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2000年12月の見聞録



12月1日

 松下佐知子『面接官の本音を知る本』(サンドケー出版局、1995年)を読む。副題に「女子大生 面接の常識はウソばかり」とあるので女子学生向きのようだ。企業の人事担当者への取材を行い、従来のマニュアル本の間違いを徹底的に暴いている。何よりも大事なことは人事担当の男性に受けるような態度を取り、企業に従順なことを示さねばならないことであり、そして決して自分を強く主張してはならないとする。例えば、自分の特技が役に立つとか、学生時代に学んだことが仕事に生かせる、といったことは絶対に言ってはならない。なぜならば、企業からすれば学生時代に学んだことなど何の役にも立たず、それどころか邪魔になるからだそうである。面接での服装も、例え女性には嫌われそうな格好でも、男性(オジサン)に受けそうな少し派手目の格好がよい、としている。
 この本を読もうとしたきっかけは、浅羽通明『大学で何を学ぶか』(幻冬社文庫、1999年(原著は1996年))で、「自分の専門を生かしたいという発言は面接ではしてはならない」ということがこの本に書かれてあると紹介されていたから。学部生時代にある先生に「専門的な学問を学べば、就職活動でそれをPR出来る」と言われたことがあって、「そうなのかな?」とずっと疑問に思っていた。この本を読む限りはそれはウソだと分かる。
 要するに、就職面接ではいかに自分のことをうまく話すかよりも、いかに上手に嘘を付くかが重要だと言うことになる。ただし、この本の中では「嘘を付け」とは一言も書かれていないが。しかし、そうした部分にこそこの本の本音があるのではなかろうか。私は就職関連の本は殆ど読んだことがないが、「自分の特性を生かせてやりがいのある仕事を探せ」というようなことがよく言われているような気がする。でも、普通の人に人と比べて得に優れているところや個性などそうそうないのではなかろうか。そういうものが強すぎる人は下手をすれば変人だ。だから、この本は「大抵の人間は周りの人と同じような個性や能力しか持っていないのだから、うまく相手をごまかしてとりあえず就職したもの勝ちだ」というようなことを暗に仄めかしているように思えるのだけど、これは穿ちすぎかなあ。


12月2日

 今日はウチの研究室が属する専攻全体で年に1回行われる学会に参加する。各研究室の院生が自分の研究室に属する人の発表の際には司会をすることになっているのだけれど、ウチの研究室の司会担当の院生がなかなか姿を見せず、危うく司会をやらされそうになった。

 「Metal Box」から借りたCDを聞く。ACES HIGH「TEN 'N OUT」(1994年)。メロディは北欧っぽいのだけど、音楽そのものはアメリカのグループのような音で、TNTがさらにアメリカナイズされた感じとも言えるし、FIREHOUSEをもっと切なくした感じとも言える。そういうメロディアスなハードロックが好きな人は、十分満足できると思う。


12月3日

 曽田正人『昴』(ビッグスピリッツC、小学館)3巻を読む。この人のマンガの主人公は、「自分を追いつめすぎるために周りの人間に理解されることがない天才」としていつも描かれる。ワンパターンといえばワンパターンだけど、自転車(『シャカリキ』)、消防隊(『め組の大吾』)、そして今回のバレエといずれもが今まで殆ど描かれたことのないジャンルを舞台にしているために、どのマンガにも新しい面白さが見出せる。舞台となっているスポーツや職業に興味が出てくるという点では、『帯をギュッとね』や『モンキーターン』を描いている河合克敏氏に近いと思う。ふと思ったけど、曽田氏の上記3作品はどれも連載雑誌が違うなあ。これって結構珍しいんじゃないだろうか?


12月4日

 柄谷行人『倫理21』(平凡社、2000年)を読む。カントが実践的な自由という意味で使っている「道徳」を「倫理」と定義し、この定義に従って現代の様々な現象や言説を考察する。何だか倫理の書と言うよりは論理の書に思えた。しかも現代の現象をカントによって読み解くというよりは、カントに都合のいいものだけを選んで現代の現象にカントをあてはめているように見える。


12月5日

 少年ジャンプ系の新刊コミックスを色々と読む。尾田栄一郎『ONE PIECE』16巻。設定や物語やバトルの展開がはちゃめちゃというか論理的に考えるとおかしいと思えるところもあるのだけど、そのいい加減さが逆に子供には受けるのかな、と思う。そういえばこの巻で、サイドストーリーや外伝というのではなくて、現在の物語の中に、過去の物語が何回も連続して挿入されている箇所あるのだけど、この部分は『るろうに剣心』の「人誅編」で過去の物語がコミックス約2巻分にわたって挿入されたことを思い出させた。確かこの作者って『るろうに剣心』の作者のアシスタントをしてたと思うのだけど、そういうところでも影響を受けているのかなあ。

 樋口大輔『ホイッスル』14巻許斐剛『テニスの王子様』6巻。どちらのマンガも現実には有り得ない設定を微妙に混ぜながらスポーツの面白さをリアルに描き、魅力的なキャラクターをその設定で動かすという点で、『スラムダンク』の後継者と言えるだろう。

 鈴木央『ライジングインパクト』9巻。上記2作品よりも現実離れしている点で『キャプテン翼』に近いかな。と言うよりも『プロゴルファー猿』、かな。

 荒木飛呂彦『JOJOの奇妙な冒険第6部 ストーンオーシャン』4巻。このマンガはある種惰性で読んでいるけど、だんだんとスタンド同士の闘いが独りよがりになりつつあるような気がする。

 こうして『週刊少年ジャンプ』系のコミックを読んでいると、どのマンガも設定や構成が単なる子供だましに終わらないマンガが増えているような気がする。と言っても明らかに小学生向きのマンガもあるが。でも、そういう子供向けのマンガは新たな子供の読者を惹きつけることになるだろう。子供向きのマンガと大人も引き込まれるマンガとが混在しているというバランスの面では、今のところ少年マンガ誌の中で一番優れているのではなかろうか。この質をキープし続ければ、『週刊少年ジャンプ』が再び独走態勢に入っていってもおかしくないと思う。


12月7日

 ルディ=カウスブルック『西欧の植民地喪失と日本 オランダ領東インドの消滅と日本軍抑留所』(草思社、1998年)を読む。著者はオランダ人であり、第2次世界大戦で日本軍に自国領であったインドネシアを攻め落とされたオランダ人たちが、日本人に対していかなる感情を持ったのかについて、自伝風のエッセイで書いている。東インドのオランダ人は、自分たち西洋人の領土を日本人が侵略することは身分不相応だと考えていた。そのために現在に至るまで残酷で悪質だという日本人像が維持されたままであるとする。そして、実際に日本人の方も抑留所に収容されていたオランダ人に対して横暴な振る舞いをしたのだが、そこには日本軍が勝利者であるということを知らしめるためという理由だけではなく、西欧人に認められたいと思いながらも決して認められないことを自覚する感情があったとする。
 オランダ人にも日本人にも、「自分たちこそが善政者だ」という思いこみを持つ人間がいるということが分かる。私には第2次世界大戦・大東亜戦争について論じるだけの知識も力量もない。ただ、あの戦争はどちらの側にもそれぞれの大義があったであろうけど、先進帝国主義国と後進帝国主義国の争いであったにすぎないのではなかろうか。何度も書いているけど、一番の問題はこれを論じることが今の私たちにとってなぜ重要なのかという視点を欠いている限り、単なる「日本は最低であったと指摘して自分が正義の側にいることに酔う左翼(サヨク)」になるか、その裏返しである「日本はアジアの解放者であったと主張して日本の優れた部分のみを見る保守」に陥ってしまうことだと思う。今の状況は、あくまでも自分は戦争に関係なかったとして戦争に関わった人間を非難するだけの論者が多い前者が、リアリティがあるかのように思える物語を描き出している後者に取って代わられようとしている、というところだろうか。この問題は、やがて同じような岐路に立たされたときに、私たちがどのような態度を取るかという形でしか試されないのかもしれない。


12月8日

 岸本斉史『NARUTO』(少年ジャンプC、集英社)5巻を読む。最初の方を読んだときは子供だましな忍者マンガかなあ、と思っていたのだけど1巻の終わりぐらいからシリアスな調子の挟み込み方がうまくなり面白くなってきたと思う。忍者マンガは白戸三平以降は単なるギャグか支離滅裂な設定のものしかないような気がするので(面白いものがあったらすいません)、頑張って欲しい。ただ、まだそれぞれのキャラクターの必殺技が子供向けご都合主義みたいな感じもするけれど、掲載紙が『週刊少年ジャンプ』だから仕方がないか。

 ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』(少年ジャンプC、集英社)10巻。面白いのだけれど、このマンガは囲碁を設定としたストーリー展開が面白いのか、囲碁そのものの面白さを描いているのかどっちなんだろうか? 囲碁を打てる人に聞いてみたい気がする。まあ、囲碁の蘊蓄マンガなだけで面白くないよりは全然いいねんけど。

 Metal BoxのCDを聴く。UFO「WALK ON WATER」。1曲目の出だしが妙にダークな感じで一瞬ギョッとするけど、途中から憂いのあるいかにものブリティッシュロックになる。あ、この場合「いかにも」というのはけなし言葉ではなくて誉め言葉のつもり。それにプラスやっぱりマイケル=シェンカーのギターの泣き具合がいいんだよなあ…。

 VOW WOW「LEGACY」。ベスト盤だけあって、いい曲がいっぱいある。特に"Shock Waves"は絶唱タイプの名バラードだ。だけれども、全部通して聴くとだんだんとだれてくる。それぞれに曲調違っているはずなのに、同じパターンの繰り返しのように聴こえてしまう。


12月9日

 樹なつみ『八雲立つ』(花とゆめC、白泉社)14巻を読む。この巻で一番印象に残っているのは、古代日本の神話をモチーフにした現代伝記ロマンというストーリーとは直接関係ないけど、最後の方の場面で自分の弟である闇己に嘘を付くときの寧子の顔。この顔、すんげえ怖い。「魔性のオンナ」といった感じだ。この顔の表情はめちゃくちゃうまい絵だと思う。今まで弟を愛することに悩む健気な儚い感じの女性として描かれていた寧子が、一転して弟を愛するあまりゾッとするような微笑みを浮かべながら嘘を付いているこのシーンは本当に怖かった。そういえば、1/4スペースの著者のトークによると、この巻の最後の方からクライマックスに向かうとのことだから、この魔性の微笑みと禁断の恋愛関係の行方がクライマックスに関係する…わけないか。ちなみに、これもストーリーを忘れつつある(特に古代編)。うーむ…。

 後輩から借りたCDを聴く。RHAPSODY「LEGENDARY TALES」(97年)。「ファンタジーもの」のアニメを見ているかRPGをしているかのような感じを受ける。曲ごとではなくアルバム全体のコンセプト作りという点では、BLIND GUARDIANよりもさらに大仰だ。ところで、このアルバムのインナージャケットに、物語の舞台となる国の地図が描かれているのにはびっくりした。ファンタジーを舞台にしたアルバムで物語の内容を書いてあるものはあっても、地図まで描かれているものは初めて見た。

 RHAPSODY「SYMPHONY OF ENCHANTED LANDS」(98年)。上記のファーストアルバムにに続くセカンドアルバム。さらにスケールアップしていると思うのだが、最初の方にクライマックスがあって、だんだんと落ち着いていくような印象を受けるので、アルバム通して聴いたときの印象がそんなに良くない気がする。確かアルバム5枚でひとつのストーリーになると聞いたことがあるから、5枚通して聴いてもらうことを前提にアルバムを創っているのだろうか。第2章であるこのアルバムの最後は、嵐の前の静けさなのかもしれない。


12月10日

 山本おさむ『どんぐりの家』(ビッグコミックスワイド、小学館)全3巻を読む。埼玉県に実在する聴覚障害と知覚障害を持つ人たちの施設である「どんぐりの家」を舞台として、その設立に至るまでのストーリーを複数の主人公の話のオムニバス形式で描く。このマンガの凄いところは、健常者だけではなく障害者もまたエゴを剥き出しで描かれているところ。確かにご都合主義的な展開に思えるところもある。それでも、許せてしまうぐらいリアルな心情が描かれているのだ。
 ただ、このマンガの中で「障害者にも普通の人と同様に暮らす権利がある」という風に近代的な「権利」が少なからず持ち出されているが、実はそういうところは好きにはなれない。そうした「人権」に救われている人は確かにいっぱいいる。しかしながら、自分にとって誰が大事な人間なのか、そして誰が不要な人間なのかは人それぞれ違うはずだ。そうした感情を人権という旗印の下に押しつぶしてしまっている限り、結局は上滑りの理解しかできないのではなかろうか。それではどうすればいいのか、ということははっきりとは言えないのだが、本気で理解し合いたいならば、人を蔑んだり妬んだりする感情を隠してはならないのかもしれない。なんだか曖昧な言い方だけれども。


12月11日

 『おかしいネット社会』(別冊宝島428,宝島社、1999年)を読む。様々なインターネット事件簿とその背後に潜むものを考察する評論を集めたもの。前者に関するものがほとんどを占め、告発・誹謗中傷・復讐代行・ハッカー・パソ通恋愛などを扱っている。評論に関しては、インターネットや携帯電話が、等身大の自分を越えて孤独を癒すものとして錯覚されている現状を論じるものが多い。まあ、現代社会を論評するものとしてはごくオーソドックスな結論で、別に目新しいものではないと思う。ただ、携帯電話が今までの日本のコネでつながる「世間」を再生産したにすぎなかったことを喝破した浅羽通明氏の論考と、同じ別冊宝島の『80年代の正体』と絡めて90年代を振り返った大月隆寛氏の評論はそこそこ面白かったかな。
 ちなみに、この本は市立図書館のコンピュータで検索すると、登録はされているが家から遠い分館に所蔵されていたことが分かったので取り寄せを依頼した。すると、どうやら紛失してしまったらしく、わざわざ大阪市立図書館から取り寄せてくれた。有り難いことだ。


12月12日

 漫☆画太郎『画太郎先生ありがとう』(ジャンプCデラックス、集英社)を読む。とんでもなく汚く、とんでもなく下品な不条理系のギャグマンガ。下品なマンガは嫌いじゃないねんけど、なぜかあんまりピンとこなかった。ただ、この作風は誰にも真似できないものだと思うから、感性が合う人ならばハマるんじゃないかなあ。この本のオビに書いてある「画太郎の前に道はナシ! 画太郎の後ろにも道はナシ!」というピエール瀧の言葉は言い得て妙だろう。


12月13日

 橋本治『ああでもなくこうでもなく』(マドラ出版、2000年)を読む。『広告批評』に連載されている時評のうち、1997年3月から1999年3月までの連載分をまとめたもの。政治・社会から芸能界・オトコとオンナの問題まで斬りまくる。
 相変わらずそんじょそこらの評論よりも鋭いけど、昔に比べて微妙に劣っているように感じてしまう。というよりも、橋本氏が以前『蓮と刀』(作品社、1982年)『'89』(河出文庫、1994年)『絶滅女類図鑑』(文藝春秋、1994年)で論じていた状況から世の中が変化していないから、新たな評論において論じる対象が変わっていても、本質的な部分を変えることが出来ないからなのかもしれない。そのためにいつも同じものを読んでいる気がしてしまうのだ。喩えて言うと、いつまで経っても治らない病気を治療し続けているような印象を受けてしまう。私は橋本氏の評論から非常に多くのことを学んだからこそあえて書いてしまうが、しばらく評論活動は辞めて創作活動一本にした方がいいのかもしれない。


12月14日

 M.ピーティー『植民地 帝国50年の興亡』(20世紀の日本第4巻、読売新聞社、1996年)を読む。明治期から第2次大戦までにおける日本の植民地に関して、日本の政策・思想や朝鮮・台湾・南洋諸国における影響といった観点も絡めてその歴史を述べる。オーソドックスな概説書といった感じだが、外国人の筆によるために余計なバイアスがかかっていなくて読みやすい。
 こうした日本の植民地政策を論じることの難しさは、著者も最後の章で述べているように、自分の依って立つ立場に都合がよくなるようにそれら捉えてしまうことにある。日本の植民地政策を支持する人は、日本による植民地運営によって朝鮮や台湾は近代化を推進することが出来たのだと主張する。逆に否定する人は日本人による搾取や暴虐行為を強調する。前にも書いたように、この頃の情勢は先進帝国主義の西欧諸国に後進帝国主義の日本が戦いを挑んで敗れたにすぎないと私は考えている。だから、支持派の人間が「日本はよいことをした」と言っても、日本の利益になるように政策を進めたら結果として植民地の繁栄につながっただけであって、別に誇る必要はないと思ってしまう。だからといって、否定派の人が「日本は悪いことをしたと認めよ」と言っているのを聞いていると、何をどこまで認めてどうしたら決着が付くのかという具体的な考えが見えてこないから、すごく偉そうな自己満足に見えてしまう。
 じゃあ、どうすればいいのか? 研究者が出来るのは冷静な研究であろう。例えば、日本が植民地に派遣した官僚の履歴を徹底的に検証して、植民地での活動はその地で働き続ける人々によって担われたのか、それとも単なるキャリア昇進のための一つの職務にすぎず、一定期間が過ぎれば日本に帰ることになっていたのかを調べてみれば、植民地の発展がその当地の発展を本気で考えたうえでのものであったか、または単に日本の利益のために行ったことに付随したにすぎないのかを理解する手掛かりとなるのではなかろうか(もう研究されているのかもしれないが)。普通の人々は「忘れてはならないけど、取り立てて考える必要はない」という態度しか取りようがないと思う。そんなことを考えている暇があったら、普段の自分の仕事をきっちりこなしていく必要があるだろう。もし考える必要があるとすれば、朝鮮・韓国人や台湾人と仕事をするときであり、その時にはきっちりと考えねばならないだろう。でもそういう必要のない人がそうした国家や歴史を考えると、自我が肥大してちっぽけな自分を見失ってしまう。その方がよっぽど危険ではなかろうか。小林よしのり氏が最近になってよく「みんなは観客でいてくれ」と言うのはこういう意味だと思う。


12月15日

 藤沢とおる『GTO』(少年マガジンC、講談社)18巻を読む。鬼塚はどんどんと色々な問題がど解決してしまっているが、作者は次にどんな問題を創り出すのであろうか。このマンガも一種の『ドラゴンボール』状態に陥ってしまい敵のインフレ現象を引き起こして滅茶苦茶になっていくのではないかと心配な気がする。それとも前作の『湘南純愛組』のように敵がいなくなってコメディタッチのマンガに移行していくのだろう?

 矢口高雄『釣りキチ三平』(講談社漫画文庫)1112巻(9・10巻はココ)。前回の投網漁の続き(11巻)と渓流釣り編(12巻)。著者が取材した投網の名人から聞いた「鬼手仏心」という言葉が11巻のキーワード。投網漁では魚を取り尽くしてしまう危険性もある。漁師は仕事だから魚を捕らざるを得ない。だからこそ狙った獲物は逃さない。しかし、魚を傷つけず目的の量まで達したら漁を辞めて魚を慈しむ。これが「鬼手仏心」だそうだ。何だか出来過ぎた言葉だけど、現場の漁師が言う言葉だから重みがある。


12月16日

 金子達仁『伝説(ベストセレクションII)』(文藝春秋、2000年)を読む(Iはココ)。Iはインタビューだったけど、今度はドキュメントを集めたもの。前にも書いたように、インタビューよりもそれを元にしてまとめたドキュメントの方がやっぱり面白い。後に単行本となったサッカー関係のドキュメントだけではなく、アンディ=フグ氏や山下泰祐氏やタイガースのドキュメントもある。
 なんといっても小倉隆史氏のドキュメント「あの階段の彼方に」が泣ける。そしてこのドキュメントの金子氏による解説を読んでちょっと考えてしまった。金子氏はインタビューで話を聞きながら思わず泣いてしまったとある。そして感情的に入れ込んで書いたこの原稿は読者からの反応も良かったらしい。でも金子氏曰く、「僕は以来二度と、こういう原稿を書いていない。理由は自分でもよく分かっている。テクニックは上達した。ただ、このときに小倉に対して抱いていたほどの激烈な感情が、今の僕の内部にはないから−」(142頁)。そして、自分の好きな作品はどれかと聞かれたらこの作品を迷わずあげるとしながらも、「この原稿を読み返すたび、複雑な思いもこみ上げてくる。自分の中に、明らかな情熱の衰え、言い方を変えれば「老い」を感じてしまうからである」(同上)と述べている。
 たとえ、どんな文章でも自分の感情を表に出しすぎた文章は普通読めたものではない。自分に酔っぱらった文章になってしまうからだ。だからこそ出来る限り冷静に文章を書くようにする必要がある。私的な文章はともかく、ドキュメントや評論はそうあるべきだと考えていた。でも当たり前のことだけど、情熱を持っていなければいいものは書けないのだ。問題はその表し方であり、私は福本伸行『アカギ』(近代麻雀C、竹書房)7巻にでてくるある台詞を思い出してしまった。主人公のアカギをある登場人物は評して、アカギはクールに見えながらも情熱を秘めているとする。そして、その情熱の炎は目に見える赤い炎をも越える高温を持つ、目には見えない青白い炎のようなものだとするのだ。
 表現に必要なものはこうした青白い炎なのかもしれない。目にも映る赤い炎しか見えないような文章は自分に酔っぱらっているだけか、自分の主張を押しつけているようにしか感じられない。目には見えないけれども凄まじい情熱を感じる「青白い炎」を持つような文章こそが、読者をも突き動かすのではなかろうか…と書いているこの文章もまだまだ「赤い炎」やなあ。

 そういえば、以前「雑文の文書庫」「学術調査顛末記」という雑文を書いたが、思ってもみない出来事が起こった。今はちょっと忙しくて無理だけど、そのうちこのことについて書きたい。


12月17日

 森川ジョージ『はじめの一歩』(少年マガジンC、講談社)55巻を読む。新型デンプシーロールで挑戦者沢村を破ったけど、この技が体に負担が大きすぎるということは、また新しい技を一歩は発明するのだろうか? それにしても、まだ日本チャンピオンということは世界に挑戦するのはいつになるのだろうか。

 福本伸行『無頼伝 涯』(少年マガジンC、講談社)3巻。やっぱり面白い。現実世界を舞台にしたリアリティのあるアクション長編ものとしては、『MONSTER』や『YASHA』と並んで今最も優れているストーリーを持つマンガのひとつだと思う。現実世界を舞台としていても、ファンタジーっぽい要素が挿入されているマンガや、主人公の魅力だけで引っ張っているマンガの方が多い気がするので(それはそれで面白いので、悪いというわけではないねんけど)。


12月18日

 長谷川三千子『からごころ 日本精神の逆説』(中公叢書、1986年)を読む。『諸君!』・『中央公論』などに発表した論考に、書き下ろしのものを加えた5つの論考からなる評論集。表題となった論考「からごころ」は、「日本人であること」を意識すればするほど「日本人」からはみ出してしまうパラドックスを、本居宣長を出発点として探っていく。日本人である自分自身を探っていった果てにその源流を日本ではなくその外に認めてしまう心情を、本居宣長は「からごごろ」と呼んだ。それに対して彼の言う「やまとごころ」の発見をすべきとする。
 あまりにも簡単にまとめすぎているのかもしれないが、現在の自由主義史観や保守派の主張の源流の一部となっているのはこの本の見解ではなかろうか。


12月19日

 金森修『サイエンス・ウォーズ』(東京大学出版会、2000年)を読む。1990年代後半にアメリカを中心にして展開した「サイエンス・ウォーズ」を俯瞰した論考と、それに関連することを論評した論文を収録した評論集。科学論者の論評で用いられる科学的知識の誤謬をある科学者が批判したとき、科学論者はそうした科学者に反論する論文集を発表した。その論文集に掲載されたA.ソーカルの論文こそが「サイエンス・ウォーズ」の引き金となった。ソーカルは一見すると科学論者を擁護するかのように見える論文を書いたのであるが、後になって科学論者の文体を用いてデタラメの科学的知識を散りばめたパロディであることを自ら暴露する。そして、パロディを見抜けずに自分の論文を採用した科学論者たちを、デタラメの知識を見抜けないと批判した。そして、科学的知識を自分に都合の良いように利用しているポストモダニズムも、空疎な理論をもてあそんでいるにすぎないと非難した。著者はこうした「サイエンスウォーズ」の概略を述べて、ソーカルの正しさをある程度は認めながらも、C.P.スノーがかつて指摘した人文系と自然科学系の学問の断絶をさらに深刻化させる危険性があることを危惧する。
 この本にははっきり書いてなかったと思うのだけど、科学者から見ればT.クーンなんかも、間違った知識を利用しているように見えるのだろうか。それとも、T.クーンは評価しても、それを引用するような科学論者を批判しているのだろうか。


12月20日

 青山剛昌『名探偵コナン』(少年サンデーC、小学館)30巻を読む。別に私はミステリーマニアではないけど、たぶん間違っていると思えるところが一箇所あった。青酸カリで毒殺された被害者を調べていたある探偵が「青酸ガス特有のアーモンド臭がする」みたいなことを言ってたけど、これは違うはず。呉智英『言葉に付ける薬』(双葉社、1994年)に書いてあったのを読んだだけなのだが、青酸カリは人間の体内に入ると胃液と反応して甘酸っぱい臭いがして、それはスモモの一種である「巴旦杏」の香りに近いそうだ。そして「巴旦杏」を煎ったものを英語でアーモンドと言うそうである。ここで、青酸カリ=アーモンド臭という誤解が生じて巷に広がってしまったらしい。まあ、ストーリーそのものにはほとんど関係ないから、どうでもいいことなんだけど。

 河合克敏『モンキーターン』(少年サンデーC、小学館)15巻。毎度のことだけど、競艇の技術だけではなく競艇場や選手の生活といった色々なディテールを盛り込みつつ、競艇の面白さを描くのが抜群にうまい。週刊誌に連載しているのにこういう細かいことをいつ調べているのかと思ってしまう。

 あだち充『いつも美空』(少年サンデーC、小学館)2巻(1巻はココ)。前には「マンネリ」と書いたけど、この巻を読むとちょっと考え方が変わった。「マンネリ」というよりも「ご都合主義」かな。主人公の美空は芸能人の物真似がうまいという設定だけど、だからといっていくら何でもソフトボールのピッチャーが投げる変化球を数イニング見ただけで完全にコピーしてしまう、というのは都合が良すぎると思うねんけど。そのご都合主義をそれなりに読めるものに仕上げるバランスの取り方がこの人はうまいのかもしれない。

 皆川亮二『ARMS』(少年サンデーCスペシャル、小学館)15巻。クライマックス。あとはうまくエンディングへと向かってくれればいいねんけど。『スプリガン』を読んだ限りでは、この人は敵がインフレ化してストーリーが破綻する「『ドラゴンボール』現象」を避けるのがうまいから、大丈夫とは思うけど。


12月21日

 貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン』(角川コミックスA、角川書店)6巻を読む。特に感想はない。ちなみに、私はアニメ版をまったく見たことがないのだけれど、マンガ版だけを見ていると、それなりに面白くはあってもごく普通の近未来ものぐらいにしか見えない。


12月22日

 網野善彦『「日本」とは何か』(日本の歴史00巻、講談社)を読む。これまでの網野氏の研究の集大成的な本であり、「日本」という呼称は7世紀になって初めて生まれた、古代より日本は同一世界であったのではなくさまざまな地域に分立して存在していた、日本は島国ではなく海を通じて東アジアとのネットワークが存在していた、「百姓」とは「農民」だけを指すのではなくさまざまなな職能人を含んでいた、近世日本は「百姓」と呼ばれた職能人や商人による活動が盛んに行われていたのであり決して農業だけが中心産業ではなかった、などといった網野史観が分かりやすく展開されている。どれも非常に刺激的で面白く、日本史だけではなく歴史に興味のある人は読んで損はないだろう。
 ただ、引っかかることがひとつあって、それは「日本論」の扱いについて。「孤立した島国」「瑞穂国」「単一民族」といった正しくない概念によって、日本人のアイデンティティがいわば捏造されてきた、と網野氏は批判している。確かに、こうした批判は学問的に見れば正しいと思う。とは言え、網野氏の言う日本は1つの社会ではないという見解が学問的に正しいものであろうと、それを現在の思想の批判の立脚点として無思慮に使うことは危険なのではなかろうか。
 網野氏はマルクス主義的な進歩史観に以前から批判的であった。そうした進歩史観は部落民や在日朝鮮・韓国人差別へを糾弾しながらも、日本という1つの国家の枠組を前提にその主張を述べてきたはずだ。日本という国家の中にはそういった被差別民もいるけど、国家としての日本の制度の中でその差別を解消すべきだとしてきたと思う。そして、現在の保守的な論者は日本のアイデンティティが崩れつつある現状を立て直すために、日本が独立した文明圏として古くから存在することを、その主張の中心点に置こうとしている。どちらの論者も日本は1つの国家だという前提の元で自らの主張を行っている。
 つまり、こうした学問的な見解はその論者の立つ位置や時代の趨勢によって、どのようにでも利用されかねない危うさを持っていると言える。現に第2次大戦中における日本のプロパガンダとして、「日本は多民族国家である」という主張が学術研究の結果に基づいて使われていたことは、小熊英二『単一民族神話の起源−「日本人」の自画像の系譜』(新曜社、1995年)において詳細に論じられている。自分の主張もこうした見解に利用されるかもしれない、という危険性を網野氏は把握しているのだろうか。
 現代社会の評論を歴史に基づいて行う場合には、自らが依って立つ立場をはっきりと自覚し、他の論者の見解を否定するのではなく、そうした見解をも呑み込みうるような、よりしっかりした見解を立てる態度を取らないといけないのだろう。そうしないと、自分の利益になる歴史事実のみを取り上げる代物になってしまうか、学問的中立を装っているがゆえにどうにでも利用されてしまうような衒学的なものになってしまうだろう。
 もう一つ言えば、なんの根拠もない紀元節を記念して2月11日を建国記念日という祝日にしている、という例から「単一国家論」を非難している箇所があるが、こういう言い方もやはり普通の人にはピンとこないのではなかろうか。一般人にとって建国記念日は単なる祝日の1つであり、特にその意義について考えもしないはずだ。重要度でいったら、祝日ではないクリスマスの方が高いことは間違いない。網野氏が自分の見解を現在の保守的な言辞を批判するために、一般人にとって馴染みのない考え方を用いることは戦略的に正しくなく、上滑りしてしまう可能性が非常に高いと思う。
 長々と書いてきたが、最初にも書いたとおりこの本自体は非常に面白いので、決して批判するつもりはない。ただ、学問的見解を現代社会の論評に用いるときの危険性を、研究者はきちんと理解しているのだろうか、ということを考えさせられてしまった。

 今日の「探偵!ナイトスクープ」(ABC)でついに新局長が発表されたけど、本当に西田敏行なの? 確かに予想外の人選だけど、あまりにも意表を突きすぎているような気が…。


12月24日

 板垣恵介『バキ』(少年チャンピオンC、秋田書店)6巻を読む。掌の中に真空状態を創り出してそれを相手の顔にかぶせて相手が呼吸すると失神してしまう、柳龍光の使う空道という技によって主人公のバキは敗れる? 掌の中に真空状態という設定はとりあえず置いといて、酸素含有量が6パーセント以下の空気を吸うとそれだけで人間は意識を失う、とこのマンガの中では説明されているが、これは本当なのだろうか。もっともらしいのだけど、本当なのかどうかよく分からない。まあ、本当であろうがなかろうが、別にどうでもいいことと言えばどうでもいいことなのだけど。


12月25日

 広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』(講談社現代新書、1999年)を読む。近年の子供の凶暴化やマナーの低下を、家庭の教育力の低下からくるものとする言説を考え直す。戦前の家庭では子供の教育は行われていなかったに等しかった。子供は勝手に育つものと考えられて共同体の掟やしがらみの中で育てられ、ある程度の年齢になれば丁稚や奉公に出されることが常であった。しかし戦前にも、都市部の新中間層は子供への家庭・学校での教育を欲するようになり、子供にしつけと知識を教え込もうとすると同時に子供らしい無垢さを保とうとする矛盾を抱え込むようになる。それは戦後になっても続き、教育は家族が行うという考えが一般的になり、戦前と比べて家庭が教育の重圧を単独で担わなくならねばならなくなったことが、現在のような状況を生みだしたとする。
 子供の問題を「家庭の教育力の低下」に結びつける物言い、つまり「昔は良かった」という単純な言い方に対する的確な反論だと思う。しかしながら、この本にそうしたことを求めるのは筋違いなのかもしれないが、これからどうすべきかという処方箋は残念ながら明確な形では提示されてはいない。あとがきで、完璧な親となることを求めずに、「これだけは伝えることが出来た」という風に考えればいいのではないか、という提言をしていてるぐらいだ。それは親としての心構えとして正しいとは思うのだが、それだけでは現在のなんとなく淀んだ状況を改善することは出来ないのではなかろうか。こんな偉そうなことを言っておきながらどうすればいいのかは私もよく分からないが、1つ言えるとすれば、現在は過去に見ることの出来ないほど生活レヴェルの均質化が生じている時代であるために、誰もが自分を特別なものと考えやすい時代だということを前提にした教育が必要なのだろうと思う。「平凡」を悪とする教育ではなくて、「中庸」として生きる生き方もあるという教育は行う必要があるのかもしれない。

2008年6月11日追記
 久々に少し読み直してみたのだが、しつけに関する状況は地方と都市部ではかなり異なっており、高度成長期における地方共同体の崩壊と共に、都市部での教育が一般化していったという印象を受けた。上の文章でも少しはそれについて触れているが、その辺りと関連していることを中心にメモを。
 かつての共同体によるしつけを理想化する見方には、見落とされているネガティヴな点がある。第1に、村のしつけには目上の人物への忍従を説く抑圧が組み込まれていたこと。第2に、生活の中で自然に学ぶ方法は、望ましくない結果を生む場合もあったこと。たとえば、権力を振るう祖父母が孫を甘やかすことや、家族内の複雑な人間関係を見たゆえに人間不信に陥ることもあっただろう。また、迷信や因習を無批判に伝達する側面もあり、「昔からそうだった」という言葉に基づき、こき使われた子供や奉公人もいただろう。第3に、家族が離散したり共同体からはみ出した子供は、庇護してくれる者もなく外部で生きねばならなかったこと。第4に、共同体のしつけはあくまでもローカルなルールに過ぎなかったこと。そのため、都会では挨拶ひとつ出来ないのも当たり前になってしまう(32〜37頁)。
 特に戦前の村の間では、学校での教育内容が実生活とはかけ離れたものと意識されていた。そのため、学校の焼き討ちや村落習俗との対立などが生じていた。しかし、子供たちが学校へ通うという慣行が定着すると、子供を預けっぱなしに出来るという点で受け入れられた。その間は子供を気にせず働けるからであり、だからこそ学校教育の内容にはさほど文句も言われなくなる(39〜40頁)。
 一方で、大正期の都市では家庭での教育が行われるようになるものの、それ以前の都市下層には、そもそも家族という単位が定まっておらず、狭い長屋の一室に数家族が同居したり、両親が子供を置き去りにするなどの行為が珍しくなかった。加えて生活環境も酷いために、子供のしつけを行う余裕などなかった。やがて、上記のように、都市部の中間層から学校と家庭での子供の教育を望む者が出てくるのだが、これはこの頃に子供期が「無知で未熟な固有の段階」と考えられるようになったからだとする(70頁)。もちろん、これは学校へ通うことによって子供期が発見されたためだろう。これが戦後になると、知識人は農村社会の封建的性格の克服を訴えるようになるのだが、その先鋒を担ったのが教師であった(84〜85頁)。著者は、結局のところ高度成長によってこそ教師たちの夢は実現したと見なしているが(96〜97頁)、その土台には学校の存在があったこともやはり疑い得ないだろう。この辺りは、柳治男『<学級>の歴史学』にもつながる。
 なお、1936年に宮下正美は、家庭での教育が進展することで、子供は理解力があり社交的であり明朗になったものの、熱意に乏しく自分の好きなことへと偏ってしまい、さらには感謝の念が薄い、と述べている。「『戦後教育が、要領だけよくて我慢強さのない、自分の殻に閉じこもりがちの子供を作った』などと批判したりするのを目にするけれども、実はすでに戦前のこの時代に、そうした子供たちは登場していたのである」(72頁)。著者は、この当時では社会のごく一部分を占めるに過ぎないが、とは断りを入れているとはいえ、以後は教育する家族が学校での教育と共に当たり前になっていったのであり、いわば現在は、そうした戦前からの流れのどん詰まりにあると言える。


12月26日

 市立図書館で借りた「るろうに剣心・オリジナルサウンドトラック2−DEPARTURE−」を聴く。何曲かアニメ放送中に聴いたことのない曲があるのは気のせいか。そういう曲を聴いてもあんまりいいと思わないことから考えると、サウンドトラックというのは曲がただ良いだけではなく、その曲が使われている場面が思い浮かばないとのめり込めないのかもしれない。と言っても、聴いたことのない曲はどれもいまいちぱっとしない曲な気がするから、何とも言えないが。しかしまあ、ウチの市立図書館にはこんなものまで置いてるねんなあ。


12月27日

 赤田圭亮『サバイバル教師術』(時事通信社、1998年)を読む。1970年代から横浜で勤務している現役中学教師が中学校の変容と現状を語り、その中での教師のためのサバイバル術を記す。かつて学校は平等な競争する場所であったために敷居の高い聖性を持つ場所であったが、進学率が上がっている今の学校は単なる通う場所となった。そうした学校の枠組の変質が現在の混乱を生じさせていると述べる。
 いまマスコミなどでは「子供が昔と変わった」という意見がよく言われている。この本を読んでいると、変わったのは子供ではなくて学校に対する子供の意識なのかなあ、と思う。世間の人々の意識の中で、聖なる場所であった学校が普通の場所に変わったことに対して、学校がついていけなくなったのではなかろうか。ただ私はそれが悪いことだとは思わないけど。
 では本当に子供が悪くなっていないのか、というとこれもよく分からない。私は本屋でバイトをしているが、態度のいい子供もいれば、悪い子供もいる。でも、「今の子供は…」と何でもひとまとめにして論じる言説は、やっぱり好きにはなれない。こうした言い方は「俺はきちんとしていた」という自画自賛の裏返しにすぎないようにしか見えないことがあるからだ。
 以前、オバタカズユキ氏の『何の為のニュース』を読んだときに、オバタ氏の「教育問題は論じなくていい」とする見解に対して、それは言論人としては無責任な態度では、と疑問を呈したことがあったが、今はこの意見もある意味正しいような気がしている。要はさっきも言った「今の子供は…」と安易にひとまとめにして決めつけるような論じ方が多すぎることに、オバタ氏はアンチテーゼを示したのだろう。でもその結論として「論じなくてもいい」というのは、やっぱり中途半端じゃないかなとは思うねんけど。…と、こんなことを書きながら、私自身も感想を書いているだけで、何ら具体的な提言をしていないので、偉そうなことは言えないのだが。


12月28日

 久保博司・別冊宝島編集部『日本の警察がダメになった50の事情』(別冊宝島REAL、宝島社、2000年)を読む。最近の警察の不祥事に則しながら、警察内部の問題をキャリア制度・現場の事情などから探る。色々な警察の内部事情が述べられているが、警察も普通の世間と変わらないんだな、と実感。ノルマがあって、嫌な上司もいて、その上司におべっかを使う奴がいて、派閥がある。その細かい内実は違っていても、普通の会社組織と大きな違いがあるわけではない。だからこそ、著者の言う「民主主義国家において、警察は市民自身による自分の安全を守る義務を補完するための組織にすぎない」という事実を意識しておかなければならないのだろう。細かいことで興味深かったのは、ノンキャリアならば高卒よりも大卒の方が昇進の面で不利だということ。これは明らかに普通の会社と違うところだと思う。
 ちょっとだけ突っ込みを入れるならば、イザベラ=バード『日本奥地紀行』(平凡社東洋文庫、1972年)で「新潟は美しい繁華な町である」と記している部分を引用して、都市を汚す者に対する警察の取り締まり活動によって日本全国の汚い不潔な都市が清潔になったとしているが、これはちょっとどうかなあと思う。バードの本の中でははこういう風に綺麗な町の記述は珍しく、特に田舎についてはその不潔さを強調する記述がほとんどである。だからといって、日本全国が汚かったかというとそうではなくて、江戸なんかは当時の世界の都市の中ではトップクラスの清潔な都市だったはずであり、逆にパリなどは汚物まみれの都市であった(これらについては具体的な文献名が思い出せませんので、間違ってたらすいません)。なので、警察によって日本が欧米並の清潔な都市になったというのは違うのでは、と思う。


12月29日

 小山ゆう『あずみ』(ビッグC、小学館)20巻を読む。このマンガも最初の頃は、隠密(じゃなかったかな?)として育てられ、任務中に仲間を失って孤独になり感情を揺さぶられるながらも、冷酷に人を殺し続ける主人公のあずみの心理描写が迫ってきたけど、だんだんと心理的葛藤の描写の凄みが薄れてきているような気がする。江戸時代初期を舞台にした活劇ものとして面白いねんけど、最初の頃の迫力に比べるとちょっと物足りない。そろそろどのように終わるかを考えねばならない時期に入ったように思える。


12月31日

 本田和子『女学生の系譜』(青土社、1990年)を読む。明治30年代以降の女学生の位置と社会におけるその意味を探る。明治30年代以前には、女子教育は非効率的でありお金や時間を費やすに値しない存在とみなされていた。明治32年の「高等女学校令」によって女学校が法的に認められると同時に、人々の意識においても女学生が「あってもよいもの」として認識されるようになる。これ以降に、現在の私たちが思い描く「女学生」が現れ始める。そこは世間から隔絶された世界ではあったが、生まれついての令嬢として女学生の地位を享受できる上流階級の女性と、そこへ属することによって下層・中層階級から脱出しようとする女性とが混在している場所でもあった。
 派手さはないけど、なかなか面白いテーマであり丁寧に調べてあると思う。これ以外にも当時の女学生の社会における風俗も詳しく述べられている。彼女たちが雑誌に投稿する際に、現実離れした綺麗すぎるペンネームを付けていたということが興味深かった。本田氏は「明治末期のどこそこの娘という『生身の現実』を無化している」(188頁)と書いているが、これって今で言えばオタクややおいの人たちが有り得ないような名前でペンネームを付けるのと同じ現象ではなかろうか?


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