「屈強すぎた男」の「喜劇」



 これは大学に入る前からの友人・Y(仮名)の話である。
 このYは、身長180センチ以上、体重100キロ前後、中学時代は柔道部、高校時代はラグビー部に入っていたというデータからも分かるように、屈強な偉丈夫であった。キレると凶暴な性格になり(とは言っても、キレていないときでもすぐに手は出るが)、私が知っているだけでも武勇伝はいくつもある。
 もちろん人間に対しての武勇伝がほとんどだが、それだけではない。私たちの共通の友人であるT(仮名)の家には、私が知る限り壁に4箇所ほど穴が空いているが、その原因すべてがYの「暴力」のせいである。風の強い日は部屋の中にあるはずのカーテンが揺らめくのは、Yが空けた壁の穴のせいではない、と信じたい(…なお余談だが、冬になるとこのすきま風のせいで、Tの部屋は「凍死しない程度の冷却状態」になる。そして、以前のTの部屋には布団がなく、コタツ以外の暖房器具もなかったため、冬場に数人で泊まりにいった際には、コタツ争奪戦に敗れるとコタツの外でそのまま眠る羽目になり、その「凍死しない程度の冷却状態」のせいで身体の震えが止まらず、眠れなかったのであった)。
 またTの家で焼き肉をすると、鉄板の上の油が目に見えて分かるほど一定方向にたまることから、家自体が少し傾いていたことが分かる。壁に穴を空けたYの「強力」が、家そのものにも被害を及ぼしたためではない、と信じたい。

 …話がそれたので元に戻そう。このYはこんなごっついガタイをしていながらも、なかなか女性にモテて、かつマメな男であり、高校時代から「オンナ百人切りを目指す」と公言していた。この話は「屈強すぎること」と「女好きの性格」が結びついてしまったときに起きた「悲劇」、いや「喜劇」である…。

 それは、すでにYが高校を卒業して就職していたころの話である。その日、Yがいつものように仕事を終えて会社を出ると、出口のすぐ外で夕闇の中に1人の女性が立ちはだかっていた。その女性は以前Yが遊びで付き合っていたスナックで働いている女性であった。その頃のYのなかではその女性との関係はとっくに終わっていた。それでも、一応の礼儀として「久しぶり」「どうしてたん」みたいなありきたりな会話をしていたのだが、何だか相手の女性に変な違和感を感じた、とYは言う。
 とりとめのない話が終わると、その女性は「もう一度付き合いたい」と話を切りだしてきた。それに対して、「俺、いま付き合ってるコがおるから」とYは答えた(註:「付き合ってる本命のコ」がいたのは事実だが、隠れて他のコとの遊びの付き合いを続けていたのも事実。と言うわけで、単に面倒くさかったんだろう)。
 すると、その女性はおもむろにジーパンの後ろのポケットに右手を回した。そして次の瞬間、その女性の右手はナイフを握りしめており、Yの方へと突っ込んできた。とっさにYは左手でガードしたが、ナイフはYの左肘のあたりへと突き刺さった
 血はドクドクと流れ続け、着ていた服はあっという間に真っ赤に染まっていく。刺した女性は怖くなって、ナイフを放り投げて逃げていってしまった。地面に落ちるナイフを見つめつつ、夕闇のなか服を血で染めながら1人佇む偉丈夫Y。ちょっと絵になるかもしれない。しかも、屈強なYは動じることなく(修羅場に馴れていたせいだろう)「病院に行かな」と平然と考え、自分で車を運転して病院へ向かった、という。うーむ、ハードボイルド。まるでTVドラマの1シーンのようだ、とこんな経験をしたことのない私なんかは思うのだが。

 …ここまではよかった。シリアスなドラマの主人公のようでカッコよかった。しかし、私も含めて普通の人間は、こうしたTVドラマのような場面を滅多に経験することがないものである。従って、YがTVドラマの登場人物のように行動したとしても、そういう普通の人間は即座にはそれに対応することが出来ないのである。つまり、Yのような非日常的な経験をした奴が、私たちの日常世界に入り込んできても、私たちのような一般人は一種のパニック状態になって非常事態にそぐわないような日常的な対応をしてしまうのだ。その時、ハードボイルドな「悲劇」は間抜けな「喜劇」へと転落する…。

 車を運転しつつ病院を探すY。その間にも血は流れ続け、ズボンまでもが血に染まっていく。それでもあくまでもクールに行動するY。そしてついに小さな診療所を見つけて、その中へと入っていく。身体の左側が真っ赤に染まっているYを見て驚く受付の看護婦。Yはやっぱり冷静に「すいません、ちょっと診て下さい」と言った。もし、Yが普通の人間で、いかにも緊急事態のようなヘロヘロな状態にあれば、この看護婦もすぐに応急処置をするために行動を起こしたに違いない。しかしながら、このような状態にありながらも普段と変わらぬように行動できたほど、Yは頑強すぎる偉丈夫だったのである。
 もしくは、もしこの看護婦も非日常的な経験をしたことがあったならば、Yと一緒にハードボイルドなドラマを演じることが出来たであろう。血まみれで入ってきたYをすぐに匿い、Yの手当てをしながら、Yに何が起こったのかを興味を持つ。Yも手当てをしてくれる看護婦に少しずつ話し始める、そして2人はお互いに見つめ合い…というような展開もあったかもしれない−たとえYには「オンナ百人切り」の目標のため、という自分の都合があったとしても。
 しかしながら、あくまでもこの看護婦は普通の人だった。それゆえに、Y主演のハードボイルドなドラマの中には入り込んで演じることは出来なかった。Yを見ながら、この看護婦は普通の口調で語ったのである。

 「あ、すいません。ウチは救急患者は扱ってません」

 まるで「今日は午後から休診なんです」みたいな軽い言い方である。身体を血に染めた偉丈夫Yは、あっさりと診察を拒否されたのである。どういう風にも切り返すことが出来なかった悲劇の主人公Yには目もくれず、この看護婦は地図を書き始め、「この病院へ行って下さい」と地図が書かれたその紙をいまや喜劇の主人公でしかないYに手渡した。Yはすごすごとその病院から引き上げたのである。そして数十分後、その地図に書かれていた病院を結局見つけられず、自分で探し当てた別の病院で治療を受けていたYの姿があった。
 恐らくその時にも、「どうしたの」「刺されたんです」「えっ…ふーん、そうなんか」みたいな、普通にはあまり考えられないような傷には似合わない平凡なやりとりがあったと思われるが、残念ながら治療を受けた病院でのやりとりについては聞いていない…。

結論
 ハードボイルドでシリアスなドラマとは非日常的な経験に馴れているどこかおかしな人間が寄り集まることによってのみ成立する異常な物語である。1人でハードボイルドを演じようとすれば、それは寒い「喜劇」にしかならない。


追記
 このケガについて当時付き合っていたコに「何があったん?」と聞かれたYは、「部屋の窓ガラスに突っ込んでしまった」と答えたそうである。…って言うか、Yの部屋の窓ガラスはベランダに通じる大きな窓ガラスなので、突っ込んだら腕のケガだけですむはずはないと思うのだが、いまはYの嫁さんである彼女はそれには気づかなかったようである…。


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