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2001年1月の見聞録



1月1日

 昨日の夜、バイトから帰ってくるとすでに家族は晩飯を食べ終えていて、俺の分だけが残っていた。豚肉の角煮・塩鮭・トマトとブロッコリーのサラダがおかずだった。今日、朝はおせちを食べて、昼飯はそばだった。…何か間違ってる気がするねんけど。

 J.ハーバーマス『公共性の構造転換 第2版』(未来社、1993年)を読む。1990年に出た改訂本(旧版の出版は1962年)の翻訳。改訂版といっても本文には手を加えておらず、日本語にして50頁ほどの序言が付けられている。古代社会において厳然と別れていた国家という公的な社会と家庭という私的な社会が、市民社会の萌芽と進展によってどのように変質していったのかについて、歴史的事実や思想家たちの諸著作から探る。
 現代社会は家庭が私的なものとして分裂しつつも直接に社会と結びついているとしている指摘が興味深い。ここから考えると、家庭内部の崩壊は、外面的には家族の個人主義化が進んでいるためのように見えるが、実際には家族全員が社会と直接に結びついているために生じていることになる。これが正しいとするならば、父性の復権は「昔の」ではなく「古代的な」私的な社会の復活によって初めてなされることになる。


1月2日

 しげの秀一『頭文字D』(ヤングマガジンC、講談社)20巻を読む。車の専門用語は全然分からないけど、やっぱり面白い。このマンガは、絵の迫力はものすごいけど、コマ割りは極めて平凡なものだということに今になって気づいた。でも、そのコマとコマの間をぶち抜くように擬音がでっかく描くことによって、コマ同士が流れるようにつながりその絵の迫力が生きている。擬音にはこういう使い方もあるのだということに、恥ずかしながらようやく分かった。

 中古CD屋で「FINAL FANTASY \ Original Soundtrack」(1780円)を買う。前にも書いたように、うざったくなってFFZを途中で放り投げてしまったのでゲームそのものをやっていないのだが、サウンドトラックだけはV以降すべて聴いている。[、そして今回の\と聞いていると、楽曲がだんだんと淡泊になっている気がする。FFの音楽は静と動のコントラストが絶妙で、少ない音数でも厚みのあるダイナミックな音楽を作るのがうまかったと思う。ドラクエがスーパーファミコンのV・Yと今ひとつ薄っぺらい音だったのに対して、FFのV・Yは同じスーパーファミコンでも迫力のある音を作っていた。FFZはV・Yと同じ方向性にあったが、[以降には同じような「静」のタイプの曲を、重厚な曲調やあっさりした曲調で微妙に演奏を変化させる方向性へと向かっている気がする。個人的には、FFの音楽では「静」から「動」へと盛り上がる部分が好きだったので、ちょっと物足りなく感じてしまう。
 ハードロック/ヘヴィ・メタルを聴かない人には分からないたとえを使ってしまうが、同じファンタジーっぽい音楽だとしても、V・Y・ZがBLIND GUARDIANやRHAPSODYだとしたら、[・\はBLACKMORE'S NIGHTに近いような気がする(一応、書いておくと、前者は重厚なバックコーラスやシンフォニックな音がミックスされたヘヴィ・メタル、後者は女性ヴォーカルによるアコースティック主体の音楽)。違う言い方をすれば、リッチー=ブラックモアがBLACKMORE'S NIGHTを率いて「SHADOW OF THE MOON」を作ったときは楽しんで聴けたけど、「UNDER A VIOLET MOON」が出たときには「ハードロックのアルバムを創ってくれ」と思ってしまうのに似ているのかもしれない。


1月3日

 今朝の産経新聞の社会面に「わたしたちは何を失ったのか」という特集記事が載っていた。第1回目である今日のサブタイトルは「女らしさ」だった。つまり今の世の中の女性からは「女らしさ」が失われているのではないかという内容である。取材班の女性記者は「『女らしさ』という概念自体が男性本位のものである」と主張し、今の若い女性たちは「美」や「知性」に加えて「強さ」にあこがれていると述べている。
 まあ、記事の内容自体は最近よく見られるようなものだと思う。ただ、記事の末尾にある「世紀の推移の中で失われた古き良きものがある」という文章がどうしても気にかかる。こういう文章を読む度に思うのだけど、この人たちが言う「古き良き」とは一体いつの時代のものを指すのであろうか? 自分の理想像を「古き良き時代」という勝手な妄想にあてはめて主張しているように見えてしまう。まあ、簡単に言うと、オッサンのぼやきにしか聞こえないねんなあ。「古き良き」って言うけど「古き悪き」ものだっていっぱいあるはずやのに、それについては何も言わないから、どうしても居酒屋でオッサン同士でグダグダ言っているにすぎない文章に見えてしまう。


1月4日

 村上龍『“失われた10年”を問う』(日本放送出版協会、2000年)を読む。「失われた10年」とはバブル崩壊以後から今までの10年のことであり、バブルおよびこの10年に関して経済学者・財界人などと村上氏が行ったインタビューと、5つのアンケートに対する読者からの解答を載せている。この本から窺える村上氏の姿勢は、バブル崩壊以後の現代は本当に悪い時代だったのか、ということである。確かに景気は悪化しているが、だからといって高度成長期時代の生活レヴェルに戻りたいだろうか、という考え方はかなり説得力があると思う。ただ、アンケートの中に「生き直すとしたら、どの時代に戻りたいか」というものがあるのだが、この本の中には現代と答えたものしかほとんど取り上げられていない。村上氏はあえてそうしたと述べているが、それ以外の解答はどのようなことを言っているのか読んでみたい気がする。


1月5日

 田中圭一『百姓の江戸時代』(ちくま新書、2000年)を読む。江戸時代は厳しい身分制社会であり、農業を家業とする百姓は虐げられていた、という江戸時代に関する通説的な見解について反論を行う。江戸時代は決して固定していた身分制ではなく、農民から士族、または士族から農民へと身分を変えることも行われていた。そして検地は農民を土地へと縛り付けるものではなく、逆に百姓にその土地に対する所有権を確立させる役割を担っており、それによって百姓は単婚家族を形成するにいたった。そして、百姓は農業だけを行っていたのではなく、儲けるために商品生産のための産業をも営んでいた。そうした中で、百姓は自分たちの民意を役人に告げることさえ行っており、これは明治期における自由民権運動の源流の1つであった、とする。
 このように色々な興味深い論点を提示している。個人的には、幕府の御触書は社会に余裕が出てきて生活を楽しんでいることに対する道徳訓であり、それを法律的な規制とみなすのは後世の研究者による後付にすぎない、と論じているのが一番興味深かった。また、農民が様々な事業を営んでいたするところは、網野善彦氏の「百姓=農民否定論」に近い気がする。ただし、著者は網野氏には一言も言及していないが。
 なかなか面白い内容なのだが疑問もある。まず史料の地域的な偏りが気になる。本書で挙げられている江戸時代に関する史料のほとんどが佐渡と越後のものなので、本当に日本全国が著者の言うような社会であったのだろうかと思ってしまう。実際、本書の冒頭で「それぞれの藩がそれなりに自立し、特産物を生産して平和な国を築いてきた」(10頁)と述べている。また、著者の言うようにヨーロッパには特定の地域について述べた名著が多いのに、日本の場合にはそういうものは一事例の報告であるとされてしまう、というのは本当なのかもしれない。しかしながら、ヨーロッパにも細かく調べただけの本というのはいっぱいある。大事なことは、調査した特定の地域がその時代や社会全体の中でどのような位置づけにあるのかをしっかりと定義づけることではなかろうか。この本では佐渡や越後が江戸時代全体の中でどのように位置づけられるのかについて述べられていないので、本当に著者の見解が江戸時代全体にあてはまるのかが気になってしまう。
 それと、単婚家族化が進んでいたことや身分制内部での移動があったことを、いくつかの事例を取り上げて例証しようといるのだが、それが全体の中でどれくらいのパーセンテージを占めるのかが明確にされていないために、本当にそうした事例がよく見られたのか、それとも全体的には少数であったのかが、よく分からないこと気になった。
 とまあ、揚げ足を取るようなことを書いたが、この本は刺激的で面白い本であることは間違いないのだから、新書であるこの本にこうした細かいことを求めすぎてはいけないのかもしれない。


1月6日

 羅川真里茂『しゃにむにGO』(花とゆめC、白泉社)1〜5巻を読む。『赤ちゃんと僕』(花とゆめC)は読んでたけど、このマンガはなぜかいままで読む機会がなかったので読んでみた。読むまでどんなジャンルのマンガかまったく知らなかったのだけど、まさかテニスマンガとは思わなかった。少女漫画でスポ根マンガっていうのは、今はかなり珍しいんじゃないだろうか? テニスの天才でありながらどうしても熱くなれない滝田留宇依。陸上のトップアスリートでありながら、惚れた女がテニスをやっていたからテニスをはじめて、あっという間に上達していく天才・伊出延久。この2人がなんとなく『スラムダンク』の流川楓と桜木花道にダブって見えるのは気のせいだろうか? 男性向けスポーツマンガと違って、天才たちさえもたとえ相手に勝っても葛藤し続ける内面心理が描かれているところが興味深い。


1月7日

 喜田村洋一『報道被害者と報道の自由』(白水社、1999年)を読む。名誉毀損にあたる可能性のある報道をなされた場合について、アメリカと日本の事例を取り上げて論じる。アメリカでは「公人」と「私人」に対する区別が明確に存在しており、「公人」に対しては事実の正確さではなく、報道に「現実の悪意」があった場合に名誉毀損と認定される。日本では「公人」と「私人」の区別は曖昧であり、「調査の正確さ」が不十分であった場合に名誉毀損とみなされる。こうしたシステムであるがゆえに、日本では「ロス疑惑事件」や「松本サリン事件」の時のように被疑者である段階の人間への過剰な報道が見られるとする。アメリカのようなシステムへいきなり移行することは難しいとして、「報道された内容が公共の利害にかかわる事実に関するものである」場合には名誉毀損ではないようにすべきと主張する。
 私は少なくとも日本で被疑者への過剰な報道が見られる原因は、「公人」と「私人」の区別がないという理由に加えて、そうした報道をするマスコミの記事や放送に誰がその記事の責任者であるかがきちんと明確にされていないことにある気がする。これは特に新聞や週刊誌などに言えることであって、いざというときに自分の記事に責任を持つ必要がないから、会社や雑誌の看板を盾にして好き勝手なことを言えるような状況が生まれたんじゃないだろうか。ただし、日本以外の諸外国ではどのような状況なのかよく分からないから、何とも言えないのだけど。


1月8日

 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』(少年ジャンプC、集英社)123巻を読む。4年に1度だけ起きる日暮熟睡男が久々に登場。今回は日暮が眠っていたカプセルが行方不明になり、それを探す話。


1月9日

 松本光司『サオリ』(ヤングマガジンC、講談社)を読む。貧乏画家ナオキの下に突然転がり込んできた美少女サオリ。彼女はポチと呼ばれる冴えない中年男を下僕として付き従えていた。サオリにはまりこんでいくナオキに、サオリはポチを殺すように唆す。いつまでも戸惑っているナオキの家からポチが消えて、新しい男が転がり込んできたため、ナオキは今度は自分が殺される番だと怯える。そして…。
 続けて松本光司『クーデタークラブ』(ヤングマガジンC、講談社)1巻を読む。女子便所を覗いていた進学高校に通う潤は、オナニーしていた少女を見つける。しかし、女装をして欲求不満を解消していた現場を、その少女・絵依子に盗撮されてしまい弱みを握られる。自分の高校にある謎のクラブ「クーデタークラブ」に連れて行かれる…。
 とりあえずは、可もなく不可もないという感想、かなあ。常軌を逸するような物語を描こうとしているのに、無難にまとまりすぎているような気がする。でも、さらに狂気を宿すことが出来るようになれば、もっと怖いものを描いてくれるかもしれない(…なんか偉そうな書き方になってしまった)。


1月10日

 「Metal Box」から借りたJOE LYNN TURNER「HOLY MAN」(2000年)を聴く。後期RAINBOWを想起させる気持ちのいい疾走する曲に始まって、RAINBOWを彷彿させるいい曲がいくつもあって嬉しくなる。“Anything”はもろに“Cant Let You Go”パート2だし、“Babylon”は“Gates of Babylon”と“Stargazer”をミックスさせたような曲だ。ただ、色々な人がすでに言ってるが、最初の方と最後の方のRAINBOWっぽい曲と、中間部のブルージーな曲との差があって、アルバムとしての統一感を損なっているような気がする。

 市立図書館で借りた「天空の城ラピュタ」(1993年)を聴く。あれ、「ラピュタ」ってこんなにテクノっぽい音楽があったんや。でも、テクノ系はあんまり好みではないけど、このアルバムの曲は結構大丈夫やなあ。


1月11日

 谷岡一郎『「社会調査」のウソ』(文春新書、2000年)を読む。新聞・雑誌などのマスコミや学者による社会調査のいい加減さを、様々な実例を取り上げて批判する。何を目的とした調査か、サンプル総数と有効回答率はどれくらいなのか、といった基本的なことすら守られていないものや、前提とする仮説に間違いがあるものや、調査そのものに何らかのバイアスがかかって結果を誘導しようとするものまで、色々なタイプを俎上に挙げている。そして、ほとんどの先進国にはある中立のチェック機関を日本にも設立することと、データの公開をきちんとすべきであることを主張する。
 これはかなり刺激的で面白い本だった。「社会調査の半数はゴミである」という過激的な言葉を最初に述べているが、すべて実名入りの分かりやすくかつ的確な批判であるためにその言葉も本当のような気がしてしまう。著者は自分に非があれば謝罪すると言っているが、はたしてこの鋭い批判に反論した人は誰かいるのだろうか? ただし、実名入りといても新聞や雑誌の場合には、ほとんどの場合においてその新聞名や雑誌名のみがあがっている。実際にそれらの記事には執筆者名が書かれていないのだろう。それらの媒体で記事を書く人間は自分の仕事に対して責任をとらなくていいために、そんないい加減な調査ができるのではないのかと思ってしまう。


1月12日

 矢吹健太朗『BLACK CAT』(少年ジャンプC、集英社)1巻を読む。賞金首を捕まえることで金を稼ぐ「掃除屋」トレイン。彼は昔、秘密結社クロノスの暗殺者として恐れられた男であった…。現代のアメリカに似た架空世界を舞台にした活劇物語。
 主人公の相棒のスヴェンがなんとなく次元大介っぽいので、『ルパン3世』のイメージが頭に浮かんでしまった。この巻の後の方に出てくるリンスは健全な峰不二子みたいな感じだし。ただ、まだキャラクターの魅力が『ルパン3世』ほどにまで至っていないけど。それと、まだ舞台となっている世界の面白さがはっきりと見えてこない。小説と違ってマンガでは提示できる情報量が少ないので、マンガで架空世界を作るのはかなり難しいのだと思う。これからに期待、かな…と思ってたけど、バイト先の本屋ではこのマンガは20冊以上入ってきたのに1週間も経たずに売り切れてしまった。すでに『週刊少年ジャンプ』本誌では結構盛り上がっているのかもしれない。


1月13日

 大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』(講談社選書メチエ、1998年)を読む。1620年、プリマスに到着した植民者たちはコミュニティを形成する。しかし、そこには篤信の信者も少なく、コミュニティ自体も弱小の存在にすぎず、近隣の植民地に吸収される。やがて独立戦争を経てアメリカは独立を果たしたのだが、東部と西部の対立が顕在化してくる。その時にアメリカを1つに統合させる神話として、ピルグリムと呼ばれるプリマスの植民者が選ばれた。弱小であり歴史の波間に消えたコミュニティであるからこそ、象徴として使いやすかったためである。そして、ピルグリムたちはフィクションの作品に理想化された姿で描かれ、彼らの生活は感謝祭の原型ともなった。つくられた近代国家アメリカといえども、イデオロギーから解放されることはないということがよく分かる。


1月14日

 内田春菊『波のまにまに』(文春文庫、2001年)を読む。1986年に出た短編集と1989年に出た中編マンガを1つにまとめたもの。中編マンガ「波のまにまに」はSMっぽいストーリーギャグマンガ、短編集は日常に起こる奇妙な恐怖を色々と集めたもの。不条理っぽいものよりも、ドロドロした人間関係ものの方が面白い。個人的には、明るく楽しいはずの大学の友人仲間の中で、自分だけが浮いてしまったように感じていく恐怖を描いた「真相」に惹かれた。この人は孤独に陥る恐怖を描くのがうまいんだなあ、と思う。


1月15日

 ヤコブ=ラズ『ヤクザの文化人類学』(岩波書店、1996年(現在は岩波現代文庫))を読む。日本文化論を専門としている外国人研究者によるヤクザに関するフィールドワークをまとめたもの。普通の日本人学者が同じようなフィールドワークを行っても、恐らくここまで踏み込んだ調査は出来なかっただろう。日本において周辺に位置せざるを得ない外国人研究者だからこそ、辺境に位置するヤクザ社会の中へ踏み込むことが許されたのだと思う。


1月16日

 「Metal Box」から借りたERIKA「COLD WINTER NIGHT」(1990年)を聴く。ROXETTEをもう少しハードロックよりにしてさらに泣きの度合いを高めた感じで、哀愁のハードポップが堪能できる。ちょっとハスキーな感じの声なので、女性ヴォーカルが苦手な人でも聴けるんじゃないだろうか。当時の夫であったイングヴェイ=マルムスティーンも1曲参加してソロをピロピロと弾きまくっている。


1月17日

 H.ゴルヴィツァー『黄禍論とは何か』(草思社、1999年)を読む。19世紀半ばから第1次世界大戦に至るまでの帝国主義の時代の欧米諸国において、黄禍という概念がどのように誕生・発展していったのかについて、イギリス・アメリカ・ロシア・フランス・ドイツの国ごとに見ていく。また黄禍という概念から帝国主義の精神世界をも概観する。現在の黄禍論はどのようになっているのかについてあえてほとんど触れず、帝国主義の時代のみに論述を絞っているために物足りなさも感じるが、当時の言論を丁寧に拾い集めて考証している労作だと思う。欧米諸国が台頭する中国や日本に脅威を感じて排斥を訴えたように、やがて日本もアジア諸国の脅威に怯えてその排斥を訴えるようになる日が来るのだろうか?


1月18日

 吉村明美『薔薇のために』(小学館文庫)56巻を読む(1〜3巻はココ)。物語もだんだんと佳境に入って、ついに、スミレとゆりが本当の兄弟ではないことがスミレにまでばれてしまい、スミレにとって「妹」としてのゆりではなく「女」としてのゆりだけがいることになる…。
 前も書いたように、文庫化されたついでにでもう一度読み直してみたのだが、やっぱり面白い。この人のマンガはキャラ立てがうまくいったときには抜群に面白くなる。このマンガも基本的な登場人物は芙蓉・スミレ・ゆり・葵の4人の兄弟姉妹と母親とばあやだけで、それにからむキャラがちょい役として登場するが、上記の登場人物があくまでも中心となって物語が進む。でも、その6人のキャラがゆっくりと様々に、しかも作者の意図を無視するかのように勝手に生き生きとぶつかり合うことでストーリーを盛り上げていく。この人の短編や中編が長編ものよりもそれほど面白くならないのは、短い展開の中ではそうしたキャラ立てが成熟する余裕がないからだと思う。


1月19日

 佐々木隆『メディアと権力』(日本の近代14、中央公論新社、1999年)を読む。幕末・明治から第2次大戦終結までの新聞の歴史を、新聞と権力の関係について特に重点をおいて論述する。よく新聞は反権力の象徴として取り上げられることがあるが、戦前期、特に明治期においては、殆どの新聞が政府の保護や政府要人からの援助を受けていた事実を明らかにしていく。新聞が権力の従属物であったという意味ではなく、商品としての新聞を出来る限り長く延命させるには政府からの援助が不可欠であったし、新聞そのものが権力から離れる性格と結びつく性格を同時に兼ね備えた存在であるため、と結ぶ。
 政治史と新聞の勃興とを関連させて概説的な論述となっているため、読んでいて知的興奮を覚えるようなタイプの本ではないが、基本的な流れが押さえてあるので便利な本だと思う。著者が言っているように、こういう新聞史の本は今まであまりメジャーではなかったと思うので、その点でも重要であろう。個人的には新聞史の研究がどうして今まであまり発展しなかったのかについて述べる序章と、著者が関川夏夫氏と対談している付録が一番面白かった。また、今でも相互規制や癒着の点で色々と問題視されている記者クラブの原型を、第2次大戦期の翼賛体制下の新聞会という組織に求めて、日本のシステムは戦時下の問題を引きずっていると主張することもある新聞に対して、新聞自身もその例外ではないと指摘しているのは興味深かった。


1月21日

 満田拓也『MAJOR』(少年サンデーC、小学館)33巻を読む(32巻はココ)。成長した自分を試すために自ら名門・海堂高校を飛び出した吾郎。そして、野球部のない聖秀学院に入学し、一から野球部を作り始める。このマンガは読んでて楽しめるのだけど、それは野球そのものの楽しさを描いたものではないのだと思う。ふと思ったのだけど、最近の野球マンガの中で、スポーツそのものとしての野球の奥深さを味あわせてくれるようなマンガって何かあっただろうか? 『ドカベン』はちょっとトンデモ臭さがあるし、キャラクターの魅力で引っ張っているような気がする。『あぶさん』は読んだことがないなあ。野球マンガというのは以外と難しいのかもしれない。

 高橋留美子『犬夜叉』(少年サンデーC、小学館)19巻。このマンガは、TVアニメ化されてから読み始めたのだけれど、正直に言うと凡作かなあ、と思う。決して面白くないわけじゃないねんけど、だからといって取り立てて面白いとも思えない。こういう冒険物は舞台設定かキャラクター設定のせめてどちらか1つがうまくいっていないと面白くない。舞台設定に関して言えば、『犬夜叉』の舞台はただ戦国時代となっているが、作品のために作り上げられた架空世界よりもなまじ知っている世界であるために、却って舞台設定の曖昧さがさらけ出されて物足りなさを感じてしまう。キャラクター設定に関しては、それぞれ特徴のあるキャラクターは多いのだけれど、どんどんと深みを増していくキャラやそうしたキャラ同士の絡みが目に付くわけではないように思える。『めぞん一刻』や『うる星やつら』をかつて愛読してた身としては、こんなもんじゃないだろうという気がして仕方がない。

 川原正敏『海皇紀』(少年マガジンC、講談社)11巻(10巻はココ)。魔道の武器を手に入れたロナルディアと対抗するために、海の一族の幻の都・海都に帰ったファンを待ち受けていたのは自分を拘留する新たなる海王一派であった…。海都は海を漂う巨大な戦艦だったのだが、海都を見てなんとなくラピュタを思い浮かべてしまったのは私だけだろうか?

 大島司『シュート 新たなる伝説』(少年マガジンC、講談社)4巻(3巻はココ)。神奈川県大会決勝戦の中盤戦。しかしながら、こいつらは本当に高校生なのだろうか? プロでもこんな技は無理じゃないのかと思うようなことを、ほとんどのキャラがバンバンやってると思うのだけど。


1月23日

 昨日はえらい目にあって更新どころではなかった。夜中に突然寒気がしたかと思うと、猛烈な吐き気と下痢に襲われた。お茶を飲んでも吐きそうになるし、下からは液体状のものが出続けるし、ヘロヘロだった。おまけに嘔吐物の中には血が混じってたし(たぶん、内蔵からではなく、吐きすぎて喉を切ったためだと思うけど…というよりもそうでなかったら困る)

 高見広春『バトル・ロワイヤル』(大田出版、1999年)を読む。映画が15歳未満禁止指定されて、何かと話題になってたので読んでみた(時期的に、話題に少し乗り遅れているような気もするけど)。知らなかったのだけれど、様々な小説賞で門前払いをくらったり選考委員から嫌悪されたりしていたらしい。フィクションをマンガ以外で読むのは久々だ。
 現代日本のパラレルワールドとおぼしき「大東和共和国」。全体主義国家であるこの国では、全国の中学3年生を対象に無差別に50クラスを選び、選別されたクラスに属する生徒全員で殺し合いを行い、最後の1人のみが生き残ることが出来る「プログラム」と呼ばれる殺人ゲームが行われていた。七原秋也の属する香川県城岩中学校3年B組の生徒は、修学旅行に向かうバスごと拉致され坂持金発なる政府の役人に、「プログラム」の実行を命じられる…。
 小説を読む限り、別にどこかの選考委員が言うような「非常に不愉快」な作品ではないと思うし「嫌な感じ」もしないのだけれど。映像にすると殺し合いのシーンがかなり陰惨なものになるかもしれないけど、そうした残虐なシーンのみによってしかこの作品を判断することしかできないとしたら、それは明らかに間違った態度だと思う。架空、もしくは近未来の全体主義国家における悲劇を扱った作品としては、SFに詳しくない私でもジョージ=オーウェルの『動物農場』(角川文庫、1995年)『1984年』(ハヤカワ文庫、1972年)レイ=ブラッドベリ『華氏451度』(ハヤカワ文庫、2000年)などがあることを知っているが、『バトル・ロワイヤル』はこれらの系列につながる作品だと思う。さっき書いたように、1クラス42人の生徒による殺し合いは残虐なのかもしれない。でも、そうした残虐なことが起こりうる全体主義国家の醜悪さを、逆説的に訴える作品として評価することも可能なのではなかろうか。少なくとも私には無差別に殺人を煽る作品ではないと思う。さらに言えば上記の海外SFの3作品に比べれば、遙かに未来に希望の持てる終わり方をしている点において、エンタテインメントしても後味の良い作品であると思う(もしかしたらSFファンの中には、そういうある種のハッピーエンドっぽい終わり方が気にくわない人もいるのかもしれないけど)。「坂持金発」などという明らかに坂本金八をもじった名前があるところも笑えるし(舞台となったクラスも三年B組やしね)。
 中学生が殺し合いをするという部分があまりにも残虐的だ、という見解もあるのかもしれない。でも、こうした状況に置かれたら、中学生でも自己正当化して殺し合いをせざるを得なくなるだけの知識が身についていることを描いている、とも言えるのではなかろうか。ただし、この中学生と言うところが逆に裏目に出ていると感じる部分もあって、留年して一歳年上の川田というキャラクター(一歳年上という部分が伏線だったのだが)が、国家批判をしている部分があるのだが、いくら一歳年上だからといって何だかあまりにも大人の理屈めいた意見を吐きすぎているような気がするし、同様に三村というキャラクターも伯父の影響とはいえあまりにも賢すぎるような気がする。でもそういう部分もエンタテインメントとしては十分に許される範囲内ではあるだろう。
 「これを見た子供たちに悪影響を与える」という考えから15歳未満禁止という処置になったのだと思うけど、これについて書くと長くなるからやめておく。ただ、もし「歌舞伎の心中物を見て心中をした」という事件が起こったとき、こういう考えを持っている人たちは歌舞伎に対してどういう意見を持つのか聞いてみたいものだ。歌舞伎に影響されてそういう事件は起こりうるはずはないというのならば、無意識に芸術としての歌舞伎の価値を映画よりも低く見ていることになると思うのだけど。そして、『バトル・ロワイヤル』を見ても、なんの事件も起こさなかった人がたくさんいるという現実はどうなるのだろうか? きちんと統計を取ったわけでもないので何とも言えないが、現在の車の普及台数と車による人身事故のパーセンテージに比べれば、『バトル・ロワイヤル』を読んで犯罪に走った人間のパーセンテージはずっと低いと思うけどなあ。車は現在の生活に必要なものだという反論があるかもしれないけれど、文学として、あるいはエンタテインメントとして必要な人間の今の社会にはいるのだとも言えるのではなかろうか。別にこの作品を巡って議論が交わされるのは間違いではないと思うけど、反対する人は自分が理想とする「子供像」を押しつけて、とにかく反対と言っているにすぎないような気がしてならない。
 ところで、どうでもいいしょうもない疑問なんだけど、タイトルが「バトル」という英語と「ロワイヤル」というフランス語のチャンポンになっているのはなぜだろうか? 英語で「バトル・ロイヤル」だとあんまり格好良くないと判断されたからかもしれないけど、個人的にはチャンポンの方が不格好に見えるのだけど。どうせなら、「バタイユ・ロワイヤル」とフランス語で統一した方がいいと思うが、まあ別にどうでもいいか。


1月24日

 日高万里『世界でいちばん大嫌い』(花とゆめC、白泉社)10巻を読む(9巻はココ)。以前に、このマンガは「登場人物それぞれが、嫌いだったはずの人間に惹かれていく物語だったかとようやく気づいた」と書いて、「このマンガの中での最大の憎悪感情、つまり真紀への憎悪から、沙紀が解放されたとき、このマンガは終わるのだろうか?」と考えて「希望としては、沙紀と真紀の話が終わった後に、エピローグへと向かって欲しいなぁ」自分勝手に思った。しかしながら、この巻では沙紀が結婚して新たな生活を始めることによって真紀への憎悪から解放されたのだけれど、どうやら真紀が父親の美容院へと移り、万葉と離ればなれになってストーリーが新展開するようだ。話がダレなければいいのだけど…。

 羅川真里茂『しゃにむにGO』(花とゆめC、白泉社)7巻(1〜5巻はココ)。6巻を読む前に間違って7巻を読んでしまった。まあいいか。新コーチ・池田は部員の指導を行いながら、才能がありながらもテニスを楽しめない留宇依に、人からの学び方を知らず人に教えることしかできない今の留宇依に自分から学べと諭す。そうした新コーチの登場はマネージャーの自分の居場所を失ったと感じたひなこは自ら退部してしまう。ひなこが池田に退部させられたと信じ込んだ延久は、ひなこの復帰をかけて練習試合に挑むが、相手は大学生だった…(なんか、あらすじのまとめ方が長すぎるかな、これは)。
 「誰かのために役に立っている」ことに自分の存在意義を見出してしまうのは、「自分が誰にも役に立っていないかもしれないこと」を直視するのを恐れる感情の裏返しなのかもしれない、とこの巻でのひなこを見ていて思った。


1月25日

 ロナルド=ハイアム『セクシュアリティの帝国』(柏書房、1998年)を読む。1990年に出た原著の翻訳であり、近代イギリスとその植民地における性のあり方について、フェミニズムやフロイト流心理学といった概念的な手法によってではなく、歴史学的な再構成を行う方法論によって考察する。ヴィクトリア朝前期までの近代イギリスにおいては、売春や同性愛といった家庭外における性的な放縦は決して珍しいことではなかった。しかし、ヴィクトリア朝後期になると社会浄化運動が生じたため、こうした性的放縦は排除されていく。しかしながら、植民地においては、こうした関係は続き、独身男性は現地の女性と結婚する例も多数見られた。
 著者が序言で、出来る限り概念的装飾を取り払って伝統的な形式の歴史研究をしたい、と言及しているように、非常に詳細な資料に基づく手堅い論考であり、読みごたえがある。ただ、こういう言い方をしては身も蓋もないのかもしれないが、橋本治『蓮と刀』を実証的にすればこういう本になるのだな、という感想を持ってしまった。要するに、家庭内に家父長的な関係しか持てず男同士が仲良くなる方法を忘れたオトコは、家庭外のセックスしかも自分が上位のセックスをしなければ心が満たされなくなった、という『蓮と刀』のテーマを学問的に検証すればこういう本になるのだなあ、と感じた。別にこの本の重要性を低く見ているのではなくて、学問と文学の差が見えて面白いなあ、と思っただけである。

〔追記〕
 この本でもあちこちで使われていたので、なんの疑問もなく「ヴィクトリア朝」と書いていたけど、これってちょっとおかしいような気がする。一般的にはイギリスに「ヴィクトリア朝」という時代はないのだから、「ヴィクトリア女王時代」もしくは「ハノーヴァー朝期のヴィクトリア女王時代」とすべきではなかろうか。もしかしたら近代イギリス史の研究者の間では「ヴィクトリア朝」という表現が一般的なのかもしれないけど。<2001年2月16日>


1月26日

 萩尾望都『残酷な神が支配する』(プチフラワーC、小学館)16巻を読む。ジェルミとイアンの関係の泥沼化が進んでいく。このマンガは前半部分のグレッグによるジェルミへの性的虐待の部分があまりに圧巻であったために、グレッグの死亡以降のインパクトが弱くなったと感じているのは私だけだろうか? ただ、最後まで完結したときにもう一度読み直すとまた違った感触を受けるかもしれないのだけど。

 北条司『ファミリー・コンポ』(SCオールマン、集英社)14巻。完結。大学で「男」として過ごす柴苑の前に現れたのは、同じく「男」として過ごしていた小学生の頃の初恋の女の子、浅葱藍であった。彼女の登場によって雅彦も柴苑に対する自分の心の整理をつける決心をする…。雅彦たちが属する映研が製作する映画の中で、雅彦たちが自分の心情を吐露しあうという劇中劇の部分はなかなか読ませる。最後の方があまりにも急ぎすぎているような気もするが、間延びする前にうまく話を終わらせるあたりはさすが…と思っていたら、最終回が掲載されたあと、読者からは「中途半端だ」という手紙も来たらしい。これ以上続けたらマンネリ化しただけだから、これで終わりでちょうどいいと思うけどなあ。


1月27日

 田中淳夫『「森を守れ」が森を殺す』(新潮OH文庫、2000年)を読む。1996年に洋泉社から刊行された書を文庫化したもの。森林危機を巡る言説や事実関係を、科学的な検証や現場の声を拾うことによって洗い直し、また環境破壊を進展させていると環境保護論者に敵対視されることもある林業関係者のルポを行う。そして、「開発対保護」という観点では森は救われないとして、森の資源を利用していかねばならない人間の生活の中で、いかに森林と共生していくかを考えるべきであるとする。
 環境保護論者の勇み足を色々な面から的確に指摘する。例えば冒頭の話はこうである。生長している木は確かに酸素を排出する。しかし、成長の止まった樹や森の中の微生物は酸素を消費するので、森林が生産する酸素と二酸化炭素の量はほぼ比例する。このことから、森林は酸素の供給源ではないと言える…。他にも「熱帯雨林の破壊の主役は農園開発だった」「ホタルは汚れた川の方が住みやすい」「江戸時代以前、日本の山は禿げ山だった」など。
 個人的に興味深かったのは林業従事者のルポ。環境保護論者が林業を敵対視することがある、というのは知らなかったのだが、環境保護論者の中に「今の林業は森に優しくないのだ、私が林業を学んで森林に優しい新たな方法論を作っていきたい」という人はいないんだろうな、たぶん。ちまたの環境保護運動にかかわっているひとたちが所詮はみんな傍観者、つまりは消費者として自分の趣味に打ち込んでいるようにしか見えないのはこのためだろう。


1月28日

 藤子・F・不二雄『タイムカメラ』(SF短編PERFECT版7巻、小学館)を読む(4巻はココ)。5巻と6巻を読むのを忘れてた。未来の道具を売り歩くセールスマンのシリーズが収録されているが、なんとなく大人向けの『ドラえもん』ぽくって面白い。連載していた雑誌も『ビッグコミック』だし。ただ、今回の巻末エッセイは藤子・F・不二雄の長女・匡美氏が書いているのだが、それによると、彼は「『ドラえもん』をやめさせてもらえない」とぼやいていたことがあるらしい。もしかして本当にドラえもんが一度未来へと帰ってしまう第6巻で『ドラえもん』を終了させたかったのだろうか?

 いがらしみきお『ぼのぼの』(竹書房)20巻。だいぶマンネリ化しつつあるけど、このマンガの場合はそれが味だから、まあいいか。


1月29日

 大野晋・上野健爾『学力があぶない』(岩波新書、2001年)を読む。最近盛んに訴えられている学力危機に関する対談や評論集。一読。つまらない。大学教授である著者たちは学生たちの学力の低下が進んでいることを訴えているが、まあそれは事実かもしれない。しかし、それはやっぱり日本の高等教育への進学率が非常に高いことからくるものと考えるべきではなかろうか。海外諸外国とのデータを比較しているが、それらの海外諸外国では身分差が厳然として存在している。日本ほど国民の均質化が進んでいないからこそ、高等教育(場合によっては初等教育も)を受けることの出来る人口比率が低いため、諸外国では優秀な人材のみが教育を受けていることから日本よりもいい内容のデータが取れているだけではなかろうか。日本に必要なのは低レヴェル層の底上げであると同時にエリート層のさらなるレヴェルアップであり、その時に諸外国のデータを持ち出すのは誉められるやり方ではない。そして、「低レヴェル層の底上げ」というのも、著者たちの言うような「個性を伸ばす」「才能をじっくり引き出す」という教育ではないと思う。今こそ必要なものは「際だった個性などというのは、誰もが持っているものではない」ということではなかろうか。逆に言えば、学校教育でつぶされるぐらいの個性ならば、平凡に暮らしていた方が本人のためであろう。著者たちは学校教育について色々と提言しているが、自分たちが属している学校が教育の場所として絶対的なものであるとみなしているかのようにも思える。近代の学校は近代以前には存在していない特殊なものであり、教育機関として役に立っていないからこそ、近代の学校教育は資本主義社会へのスクーリングとして必要とされていることについては、関曠野「教育のニヒリズム」(『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房、1987年)所収)を参照のこと。
 また、著者たちが用いているちょっとした物言いにも不満を感じることが何度かあった。例えば、H2ロケットの打ち上げ失敗や雪印乳業の牛乳の食中毒事件などを、現場での「学力低下」が原因であるとしている。まあ現場でのマニュアル主義がこうした失敗を引き起こしたというの事実かもしれないけど、こうした現場での責任者は「学力低下」が訴えられるはるか以前に教育を受けた人間のはずである。となると、「学力低下」が生じる以前の教育に問題があったことになってしまい、それらの事例は現在の「学力低下」問題と結びつけられないことになる。また、日本のサッカーは外国のサッカーに比べると集団プレーだ、というような意見も書かれていたけど、これほど愚かしい考えはないことなど、サッカーをちょっとでも知っている人ならば明らかだ。外国とひとくくりにするところにも問題を感じるけど、それよりも外国のサッカーが個人が引っ張っていくプレーが主であるはずがない。今やサッカーは個人プレーよりも集団での組織プレーが大事だということは常識だ。だからこそイタリア代表とセリエAのトップチームが戦えば後者が勝つだろうと言われているのだ。こうしたちょっとした物言いで自分の言説を証明しようとして、その物言いが納得できないような理屈なのは読んでて非常に見苦しく思える。


1月31日

 ヴァルター=ベンヤミン『複製技術時代の芸術』(晶文社、1970年)を読む。表題作の評論は芸術が複製可能となった近代になって、芸術の儀式性が解放されたとする。その代表的なものが映画であるとして、芸術史上におけるその特質について論じる。映画の観客は極めて散漫な試験官であるとしているが、これは現在のTVの視聴者にもあてはまることであろう。


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