそうなので、たぶんそのうち「雑文の文書庫」で書くことになると思う。
 ここから先は、このマンガを読んでいない人には分からないと思うけど、とりあえず書いておく。登場人物の1人である、オタクっぽい小太りの少年ハミオは、黒魔術の力によって空を飛んで、登場人物の恋愛を断罪しているが、さらには自分自身の姿をも美少年に変えることにも成功している。でも、ハミオ自身が愛する女性の前に現れてエッチをしようとしたとき、ハミオは美少年からもとの小太りの少年へと戻ってしまう。そして、結局は自分自身は恋愛をする当事者にならずに、空中へと舞い上がり、再び他人の恋愛を裁く立場へと戻ってしまう…。
 このハミオのストーリーは、このマンガの中心テーマではあっても、最重要テーマではない。でも、このハミオの行動には、一番考えさせられるものがあった。ハミオの行動が暗示していることは、遙かなる高みから、自分を理想化して論じているだけでは、自分がその当事者になったときに本当の自分との折り合いがつけられずに、逃げ出すことになってしまう、ということではなかろうか。好きになった人のことを思うだけで、ハミオのように空中から眺めて、自分は傷つかない立場にいるだけでは、いつまでも理想化された自分に留まり続けて、不細工な自分がいる現実の中で、成長することができなくなるんだと思う。これは、えらそうな態度で、上の方から人を見下した言葉をはき続ける知識人にもあてはまるんだろうな…(なんか、昨日読んだ本の熱にあてられたような物言いをしているな、俺も)。続きは、そのうちまた…。

 初めて行った中古CD屋で、TNTのベストアルバム「TILL NEXT TIME」を買う。780円だった。安い。この店はなかなか狙い目かも。それはさておき、やっぱりこの頃のTNTは良かったなぁ。“As Far As the Eye Can See”、“Tonight I'm Falling”、“Intuition”なんて、透明感溢れる叙情性と心地よい疾走感がマッチした、北欧メタルの王道を行く名曲やと思うし、“End of the Line”なんてHM/HR史上に残る名バラードやと思うなぁ。ただ、「良かった」と過去形で言わなあかんのが悲しいけど。まぁ、トニー=ハーネルはマーク=リアリと一緒にWEST WORLDで頑張って欲しい。結構WEST WORLDは好きやし(少なくとも、今のTNTやRIOTよりは)。
 そういえば、「TILL NEXT TIME」というアルバム名は、それぞれの単語の頭文字を取るとTNTになることで、やっぱりバンド名とかけてあるのかなぁ? でも、今から考えると皮肉なタイトルだ。このベストアルバムから数年後、このアルバムのタイトルのように「次の機会」に再び現れたTNTは、それまでのTNTと全然違う方向性で曲を作って、ファンを絶望のどん底に突き落としたのだから…。

 知人に探すように頼まれていた、ミスチルのシングルCD(「everybody goes」「Everything(It's You)」「花」)も一緒に買ったので聴いてみる(ちなみに税込みで計315円)。悪くない。アルバム全編通して聴いたとしたら、飽きるかもしれないが。前に別のシングルを聴いたときにも思ったけど、ここのドラムの人って、すごくセンスのある人だと思う。個人的には好きなタイプだ。


10月5日

 『ハリウッドで政治思想を読む』を読んで(詳しくはココ)、アメリカの一般社会はどうなっているのかに興味が出てきた。覇権国家アメリカの影響は、政治・経済のようなマクロなレヴェルだけではなく、家族というミクロなレヴェルでも、「属国」に及ぶだろうから。そう考えて、越智道雄『孤立化する家族−アメリカンファミリーの過去・未来』(時事通信社、1998年)を読んでみる。
 1940年代以降のアメリカではスモールタウンへの忌避から大都市への人口流入が顕著になったのに、1970年代以降は、逆に大都市への絶望から郊外へと人口が流出現象が生じる。この背後にあるものは何かを、「家族」をキーワードにして探っていく。日本でも同じような現象が起こっていることから、やっぱり社会的な面においても、「属国」日本は「覇権国」アメリカと同じような道のりを辿っているのだなぁ、と分かる。ディズニーランドで遊ぶことによって、血縁のしがらみがある「実体としての家族」を離れて、そこに一緒にいる他の家族と紛れることによって、理想の家族のコピーを演じる、という指摘は面白い。楽しいことで感覚を舞い上がらせなければ、血縁のつながりを確認できないし、それに耐えられない、ということになってしまうのだろうか? もしそうだとすると、「楽しい」という感覚で家族全員を麻痺させ続けなければ、家族は崩壊してしまうこともある、ということにもなるが…。


10月6日

 少年ジャンプ系の新刊コミックスと、津田雅美『彼氏彼女の事情』(花とゆめC、白泉社)10巻を読む。一時期『週刊少年ジャンプ』はほとんど読まなくなったけど、また最近読むようになってきた。ジャンプの黄金パターンが新たな形で発展してきているような気がする。
 『彼氏彼女の事情』はちょっとすかされた感じ。「演劇編」が終わって、「有馬編」に入って、急激な展開があると予想していたので…。そういう展開にはそぐわない、和やかな修学旅行が描かれて、ちょっと残念。これは、演劇編の前に入れるべきエピソードだったような気がする。実は密かに、どう結末を迎えるのかが、一番気になっているマンガの1つなので、早く「有馬編」を展開させて欲しいなあ。
 はじめ、このマンガはよくある恋愛ものやと思ってたんやけどね。6巻で見事なまでに裏切られた。もちろんいい意味で。雪野と1つになって幸せを得ようとした、孤独に耐えて生きてきた有馬が、エッチをして本当に1つになった途端、実はお互いが1つではなく、別々の人間だと気づいてしまって、さらなる絶望的な疎外感に陥る、という展開には驚かされた。9巻の最後の少しの文字と小さな絵があるだけで、ほとんど真っ黒な見開きページには、小林よしのり『東大快進撃』のラストの見開きページの全部が黒ベタと同じくらいに圧倒された。その9巻は劇中劇がメインの話なのだが、雪野たちが演じる劇を見てしまって、有馬が自らの精神の崩壊を覚っていく展開も本当に圧巻だった。劇中劇の見事な使い方としては、「ハムレット」のようだ、といったら誉めすぎであろうか(ちなみに、「ハムレット」の劇中劇に込められた真意については、)関曠野『ハムレットの方へ』(北斗出版、1994年)をぜひ味読していただきたい)。
 有馬と一緒になって幸せをどんどんと感じていく雪野と、過去の不幸から逃れるために作り上げた精神が、雪野への強すぎる愛ゆえに、再び壊れていく有馬。この二人が最終的にどのようにして救われるのか、もしくは救われないのか。それを早く読みたい。まぁ今回の修学旅行編で、壊れつつある有馬を、雪野がかいま見てしまったシーンがあるから、これからも深い展開をしていってくれるだろう。楽しみ。

 この前、TNTとRIOTとWEST WORLDのことを書いたけど(詳しくはココ)、今日のラジオでマーク=リアリとトニー=ハーネルが生出演してた。伊藤政則氏がマークに「今、RIOTはどうなってるの?」と聞いたところ、横でトニーがボソッと「It's over」とつぶやいていた。マークは必死で否定してたけど、本当のところはどうなんだろうか?


10月7日

  西部邁『経済倫理学序説』(中央公論社、1989年)山本夏彦『ダメの人』(文春文庫、1985年)を読む。前者はケインズとヴェブレンの検証から経済学そのものを考察し、自らの立場を再確認しようとした書。後者は、エッセイ集。両方とも取り立てて、別に言うことはないかな。予想していた面白さだったけど、予想以上のものではなかった。細かい知識はそれなりに学べてんけど。というか、私が経済学や戦前のことなどについて知識がなさすぎるために、書かれたこと以上の面白さを読み取れないだけなのだが。


10月8日

  『ゲーム批評』の最新号を読む。「ファイナルファンタジー9」と「ドラゴンクエスト7」の特集号だったのだけど、何だかあんまり楽しめなかった。どっちのゲームもプレイしてないから、という理由かもしれないけど、ゲームはここ何年かほとんどしてなくても、『ゲーム批評』は読んでて面白かってんけどなぁ。『ゲーム批評』が面白くなくなったというよりも、前にも書いたように、やっぱり私自身のゲームに対する興味が薄れつつあるのだろうか?


10月9日

 今日は研究会で発表をして、その後みんなで焼き肉を食べに行った。天気予報では「午前中は雨が残るところもあるが、昼から雨は止む」とあり、降水確率も30パーセントだったのに、見事なまでに雨が降り続けた。雨男の本領発揮。
 「雨男」などという、何の科学的根拠もないことを私自身信じたくはないのだけど、どうも本当に、自分が「雨男」であることを認めなければならないようなのだ。別にいつ出かけても雨が降るというわけではなくて、雨が降りそうな空模様(降水確率でいうと40パーセントくらい)のときに、私が外出すると大抵は雨が降ってしまうんだな、これが。
 それでも「雨男」が、人の役に立つこともある。何年か前の夏に、友人の家の近所で野外バーベキューをしよう、ということになって奈良へ遊びに行ったことがある。そのとき、奈良は1ヶ月近く雨が降っておらず、かなりの水不足の状態になっていた。しかし、私が奈良に着いた途端、雲が出始め、ものすごい勢いで雨が降り出したのである。こうして私は奈良の干ばつを救った…のはいいのだが、野外バーベキューは中止になり、その友人の家のガレージで細々と焼き肉を食うはめになったのであった…。


10月10日

 今日からホームページを本格的に作り始める。ちなみに、「2000年10月10日開設」とあるのに、これ以前にも見聞録があるのは、「ホームページを作ろう」と思いたってから、作るのに時間がかかってしまったため。ホームページはまだ始まってないけど、見聞録だけでも書き溜めておこうと思っているうちに、ずいぶんたまってしまった。というわけでよろしくお願いします。

 イーフー=トゥアン『個人空間の誕生』(せりか書房、1993年)を読む。中世から近代における西洋社会において、個の意識がいかにして生じ始めたのかを、食事とそのマナー、家屋、劇場、視覚と聴覚などから論じる。それなりに面白い本ではあったが、これだけでは、なぜヨーロッパにおいてのみ、現在の人権思想につながる思想が生まれたのかについて、説明できないように思えるのだが。時代が進むにつれて、個の意識も発展したというだけでは、ある種の進歩史観のようにも見えてしまう。

 録画しておいた新日本プロレスvs.全日本プロレスを見る。プロレスにはフリークというほどのめり込んでいるのではなくて、たまに見る程度なのだけど、この対決は見逃せない。佐々木健介vs.川田利明の試合は、壮絶だった。お互いの意地が見ているこっちにも伝わってきて、息苦しいほどだった。最後はあっけない終わり方に思えたけど、お互いが本当に力を使い果たしたからこそ、あんな風にしか終われなかったのだと思う。フォールを決めた川田も、マットを這いながら健介をフォールしてたもんなぁ。やっぱり、凄え!


10月11日

 呑みに行く。非常にヘヴィな話題になる。どんな内容かはちょっと書けないが、あまりの内容の凄さにため息が何度も出たし、あきれ果ててしまった。はぁ。
 こういうときは激しい音楽を聴いて、気分をすっきりさせようと思い、中古盤で買ったRAGE AGAINST THE MACHINE「EVIL EMPIRE」(1380円)を聴く。このグループの曲はシングルだけ聴いたことがあったのだが、そこから想像していたほど激烈ではなく、結構あっさりとした音楽に思えた。これならIRON MAIDENの方がよっぽど激しいような気がする。


10月12日

 ちばてつや『あしたのジョー』(講談社漫画文庫)910巻を読む。面白いけど、ボクシングそのものの魅力を描写する点では、『はじめの一歩』の方が上だと思う。『あしたのジョー』は「ボクシング」マンガとして面白いのではなく「マンガ」として面白い。マンガの表現技術が発展していることが、この2つのマンガを読み比べるとよく分かる。

 後輩から借りたアルバムを聴く。IRON MAIDEN「LIVE AT DONINGTON」。やっぱり、いいねぇ。ブルース=ディッキンソンのヴォーカルは、ただうまいだけではなく、カッコイイ。ただ、個人的に選曲がちょっとだけ納得いかないところがあるので、ぜひ現在のラインナップでライヴアルバムを作って欲しい。それと、CDエキストラのボーナス映像を見ようとしたのだけど、なぜか見ることができなかった。なぜだろう?
 IN FLAMES「CLAY MAN」。これもいい。私はそれほど、メロデス系を聴く方ではないのだが、これは本当に聴いていて気持ちがいい。ヴォーカルのデス声も全然気にならない。何といっても曲がいい。他のメロデス系のアルバムは、メロディアスであって、曲調は違っていても、同じような「メロディアスなスラッシュ」のような曲ばかりに思えて、個人的には飽きることが多いけど、これはそんなことないもんなあ。


10月13日

 ちょっと前、強盗殺人犯の裁判を傍聴していた被害者の遺族が、被告に掴みかかろうとしたという、というニュースを見た。この行為は心情的には許されても、法律的には許されない。近代国家においては、被害者の遺族といえども、犯人に復讐して被害を与えれば、犯罪を犯したことになるからだ。何だか釈然としないのはなぜだろうか? そう考えて、以前から読もうと思っていた穂積陳重『復讐と法律』(岩波文庫)を読む。
 古代もしくは部族社会においては、復讐は義務であった。何らかの被害を受けた者は、自分で復讐を行っていた。しかし、国家の組織が整い始めると、復讐に徐々に制限が加えられ、やがて近代になるとともに、私的な復讐は禁止されて、国家が刑罰という形で復讐の実行をするようになった、とこの本は論じる。
 この論理でいくと、復讐は人間に備わった本性であり、それを今の私たちは国家にもぎ取られていることになる。それじゃあ、国家が悪いのか、という論理に行ってしまうと、もっとたちが悪い。それでは、国家の恩恵を色々と受けていながら、国家の悪口を偉そうに言っている人間と、まったく変わらないことになる。だからといって、被害者もしくは被害者の遺族に復讐を認めることは、今さらできないのではなかろうか。今の私たちには復讐はマイナスのイメージを持ってしまいがちだし、復讐は新たな復讐を生むだけで、それではいつまでも果てることなく復讐が続くことになる。今の刑罰にも、私たちの復讐心にも、犯罪者にも、欠けているのは、罪を認め、罪を「赦し」、それによってお互いに成長することなのかもしれない。そして、さらなる不幸は、それを許容する場所も、それを実行しうる精神も、私たちは持っていないことなのかもしれない…(もしかしたら、そのうち続きを書くかも…)。

 折原みと『時の輝き』(KCデザート、講談社)を読む。なんだか読むのが恥ずかしくて(だって普通、男で折原みとを読む奴はいねえよな)、とても読む気がしなかったのだが、ある女の子に「今まで女性向きのマンガをいっぱい読んでるんだから、何で恥ずかしいことがあるんですか?」と言われたので、読んでみた。なぜだか分からないが、やっぱりなんだか恥ずかしい。折原みとの大人版がハーレクイーンのシリーズじゃないんだろうか? どちらも男が入り込めないという点では似てると思うし。


10月15日

 小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 台湾論』(小学館、2000年)を読む。熱い内容であり、面白くもあるのだが、なぜだかモヤモヤした気分が残る。これは『ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』(幻冬社)を読んだときにも感じたことなのだが、その原因がなんとなく分かった。
 ひとつは自分の側にあること。両方とも、「国家」・「日本」・「公」をその中心テーマとしているのだが、こうしたことを論じることができるほど、自分自身が鍛え上げられていないため、その議論に参加することがまだできないのだ。そのために、何だかモヤモヤしてしまう。
 小林氏は「公」よりも「個」を重視する人を、常々批判している。私もある意味ではこれに賛成だ。人間は誰にでも素晴らしい才能があるわけではなく、明らかに人ごとに差がある。それぞれの人間の「個性」を大事にすべき、と言うならば、ヒトラーやスターリンは誰にも真似できない「個性的」な「虐殺」をしたのだから、賞賛しなければならないなることになる。「個」を尊重する場合には、このような危険をも認容せねばならないのに、ほとんどの「個性」を重要視する論者は、こういう危険については無視して、素晴らしい面だけを強調するのだ。これでは思想の不徹底である。
 それでも、自分の能力を鍛え上げていった「個」は、やはり重要だと思うのだ。小林氏は自分のマンガの才能を徹底的に鍛え上げることによって、マンガによって日本の言論界に突撃していって、あっという間に勢力を広げていった。つまり、「個」というだけ素晴らしいのではなく、いかなる「個」を持っているかが大事なのではなかろうか。『ゴーマニズム宣言SPECIAL 脱正義論』(幻冬社)の中で、浅羽通明氏が使っていた「職能」という言葉で言い換えると分かりやすいだろう。小林氏はマンガ家の職能を極めていって、「国家」を血が通った自分の言葉で語りうる存在となり得たのだ。鍛え上げられた職能を持たない「個」が、「国家」を語ったところで、それは空疎な言葉である。小林氏自身も次のように語っている。
 「自分自身を客観化して語れない者、自分を語る言葉を持たない者が、いきなり天下国家だけを語っているとき、わしはそのものに不自然さを覚える。共産主義者やサヨク小児病だって、自分の身の丈飛び越えて、いきなり世界大ばかり語りたがるからだ。自分の見えない「国家語り」は不気味である」(『新ゴーマニズム宣言』第9巻第112章)
 今の私が「国家」を語ったところで、「不自然」で「不気味」な言葉しか紡ぎ出せないだろう。まずは、自分自身の職能を鍛え上げていき、「国家」を語りうるだけの「個」にならねばならないだろう。
 これが私の側の理由。もう一つは…と思ったらちょっと長くなってしまったので、そのうちいずれまた。やっぱり「職能」と「国家」に関係することなのだけど…。


10月16日

 「就職活動の影響で、大学の授業への出席率が落ちる傾向が見られる」というニュースを見た。就職協定がなくなって、就職活動の開始が早まっているせいらしい。また、授業そのものが開講できないケースもあるという。最後に、大学側が企業側に配慮を求めるように意見を出したと結んでいた。
 はっきり言って、あほらしいニュースだと思う。大学院生の俺が言うのも何だけど、大学の授業が学生にとって役に立つものだったら、就職活動していようが何をしていようが、出席してるっつーの。今や大学は、企業に就職するための身分証明書を作る機関にすぎないことが、あからさまに暴露されただけで、別に騒ぐほどのこともない。就職活動に力を入れる学生が増えた方が、就職率やランクの高い企業への就職者が増えて、大学としては良いことになるんじゃないのかなあ?
 じゃあ、大学の授業は何のために存在するのか、ということになるのだけど、高尚な学問を学ぶためではないことだけはたしかだ。高尚だと思っているのは研究者や、「勉強」を熱心にしている学生だけ。普通の学生にとっては、友達と会う場所、もしくは時間を潰すための場所にすぎないだろう。あとは、単位を取るためかな。
 そういう現状を認識できない先生っているからなぁ。そういう人の授業は、自分の教えてることの素晴らしさを、自分に酔いながら説明し、素晴らしさを認めようとしないと攻撃してくることが多いから、一番迷惑する。大学の授業が出来ることといえば、普通の人が普通に生きていて日常的ではない事件に遭遇した場合、つまり常識だけでは判断できない状態に陥ったときに、そうした事件にどう対応するかのヒントを、もしくはどう考えるべきかのアイディアを与えること、ぐらいじゃないのかなあ。まぁ、長屋のご隠居か講談師みたいなものだと思う。
 世の中には役立つものだけが存在しなければならない、というわけではないから、大学の授業にもそれなりの意味はあると思うけど、普通に生きている限り授業なんぞ役に立たないのでは、という懐疑心すら持てないんじゃねぇ…。


10月17日

 白川静『中国古代の民俗』(講談社学術文庫、1980年)を読む。前半部分は『初期万葉論』の手法を古代中国に応用して、歌謡から古代の呪術世界とその解体を読み取る。後半部分はその呪術社会における諸民俗を論じる。今の私たちの常識で古代社会を読み取ろうとすることには、危険があることがよく分かる。自然の美しさをうたった叙景詩でも、古代人にとっては自然や神々へ訴える役割を持つ呪歌だったのだ。非文献の世界(常民社会)のみに史料を限定したために、歴史学や社会学から自らを遠ざけてしまった、柳田民俗学の問題点をも指摘する。
 個人的にひとつ興味深かったのは、古代の中国人にとって「鷹」は神意を告げる存在であったことを、金文や甲骨文の漢字から明らかにしていること。古代ローマにおいても、鳥占官Augurという役職が存在しており、鳥を見ることによって、吉兆を占っていた。どちらの社会においても、鳥は空を飛ぶがゆえに、天空に存在する神(々)の意志を伝える動物と考えられていたのだろうか? 他の色々な古代世界においても、鳥はそのような意味を持っていたのだろうか?


10月18日

 ロジェ=カイヨワ『遊びと人間』(講談社学術文庫、1990年)を読む。何だか釈然としない感じを受ける。遊びを4つのカテゴリに分類し、古代の「眩暈」から近代の「競争」への遊びの変遷を主張していることについては、「なるほどそうなのかな」という風にも思える。この論を主張するために、世界各地の色々な資料を提示している部分を読むと、なるほどもっともしく思える。しかし私には、先に「『眩暈』から『競争』へ」のテーゼを考えついて、それに都合のよい資料を持ち出しているにすぎないように思えて仕方がないのだ。「分類のための分類」をしているように見える。
 そして、こういうことをこの本に求めるのは筋違いなのかもしれないのだが、この本には過去の考証はあっても、現在の分析と未来への展望はない。過去に遊びはどのように存在していたのかはよく分かる。でも、現在の私たちが、遊びに逃避と刺激と陶酔しか見出せず、なぜ遊びで得たものを仕事に生かすことができないのか、それに対する分析と、どうしていくべきかという展望はない。あるとしても、「遊びのルールは守るべし」といった初歩的な道徳めいたものしかない。こうした点が、先にも言った「分類のための分類」の本のようにしか、見えない理由とも思える(うーむ、偉そうなことを書いてしまった…)。

 「松本紳助」(読売TV)を見る。これはテレビ的にOKなのだろうか? 俺は面白かったけど、スタジオのお客さんが明らかに引いてる場面があったもんなあ。例えば、松本の「部屋に来たオンナを風呂に入らせて、その間に1人でオナニーしたいと思うときがある」、「鼻フックをオンナにさせながらエッチして、フィニッシュでその鼻フックにぶっかけたい」という願望を語った時とか、紳助の「爺さんになったら、オナニーしている女の子を、車椅子に乗って廻りながら棒でつつきたい」という夢を語った時とか。…ま、ネタとして面白いから、いいか。


10月19日

 前川たけし『新・鉄拳チンミ』(月刊マガジンC、講談社)10巻を読む。やっぱり面白い。月刊マガジンは『海皇記』も載っているし、架空歴史アクションもの(ってそんなジャンルあんのか?)の宝庫やね。この2つのマンガは小説では書けないだろうな、と思う。実は、私は日本を舞台にした歴史小説や時代物の小説って、司馬遼太郎ぐらいしか(しかもほんの少しだけ)読んだことがないのだけど、話の筋や会戦の部分はおいといて、チャンバラのような個人戦闘の部分って、文字だけでうまく表現できるのだろうか? 架空歴史物が得意な田中芳樹氏の作品だって、話はもちろん魅力的だし、個人戦闘の部分も色々なアイディアが盛り込まれていて楽しめるけど、こうしたマンガよりは迫力に欠けると思うし。
 ところで『新・鉄拳チンミ』で少しだけ不思議なのは、『鉄拳チンミ』ではチンミは諸国を回って、あんなにいろんな技を身につけたのに、『新・鉄拳チンミ』では「通背拳」と「雷神」しか使わないこと(後者は『新・鉄拳チンミ』では名前が出てきただけで、まだ使ってもいないが)。他の技を使えば、チンミも今のピンチからもうちょっと簡単に脱出できるんとちゃうかなあ。


10月20日

 橋本治『愛の帆掛舟』(新潮文庫)を読む。異才、としか言えないね、この人は。前著『愛の矢車草』(新潮文庫)は、有り得ないはずなのに妙にリアリティのある設定の短編集、といった感じではあったが(特にブスの下着を盗んだ下着泥棒が、その心情を語る話(タイトルを忘れてしまった))、読後になんとなく微笑ましくなるような話が多かった。しかし、この『愛の帆掛船』は、同じようなリアリティのある設定でも、読後に異様な感覚に陥ってしまう作品が多い。特に表題作の「愛の帆掛船」は、読み終わった後に、何とも言えない怖さと不快感とどす黒いものが心に残ってしまう、不気味な作品だ。息子夫婦とすぐにも死ぬかもしれない父親が登場人物の話。別にドラマティックな出来事や、日常には起こり得ない事件が起こっているわけでもなく、普通の生活の場面で起こるような話を組み合わせているだけなのに、これだけの常軌を逸した作品に仕立て上げてしまう橋本氏は、やっぱり異才だと思う。個人的には、登場人物の勇作が「問題を自分で解いて満足して、それをなんのために解くかの目的がない」という性格をしている、というところを読んでると、夏目漱石『それから』の代助とダブって見えるのだけど…(なんでやねん、と自分でもツッコミたくなんねんけど、そう思えたのだから仕方がない)。
 あと「愛のハンカチーフ」は小説というよりは、評論みたいだった。そういう意味では、橋本氏自身の体験をもとに思想を語った『恋愛論』(講談社文庫)『ぼくたちの近代史』(河出書房新社)と同じ手法を、フィクションの物語を用いて行ったような感じに思えた。


10月21日

 金子達仁『激白(ベストセレクションT)』(文藝春秋、2000年)を読む。過去に行ったインタビューと、1994・1998年のワールドカップ予選での日本チームに対する批判記事、著者と青島健太氏の対談をまとめたもの。面白いんだけど、この人の本領はインタビューよりは、様々なインタビューから事実を再構成していく方にあると思う。この本に収録されている川口能活氏へのインタビューなんかを読んでると、『28年目のハーフタイム』(文藝春秋、1997年)の方が、その話がうまく生かされているように見えるからだ。

 宮下あきら『魁!男塾』(集英社文庫)1718巻を読む。だんだんとネタ詰まりになっていく様子が手に取るように分かる。『ドラゴンボール』や『北斗の拳』と同じ末路を辿っててんなあ、この作品も。まさしく「お前はもう死んでいる」という状態だろう。

 井上雄彦『バガボンド』(モーニングC、講談社)8巻を読む。相変わらず、ものすごい迫力のある絵だと思う。うまい絵だからこそ表現できる物語、というのもあるのだと実感した。特に、暗闇の中で胤舜が再び立ち上がってくる第84話のシーンは圧巻。


10月22日

 「笑う犬の冒険」(関西TV)の「ひろむくん」のコントの中で、「河内のオッサンの歌」のパロディがギャグとして使われていたけど、あの歌って全国レヴェルで有名な歌なんだろうか? てっきり関西ローカルの歌やと思っててんけど。小学生の頃、東京から来た従姉妹にこの歌を聴かせてたら、そっぽを向いてどっかへ行ってしまった、なんてこともあったなぁ…。

 本田和子『子どもの領野から』(人文書院)を読む。フィリップ=アリエス『子供の誕生』(みすず書房、1981年)における、近代において「子ども」の概念が生まれたとする見解に沿って、子どもを大人から見た「子どもらしさ」に当てはめてしまうことに対して、子どもの遊びや江戸・明治の子どもに関する資料から論じ直す。子どもを「純粋で無垢なもの」として見てしまう危険性、っていうのは今だからこそ、もう一度考え直さねばならない気がする。


10月23日

 小田嶋隆『人はなぜ学歴にこだわるのか』(メディアワークス、2000年)を読む。タイトル通りの内容で、読んだ後に後味が悪くなる本。著者も後書きで言ってるように、たしかに歯切れが悪い。おそらく、(これも著者が述べていることだが)学歴は現代において最も目立つ「差別」なはずなのに、それを見ないようにしているからだろう。
 人間は、誰もが100メートルを9秒代で走れるわけではないし、歴史に残るような芸術作品を作ることもできない。こうした事例よりスケールは小さくなるけれども、いくら勉強したって、誰だって東大に入れるほど頭が良くなれるわけではない。人間の能力には明らかに差があるのだ。でも、その人の価値を決めるのはひとつの尺度ではない。100メートルを9秒代で走る人間が、東大に通っていなければならないわけではないだろう。用は自分の属する世間の中で、自分の能力が役立てることが出来ればいいいいのだ。そうすれば、自分とは異質の優れた才能を持つ人間が世間にはいっぱいいることを感じながらも、「あいつはすごいけど、俺もこれでは誰にも負けない」と実感しながら生きていけるはずなのだ、本来ならば。それは他人よりも自分を上に置こうとする点で、一種の差別ではあるけど、判断する価値基準が1つではないために、差別にはならずに共存できる。
 でも、今は「人間には誰でも個性がある」と言われている。その一方で「人間は平等だ」とも言われている。この2つの考えがひとつになると、「人間は誰にでも可能性がある」という考えになってしまう。そして、「努力すれば出来ないことはない」となってしまう。そうなると、人間の能力には人ごとに差がある、という事実は隠されてしまう。「個性」は大事なタームになるが、「能力の差」の存在はタブーになる。しかし、本当は誰でも自分と他人を比べてしまう心情を持っている。でも、「人は誰でも平等」という考えが行き渡っているために、自分は他人よりも優れている、と大っぴらに語ることは出来ないのだ。
 そうした風潮の中で、「学歴」は明らかに人間をランクわけできる価値基準、しかもほとんど唯一の価値基準になる。だからこそ、それにこだわってしまうのだ。しかし、それにこだわりながらも「差別はいけない」となっているから、この本でも述べられているような様々な醜悪な事件が起こるのだ(しかし、まさかSMAPに関連する事件まであるとは思わなかったが)。
 …と、こうして書いてみたけど、はっきり言って、まだまだ書き尽くせていないし、不十分だと自分でも思う。小田嶋氏も後書きで言ってるように「学歴は怪物」であり、「その学歴リヴァイアサンの雲のごとき巨体にペン1つで挑んだのは暴挙」なんだろう。それでも、言いにくいけど、たしかな事実を語ろうとしたこの本は、とても勇気のある本なんじゃないだろうか。自分とはあまり関係がない世界については、どんなに悪口を言っても自分は痛まない。でも自分の身近な世界について意見を公にすることには、相当な痛みを伴い、覚悟がいるのだから(まぁ、小田嶋氏はずっとこうしたスタンスで、体を張ってきたと思うけど)。


10月24日

 阿部謹也『大学論』(日本エディタースクール出版部、1999年)を読む。今までの阿部氏の著作を基本として行った講演を中心とした本。そのために、内容がかぶっている箇所も多い。12世紀以降の個人の発見、ベルリン大学に端緒を発する純粋な「教養」の概念の誕生を明らかにし、そこに現在の大学および「教養」の問題があるとする。教養とは世俗から離れた高尚な学問を指すのではなく、自分の仕事を通して、世の中でいかに生きるべきかの行動の指針となるものであるとする。「あらゆる職業には、その職業に纏わる教養があって、それを私たちは、その中で一芸に秀でた「教養人」と呼ぶ」(67頁)べきなのだ。
 これまでの阿部氏の著作をまとめた内容なので新鮮味はないが、阿部氏がマンガやアニメに対して偏見がないことが分かったのは、嬉しい驚きだ。親は子供がそういったもの見るのを忌避するのではなく、マンガやアニメでも出来のいいものあれば、不出来なものもある、それを一緒に批評するべきだ、と述べている。まったくその通りで、子どもの世界での「教養」には、マンガやアニメ(あとはゲーム)は欠かせないのだ。さらにいえば、マンガと活字は物語の表現手段が違うにすぎない。マンガを批判するならば、内容の下品さから批判しても意味がない。活字にだって下品なものはたくさんある。もし、マンガが活字よりも劣るとするならば、マンガの表現技術が活字よりも劣ることから批判せねばならない。


10月25日

 市立図書館で妙なCDを発見。借りて返る。その名も『吉祥天女イメージアルバム』。もちろん、『吉祥天女』とは吉田秋生氏のあの傑作マンガのことであり、つまりは『吉祥天女』のサウンドトラックである。音楽はなんと久石譲氏。1984年に出たアルバムが、今年に入って再発されたようだ。早速聞いてみるが、残念ながら個人的には期待はずれだった。「ピアノの久石譲」、または「クラシカルな久石譲」を期待していたら、最後の曲以外は「テクノな久石譲」が前面に押し出されたアルバムだった(最後の曲はテクノをバックにピアノがメインになっている)。原作のイメージとは何だか違う気がする。ただ、このCDジャケットの裏のイラストはすごくいい。月夜をバックに、山のように積み重ねられた男の体(死体?)の上に叶小夜子が座っているのだ。これぞ、このマンガの本質の一面を端的に現した絵だろう。


10月26日

 三浦雅士『身体の零度−何が近代を成立させたか−』(講談社選書メチエ、1994年)を読む。時代が下るに従って、体に関するタブーがどんどんと排されていって、現在のような身体が単なる身体に、「零度」になったことを、様々な実例から明らかにしようとする。色々な本の寄せ集めの感もあるが、それなりに興味深い知識が得られる。身体に関するタブーがなくなったことは束縛から解放されたことになるのか、それとも結びつくべき世間がなくなって、どんどんと孤独になっていくことになるのか…。


10月27日

 色々と新刊マンガを読む。みずしな孝之『いい電子』(ビームC、エンターブレイン)1巻。前にゲームに興味がなくなったのかもしれない、と書いたけど(ココココ)、このマンガを読んでるとまたゲームをしたくなってくる。「クレイジータクシー」とか「グンペイ」をしてみたいなぁ(ドリームキャストもワンダースワンも持ってないけど)。

 きら『まっすぐにいこう』(マーガレットC、集英社)20巻。だんだんとマンネリに陥りつつあるような気がするが、和めるからまぁいいか。もしかして『イタズラなkiss』のように結婚しても続いていくのだろうか? この巻の中で、郁は秋吉のことが100%分かりたい、と何度も言ってるけど、それは無理だと面白いし、そんなの面白くないんじゃないかなあ。100%分かり合えないから言葉は大事なんだと、俺なんかは思うけど。

 神尾葉子『花より男子』(マーガレットC、集英社)27巻。このマンガもなかなか終わらんなぁ。今度は「西門・優紀」編が新たに展開してるし。つくしが花沢類に昔は好きだったと告白して、花沢類が「知ってたよ」と答えると、「恋が友情に変わった瞬間」とつくしが心の中でつぶやくシーンが、この巻では個人的に一番好きなシーン。

 篠原千絵『天は赤い河のほとり』(フラワーC、小学館)22巻。特に感想はない。ま、こんなもんかな。


10月29日

 オバタカズユキ『何の為のニュース』(イーハトーヴ出版、1998年)を読む。ニュースに関心を持ち続けてる「社会派」に対して違和感を持つ著者が、様々なニュースを論じた本。考え方が私に似ていることもあってスッと読めた。例えば、プリクラや携帯電話は、孤独の隙間を埋める商品だと喝破しているあたりなんかは、既にわりと言われていることだけど、その通りだと私も思う。だが、何だかモヤモヤした感触が残る。「スッと読めた」という部分が実は一番危ないことのような気がするのだ。
 たしかに、オバタ氏と同じように、「社会や政治に関心を持て」と訴えるような人々には、私も強い違和感を持つ。そして、そういうニュースや新聞を見て「自分は政治や社会のことをきちんと考えている」と満足している人には、「で、アンタはそれに対して何かしてるの?」と問いかけたくなる。この本は、そういう人々に対する反論のような本だと思う。
 しかし、この本を読んでいると、そういう人々への反論をしている自分は彼らよりはましだ、と思いこんでいる自分を見つけてしまう気がするのだ。「俺たちは、そんなくだらない自己満足をしていない」ことや「俺はそんなことをしても無駄ということを知ってるよ」ということを確認して「自己満足」している自分がいる気がしてすごく嫌なのだ。これでは「無知の知」を誇っているだけ何じゃなかろうか。
 例えば、教育問題については論じなくてもいいとしているところ。そこに到るまでの論の持って行き方はすごく納得できる。でも、論じても無駄だと結論してしまっては、今まで論じてきたことは何なの、という気がしてならない。ソクラテスが問答対話の果てに結論を出さず、対話者を混乱の中に引きずり込んで、「知らないこと」を知っている自分が優れていることを誇っているのと似ている。「政治や社会について考えるべき」という人は、今の世の中を批判することが多い。この本はそういう人を批判している。しかしただ既成のものを批判している点では、やってることはどっちも同じなのではなかろうか。教育についてマスコミが騒ぎすぎているというのは事実であろう。でも、現場で何とか教育を少しでもよいものにしようとしている人もいるのに、「教育を論じなくてもいい」とするのは言論人のやるべきことではないと思う。現場の人間に対する「こういう考え方もあるよ」という言葉を紡ぎ出すのが、言論人の役割だと思うねんけど。〔…と書いたけれども、この教育に関するオバタ氏の意見も今はある意味正しいのではないかと思っている。詳しくはココを参照のこと<12/27>〕
 まあ、我が身を振り返れば、このホームページにもそういう「無知の知」を誇っているところがあるので、こういう批判は自分にも跳ね返ってくるのだけれども…。


10月30日

 三浦健太郎『ベルセルク』(白泉社)20巻を読む。話がだんだんわけが分からなくなってくるなぁ。色々と伏線を張ってあるのだと思うけど、その全部が明らかになるのはいつになるのだろうか? 戦闘シーンは相変わらず面白いねんけどね。ちなみに帯の部分に予告があって、次の巻で○○○○○(4文字目は小さい○)が復活するとあり、○○○○(2文字目は小さい○)ではない、と書いてある。これって、前者がグリフィスで後者がフェムトってこと?

 浦沢直樹『MONSTER』(ビッグC、小学館)15巻。このマンガも話がどんどんと広がっているけど、最後にうまくまとまるのだろうか? 後期手塚治虫のマンガのように、複数の登場人物のストーリーがまとまって大きな1つの話を構成するという手法を取ってると思うのだけど、ちょっとテーマが散漫になりつつある気が…。終わってからすべてをまとめて読むと、きちんと1つの話にまとまって読めるのかもしれないが。


10月31日

 松本大洋『GOGOモンスター』(小学館)を読む。ネタとしては、異世界(らしきもの)が見える小学生がそこに入り込んでしまったが、再びこちらの世界に戻ってくる、というもの。SF的には目新しいものではないが、独特のタッチが異様な怖さを与える。それにしても2500円は高すぎでは? 装丁にこるのもいいけど、もう少し値段を抑えないと売れないと思うけどなあ…。

 藤子・F・不二雄『未来ドロボウ』(SF短編PERFECT版4巻、小学館)を読む(3巻はココ)。まるで『まんが道』みたいな作品もある(「スタジオ・ボロ物語」)けど、個人的には「老年期の終わり」という作品が印象に残った。遙か未来を舞台とした物語で、未来に希望を持てない「老衰期」に入った人類は、銀河系の星々から地球へと撤退しつつあった。そうした中で6000年もの間にわたって人工冬眠していた1人の男性だけは、遙かなる宇宙への希望を持っていた…。
 ところで、この「老年期の終わり」というタイトルは、A.C.クラーク『幼年期の終わり』の本歌取りを意識して付けられたのだろうか? ただし『幼年期の終わり』が後味の悪い終わり方をしていたのとは違って、こっちは希望のある終わり方をしてるけど。「幼年期の終わり」というタイトルの作品の方が絶望的で、「老年期の終わり」というタイトルの作品の方が希望があるというのは、なんとなく変な感じもする。そういえば、『GOGOモンスター』も「少年期」から大人になるときに失われるもの、ということをテーマにした作品だと思うので、同じ日に同じようなことをテーマにした作品を読んだことになるなあ。

 陳舜臣・田中芳樹『談論 中国名将の条件』(徳間文庫)を読む。田中氏による『中国武将列伝』(中公文庫)上下巻と内容の重なる部分が多いので、それほど目新しい知見はなかった。もともとの単行本はこっちの方が先に出たみたいやねんけど。

 今日の産経新聞の夕刊に、ちょっと腹がたつ記事が載っていた。1面の上の方にある「編集余話」という記事。新人記者奮闘記というサブタイトルが付いている。静岡のある川で大雨のため中州に人が取り残された、という事件に取材に行った村上智博氏という記者の原稿だ。以下は引用。「気ばかり焦り、途中で車輪を側溝に落としてしまった。幸い近くにいたレスキュー隊と警察官に救助され、何とか現場に到着したものの今度は中州から助け出された9人の少年らに追いかけられ、毒づかれたりした。怒りをこらえて取材を続け」た、とある。
 その「怒りをこらえて」という部分はどういう意味だろうか? はっきり言って、この文脈から素直に読み取れば、新聞記者の傲慢しか見えてこない。もしかしたら、「少年らが助けてくれたレスキュー隊に毒づいたから怒った」、「失敗ばかりしている自分に腹が立った」という意味なのかもしれない。そうだとしたら、そういう風に読み取れるような記事を書くだけの文章力が欠如している。でも、それならば、逆にまだ許せる
 しかしながら、この文章を読む限り、「新聞記者がわざわざ取材に来ているのに、その態度はなんだ」という風に怒っているようにしか見えない。あのさあ、取材する側はあくまでもその事件に関係ない野次馬やねんから、現場の人間に歓迎される訳ないやん。それをなだめすかして、本音を引き出すのがプロの記者でしょ。それとも何かね、新聞記者は新聞記者っていうだけでそんなに偉いのかね? てめぇの、能力の欠如を棚に上げて、勝手に怒ってんじゃねーよ。新聞記者って、こんな風に傲慢なものなの? というかこれを校閲した上の人間は何でこれをたしなめなかったんだろう?


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