そもそもは、11月1日に私の母宛に届いた一枚の葉書から始まる。「学術調査へのご協力のお願い」というもので、以下がその文面。
「このたび大阪大学教育社会学研究室で、「成人した子とその親の援助関係」を調査することになりました。ご意見を伺う方をくじ引きで選んだところ、あなたがその1人となりました。そこで、このお願い状を送らせていただいたわけです。
11月4(土)〜7日(火)の間に学生調査員がお宅を伺い、質問用紙をお渡しします。15分ほどお時間をいただきますが、どうかご協力をお願いします。
なお、調査の結果は人々の一般的傾向を知るためにのみ利用されますので、プライバシーの面で皆様にご迷惑をおかけすることは決してございません。
期間中、旅行などで留守がちにされる場合には下記までご連絡いただければ幸いです。」
下に大阪大学教育社会学研究室の住所と電話番号が書いてあり、研究代表者は保田時男氏となっている。はっきり言って気持ち悪い。くじ引きで選んだとあるが、「成人した子とその親の援助関係を調査」と書いてあるということは、我が家の家族構成を調べた上でこの葉書を送ってきたことになる。だいたい11月4日から7日の間に調査するのに、11月に入って葉書を送ってくるなんて、相手の都合を考えておらず、常識がないとしか思えない。到底協力する気になれないので、翌2日の朝に母が断りの電話をかける。話し中が続き、なかなか電話がつながらない。ようやく電話がつながり、すんなり終わるのかと思っていたら、電話の向こうで何だか粘っているようでなかなか話が終わらない。イラついてきて電話を代わってもらう。
「そもそもどこで住所を調べたんですか?」と私が聞くと、「学術調査の場合、市役所で教えてもらえるんです」と若い男性らしき声で答えが返ってくる。「ともかく結構ですので」というと、「分かりました」ということになった。後で母親に聞いたところによると、断っていると、「調査の日はどこか行かれるんですか」とか「働いてるんですか」とか聞いてきて、挙げ句の果てに「困ってるんですよ」とまで言ってきたらしい…。
…何というか、「学術的」だったら何でもありなのか、というのが感想。我が家に成人した子ども(つまりは私)がいることを知るためには、住民票を見るだけでは分からないはずで、それ以上のものを見たことになる。学術調査のためだろうが何だろうが、そんなものを勝手に見た人間を、信用できるわけがない。そんな人間が「プライバシーの面で皆様にご迷惑をおかけすることは決してございません」なんて言ったって信用できるわけがない。まぁ、調査にあたって、その基礎となる情報を何らかの形で見なければ調査はそもそも不可能、というのは事実だ。だから、人それぞれ考え方はあるだろうし、「何でそんなに怒ってんの」という意見も当然あるだろう。
もし、電話をしてすぐに処理をすましてくれたら、こんな風にぐだぐだと、細かいことに突っ込みを入れるような文章を書くつもりはなかった。じゃぁ、何でこんな文章を書いたかというと、電話での対応という非常に些細なこと、そしてそれを知った後に見直した手紙の文面に、何だかすごく嫌なものを感じてしまったのだ。
具体的に言うと、私が感じた嫌悪感は主に2つの点から来る。まず「プロ意識の欠如」。調査をする人間として、何か勘違いしていない? たしかに記事や調査がその社会を知る上で重要な文献になることはあるだろう。でもそれ以前の問題として、そういうものを書くために対象と接触するとき、自分たちはあくまでも他人の生活にお邪魔させてもらっている存在である、という謙虚さが必要なはずでしょ? 送られてきた葉書にはそうしたものがまったく見られないもんね。だって、この葉書には「どうやって断ったらいいか」について一言も書かれてないやん。
それと、「プライバシーを守る」とあるけど到底信用できない、とさっき書いたけど、そもそも本気で守る気があるならば、アンケート用紙をこっちに郵送して、こちらから匿名で送り返すことが出来るシステムを作るべきでしょ? そういう手間と金をかけることを平気でケチって、学生調査員という安易な人海戦術に頼って楽をしようとしているところが、プロのする仕事ではないと思うねんけど。学生調査員なんていう曖昧な人間が、こちらが提示した資料の機密を必ず守ってくれる保証なんかあるはずがない。ウチの学生がそんなことをするはずがない、って? そういう言い訳はね、まず調査対象となる人間であるこちらに対してそっちが信頼関係を築こうと努力してから言ってくれ。こちらは学生調査員とはあくまでも初対面やねんで。初対面のアマチュアなんか信用できるか。
そして電話で対応した男性にもそういうプロ意識は感じられない。こっちから頼んで調査してもらってる訳でもないのに、ぐだぐだと言ってきて「困ってるんですよ」とまで口走ること自体が、そのことを物語っている。調査の対象となる人間が断る可能性があることぐらい、はじめから考えておくべきだろ? 「困ってるんですよ」なんて電話で言わんと、さっさと「了解しました」と言って処理をしてくれ。「困ってる」のはそんな葉書を突然送りつけられて、わざわざ電話までさせられたこっちだっつーの。
そして嫌悪感を感じたもう1つの原因は「研究者の傲慢」。何て言うんですか、「俺たちはお前たちを調査してやってるんだ」みたいな。それとも、「私たちの研究は非常に重要なのである」みたいな自分勝手な使命感、かな。
送られてきた葉書には、「成人した子とその親の援助関係」を調査する、とある。しかし、いかなる形で、いつ頃に、どこに発表されるのかの予定についてはまったく書かれていない。調査する対象はそんなことを知る必要がない、という傲慢な態度が透けて見えて仕方がない。葉書だからそんなことを書くスペースがない、って? じゃあ、封書で送ってくりゃいいだろ。アンケートの後できちんと話すつもりだった、って? 先に話してくれなきゃ、こっちも信用して話す気になるわけはない、と考えることが出来ないのかね。ここらへんには、この程度の対応で構わないだろう、という見下した感情がにじみ出ている。
つまり、調査対象となるわれわれは、彼らにとってのサンプルにすぎないのだ。下々の人間を調査して「上の」世界である学会などに研究成果として発表するための被験者なんだろう。そのこと自体をどうこう言う資格は私にもないかもしれない。私だって曲がりなりにも論文を書いている人間だし。でも、今のところ、私は他人に迷惑をかけているわけではないし、他人から見れば私の論文などあくまでも物好きな「趣味」にすぎない。この人たちの場合は違う。他人に自分の趣味への半ば強制的な参加を強いようとしているのだ。
私は先程「傲慢な態度」が見える、と書いた。もし、これが研究成果を上げて大学での地位も上げよう、という世俗的な態度ならばまだ許せる。そんなのは世間のどこでもあるありふれた風景だ。そうではなくて、純粋な学術的な調査のためという使命感からきたものならば、どうしようもない。だって、現代社会について調査しているのに、自分たちの調査が誰の役に立つのか、という意識が全くないことになるのだから。
調査した人々に対して、自分たちの調査結果を提示して、見解を述べることこそが、本当は文系知識人の役割のはずだ。学術的な調査が研究者の間だけで成り立っている「神学」になってしまっていることが、今回の事件から垣間見えてしまったのであった。まあ、「趣味」で論文を書いているだけの私自身も、「神学」をやっている点では変わりはないのだけど。研究者だけに通じる「神学」を、普通の人にも聞いてもらえる「説法」や「世間話」に変えていって、その話を聞いてもらった人々のリアクションから、さらに魅力的な話を作り上げることが、今こそ必要なんだろうなあ。
…腹が立つと同時に、自分自身のことも考えさせられた事件だった。