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2000年11月の見聞録



11月1日

 浅羽通明『教養論ノート』(幻冬社、2000年)を読む。相変わらずこの人の本を読むと、色々と教えられることが多い。本を読んで「教養」を身につける願望を持ってしまうような人間が、いかにして世間の中でその知識を役立てる形で使うことができるのかについて、論じている。このホームページでも何度も取り上げているテーマであり、考えさせられること、学ぶべきことが、無数にある。浅羽氏自身も言ってるように、「教養再構築という工程は、いま端緒を開いたばかり」であり、自分自身もこれを考えていかねばならない。内容については到底要約できるようなものでもないし、書いていくと延々続きそうなので、これだけにしておきます。読んで下さい。


11月2日

 ジョージ=スタイナー『青髭の城にて』(みすず書房、1972年)を読む。啓蒙主義から人文主義にいたる教養の流れは、教育を通じて人間と社会が進歩していくという理念に支えられていた。当時の人々、特に啓蒙主義者は、神学を乗り越えた理性によって社会の進歩がなされると考えていた。しかしながら、「理性と「教養」は宗教的な概念が世俗化しただけのものになったしまった。そして、「教養」は古典となり、専門家によって保管されるだけの存在となった。著者は、ここに現代の文化の危機を見る。人間を進歩させるとみなされていた「教養」が、結局のところ知識人の神学に落ちぶれていった、ということになる。最近は「教養」に関する本ばっかり読んでる気がする。ところで、この本は最後の解説がなければ、タイトルの意味が絶対に分からないと思う。

 今日は朝っぱらからキレそうになった。何が起こったかを書いてたけどあまりにも長くなったので、「雑文の文書庫」に置くつもり。そもそもは大阪大学教育社会学研究室から突然送られてきた葉書が原因…。「学術調査顛末記」として「雑文の文書庫」に置きました<11/4>〕


11月3日

 午前中は京都で研究発表を聞いた後、午後からは知人の女性と一緒にご飯を食べる。彼女が一緒につれてきていた1歳の息子は、目が覚めて俺の顔を見ると怯えて泣き出してしまった。この子は知り合いの子どもたちの中で、ただ1人俺になついてくれない。ちなみに、事情があって詳しくは語れないけど、この女性の結婚・出産から子育ての現在に至るまでのストーリーは、ドラマみたいに様々な事件が起こっている。それとも世の中にはこんな話はいっぱい転がってるのだろうか。俺の知り合いにも、以前に付き合っていたオンナに刺されたヤツもおるしなあ。ただ、こいつのすごいところは、血まみれになりながらも自分で車を運転して病院へ行ったことやけど。〔この知り合いの詳しい話を「団欒の食堂」「『屈強すぎる男』の『喜劇』」として置きました<11/15>〕

 中古で買ったJOHANSON「THE LAST VIKING」(1500円)を聴く。ややあっさり目の曲が多く、日本盤のみのボーナストラックの7曲目ぐらいからネオクラシカルっぽさが増すけど、それでも思ったほどで劇的ではない。最後の曲もあっという間にフェイドアウトしていったし。キーボードもギターも、思ったよりもソロの派手さは少ない。マイケル=ロメオのギターとイェンス=ヨハンソンのキーボードの派手なバトルを期待しててんけど。イェンスはヴィタリ=クープリのように弾きまくってはいなかったし。いや、悪くはないねんけどね。でも、ちょっと拍子抜け、かな。


11月4日

 副島隆彦『アメリカの秘密−ハリウッド政治映画を読む』(メディアワークス、1998年)を読む。以前読んだ『ハリウッドで政治思想を読む』の前著。あっちが挑発の書だとしたら、こっちは覚醒を促す書、かな。本書の中で貫かれている主題は、『ハリウッドで政治思想を読む』と変わらないので、基本的なものに関してはあちらで書いたことを参照して欲しい。「アメリカは世界をコントロールすべきだ」とするグローバリストと、「アメリカはアメリカのことだけをすべきである」と考えるリバータリアンとの対立は、日本でもまったく同じ状況としてみられるような気がする。前者がリベラル派で、後者が保守派であることまで一緒だ。やっぱり現代の日本は所詮アメリカの後を追ってるにすぎないように思えて、なんとなく複雑な気分がする。

 富樫義博『HUNTER×HUNTER』(ジャンプC、集英社)10巻を読む。以前、『幽遊白書』から『レベルE』へと新たな作風を広げたのに、『HUNTER×HUNTER』は再び『幽遊白書』の世界へと退化している、という意見を聞いたことがあるけど、そんなことはないと思う。『幽遊白書』はあくまでも現実世界を舞台にしてたので、最後はグチャグチャになってしまった。初めと最後では世界観が違ってきてるし。架空世界を舞台にした『HUNTER×HUNTER』は、いわば『幽遊白書』のしきり直しなんだと思う…と言ってみたけど、『HUNTER×HUNTER』も最後にはめちゃくちゃになったりして。


11月5日

 カール=シュミット『政治神学』(未来社、1971年)を読む。現代の国家は例外的な状況が起こりうる可能性を排除しており、世俗化した神学、「政治神学」によって成り立っているとする。つまり、以前は世界に対して神が持っていた役割を、近代の人間は神の代わりに国家へと与えたにすぎないとする。
 私には政治学に関する知識があまりにも欠けているので、こうしたシュミットの見解を完全には理解できない(従って、上の要約は間違っているのかもしれない)し、判断を下すことも出来ない。ただやっぱり不思議なのは、現代の政治を「世俗化した神学」と言い切ったシュミットがなぜ、ナチスに走ったのかということ。ヒトラーこそ一種の新興宗教の教祖のような一面を持っているような気がするのだけど…。

 ひかわきょうこ『彼方から』(花とゆめC、白泉社)11巻を読む。あかん、ストーリーを全然覚えてへん。これより前の巻が手元にないから、本当に何が何だか全然分からない。うーむ…。


11月6日

 福本伸行『賭博破戒録カイジ』(ヤングマガジンC、講談社)1巻を読む。前のシリーズである『賭博黙示録カイジ』の一番初めの「限定ジャンケン」が凄すぎたせいか、だんだんとスケールダウンしているように感じるのは私だけだろうか。でも初めはあんまり面白くなかった「鉄骨渡り」も「Eカード」も最後の方になればどんどんと面白くなったので、今回の「チンチロリン」もだんだんとよくなっていくのかもしれない。この人自身のパワーが衰えたとは思えないし。『天』も『無頼伝・涯』もものすごく高いテンションを維持し続けてるしね。特に前者は、いまや予想もしなかったとんでもなく深い展開をしているもんなあ…。


11月7日

 西部邁『国民の道徳』(扶桑社、2000年)を読む。アメリカニズム・グローバリズム・個人偏重などに対して、道徳という観点から批判する。今までの西部氏の主張の集大成的な書。これはあくまでも個人的な考えであり、人によっては違う評価をすると思うが、「集大成」であるがゆえに少し期待はずれであった。私はそれほど西部氏の本や評論を読んだ方ではないのだが、この本に書いてあることはそれらのものを読めばすむような話がほとんどのような気がするのだ。私はごく身の回りの事柄から「道徳」の概念を組み立てていくような議論を期待していた。まずは個人、そして家族、社会、国家という風に議論を広げていくような本を書いてくれると思っていた。
 でも、本書はどっちかというとサヨクや市民主義者に対する反論を中心とし、しかも議論の進め方は俯瞰的な視点からなされているにすぎないように思えた。これでは、単なる批判の書ではなかろうか。今の時代にどういう道徳が必要なのか、という西部氏の見解はよく分かる。しかしながら、それを立ち上がらせるためにいかなる行動をすべきか、に関しての示唆はあまり見られない。そういう一種のガイドブック的なものを書いてくれると思っていたのだが。ただ、これは西部氏の責任というよりも、企画の方向性を間違えた編集者の方にあるような気もする。それと、もしかして公民の教科書の方が私が期待していたような構成になっているのかもしれないので、こうした感想は早とちりかもしれない。
 あと、西尾幹二『国民の歴史』(扶桑社、1999年)を読んだときにも思ったのだが、この2つの本を読んでさらに詳しいことを知りたい、という人のためにページの欄外などに文献目録をつけるべきだったのでは? そうしたら大人のための「教科書」になったと思うのだけど。まぁ、これも作者よりも編集側の判断ミスかな。

 I先輩に教えてもらった北欧の古本屋のホームページ「Antiquarian Books in Scandinavia」はすごくいい。10月の終わりにサイトで注文して、11月に入ってから郵送でカード番号を伝えた(サイトにはカード番号を伝えるシステムがなかったので)ところ、早速本が届いた。早い。「スウェーデンの本屋は作業が早い」とは先輩から聞いていたけど、これほどまでに早いとは思わなかった。BlackwellとかOxbowなんか、カードの請求書の方が先に届いて、本は2〜3ヶ月してから届くことが普通やったもんなあ。Amazonって使ったことないねんけど、やっぱりこんなに早いのだろうか。ただ、Amazonは初回の客と2度目以降の客との間で本の値段を変えており、後者に対しては高めの値段を表示するようなシステムになっている、という噂を聞いたことがあるけど、これ本当?
 それはともかく、これからもこのサイトを使おうっと(リンクをつないだので、興味のある方はココをどうぞ)。ただ、本と一緒に同封してあった領収書に書かれている値段がスウェーデンクローネのため、日本円でいくらかまったく分からない。本が250クローネ、郵送費が130クローネ、と言われてもなあ…。クレジットカードの請求書が来るのがちょっと怖い。
 どうでもいいけど、今回買った本は著者が誰かに献呈した本らしい。タイトルページによく分からない誰かの名前と著者のサインが書かれてあったので。献呈された本を売ってしまう人はどこにでもいるねんなあ。そう言えば、うちの大学の近くの古本屋で売っていた本をふと見てみると、それは献呈本であって、しかも書いてあった献呈された人の名前がうちの大学のとある教授の名前だった、という話を誰かから聞いたことがある。いくら何でも、自らの職場の近くで自分に献呈された本を売るのはヤバイと思うねんけど。


11月8日

 先生に連れられて研究室の人間と呑みに行く。2軒目にいったスナックのカラオケで、久々にEARTHSHAKERの”More”を歌う。やっぱりいい歌やなあ。キーが高すぎて何度か声がひっくり返ってしまったけど。〔…と書いているときには知らなかったのだが、EARTHSHAKERって再結成してアルバムを出すそうだ<11/16>〕

 市立図書館でOZZY OSBOURNE「THE OZZMAN COMETH」を借りる。2枚組で未発表曲をいくつも収録したベストアルバム。ただし、未発表曲の多くは初期BLACK SABBATH時代の曲のスタジオテイクが中心。選曲は「他に入れる曲もあるのでは」と思ったのだけど(例えば、”Diary of a Madman”とか)、オジーの曲って誰もが認めてしまっている代表曲があまりにも定着しているから、それ以外の曲を入れにくいんだろうなと思う。「代表曲が定着しすぎている」というのは一種の問題でもあって、ライヴでもいつも同じ曲をして変化がないような気がする。


11月9日

 C.モリス『個人の発見 1050-1200年』(日本基督教団出版会)を読む。イタリアルネサンスに先立つ12世紀ルネサンスのさらに前である10世紀には、個人への意識がすでに芽生え始めつつあった。10世紀前後の修道士たちは社会から身を引いていったのだが、それによって自分の内面を見つめ「個人の発見」への可能性を開いた。そして、12世紀には自叙伝・心理学・肖像画・諷刺などの分野において、後代の個人尊重の発露が見られたとする。すでに阿部謹也氏の著作などで馴染みのある考えではあるが、今の私たちにとって自明の理である「個人」という意識ですら、歴史的に作られたものであったことがよく分かる。


11月10日

 中古CDも売っている古本屋で「新時代宣言!全日本プロレス5強テーマ集」というCDを発見、購入する。もともとは2200円のところ、150円だった。あまりの安さに嬉しくもあるがちょっと悲しい。家に帰ってCDを聴きながらジャケットを読んでいると、なんとCONCERT MOONの島紀史のコラムが載っていた。秋山準のテーマと三冠王者のテーマでギターを弾いている。全日のTV放送のエンディングテーマにもCONCERT MOONの曲が使われていたそうである。知らなかった。聞いていてさらにびっくり。その秋山準と三冠王者のテーマは坂本英三が歌っていた。これも知らなかった。一番気に入ったのは川田利明のテーマかな。最初のアコースティックギターの部分がジミー=ペイジみたい。ただし、このアルバムは音質が悪い。特に中音域は音がダンゴ状態になってごちゃごちゃだ。


11月11日

 ちばてつや『あしたのジョー』(講談社漫画文庫)1112巻(9・10巻はココ)。ついに完結。なんか結構あっさりとした終わり方やってんなぁ。個人的にはホセ=メンドーサとの試合が一番淡々としているような気がする。特に盛り上がることなく読んでしまった。最後がどうなるかを知っているせいかもしれない。

 矢口高雄『釣りキチ三平』(講談社漫画文庫)910巻。子供の頃だいたい読んでいたはずなのに、知らない話が結構ある。今回の投網漁の話なんか初めて見たし。しかし、いくら釣りの天才といえども、一回見ただけで、ほとんど完璧に投網を投げられるっていうのはなんか違う気がする。投網を投げるのは釣りの才能とあんまり関係ないような…。


11月13日

 昨日は色々あって疲れた(…と言っても、その「色々」はまだ解決していないのだが)ので、更新できなかった。というわけで昨日の分もまとめて更新。H.アレント『精神の生活 上(第1部:思考)』(岩波書店、1994年)を読む。そもそも読んだきっかけは、以前読んだ浅羽通明『教養論ノート』で少なからず引用されていたから。講演録のような雑然とした印象であり、内容を簡潔にまとめるのは難しい。強引にまとめるとすると、ギリシア以降の西欧の哲学者や思想家は、事物には現象と本質の二面性があると考えることが多く、それゆえに「思考する自分」を現象世界から遠ざけて、自分一人の精神世界に退きこもることによって思考しようとする、という感じになるか。この本の巻末には詳しい解説が載っているので、そっちを参考にしてもらった方がよく分かると思う。
 内容そのものも哲学に関する高度な議論が展開されていて難解であるが、色々と興味深い論が見られて学ぶところも多い。そして、この本の主題テーマは、自分一人の世界に退きこもるという「オタク」の性質が、知識人の生態そのものにも見られる、という浅羽氏の主張とリンクしていることが分かる。「デカルトは今のカウチポテト族の原型だ」みたいなことを言った(「カウチポテト族」というところが時代を感じさせるが)関曠野氏の主張にもつながるだろう。

 内田春菊『水物語』(光文社文庫)全4巻を読む。妻子のあるオトコ・トシは、水商売ではたらくオンナ・アヤと出会いお互いにひかれあう。やがて2人は関係を持つことになるが、エッチばかりを求めるトシにやがてアヤは冷めていき、トシの前から去る。そして、別れてから数年後が舞台になって意外な結末を迎える…。
 と、これだけだと別になんともない物語のように思えるかもしれない。しかしながら、内田氏の描く「オトコのしょうもなさ」の抜群な巧みさが、このマンガを面白くしている。このリアルな「しょうもなさ」は誰にでも書けるものではない。このマンガに出てくるオトコの感情を読んでいると、自分のイヤなところを見ているみたいな気分にさせられるもんなあ。男性よりも女性の方が、他者である分「オトコ」の内面を描くのがうまいのだろうか? 吉田秋生『河よりも長くゆるやかに』(小学館文庫)の「オトコのエッチに対する心構え」の心理を語った部分なんて、「なんでこんなにオトコの心理がよく分かってるの?」と思ったし。あ、でも両者とも男性よりも「オンナの心理」を描くのもうまいか。うーむ…。

 同じく内田春菊『ストレッサーズ』(メディアファクトリー)を続けて読む。これは凄い。個人的にはここ最近読んだマンガの中で一番面白かった。4コママンガで始めの方は単なるギャグマンガ風だったのだけど、だんだんとストーリー展開していくという構成は業田良家『自虐の歌』(竹書房)に似ている。『自虐の歌』は傑作だが、この『ストレッサーズ』もそれに負けず劣らない傑作だと思う。ただし、前者は最後に思わず涙を流してしまうような物語だが、後者はものすごい後味の悪さが残るという点で違うが。
 ずうずうしいけど小心者の日常君は、自分の性格が悪いことを棚に上げて、自分に彼女が出来ないことに不満たらたらだった。これを見かねた友人の川上君は友人のひとみちゃんに犠牲になってもらい日常君と付き合ってもらうことになる。しかし、本当はひとみちゃんは川上君のことが密かに好きだった。日常君は不細工なひとみちゃんに「付き合ってやっている」と思い、ひとみちゃんは「川上君のために」日常君と付き合っているという状態が続く。やがて2人の関係は破綻し、絶望したひとみちゃんにの体に異変が起きる。そして…。
 全然内容をうまくまとめられていないが、本当に面白いのでとりあえず読んで欲しい。個人的な考えだけど、アレントの「退きこもり」の問題とこのマンガのひとみちゃんの話はすごく関わりがあるような気がする。自分の中に閉じこもった考えをし続けたひとみちゃんは最後に「生まれ変わる」のだが、これは精神世界への「退きこもり」からどのように現象世界へと立ち戻るのかという問題へ1つの道しるべのように思える。前に読んだ『ラブマスターX』とも重なり合う問題だと思う。
 しかし、後書きのなかで「編集者の中に『内田さんは困ったオトコを書くのがうまいから、そういうものを…』と言ってくるのがいる」みたいなことを書いているが、このマンガはそういう「困ったオトコを面白がる」マンガじゃないと思うねんけど。それこそ内田氏の言うように「こういう人には、私の作品の中で『困ったオトコが出てくるシーン』しか見えていないのだ。あとのシーンはすべて空白」に見えているのだろう。


11月14日

 H.アレント『精神の生活 下(第2部:意志)』(岩波書店)を読む。昨日読んだ上巻の続き。上巻よりもさらに哲学に関する専門的内容であり、パウロ・アウグスティヌス・トマス=アクィナス・ヘーゲル・ニーチェ・ハイデガーなどを扱っており、到底完全には理解できなかったのだが、やはり上巻と同様に強引にまとめると、こんな感じか。「意志」に関する考察が退きこもる思想家たちによって行われると、すべての物事の必然性を強調するために自由な個人の「意志」を肯んじなかった。しかし近代に入り「哲学的」から「政治的」に「意志」を捉えねばならなくなると、「意志」は政治的な自由と結びついた、とアレントは主張する。…なんか間違ったまとめ方をしている気がする。私自身の知識がまだまだ足りないことを痛感してしまった。


11月15日

 いしかわじゅん『漫画の時間』(新潮文庫、2000年(原著は1995年))を読む。もともとは1995年に出たものを文庫化したもの。色々な面白いマンガを紹介した本。私は自分ではかなりマンガを読んでいる方だと思っていたが、この本を読むとそんな偉そうなことを言うことが出来なくなる。いしかわ氏は、それこそ無数のマンガを読んでいる。それだけではなく、そのマンガのどこがどういう風に面白く、どの部分がまだまだかを分かりやすく解説する。自分自身でもマンガを書いているこそ出来る評論だと思う。
 かつては主流派である手塚派に対する革新勢力であったさいとうたかをが、いまやマンネリ化した保守勢力にすぎなくなったという指摘、池上遼一と大友克洋との比較から、前者は絵はうまくても「マンガ」としての表現技術は上手ではないとする論(池上のマンガを否定しているのでは決してない)、紫門ふみの「マンガではもはや自分の表現したいものを現すことが出来ない」発言に対して「それはあなたの表現技術が足りないだけでマンガそのものの表現技術のせいではない」と切り返すあたりなどは、すごく興味深く参考になる。
 それにしても、読んでいない面白いマンガがまだまだいっぱいあるなあ。


11月16日

 佐伯啓思『「シミュレーション社会」の神話』(日本経済新聞社、1998年)を読む。現在の社会をすべては「シミュレーション」の社会であるとする主張を批判し、こうした考えは価値相対主義とニヒリズムを生むにすぎないとする。「情報化社会」・「国際化社会」などという一種のお題目も、身近な世界からリアリティを遠ざけるという点で、「シミュレーション社会」の概念を推し進めた考えであるとする。
 様々な情報から的確に分析しており、「情報化社会」に関する記述の古さを差し引いても(この本は1988年に出版)、興味深いものではあるのだが、何だか釈然としないものが残る。佐伯氏は後書きでビジネスマン向けに書いた、と述べているが、「『シミュレーション社会』のなかで働かねばならない私たちはどうすればいいのか、ということを具体的に教えて欲しい」、と言われてしまうような気がする。さらに言えば、こうした本を読まないような普通の人に「だからどうしたの。いま、十分に楽しいからいいやん」と言われたときに、この本に書かれているようなことを話すのは、はたして正しいことなのだろうか? それでは単にその人の楽しさを混乱させるだけに終わってしまう気がする。まぁ、こういう本を読んでいる自分みたいな人間が、偉そうに言えることではないのだが。現代評論というのは難しいのだと思う。


11月17日

 川原正敏『海皇紀』(マガジンC、講談社)10巻を読む。今回は前の話と新しい話のつなぎのような巻で、劇的な展開や戦闘場面はなし。しかし、帆船の専門家から見て、嵐のなかでの航海や、大砲を持つ帆船にそれを持たない帆船が勝つというのはどういう風に思えるのだろう。有り得る話なのか、「トンデモ」なのか聞いてみたい気がする。でも、そういうことを知らない読者にも「凄い」と思わせることが出来るのがこの人の力量なんだろう。『修羅の門』も格闘技に詳しい人間に言わせれば、かなり無茶苦茶な設定があるらしいけど、詳しくない人間にすれば十分に面白かったし。

 大島司『シュート 新たなる伝説』(マガジンC、講談社)3巻を読む。よくもまあ、色々とこれだけ登場人物や戦術や技を考えつくものだ、と思う。さらに言えば、この人は過去の登場人物を再利用するのがうまい。でも、あんまり昔の話をきちんと覚えていないので、その人間がどんな人間だったかか分からないことがよくあるねんけどね。そういえば、このマンガに出てくる戦術や技もサッカーの専門家から見れば不可能なものに見えるのだろうか? でも『キャプテン翼』もそんな技のオンパレードやったか。そうだとすると、『シュート』はかつての『キャプテン翼』のようにサッカー少年を生み出す土壌になっているのだろうか? 『シュート』の方がリアリティが少しある分、かえって小学生あたりにサッカーをさせたいという気にさせにくいように思える。まあ、別にそういうためにこのマンガを書いているわけではないだろうけど。


11月18日

 宮下あきら『魁!男塾』(集英社文庫)1920巻を読む(17・18巻はココ)。この巻で完結。いくらなんでも、「七牙冥界闘」編の終わり方は唐突なのではなかろうか? 第五の闘場での戦いの途中で強引に終わっている。ネタ切れになってしまったのか、それともジャンプ連載漫画の特徴であるバトル形式に嫌気がさして、作者が「もう終わらせてくれ」といったのだろうか?

 中条比紗也『花ざかりの君たちへ』(花とゆめC、白泉社)13巻。この巻の中で17歳の登場人物たちがそれぞれに具体的な夢を語っていたけど、17歳のころってこんなに「将来やりたいこと」がはっきりしてたかなあ。この頃って小学生のころよりも別に将来の夢はなかったし、大学生のころのように現実に迫られないですんでたので、ダラダラすごしてた気がする。それともこれは私だけで、他の人はそうではないのだろうか。

 満田拓也『MAJOR』(サンデーC、小学館)32巻。しかし、このマンガもなかなか先に進まへんなあ。32巻にもなって、まだ高校生やもんなあ。しかしながら、いくら150キロ以上のボールでも、直球だけでここまで勝つことが出来るだろうか。確か1シーズン400奪三振以上を奪った江夏氏でも、カーブは投げてたと思うし(…例えが古いか?)。


11月19日

 先日、市立図書館で色々と借りたCDを聴く。HAREM SCAREM「RUBBER」。前作あたりから、私がこのグループに望む音楽とアルバムに収録されている曲との間に距離が出来つつあったが、本作ではそれがより一層開いてしまった。「MOOD SWINGS」からファンになった者としては、キャッチーな曲と憂いのある曲とが、一緒に含められているアルバムを創って欲しいのだが、このアルバムの楽曲のほとんどは単なるお気楽ポップっぽい曲ばっかりで、何だかつまらなく感じてしまう。アルバム本編の最後の曲である”Everybody Else”は、そういう憂いのあるアコースティック・バラードの曲で好きなのだけれど。〔…などと書きつつ、このアルバムは結構聴いている。お気楽ポップという印象は変わらないけど、やっぱりメロディがいいからつい聴いてしまうねんなあ<11/29>〕

 MOTLEY CRUE「NEW TATOO」。いいアルバム、だと思う。このアルバムの音こそ、MOTLEY CRUEに求めているものだし、これでこそヴィンス=ニールが復帰した意味もあるというものだ。しかし、何だか物足りないのだ。いいアルバムだと思う一方で、もっといいモノを作れるだろう、とも考えてしまうのだ。身も蓋もない言い方かもしれないが、「GIRLS GIRLS GIRLS」「DR. FEELGOOD」の縮小再生産になってしまっているような気がする。しかしまあ、自分が考えているものとは違うアルバムを創ると「こんなアルバムは彼らに望んでいない」と言い、イメージ通りのアルバムを創っても「もっといいモノが出来るはず」と考えるとは、ファンとは勝手なものだ、と我ながら思う。

 BLACK SABBATH「REUNION」。さすがに凄い盛り上がりだ。”Sweet Leaf”や”Into the Void”がライヴで聴けるのは嬉しい。新曲2曲はまあオマケかな。

 PAUL GILBERT「FLYING DOG」。いいアルバムだと思うけど、ポール=ギルバート以外の人間がメインヴォーカルをしたら、もっといいアルバムになると思ったのは私だけ?

 永井均『<子ども>のための哲学』(講談社現代新書、1996年)を読む。「悪いことをしてはなぜいけないのか」「ぼくはなぜ存在するのか」という難問を、生き方や価値を見出そうとする「大人」や「青年」の哲学としてではなく、純粋な知的好奇心である「子ども」の哲学から解き明かそうとする。そして、そうした問題を考えていくことによって、哲学とは他人の哲学から教えを読み取ることではなく、自分自身の内部で自分を納得させるような思想を創り出すことであり、それこそが「哲学する」ことであるとする。なんとなく当たり前のような結論になってしまっているのは、私の読み方とまとめ方が下手くそなせいなのだろうか?

 そう言えば、まったく関係ないが、今週の『ファミ通』にSUICIDAL TENDENCIESのインタヴューが載っていたのはびっくりした。スノボーのゲームに楽曲を提供しているらしい。まあ、「スケーターズロック」って昔は呼ばれてたから(今もか?)、スノボーのゲームに曲が使われるのは別におかしくはないねんけど。


11月20日

 吉村明美『薔薇のために』(小学館文庫)1〜4巻を読む。久しぶりに読み直したのだけれども、やっぱり面白い。高校卒業後、祖母が死んで家族がいなくなったと思っていた決して美人ではない女の子・ゆりは、祖母の遺書から実は自分の兄弟たちが札幌にいることを知る。そこには姉・兄・弟がいたが、全員それぞれ父親が違っており、自分とは似てもにつかぬ「美形」ばかりであった。ゆりは兄のスミレに恋するが、弟の葵もスミレに恋していた。しかし、スミレの心の中には死んでしまった恋人・セリしかいなかった…。
 このマンガの面白いところは、主人公が決して美人ではないところだろう。実際に、あんまり綺麗に描かれていない。でも可愛く描かれているときはあるのだ。そして、そういう可愛い表情にスミレや葵が惹かれていく。これは恐らく文章や実写では表現できないだろう。


11月21日

 山本夏彦『私の岩波物語』(文藝春秋、1994年)を読む。日本語の流れを重視した翻訳から、原文の意味を決して損なわないようにするために難解な日本語の翻訳にした日本語翻訳文化の破壊者として岩波書店を批判している。しかしながら、表題はある章のタイトルから取ったものであり、岩波書店だけを論じているわけではない。雑誌『室内』の主催者である著者による、岩波書店・講談社・原稿料・印刷所・取り次ぎなどを取り上げた出版に関わるエッセイ集。


11月23日

 鳥山明『SAND LAND』(ジャンプC、集英社)を読む。水不足に悩む砂漠世界を舞台に、元軍人の老人と悪魔の王子が水源を求めて旅をする冒険活劇。いい意味での少年少女向けの勧善懲悪のストーリーだ(…と思ったけど、このマンガには「女性」がまったく出てこないから「女の子」向けではないのかな)。ふと思ったのだけど、この人は絵本を書いたら優れたものを書くんじゃないだろうか。

 相田公平・佐藤久文『アンファン・テリブル』(ヤングジャンプC、集英社)。題名通り「恐るべき子どもたち」を描いたホラー。様々な残虐な物語が無感情なタッチでオムニバス形式で繰り広げられている。…と書くと、いかにも面白そうだが、望月峰太郎氏のマンガの出来損ないの亜流みたいなもので、つまらない。望月氏のマンガはたとえ無茶苦茶な展開になっても「不条理ゆえの恐ろしさ」が伝わってくるのだが、このマンガは単に不条理なだけだ。


11月24日

 与那原恵『もろびとこぞりて』(柏書房、2000年)を読む。「レンタルお姉さん」・「ドクター・キリコ事件」・「不妊治療」・「今の沖縄」・「金属バットによる息子殺し」・「瀬戸内の離島での夫殺し」・「現代の政治家志願の若者たち」・「オウム対地域住民」などに関するルポルタージュ集。一番興味深かったのはルポではないけど「小林よしのり『戦争論』評論」かな。
 『戦争論』が受け入れられた背景には2つの理由がある。1つは、戦後の平和教育が否定的にしか捉えずに汲み取ることを怠った「戦争に参加した人たちがその経験語る場」をす掬い上げたためである。もう1つは戦争を知らない若い世代に、かつての「薬害エイズ事件」の時と同様に自分たちが盛り上がることの出来る場を提供したためであるとする。『戦争論』が「戦争は悪だ」という単純な決め付けを打ち破ったことを評価しつつも、「戦争は悪だ」という観念を単純にひっくり返しただけになる危険性に注意を促し、「薬害エイズ事件」のように若い世代の盛り上がりが終わった後に何も残らない可能性があることも指摘する。『戦争論』は歴史とは多面的に見なければならないことを示した点で重要な意味はあるが、「小林の描く戦争とは、小林にとって「過去」をながめた”思い”のひとつでしかない」(178頁)のだとする。
 「『戦争論』評論」だけではなく本書に収録されているほとんどの評論に共通しているのは、現代は「自分の物語を探す」時代であることをえぐり出していることではなかろうか。正確に言えば、「自分が『主人公』である物語」だろう。こうした探求・欲求に欠けているのは、「世間という大きな劇場の中では自分は端役にすぎないかもしれない」という考え方だと思う。

 市立図書館で借りた久石譲「シンフォニック・ベスト・セレクション」を聴く。1992年に新日本フィルハーモニー交響楽団との共演をCD化したものであり、「ナウシカ」・「ラピュタ」などのテーマソングやソロアルバムの曲がアレンジして演奏されている。なんかあんまりピンとこなかった。「ナウシカ」や「レスフィーナ」の曲はピアノのみでアレンジしたヴァージョンの方が個人的には楽しめた。ピアノのみの方が、曲の持つ魅力がダイレクトに伝わってくる気がするのだ。単に、私がクラシックに馴れていないせいかもしれないが。


11月25日

 研究室の「Metal Box」から借りたCDを聴く。ちなみに「Metal Box」とは研究室内のハード・ロック/ヘヴィ・メタル愛好家たちが、自分の聴かなくなったCDを各自持ち寄ってきて研究室内で保管しておく場所のこと。聴きたいCDがあればそこから借りていくことが出来るシステムになっている。「金をかけずにCDを色々と聴きたいなあ」という安直な考えから出てきた、構想1分・実行決断5秒のかなりいい加減な企画だが、なんだかんだで本当に始まってしまった。なんせ、ハード・ロック/ヘヴィ・メタルはファンの数が決して多くないジャンルやから、こういうのがないとなかなか興味のあるCDすべてを聴くことが出来ない。というわけで、ウチの研究室のメタル好きな皆さん、「Metal Box」をどんどんと充実させていこう(…と書いたが、ウチの研究室のほとんどの人間は、このホームページを知らないな)。

 というわけで、その「Metal Box」のCD。IRON SAVIOR「IRON SAVIOR」。カイ=ハンセンとハンズィ=キアシュが参加していることからもすぐ分かる、いかにもジャーマンメタルなアルバム。高校生のころの自分ならば喜んで聴いただろうけど、今は別にもうすすんで聴きたいとは思わないなあ。HELLOWEENかGAMMA RAYかBLIND GURDIANを聴いてりゃいいや、という気分になる。

 ARCH ENEMY「STIGMATA」。同じメロデスでもIN FLAMESはけっこう気に入ったけどこっちはあんまりピンとこないなあ。確かにギターソロは泣きまくってていいねんけど、アルバムを続けて聞いているとなぜか飽きてしまった。

 MORTORHEAD「NO SLEEP 'TILL HAMMERSMITH」。ヘヴィ・メタルを聞き始めてそれなりの年数になるのに、このグループのアルバムを通して聴いたのは恥ずかしながらこれが初めて。昔のアルバムだからか音がスカスカな感じがするが、ものすごい勢いでグイグイと進んでいくのは聴いていて気持ちがいい。

 坂本英三「メタル一直線」。オープニングが思いっきりジャーマンメタルな(というよりも、最近のGAMMA RAYみたいな)曲だったのにはびっくりしたけど、正統派のメタルアルバムだ(沖縄民謡みたいな一番最後の隠しトラックは別だけど)。カヴァー曲が3曲収録されており、意外なぐらいMANOWARの"Metal Daze"のカヴァーがはまっていた。坂本英三の歌い方ってエリック=アダムスに似てんねんなあ。なかなか気に入ったけど、日本語の歌詞になるとどうもオチャラケて聞こえてしまうのは、この人に対する先入観のせいだろうか?

 雁屋哲・花咲アキラ『美味しんぼ』(小学館文庫)78巻を読む。久しぶりに読み直したけど、この頃からすでに色々な難問を料理だけで解決しすぎるストーリーが増えつつあるのが分かる。中学・高校ぐらいの頃は結構このマンガにかぶれて「こういう本物の食材を使わねば」なんて考えていたけど、この本に書かれているような理想の食事をするには膨大な金も暇も必要だよなあ、ということがあのころには分からなかった。まあ、主人公の山岡はグータラ社員だから暇はあるのかもしれないけど(…でも金はどこにあるんだろう?)。


11月26日

 ついに発売、ちんげ教教祖の最新刊(教祖のホームページはココ)。鈴木みそ『おとなのしくみ』(エンターブレイン)3巻。ゲームのネタが基本でそれも面白いけど、アブないネタを笑える話に変えるうまさに関しては、この人にかなう人はそうそういないと思う。パチプロの話とかハッカーの話はかなりやばいしね。アブなすぎて『ファミ通』本誌からはボツを喰らった「愛するゲーム・別れるゲーム」も収録。むかし東京でやっていたみのもんたのTV番組のパロディで(ヤラセがばれて終了した番組)、セ○のド○ームキャストから離れてプ○ステに移ろうとするソフト会社をセ○=夫、ソフト会社=妻、プ○ステ=妻の浮気相手という設定で描く。確かにこれはヤバいわ。
 個人的には100話の話が気に入っている。連載開始時の自分がタイムスリップしてくるネタ。5年前の自分がいまのゲーム・パソコン状況にボケをかましまくる。私自身のことも考えてみれば、5年前はまだMS-DOSで、インターネットなんて全然思いもよらなかったのに、いまやこんなホームページまで作ってるもんなあ。
 教祖によれば3万2千部(公称ではなく実数)印刷されたとのことなんで、皆さんで買って早く増刷させましょう(…しかしながら、教祖はいつも印刷された部数を思いっきりバラすなあ)。ところで、ときメモ2のネタは『ファミ通』とコ○ミがもめているいまの状況で収録して大丈夫なんだろうか?

 田島隆・東風孝広『カバチタレ』(モーニングC、講談社)5巻を読む。今回は、付き合っていたオトコに騙されてオトコの借金のカタに温泉街の枕芸者にさせられたオンナの話と、警察の無茶苦茶な交通取り締まりによって免停にさせられた人を助ける話。警察のやり方に楯突き、しかも実際に使えそうな話を書いて警察から圧力がかかったりしないんだろうか? でも、もし圧力がかかるとしても、作者にではなくて出版元の講談社にかかるんだろうなあ。
〔追記〕
 つい最近ふと読み直していたら、田村が枕芸者にされた女性を救いに行くために、同僚の金田に車を借りて九州へ向かっているシーンで、田村が『頭文字D』ばりのドリフトをかましており、その車に「金田とうふ店」と書かれている遊びを見つけた。だからどうだって訳でもないのだけれど。(2002年7月12日)


11月27日

 高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』(東京大学出版会、1999年)を読む。平安期の中央政界における文弱な貴族に対抗するものとして、東方を中心とする辺境から武士階級が登場したとする一般的な通説の見直しを提唱する。平安以前から中央政権の貴族も「武」を重んじており、その中で世襲的に「武」を担当するようになった貴族こそが武士の起源であり、こうした中央の武士貴族が地方へと広がっていったとする。文弱な貴族像は、室町以降の公家が文へと傾斜していくこと、近世以降には『源氏物語』などの平安文学に示された貴族像を現実の平安貴族にあてはめるようになったこと、そして明治以降の富国強兵の中での「軟弱」な中央の貴族と「質実剛健」の東国武士というイメージの創出、などによって形成されていったとする。
 なかなか興味深い論考だけど、かなり批判が多いだろうことは、付論で著者が結構な数の色々な人からの反論に応じていることからも分かる。ここからはあくまでも素人の考えだけど、平安期の武士貴族が弓矢や騎射をその中心に置いていたとする部分は重要なのではなかろうか。鈴木眞哉氏の『鉄砲と日本人』(1997年)『刀と首取り』(平凡社新書、2000年)などによると、武士は刀よりも弓矢を武器として使っていたとされており、こうした見解は本書の主張を裏付けるように思えるんだけど、どうだろう?


11月28日

 福本伸行『天』(近代麻雀C、竹書房)16巻を読む。『近代麻雀ゴールド』に連載されているが、この巻(そして恐らくこの先何巻かしばらく)にはいっさい麻雀のシーンはない。しかも主人公の天は完全に脇役だ。このマンガはいまや予想もしなかった展開をしている。
 前巻までの、麻雀の裏プロたちの「東西決戦」から9年後。博打の天才であり「神域の男」と呼ばれた赤木しげるは、自分の脳がアルツハイマーに冒されたことを知り、その病気が進展していく前、つまり自分が自分であるうちに死を選ぶことを決める。そして死の前に、自分の最後の闘いの場であった「東西決戦」の仲間と敵とに会うことを欲する。彼らは赤木の決意を知り、困惑しつつも1人ずつ赤木と最後の対面を行い、赤木を引き留めようとする…。
 死を決意した人間を引き留めることははたして正しいのか? しかも、何かの罪を償わずに死ぬのでもなく、世俗の苦しみを逃れるためでもなく、自分が正気を保っているうちに死のうとしている人間を他の人間は止めるべきなのか? 赤木は常人とは違う異形の人間だからそういうことが出来るのかもしれない。でも、寿命が長くなってしまった今の世の中において「自分はやるべきことをすべてやり終えたのだから、ゆっくりと朽ち果てていくよりは自ら死を選びたい」と言う人が、ごく普通に現れる可能性は決してないとは言えないのではなかろうか。そのときに、その死へ到る道のりを手伝うことと、「私たちはまだあなたを必要としている」といって止めることは、はたしてどっちが正しいのだろうか…。
 この巻では8人の対面者のうち4人目まで終わって、誰も赤木を引き留めることが出来なかった。このマンガの先の展開が楽しみだ。


11月30日

 池上英子『名誉と順応 サムライ精神の歴史社会学』(NTT出版、2000年)を読む。英語圏の読者に向けて書かれた著書の翻訳。武士階級のエトスであった「名誉」がどのように生成されて変質していったのかについて検証し、それが日本のアイデンティティといかに関連していったのかについて考察する。鎌倉時代には武士の「世間」が成立し、その中で名誉文化も成熟したとする。ただし、戦乱が終わり江戸時代に入ると、戦乱の中での戦士としての誇りを示す私的な名誉を欲することから、制度的な枠内に収まる公人としての名誉を欲することへの転換が行われたとする。
 江戸時代に制度的な枠内に押し込められたとする考えは、以前に読んだ穂積陳重『復讐と法律』の中で述べられていた「国家の形態が整うとともに私的な復讐は禁止されて、国家による承認が必要とされていった」とする考え方に近いと思う。英語圏の読者に向かって書かれたもののため、私たちには説明のいらないような事柄に関しても細かく書いてあり少しくどい部分もあるが、俗流の日本文化論と違ってきちんと原史料を使っており、しっかりとした研究書だと思う。ただ、中世から近世の武士のアイデンティティに関する記述が殆どの部分を占め、それが近代日本のエトスにいかに組み込まれたのかに関してはあまり論じられていないのが個人的には残念。それともこの次にはそれに関する新たなものを書くつもりなのかな?


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