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2001年2月の見聞録



2月1日

 田中弘之『幕末の小笠原』(中公新書、1997年)を読む。タイトル通り幕末から明治にかけての小笠原諸島における海外諸国と日本の外交政策を探る。非常に細かいテーマ設定だけれど、知られざる幕末史を紐解いた書と言える。海外の事情を知るために、捕鯨の補給地であり植民者もいた小笠原諸島へ、渡辺華山が出向いて知識を得ようとしていたというような興味深い事実も書かれている。


2月2日

 エドワード=W=サイード『知識人とは何か』(平凡社ライブラリー、1998年)を読む。1993年に著者が行った連続講演をまとめたもの。知識人とは周縁に位置し続けて弱者の味方をするものであり、細部の専門のみに詳しいスペシャリストではなく、利益や利害に縛られないアマチュアであるべきであるとする。
 読んでいると非常に危険なものを感じる。理想化された、というよりもうぬぼれた知識人像を述べているようにすぎないように見える。権力者におもねらず、孤独に生きて、弱者の味方をして、真実を語ろうとする…。そんなことが簡単に出来るぐらいならば苦労はしない。実際に著者自身が大学教授という身分だ。大学教授ということはアマチュアリズムに反するものではない、みたいな言い方をして予防線を張っているところがまた言い訳くさい。別に知識人は周縁に位置すべき、という考え方が間違っているとは思わない。ただ、自らは大学教授という安定した身分を得ながら、周縁にいることの惨めさと危険を語ろうともしないその安易さが理解できないだけだ。前近代においてその時代の権威や権力の外部にいた人間が、時に敬われることはあっても蔑まれる存在であり続けたことは周知の事実である。アマチュアリズムやら反権力にこだわり続けることこそ、普通の世間や社会から離れた特殊な考えだということを知識人である著者は忘れているようだ。いま問われることは知識人の専門主義とアマチュアリズムという概念ではなく、知識人と世間のありかたであり、スペシャリストとジェネラリストという概念ではなかろうか。なお、世間から阻害されたインテリが自分の理念のみを追い続けて、結局は世間に敵対して内輪の言葉しか紡ぎ出せなくなる危険性については関曠野『プラトンと資本主義 改訂新版』(北斗出版、1996年)に詳しい。ソクラテスとプラトンこそ知識人の自惚れ鏡の原点と言えるだろう。


2月3日

 浦沢直樹『20世紀少年』(ビッグスピリッツC、小学館)4巻を読む。「ともだち」の力は海外にまで及び、いまはバンコクにいるケンヂの友人であったオッチョも事件に巻き込まれる。そして2000年夏、東京では「ともだち」の力は増大し、ついに世界を滅ぼすためのロボットも完成しつつあった…。この人が『ビッグコミックスピリッツ』に連載してきたマンガは、かなり力を抜いて描かれているものばかりだと思うが、これもそんな感じだ。『Happy!』は『YAWARA』のパロディであり、『YAWARA』と同じようなタイプの登場人物を別の舞台設定に置くとどうなるかを狙って描かれたような気がするのだけれど、このマンガは『MONSTER』のパロディだろうか?


2月4日

 樋口大輔『ホイッスル』(少年ジャンプC、集英社)15巻を読む(14巻はココ)。東京選抜へのテストの最終選考が終了。補欠で選ばれた将は学校のクラブと選抜との板挟みで悩み、補欠扱いで試合に出られない選抜での扱いに苦しむ…。
 以前、これと『テニスの王子様』を『スラムダンク』の後継者と書いたけど、ちょっと違うかもしれない。というか『ホイッスル』の方は、設定がかなり地味だ。特に主人公はひたむきで素直なところはいかにも少年誌の主人公だけど、決して天才というわけではない。ラブコメではこういう主人公は結構いるような気がするけど、スポーツマンガでは珍しい気がする。そういうところが、面白いのかもしれない。

 許斐剛『テニスの王子様』(少年ジャンプC、集英社)7巻(6巻はココ)。対聖ルドルフ・ダブルス戦。『しゃにむにGO!』なんかに比べると精神的な葛藤が少ないところがやっぱり少年誌に連載しているマンガなんだなあと思う。

 尾田栄一郎『ONE PIECE』(少年ジャンプC、集英社)17巻(16巻はココ)。だんだんとストーリー展開がよく分からなくなってきた。これは小学生もよく読んでいると思うけど、ストーリーを理解しているのかなあ?

 荒木飛呂彦『JOJOの奇妙な冒険第6部 ストーンオーシャン』(少年ジャンプC、集英社)5巻(4巻はココ)。スタンド同士の戦いがもうわけが分からなくなってきて、途中の展開もなんで勝つことが出来たのかも読んでいてはっきりしないような気がする。もうそろそろ読むのをやめようかなあ。


2月5日

 アラン=ソーカル・ジャン=ブリクモン『知の欺瞞』(岩波書店、2000年)を読む。「サイエンス・ウォーズ」の仕掛け人であるソーカルによる書(「サイエンス・ウォーズ」については金森修『サイエンス・ウォーズ』を参照のこと)。ラカン、ボードリヤール、ドゥールズとガタリといったポストモダン論者たちが誤用している科学的知識を徹底的に批判している。そうした誤用が、自らの主張を偉そうに見せかけるために、そして本来ならば何の関係もないような科学的知識を引っ張り出して衒学的な装いを与えるために行われていることを指摘する。こうした誤用を行うポストモダニズムが台頭したきっかけは、T.クーンやファイヤアーベントらのパラダイム論による科学的経験主義に対する懐疑、合理主義に対する批判対象としての科学の存在などを挙げている。
 ポストモダニズム論者の名前を掲げた各章でそれぞれの批判を行っているが、それよりも「第一の間奏」と名付けられた章でのポパー・クーン・ファイヤアーベントに対する論述が一番長い頁を占めているところが興味深い。


2月7日

 勢子浩爾『わたしを認めよ』(洋泉社新書y、2000年)を読む。人間は自分の周りから承認されることを求めているというテーゼから、いかに自分自身を承認して善き生を送るかについて模索する。まあ、別にそれほど大したことを言ってるような気はしないが、お手軽な人生指南書と考えればこんなものだろう。それよりも、普通の人はわざわざを割とマイナーなこういう本を読まないことの方が問題なのではなかろうか。普通の人とは、雑誌やベストセラーや軽い小説は読んでもそれ以上のものは読まない人、さらに言えば本なんぞまったく読まない人である。著者が自分の言いたいことを本当に訴えかけたい人は、そもそも本なんか読まない気がするのだ。いやな言い方をすれば、本を読む人間同士の内輪受けの本のように見えてしまう。


2月8日

 秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書、1999年)を読む。第2次大戦期の慰安婦問題について、戦中の事実や記録の考察だけではなく、近年の慰安婦論争についても徹底的な検証を行う。様々な史料を網羅し、あくまでも研究者として冷静な筆致で書かれている大著であり力作だと思う。日本軍は確かに慰安所を設立したが、強制的に現地人を連行した明確な証拠は少なくとも現在のところ存在しないことを明らかにする。そして、大戦中における性の問題は日本だけではなく、参戦した諸国にもつきまとう問題であった。また、慰安婦論争においては、日本の違法性を主張する側に、明らかに明確な証拠はないどころか、真実性に非常に問題のある史料が使われていることを丁寧に論じる。
 今後、慰安婦問題を語るときにはこの本を避けて通ることは出来ないだろう…と思ったのだけれど、あれほど盛り上がっていた慰安婦論争は今はどうなっているのだろうか? 人権活動家やマスコミにとっては、所詮自分たちの活動の種にすぎなかったのではなかろうか。だからこそ、自分たちが不利と見えると、密かに少しずつと撤退していったのだろう。つまるところこれは歴史問題ではなく政治問題にすぎなかったのだと言える。そして、最後には男性の性のあり方を問題にするフェミニズムが飯の種にしようとよってきたように感じる。そのことは、本書でも取り上げられているように、上野千鶴子が慰安婦問題を支援する側も疑問を呈する側をも、「実証主義にとらわれている」と切って捨てたことからもよく分かる。ただ、慰安婦論争のごたごたの果てに、こうした歴史学の存在感を示すような優れた著作が生み出されたことは皮肉でもあるが、救いであるとも言えるだろう。


2月9日

 市立図書館で借りたCDを聴く。SLASH'S SNAKEPIT「AIN'T LIFE GRIND」(2000年)。1曲目から、エネルギッシュな曲で始まり、その後バラードやムーディーな曲を挟みつつパワフルな曲がずらりと並ぶ。新ヴォーカルのロッド=ジャクソンの気合いに満ちた歌もこのアルバムを魅力的なものにしている。AC/DCのアメリカツアーのサポートをしたそうだけど、このアルバムがアメリカでヒットして、アメリカでハードロックが再び盛り上がってくれるといいのだけれど。

 GUNS N' ROSES「LIVE ERA '87-'93」(2000年)。ベスト・アルバム的な2枚組のライヴ・アルバム。代表曲が網羅してあってすごい歓声で盛り上がっているので楽しめる〔追記:個人的には“Civil War”は収録して欲しかったなあ<2/16>〕。ただこのアルバムを聴いていて気づいたのだけれど、「APPETITE FOR DESTRUCTION」の曲はほとんど全曲収録されているのに「USE YOUR ILLUSION I & II」の曲は4分の1も収録されていない。つまり、後者はアルバムとしてのクオリティがそれほど高くなかったことを、このライヴ・アルバムは浮き彫りにさせているような気がする。GUNS N' ROSESはアメリカで活動を再開させたけど、再びアメリカでブレイクするためにはファースト・アルバムのようなパワーのある楽曲を詰め込んだアルバムを創らないと難しいような気がする。


2月10日

 かわぐちかいじ『ジパング』(モーニングKC、講談社)12巻を読む。賛否両論ある中で海外に派遣される海上自衛隊所属の最新鋭護衛艦「みらい」。しかし、突然の暴風雨に遭遇した「みらい」は第2次大戦中のミッドウェイ海戦へとタイムスリップしてしまう。アメリカにも日本にも敵と見なされた「みらい」は否応なしに戦闘に巻き込まれていく。この世界で生き残るために、偶然に救出した海軍少佐・草加の発案に従って、インドネシア・バレンバンへと物資強奪へ向かうことになり、海上自衛隊・門松二佐は草加と2人で現地に上陸する。しかし、連合艦隊司令官長・山本五十六の耳に「みらい」の情報が届き、草加の部下であった津田が「みらい」と草加を追跡し始めていた…。
 これはバイト先の本屋で第1回入荷分があっという間に売り切れ、2回目の入荷分も順調に売れていっている。わたしは読んだことがないのだが、このマンガは現代の軍隊がタイムスリップする架空戦記物に分類できるのだろうか? ただ、このマンガは戦記物としての面白さを重視しながらも、現代日本の専守防衛という恐らく戦場では役に立たない軍事方針が、過去の本当の戦場の中でどのように骨抜きに、または昇華していくのかを描こうとする心理的な部分を重視していると思う。よくある架空戦記物を読んだことはないのだけれど、話を聞いている限りではこのジャンルのものは日本の優秀さを見出して満足する単なるカタルシスとして読まれているような気がするので。戦中と戦後の日本人のアイデンティティの違いが物語の中でどのように描写されていくのか、この先の展開が楽しみだ。


2月11日

 『正論』2001年3月号に載っていた網野善彦氏への批判記事を読む。最近の著書である『日本とは何か』に対するもの。田中英道「網野史学に見る「日本史観」の欠落」。網野氏が自らの研究の成果を通して戦前の日本の批判や天皇制批判といった「反日本・反国家主義」の態度を取っていることに疑問を呈する。また「西尾幹二『国民の歴史』には中世の視点が欠落している」と批判する網野氏に対して、西欧で考えられた古代・中世・近代という分類史観に網野氏こそとらわれており、国際社会での日本の位置づけの視点が欠落していると述べる。
 山下龍二「「網野史学」とは何か」。網野氏と面識を持っていたことから、網野氏の左翼的傾向があることについて触れて、網野氏による天皇制批判や日本国号問題に関する叙述を検証する。また網野氏による「百姓=農民」否定について、漢文の素養があった時代には常識であったと指摘する。
 以前に『日本とは何か』を読んだときに、学問的な見解が政治的に利用される危険性について網野氏は把握しているのかどうか、という疑問を呈したのであるが、この予想が違った形で当たってしまった気がする。わたしは網野氏の見解が左翼や反体制派の主張に組み込まれて過激化するのではないかと予想していたのであるが、それよりも先に保守派(と、田中・山下両氏を呼んでいいのか分からないけど)による網野氏の反国家論に対する批判が出てきてしまった。
 ちなみに、確かにこの2人が言っていることは間違いではないとは思うのだけれど、それは網野氏の実証主義としての歴史学そのものに対する批判ではないと思う。田中氏は支倉常長に網野氏が言及していないことから網野氏の国際的視点の欠如を批判しているけど、これなんかあまりに細かすぎる批判であり、そうした小さな観点から全体を批判するやり方には疑問を感じる。山下氏の言うように百姓は農民でないことは常識であったとしても、それがあまり知られなくなった時代に網野氏が再び言及したことは事実であり、その後でそれは昔から知っていたと言っても、何だかせこい言い方のように見えてしまう。つまりは網野氏の史観そのものに対する政治的な批判であっても、学問的な批判ではないと思う。別に、歴史学者は客観的立場に立ってしか歴史を書いてはいけないと言いたいわけではない。ただ、網野氏の場合は学問的には誠実な実証主義であるのに、そこから政治的な主張が浮き上がって乖離しすぎているような気がするのだ。そして今回の『正論』での批判はそこを狙われたような気がする。


2月12日

 ルイス=マンフォード『機械の神話』(河出書房新社、1971年)を読む。初期の人間は道具によってではなく、言葉とそれによって象徴される儀式の発展によって、動物の領域を越えたとする。やがて社会的秩序が発展するに従って、支配階級は自然界の秩序と神話を自らの神話として援用するために、機械を利用するようになり、どんどんと巨大化していった機械は、近代以降の主権国家をより非人間化された形で成立させるために活用されたとする。
 タイトルから予想される内容とは違って、原始段階の人間にとって道具よりも言葉がいかに大事なものであるかについて半分以上のページが割かれているので、ちょっと拍子抜けしてしまった。機械文明の担い手として初期中世ヨーロッパの修道院を強調しているけど、これって現在ではどういう風に考えられているのだろうか。「教会の時間と商人の時間」というル=ゴフのテーゼは歴史学者からはわりと批判されているし、マンフォードのテーゼも批判されているのだろうか?


2月13日

 矢口高雄『釣りキチ三平』(講談社漫画文庫)1516巻を読む(以前の巻はココ)。16巻に出てくる脱獄囚と鮎釣りの話は、以前に違う巻で似たような話を読んだことがあるような気がするのだけれど。15巻は呪いのウキの話があったけど、これも前に呪いの釣り竿の話があった気がする。

 川原正敏『修羅の門』(講談社漫画文庫)34巻。対シュートボクサー・羽山悟、プロレスラー・飛田高明、空手家・片山右京戦。片山右京の菩薩掌っていう技がなんとなく好きだったことを覚えている。ごくわずかの隙間を作って両手の間に相手の頭を挟み、頭を両手の間で一瞬に何百回もたたきつけて脳を攻撃する技である。これ、本当に出来るかどうか科学的に実験して欲しいなあ。やっぱり実際には無理なんだろうか?


2月14日

 鈴木淳『新技術の社会誌』(日本の近代15、中央公論新社、1999年)を読む。洋式小銃・活版印刷・人力車・時計・電車・自転車・ラジオ・洗濯機など、近代以降の様々な新技術の発展を、その技術そのものの歴史だけではなく社会的背景も絡めて描く。明治期の指導者は新技術の導入に積極的であり、それを活用して日本は短い期間で近代国家となり得たとする。個人的には活版印刷と人力車の部分が面白かった。明治以降に導入された活版印刷によって、官報が迅速に印刷できるようになり法治国家の設立を助けたともに、文字の知識があった士族に職を与えることと、地方に出版文化を芽生えさせる結果になったとしている。
また人力車は鉄道の終着駅と、近隣の都市もしくは別の終着駅をつなげる役割を果たしたとして、人力車がなければ鉄道も発展しなかったのではないかと推測している。
 こういう地味な研究は、決して不要ではないのだけれど、だからといってあんまり読者の興味をそそるテーマではないのかもしれない。この本はウチの大学の図書館で借りたのだけれど、結構メジャーな本にもかかわらずウチの大学の中ではどうやら私が初めてこの本を借りたみたいなので。


2月15日

 小谷野敦『バカのための読書術』(ちくま新書、2001年)を読む。ただのベストセラー小説を読んでいるだけでは不満だけれども、難解な本を読むのはしんどいという人たちのための読書術を説いた本。無理に難解な本を読まずに入門書や歴史小説から知識を得ることを勧める。そして「意見」を主張するために「事実」をねじ曲げてはならず、また現在の状況が「いま、ここ」のみにしか関心を持とうとしない傾向があることに注意を促して、まずは歴史や物語へと立ち返ることを主張する。
 著者自身、呉智英『読者家の新技術』(朝日文庫、1987年)を愛読していたと述べており、『読書家の新技術』をより一般向きに書いた本と言える。難解な本を薦めてえらそうな態度を取ることなく、本を読んで知識を得たい普通の人にも楽しめる本を素直に紹介している点で好感が持てる。
 ただ、『読書家の新技術』の優れた点を認めながらも、その難点について指摘しているのだけれど、それについては納得しがたい部分もある。呉氏は著書の中で本をカードに取り家に蔵書を置かず図書館を活用する方法を進めているのだが、小谷野氏はこれに対して蔵書派である。小谷野氏はその理由として、東京以外では図書館が近所になくて、図書館の蔵書も充実していない場合も多いこと、そしてカードの場合は手元に蔵書がないのでいざというときに正確な引用が出来ないことをあげている。しかしながら、前者の理由については、公立図書館は自分の図書館にない蔵書を無料で別の図書館から取り寄せてくれるので、大抵の場合は何とかなる。そもそも図書館に置いてないような専門的な書物を読むことを、小谷野氏はこの本の対象とする読者には勧めていないはずだ。また、後者の理由については、やはりこの本が対象としている読者は、本から知識を得てそれを自分の考えとしてまとめればいいだけであって、別に正確な引用をする必要などないのではないだろうか、と思う。ちなみに、私はカード派だ。家も狭いし、学生なもんでお金もないので。
 あと、歴史書の読み方に関する記述に関しても気になることはある。歴史を学ぶ場合に、司馬遼太郎を始めとする歴史小説から始めることは、別に間違っていないと思う。歴史小説を否定する一部の研究者の見解の背後に、「歴史小説は民衆を扱っていない」という左翼的な反対があることも事実だ。ただ、アナール学派をはじめとする社会史の研究は、マルクス主義的な歴史研究に対する反動から生じたはずだ。だから、民衆を扱っていようが左翼的な見解から外れた研究もあるし、歴史小説のように英雄を扱っていても、左翼的な宣伝に使われることもある。別に民衆やその生活を扱った歴史学の本から入っても構わないのではなかろうか。だから、小谷野氏が「ロベスピエールも、ボストン紅茶事件も知らずに、「子供」という概念は近代になってできたたもので」(138頁)ということを書いてある本を読むべきではない、としているのは違うような気がする。この本が対象としている読者に、無理にロベスピエールを知ろうと勧めることこそ、難解な本を読むように促しているように思える。
 世の中すべての人が知的教養を持つ必要はない。必要な人が必要な知識を持っていないことは恥ずかしいことだけど、カッコつけようとして無理に生活に必要のない知識を身につける必要はない。私もそうだけど、本を読むことに苦痛を感じない人は、新聞を読むのさえ苦痛な人がいることを忘れることがある。まあ、実は新聞というのは読みにくいのだけれど、要は識字力はあっても活字を読めない人だっているということだ。
 なんだか、まとめも何もない文章になってしまったが、つまりは、本の中で本を読まない人にもう少し歴史や事実を学ぶべき、と主張しているような歯がゆさを感じてしまったということだ。もちろん、軽い本を読む習慣がある人にとっては読みやすい読書ガイドだとは思うけど。


2月16日

 松永豊和『バクネヤング』(小学館)を読む。『ヤングサンデー』とその増刊号に連載されていたものに、256頁の書き下ろしを加えたもの。帯タタキには「マンガ史上最凶の問題作!!」と書かれている。一言で言えば、吉外じみた凶暴な男が、暴れまくる話。まあ、こういうシュールで不条理っぽいものが面白いという人もいるのだろうし、こういうものが認めることが出来ない人は頭が固いと言われてしまうのかもしれないが、無理に分かったふりはしたくない。わたしには単なる行き当たりばったりのつまらない作品にしか見えなかった。

 市立図書館で借りたMR.BIG「GET OVER IT」(1999年)を聴く。ポール=ギルバートが脱退したので、もっとブルージーな方向性のアルバムを創るだろうと思っていたら、本当にそんなアルバムだった。決して派手なところはないが、熱くてソウルフルなエリック=マーティンの歌やリッチー=コッツェンのギターが、じんわりと染み込んでくる味わいのあるアルバムだ。ただし、昔のMR.BIGが持っていたようなキャッチーさやポップさがそれほどないために、これをきっかけにしてハードロックを知らなかった人がこの世界に入って来るという「LEAN INTO IT」のようなアルバムではない。ポール=ギルバート在籍時のアルバムを「そつがないけど、熱さもない」とするならば、このアルバムは「熱さはあるけど、派手さはない」ということになるだろうか。MR.BIG以外のハードロックも好きな人にとっては楽しめるアルバムだと思うけど、「MR.BIGは好き」という人は楽しめたのだろうか?


2月17日

 ロジェ=カイヨワ『戦争論』(法政大学出版局、1974年)を読む。社会が不平等であり祭礼・法律・習慣によってそれが制度化されていれば、戦争に参加する階級とそうでない階級とが分離されて、戦争は儀式化されたものとなる。逆に、平等な社会になると国民全体が戦争へ参加するようになり、戦争は無制限な大量殺戮へと変わっていく傾向にある、とする。こうした主張そのものは興味深く、この本も面白く読ませてもらったのだが、具体例として挙げている個々の事例に疑問を感じる部分もある。社会が不平等であった時代、すなわち前近代において、本当に戦争は儀式化されたもの、著者の言葉を借りれば「流血が少ないもの」であったのだろうか。例として春秋以前の中国や日本の戦国時代などを取り上げているのだが、これらの時代においても、特に下級兵による略奪や虐殺はかなり行われていたのではなかろうか。日本でいえば江戸時代は身分が制度化されていて平和であったと言えるのかもしれないが、これは身分が制度化されたから平和になったのではなく、平和になったから身分が制度化したと言えると思う。
 それと、以前に同じカイヨワの『遊びと人間』を読んだときにも書いたのだが、自分が主張しようとするするテーゼに都合のよい史料を持ってきているようにやっぱり感じられた(『遊びと人間』ほどではないけれども)。これはカイヨワだけのことなのか、それとも社会学全体の傾向なのだろうか。ただし、社会学をやっている者からすれば、「歴史学は些末な事実にとらわれて細かい部分しか見ようとしない」という風に思えるのかもしれないけど。


2月18日

 福本伸行『無頼伝 涯』(少年マガジンC、講談社)4巻を読む(3巻はココ)。前には好意的なことを書いたが、何だか安っぽいサスペンスドラマのようになってきたような気がする。『週刊少年マガジン』本誌で、尻切れトンボのような結末を先に知ってしまったからかな?


2月19日

 山本武利『近代日本の新聞読者層』(法政大学出版局、1981年)を読む。以前読んだ『メディアと権力』の参考文献にあげられていた本。統計資料を豊富に用いて新聞読者層の変遷を検証し、そこから新聞そのものの変質を探る。明治初期の新聞は、知識人向けの大新聞も、一般庶民向けの小新聞も、やがて後者が前者を圧倒していったとはしても、それぞれの読者層(前者ならば政治、後者ならば連載小説など)の嗜好に合わせたものであった。しかしながら、明治30年代以降、商工読者層による経済情報への欲求・関心が高まるとともに、新聞の無色透明的な不偏不党化か生じたとする。
 しっかりと研究史もおさえた正統的な歴史学の研究書だと思う。ただ、前にカイヨワ『戦争論』を読んだときに、「社会学をやっている者からすれば、「歴史学は些末な事実にとらわれて細かい部分しか見ようとしない」という風に言われるのかもしれない」と書いたけど、これはそういう風な本かもしれない。


2月20日

 中条比紗也『花ざかりの君たちへ』(花とゆめC、白泉社)14巻を読む(13巻はココ)。今回は瑞稀と佐野の部屋にもう1人同居人が転がり込んでくる話と、梅田校医の学生時代の話。佐野が瑞稀にキスしようとして、瑞稀が悲しくないのに泣いてしまうシーンがあるけど、泣いている瑞稀を前にして冷静になっていく佐野の描かれ方ががなんとなくリアルだった(…なんか適当な感想やな、これ)。


2月21日

 オットー=マイヤー『時計じかけのヨーロッパ』(平凡社、1997年)を読む。機械時計は中世に発明されたのであるが、ヨーロッパ大陸本土とイギリスとではその受け入れられ方に温度差が存在していた。ヨーロッパ本土においては、機械時計はもっとも精巧な機械とみなされて、神による正確な世界の創造のメタファーとして用いられた。これに対して、イギリスにおいては時計のメタファーよりも自動制御機械、特に天秤のメタファーが用いられた。ここには決定論的思想を発達させた大陸と、自由主義に価値をおいたイギリスにおける思想的な違いがあったとする。大陸合理論とイギリス経験論の違いを機械時計に関する言説から探った書であり、思想史・社会史の研究書としてまずまず楽しめる本だと思う。


2月22日

 加藤隆『「新約聖書」の誕生』(講談社選書メチエ、1999年)を読む。なぜ『新約聖書』が聖典として成立するまでには、イエスの没後から約300年かかったのかについて考察する。イエスの直接の弟子である使徒たちは口頭による教えを主体としていたが、直接の弟子ではないユダヤ人キリスト教徒であるヘレニストたちは、主流派である使徒たちと対抗する過程でまとまった文書としてのキリストの教えを必要とした。そうした中でマルコ福音書が成立する。これ以降の教会主流派は、パウロをはじめとするこうした分派のやり方を学び取って、拡大したキリスト教世界をまとめる手段として、聖典としての『新約聖書』を確立させていくとする。『新約聖書』が、現実のキリスト教徒のための生々しいテクストであった、ということがよく分かる。自らの手で書いたものを残さなかったソクラテスの言葉を、自分の考えを擁護させるために書きつづったプラトンとの関係に、イエスとキリスト教徒の関係は似ているのかもしれない。


2月23日

 井上雄彦『バガボンド』(モーニングC、講談社)9巻を読む(8巻はココ)。武蔵がついに柳生の里へと乗り込む。今回は張り詰めた戦いのシーンはないけど、嵐の前の静けさみたいな話が楽しめる。これを読んでふと思い出したのが小谷野敦『バカのための読書術』。歴史を学ぶ際に、歴史小説などから学ぶことは間違っていないとしていて、マンガでもよいと書いていたけれども、これを読んで宮本武蔵を知ろうとすることははたして正しいのであろうか? 別にこのマンガを貶めているのではない。このマンガは宮本武蔵の姿を虚実を取り混ぜてこの上なく魅力的には描いているけれども、実像ではないのではないか、というだけだ。実像を描こうとする歴史学と、虚像を織り交ぜながら魅力的な物語を描く歴史文学では、やはりその持つ役割が違うのではなかろうか。

 田島隆・東風孝広『カバチタレ』(モーニングC、講談社)6巻(5巻はココ)。今回は痴漢冤罪に巻き込まれた男を救う話と、夫の暴力に悩まされる妻の離婚を助ける話。このマンガの面白いところは、弱者が必ずしも善者ではないところだと思う。例えば後者の話の妻は、夫の暴力に悩まされつつも、そのいらだちを子供への折檻で放出している。はっきり言ってしまうと、人間の醜さがこれでもかと描かれているのだ。でも、それだからこそこのマンガはリアルなのだと思う。
 ただ、オビタタキに青木雄二の名前を使うのはそろそろやめた方がいいのでは? 今回は「青木雄二も衝撃!」となっているけど、なんか無理矢理な台詞だ。それよりも、いませっかくこのマンガをもとにしたドラマをしているのだから、そっちを宣伝したらいいのに。


2月24日

 塩野七生『ローマ人への20の質問』(文春新書、2000年)を読む。ローマ人に関する20の質問に対話形式で答えたもの。古代ローマに関して色々と豆知識的なものが得られるがそれ以上のものではない。ただ、ローマ史に興味があって色々と知りたい、という人には役立つであろう。実は、私は塩野氏の『ローマ人の物語』はそれほど好きではない。最初の何巻かだけ読んで、それ以降は読むのをやめてしまった。それは中途半端に小説っぽくて、中途半端に学術書めいて、どっちつかずの印象があるためだ。そのために、明らかに現在の歴史学では間違いであるとされている古代の史料の史実をも、真実であるかのように描かれるている記述に出くわすと、その中途半端な学術書っぽさのせいで醒めてしまう。それに妙な教訓めいた説法が混じっているので、読んでいてつまらないのだ。この本にもそうした面、特に後者の面が見え隠れする。ローマ人の歴史から色々な考え方を学ぶのは別に悪いことではないと思う。でも、そこからローマ人と日本人の比較をして普遍的な教えを説こうとするのは、誉められたやり方ではない。歴史から学ぶためには現在の自分がおかれた状況をふまえた上でやらねば、高みから偉そうに自分の都合のよい部分のみを取り上げることになってしまう。これではよくある日本人論と何も変わらない。そうした部分をこの本にも感じてしまった。


2月26日

 吉田秋生『YASHA』(フラワーC、小学館)9巻。凛と静の精神共鳴によって2人の過去が少しずつ明らかになり、華僑の財閥と両者の接触から争いもまた激化していく…。やっぱり面白い。

 篠原千絵『天は赤い河のほとり』(フラワーC、小学館)23巻(22巻はココ)。ヒッタイト対エジプトが本格的に始まる中、皇太后の陰謀が記された石板の争奪を巡る暗闘も起こる。まあ、こんなものか。前と同じ台詞だけど、別にこのマンガが面白くないわけではない。

 田村由美『シカゴ』(フラワーC、小学館)1巻。近未来の東京と思われる都市を舞台としたレジスタンスめいた組織と秘密(国家?)組織との争いを描いたアクションもの。現在のところ、そつなくまとまってはいるものの、それほど目新しさはない。


2月27日

 金子達仁『21』(2001年、ぴあ)を読む。サブタイトルに「世紀を越える神々たち」とあり、様々な業界の21人の才人たちとのインタビューを通じて構成されたノンフィクション。才人の中にも自分の能力に不安を持ち続けている人と達観している人の2種類がいて面白い。個人的には平尾誠二氏、大田光氏のものが印象に残った。ただ、何度も読みたいと思うような本ではないけれど。この人の本はすべての記事に現在の立場における後書きが付いているのがいい。


2月28日

 だめ連編『だめ!』(河出書房新社、1999年)を読む。だめな人の集い「だめ連」構成者へのインタビューを中心とした本。私はこの本を読むまでその存在も具体的な活動も知らなかったのだけれど、人付き合いが苦手な人が多い割には、以外とイベント好きなのが何だか不思議だ。その点では、文化系のサークルみたいな感じがする。そしてこれはあくまでも個人的な感想だけれども、この人たちはたぶん結構プライドが高いんだろうと思う。「俺たちはだめだということだけは分かっているだけ、偉いんだ」みたいな感じがある。その辺の意識が「キビシい状況、世の中を変革可能なものとして、なるべく社会のせいにしてみんなでトークしていく」(6頁)と書いてある部分に現れているような気がする。「異能のある俺たちが受け入れられないのは、俺たちじゃなくて社会が悪いんだ」みたいな。前近代の社会においてダメの人がいかに蔑まれていたかを知らないはずはない。現代になったはじめて、社会不適応者ものんべんだらりと生きていくことが出来るようになったはずだ。そうした社会におんぶして生きている部分もあるのに「社会のせいにして」という甘えた言葉は言うべきではないのではなかろうか。これは覚悟のない内輪受けの左翼というような気がする。本人たちはうまくやっているのだから、こんな偉そうなことは言わないべきなのかもしれない。でもいざっていうときに、この人たちは「どうせ俺たちはだめだから」ということを免罪符にしてしまいそうな気がするのだ。だめ連に属する人の話ではなく、だめ連にも不適応だった人の話を聞いてみたい。


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