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2001年3月の見聞録



3月1日

 『BANANA FISH OFFICIAL REBIRTH GUIDE BOOK REBIRTH』(小学館、2001年)を読む。人物紹介・ストーリー紹介・用語解説・様々な謎の追求・歴代編集者との座談会などを含むガイドブック。この本を読んで初めて思い出したんだけど、『YASHA』に出てくるシン・スウ・リンって、『BANANA FISH』に出てきたシンと同一人物やってんなあ。しかも番外編に出てくる日本人女性と結局結婚までしてるし。こんな形で物語がリンクしてるとは思わなかった。

 藤子・F・不二雄『鉄人をひろったよ!』(SF短編PERFECT版8巻、小学館)を読む(7巻はココ)。だんだんとハッピーエンドっぽいものが増えてきているのは、作者が年をとったせいだろうか?

 曽田正人『昴』(ビッグスピリッツC、小学館)4巻を読む(3巻はココ)。ローザンヌに向けてロシア人コーチ・イワン=ゴーリキーの元でレッスンに励む昴。しかし、イワンは昴を自分の教え子を覚醒させるための当て馬として利用しようとしていた。それでもイワンの元で学びローザンヌに参加していた昴の元へ、五十鈴の訃報が届く…。どんな境遇になっても結局は踊りを選んでしまう昴の怨念のすさまじさが読んでいて怖いぐらいだ。それがこの人のマンガの特徴なんだけど、今までの主人公は熱血な「明」の部分が強かったのに対して、今回はバレエという芸術をテーマにしているため、「暗」の部分が強くなっている気がする。


3月2日

 きら『まっすぐにいこう』(マーガレットC、集英社)21巻を読む(20巻はココ)。犬の里親探し編とあっこさんの子育て編。と、こう書くと何だかほのぼのとしているけれど、すんげえシリアスな話。というかこのマンガはどんどんと話がシリアスな方向へと向かっているなあ。今回は二つの話が微妙に絡み合ってるし。里親探し編で、郁子が秋吉に自分たちの出会いほど運命的なものはないと言ったのに、子育て編では結婚にまで至る将来を想像できた郁子とできなかった秋吉との食い違いが生じてしまい、そうした思いを秋吉と共有できていないのではないかと郁子に不安にさせるのだ。重すぎる。そして、みんなが郁子を頼れる人と思って悩みを打ち明けてしまい、郁子は人前で自分の苦しみを見せられなくなっていく。さらに重い。前にこのマンガマンネリになりつつあるかなと書いたけど、こんなヘヴィな話になっていくとは思わなかった。

 浦沢直樹『MONSTER』(ビッグコミックス、小学館)16巻を読む(15巻はココ)。ヨハンとニナの出生の秘密が徐々に明らかにされていく中で、ついにニナはヨハンと対峙する…。前には話がどんどんと広がっていると書いたけど、そろそろクライマックスに向かいそうな気がする。でも、このマンガは「そろそろ終わるかも」と思わせといて、話がどんどんと展開していくということが何度もあったからなあ。


3月4日

 中村太一『日本の古代道路を探す』(平凡社新書、2000年)を読む。考古学や歴史地理学の発展によって、古代日本の道路が倭王権や律令国家によって、大規模に造営されていたことが明らかになりつつある現状を分かりやすく説明する。そして、前8世紀末頃に道路造営の断絶があり、それ以前は幅員が12メートル前後で目的地同士を直接的に結ぶものであったのに対して、それ以後は幅員が6メートル前後で直線では通りにくい地形の場合には迂回路を作るようになったとされる。前期の道路には王権の権威を示す目的があったのに対して、国家の体制が固まりつつあった後期にはより実用的なものへと変質したと推測する。
 古代道路の研究について様々な図表を用いて語っており、古代史愛好家には楽しめる本だろう。ただ、個人的には古代道路の状態よりも、それが古代社会においていかなる役割や意味を持つのか、という内容だと思って読み始めたので、ちょっと肩すかしを食らったような感じになってしまった。


3月5日

 少年ジャンプコミックスの新刊を色々と読む。冨樫義博『HUNTER×HUNTER』11巻(10巻はココ)。幻影旅団の1人・コルトピの念の名前が「神の左手悪魔の右手」、それにふってあるルビが「ギャラリーフェイク」と、某小学館のマンガのタイトルそのままなのはいいのだろうか?

 ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』11巻(10巻はココ)。囲碁に関することや棋士に関することは色々と描かれているものの、だんだんと囲碁そのものに関する場面が減ってきているような気が…。

 岸本斉史『NARUTO』6巻(5巻はココ)。このマンガって登場人物は明るいキャラクターが多いけど、必ずと言っていいほど過去に暗い経験をしているので、かなりシリアスな話になっている気がする。ある意味『少年ジャンプ』では異色なのでは?

 矢吹健太朗『BLACK CAT』2巻(1巻はココ)。まあ、それなりに楽しめるのだけれど、秘密結社が世界の3分の1を牛耳って、それに対して革命を起こそうとする別の組織があるという設定が、なんとなく子供っぽい設定な気がして今ひとつのめり込めない…って、これはそもそも少年漫画やな、よく考えたら。

 鈴木央『ライジングインパクト』10巻(9巻はココ)。英国校のエース・トリスタンが120ヤード以内のアプローチならば必ず決める、というのはいくらマンガでも凄すぎじゃないなだろうか? 本当のプロゴルファーでもそんなことは出来ないと思うけどなあ。


3月6日

 森博達『日本書紀の謎を解く』(中公新書、1999年)を読む。音韻学・訓古学・文章の構成などの綿密な検証から、『日本書紀』の文章をα群とβ群との2種類に分類する。β群が基本的に和化漢文で記述されているのに対して、α郡は正確漢文で綴られていた。こうした事実から、持統朝期に執筆が始まった『日本書紀』は、α群が中国人によって中国語で書かれ、β群が日本人によって和化漢文で記された、とする。α群における漢文の誤りは、日本人が漢籍によって加筆を加えたときに生じたと主張する。かなり専門的な内容で、新書レヴェルを越えた学術書のような感じだ。


3月7日

 小山ゆう『あずみ』(ビッグC、小学館)21巻を読む。あずみが敵の策略に引っかかり、執拗で厭らしい私刑にあう。これは今までにないパターンで、読んでいてあまりにネチネチした拷問(というかSMプレイ)に読んでいて嫌な気分になるほど。

 福本伸行『賭博黙示録カイジ』(ヤングマガジンC、講談社)2巻を読む(1巻はココ)。カイジが強制労働所内でのチンチロリンに敗北してさらなる借金生活(借ペリカ生活?)に陥るが、しばらくしてそこにイカサマめいたやり方があることに気づく。そして、同士を作ってこれに反撃しようとする…。カイジがかかわるギャンブルにイカサマが含まれていることはいつものパターンなのだが、まだ明かされていないチンチロリンを巡る今度のイカサマは、どんなイカサマなのだろうか? 『カイジ』は「限定ジャンケン編」以外はまとめて読まないと面白くないような気がする。


3月8日

 ジャン・ピエール=ランタン『われ思う、故に、われ間違う』(産業図書、1996年)を読む。古代から現代に至るまで、様々な科学者による科学的な誤謬について多くの実例を取り上げる。ただし、それらをあげつらうのではなく、誤謬から生まれる様々な思考によって科学は発展してきたとする。どちらかというと雑学的な啓蒙書といった感じであり、興味深いエピソードや豆知識は色々と得られるものの、それ以上ではない。
 科学者の誤謬という場合、本当にそうだと信じ込んだ場合と、意図的にデータを捏造した場合があると思う。私が前々から不思議だったのは、科学史上で重要な研究において後者の誤謬が存在することだ。W.ブロード・N.ウェード『背信の科学者たち』(化学同人、1988年)によれば、ニュートンやガリレオは自分お考えに会うように実験結果を修正したとされる(ちなみに、ランタンの本にこの本で取り上げられたエピソードが色々と見られる)。もしこうしたことが事実ならば、近代科学は偽造されたデータが偶然にも正しかったおかげで発展したことになってしまうのではなかろうか。A.ソーカルは『知の欺瞞』においてポパーの主張に反論して、「科学は予言の形で理論を提出して、それが確実な事実として生じるとその理論が受け入れられる」と述べているものの、なんとなく納得できない。それが実験されたデータのみから提唱されたものならばともかく、捏造されたデータから科学が発展したとするならば、それは結果オーライということになったしまうのではなかろうか? うーむ、なんだかもやもやするなあ…。


3月10日

 岩瀬達哉『新聞が面白くない理由』(講談社、1998年)を読む。記者クラブの閉鎖性、官公庁や地方自治体・企業による新聞関係者への接待などの実例を挙げて、新聞が「社会の公器」たる報道機関としての役割を果たしていないことを痛烈に批判する。第2部は朝日新聞社に関する個々の事例を取り上げている。
 この本の内容が真実であるならば、新聞の状況はあまりにも酷い。著者は官公庁や地方自治体への「官マスコミ接待」に関するアンケート調査を行っているのだが、「官官接待」の1自治体当たりの年平均額が5800万円であったのに対して、「官マスコミ接待」は5000万円だったそうである。その他にも「リクルート事件」が世をにぎわす前に多数の朝日新聞社の関係者が接待を受けていたという事実や、サッポロビールの関係者が誤って会見日前日に日経の記者に情報を漏らしてしまい、情報を他社にスクープされたことに怒った日経以外の新聞各社の記者が会見日に社長を会見室に入れずに閉め出してしまった事件などについても書かれている。
 なるほど、マスコミは「第4の権力」だよな、こりゃ。別に「新聞は権力を持っているから悪だ」なんて子供っぽい正義を振り回すつもりはないけど、普段その他の権力を色々と批判しておきながら、自分たちの「権力」については自省がないというのは最低やと思うけどなあ。前にも書いたけど、会社の看板に寄りかかって自分の言論に責任を持たないですむから、こんな傲慢なことも出来るのだと思う。普通こんなことをしたら二度と取材をさせてくれないはずだし。「俺たちが取材してやっている」とでも思っているんだろうな、きっと。それに新聞は一定した購読者が存在するために読者のこと気にせずにすむから、クオリティのことも考えなくていいことも、こうした傲慢な態度につながっているのかもしれない。なお、新聞の歴史から見た記者クラブの問題については佐々木隆『メディアと権力』も参照のこと。
 ちなみに、朝日新聞社が中国の貴重な考古遺物を誤って破損してしまったが朝日新聞はその事実を半年にわたって隠蔽していた、という事件も書かれているが、不思議なのは中国側の対応。この事件に対して中国側の関係者に著者は取材を行っているのだが、口を閉ざしてほとんど何も語ろうとしなかったそうだ。相手が現在の中国に好意的な朝日新聞だから、中国側はあえて事態を大きくしようとしなかった…という推測はは穿ちすぎだろうか?
〔2004年3月8日追記〕
 文庫版のあとがきによると、長野県では田中康夫知事が記者クラブを廃したのだが、それに対して新聞・通信・放送16社で構成されている「県政記者クラブ」は、国民の知る権利に答える報道機関の使命であり、その取材のための記者クラブの役割を正しく評価していない、といった趣旨の批判文を提出したそうである。また、リクルート社から接待を受けていたという記述に対して、疋田圭一郎・本田勝一によって捏造と批判され、人格攻撃を行ったために、著者が逆に訴訟を行うということになったようである。ちなみに、匿名報道であったが、訴訟によって名前を隠す必要もなくなったようだ。
 前者に対して言うならば、「国民の知る権利」などと他人の権利を盾にしなければ、自分の権利を声高に主張できないのは、自分たちの取材力のなさを暴露しているのではなかろうか。後者については、たとえバレバレであろうとも、イニシャルトークだったのに過剰に反応すれば、誰もが怪しむということにさえ気づかなかったところに、権威になってしまったことの怖さを感じる。この裁判の顛末が気になって調べてみたのだが、「朝日新聞を応援しよう」というサイトの「記事で綴る朝日新聞社史」というコーナーの2004年1月21日の欄によれば、接待があったことを認定する結果となったようだ。ただし、この裁判の結果は、朝日新聞をはじめとする新聞系のどのサイトでも見つけることが出来ないのは、やはり同じ新聞同士で庇い合っているのだろうか? (単に調査不足であればご教授のほどを)


3月11日

 岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』(教育出版、1999年)を読む。家康は秀吉によって未開の土地であった江戸に追いやられていた、とする一般的な見解を検証し直す。江戸近辺は平安時代からすでに太平洋海運の要所であり、利根川をはじめとする関東の河川交通の中心地でもあり、中世を通じて水運上において重要な拠点であった。しかし、中世半ばまでは利根川を挟んで北関東と東関東が政治的に対立したため、鎌倉・室町時代を通じて政治的な中心地となることはなかった。その後、戦国大名の北条氏の登場によって、関東は1つの政治的なブロックとしてまとまっていき、家康は江戸を選ぶに至ったとする。秀吉が絡む物語は、江戸を選んだ家康の卓見を強調するために後代の人間によって作られたものであると推測している。テーマ設定がうまく、内容もコンパクトにまとまっているので、読み応えがありつつもすっきりとしているなかなかいい本だと思う。講談社現代新書あたりで出したらもっと売れたんじゃないだろうか?
〔追記1〕
 読み直していて、興味深い記述を見つけたので追記。1192年の段階で、伊勢神宮の所領127箇所のうち66箇所は関東・東海地方にあったらしい(残りのうち45箇所は伊勢・伊賀に集中)。これは東国各地で伊勢信仰を広めると共に寄進を募ったためと考えられる。それに加えて、伊勢神宮の神官たちは太平洋を通じた海運も行っていたことが、伊勢から江戸湾にかけての太平洋沿岸の各地で南伊勢系の土器が出土している事実から判明する。これは、網野善彦が『続・日本の歴史を読み直す』(筑摩書房、1991年)『「日本」とは何か』などで主張していた、海運国としての日本という見解を補強するものであろう。〔2006年11月7日〕
〔追記2〕
 再び読み直していて、江戸という名称の起源に関する部分を書き漏らしていたことに気づいた。江戸の語源については、すでに江戸時代の頃から諸説があったが、著者は滝沢馬琴による「江の湊」説が正しいと見なす。その根拠として、利根川河口に亀戸や松戸など「戸」の付く地名が多いこと、日本全国の港湾都市にも「戸」と「津」(「両者はほぼ同じ意味らしい)や「湊」などがしばしば用いられていることなどを根拠としてあげている(127〜130頁)。〔2009年4月7日〕

3月12日

 川原正敏『修羅の門』(講談社漫画文庫)56巻を読む(3・4巻はココ)。5巻は陸奥圓明流・陸奥九十九対不破圓明流・不破北斗。九十九は北斗を殺してしまったが、いくら武術の試合での事故とはいえ、人を殺してしまった九十九に殺人罪は科せられないのだろうか、と余計な心配をしてしまった。6巻はアメリカでのボクシング編。グローブの下に頭を押しつけて相手の顎をグローブブごと叩きつける「浮嶽」という技は、どう見てもバッティングの反則のように思えてしまうけどなあ…(確かもう少し後の方で弁解してたと思うけど)。


3月13日

 別冊宝島編集部編『「少年犯罪」の正体』(宝島社文庫、2001年)を読む。2000年に出た「少年はなぜ人を殺せたのか」を文庫化したもの。今どきの不良たちの生の声を集めたもの。「へえ」と思うことはあるものの、それ以上に何か深いものを与えてくれるわけではない。ただ、こうした不良たちが、福岡バスジャック事件の犯人や酒鬼薔薇聖斗に対しては一様に「理解できない」と言っているのは面白かった。

 STRAPPING YOUNG LAD「CITY」(1997年)を聴く。もの凄く密度の濃い音が怒濤のように押し寄せてきて、最後まで圧倒される。だからといって、ただうるさいだけではなくて、その激烈な音の中に身を委ねているだけで爽快になれる不思議な気持ちよさのアルバムだ。こういうモダン・ヘヴィネス系の音はあんまり聞いたことがないので、偉そうなことは言えないのだが、MINISTRYがブチ切れてヤケクソになって演奏したら、こんな感じになるんじゃなかろうか?


3月14日

 佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』(プレジデント社、2001年)を読む。書店・取次・版元・地方出版・編集者・図書館・書評・電子出版というそれぞれの観点から検証することによって、出版危機を巡る問題を考察していく。再販制に守られたままたち腐りつつある書店−取次−版元の流通制度、売れ筋だけを並べて均一的な店作りになっている書店、単なるサラリーマンとなりつつある書店員や編集者、市民サービスという名のもとにベストセラー本を必要ないほど大量に納めてしまっている図書館などを、現場の声を丹念に拾い上げて批判している。
 著者の言うように出版業界は危機的な状況にあり、それに対する方策が十分になされていないことは事実だと思う。そして、米子市にある今井書店の社長・永井伸和氏の「新刊を追いかける書店がフロー、図書館はストックであり、両者の組み合わせが大事」という言葉に著者は好意的に捉えており、私もその通りだと思う。こうした部分で、著者の認識と私の認識は近いと言えるかもしれない。しかし、決定的に違う部分があって、それは世の中において本の影響力が少なくなっても構わない、と私は考えていることだ。私は別に「世の中に本などなくても構わない」と言いたいわけではない。「本は絶対に必要というわけではない」というだけのことである。
 これは、たぶん著者と私の間での本と教養に対する考え方の違いだろう。著者は本によって形成される教養世界の衰退が、現在の社会における混迷の原因の一因であると考えているように思われる。例えば、成人式で暴れた若者は本を読んでいなかったためにこうした狼藉に及んだのではないのかと推測している部分や、『ダ・ヴィンチ』誌上での「忘れられない、忘れたくない本」の読者ランキングに挙げられている本に幻滅を感じたりしている部分にそうしたことを感じる。前者について言えば、前近代だけではなく明治の若者、特に地方の若者は本を読んでいなかったはずだが、それほど行儀が悪かったとは言えないのではなかろうか。そもそも、一般庶民にとって本はそれほど気軽なものではなかったはずだ。後者もこれに関連して言えるのであり、普通の世の中の人々はたとえ昔でも「教養のある」書籍をそうそう読んでいたとは思えない。普通の人々にとっては、教養というのは「人と話をする際に常識とされている知識」というものであると思われる。そうした知識を得るのが、戦後の一時期には書籍であったが、それが今は雑誌やテレビや携帯電話に取って代わっただけである。さらにこういう喩えは正しいのかどうか分からないが、魚屋の主人が無理して哲学書を読んだところで、魚を売るためには必要ないだろう。魚屋の主人にとって教養とは魚に関すること全般なのである。もちろん、本というのは決してなくなってはいいものではない。でも、普通の人々にとっての教養の中で本を必要としていないのに、そこに本を捻り込もうとする教養ならば私には必要ない。先の魚屋の主人の喩えで行けば、魚屋の主人が魚に関する知識を得たいときに、それに関する本を薦めて挙げることが、本を読んでしまう教養人の役割だと思う。
 別に、この本が面白くないというわけではない。前にも書いたけど、世の中には活字を読むのさえ苦痛だという人が往々にして存在していることを、本を読んでしまう人間は忘れがちだ、ということがこの本にもあてはまるような気がする。ついでだからまた喩えで話すと、豊富な知識を持つ優秀な幕末期の佐幕派が明治に変わってしまても幕藩体制の有効性を必死で語っているような辛さを感じてしまうのである。


3月15日

 村瀬学『ことわざの力』(洋泉社、1997年)を読む。ことわざが持つイメージを、それぞれのことわざの中の風物の源へと立ち返り考察し直すことを試みている。前書きを読む限り、ことわざに関する原史料を紐解いて前近代の心象史を探る本かと思ったのだけど、どっちかというと社会学的にことわざをその分類と構造から解読する手法を用いていて、ちょっと期待していたものと違っていた。世界各地で細分化が進んでいる現在は新しい中世ではないかとの見解を示している前書きと後書きの方が、個人的には本論よりも興味深かった。


3月16日

 七月鏡一・藤原芳秀『闇のイージス』(ヤングサンデーC、小学館)1巻を読む。拳銃の弾をもはじき返す義手の右腕を持つ盾雁人。あらゆるものから様々な依頼人を守る「イージスの盾」と呼ばれる彼の物語。強力な武器ではなくて、強力な防具を使うというアイディアはなかなか斬新だと思う。設定は面白いので、あとはさらに練り上げたストーリーが伴えばかなり面白くなるのでは?

 市立図書館で借りたCDを聴く。SYMPHONY X「V-THE NEW MYTHOLOGY SUITE」(2000年)。期待通りのネオクラシカルな世界が堪能できるアルバム。DREAM THEATER、特に「IMAGES AND WORD」(1992年)の頃の彼らがネオクラシカルなアルバムを創ったような感じ、というのは誉めすぎかもしれないが、優れた作品であることは間違いない。ただ、DREAM THEATER化が進んで、マイケル=ピネーラのキーボードのフィーチャー度が高まっているのはいいことだけど、その分、ラッセル=アレンのヴォーカル部分があんまり印象に残らなかった気が…。ヴォーカル部分がインスト部分よりも少ないように感じられることもDREAM THEATERっぽく聞こえる原因かもしれない。

 FIREHOUSE「O2」(2000年)。疾走する曲からバラードまで、いかにもなハードロックが満載されているアルバム。アルバムの最後を、マイナー調のスピードチューンで締める構成も個人的には好みに合っていて気に入っている。ただ、こじんまりとまとまりすぎている感じもするが。ちなみに、5曲目の“I'd Rather Be Making Love”のヴァースはTHIN LIZZYの“Whisky in the Jar”みたいだけれど、ほのかな哀愁のある“Whisky in the Jar”とは違ってカラッと明るいところがいかにもアメリカンロックっぽい。


3月17日

 森川ジョージ『はじめの一歩』(少年マガジンC、講談社)56巻を読む(55巻はココ)。今回はボクシングの試合以外が中心の話(一歩の父親、マンガ家を目指すために店を去る梅沢、など)。

 福本伸行『無頼伝 涯』(少年マガジンC、講談社)5巻(4巻はココ)。この巻で完結。「人間学園編」が終わってあっさりと終わってしまった。人気がなかったから打ち切りになってしまったような気がする。せっかく面白そうな素材だったのに…。

 藤沢とおる『GTO』(少年マガジンC、講談社)19巻(18巻はココ)。「勅使河原編」終了。前に書いたときには「敵のインフレ状態が起こってしまいコメディへと移行していくのだろうか?」と書いたけど、妙に出血し続けてている鬼塚が描かれているので、最後は鬼塚が死ぬか、どこかへ行ってしまってみんなが帰りを待つという展開になるのかもしれない。勝手な推測だけど。

 CLAMP『ちょびっツ』(ヤングマガジンCDX、講談社)1巻を読む。バイト先の本屋で勢いよく売れているので(初回限定版は発売日に売り切れた)読んでみた。近未来、パソコンは人間の形をするようになる。浪人生の本須和秀樹はゴミ捨て場で可愛い女の子の形をしたパソコンを拾うのだが、そこには何のデータも入っておらず、現在の技術では考えられないほどのキャパシティーを持つ「ちょびっツ」と呼ばれる正体不明のパソコンであった…。自分では感情を持てないパソコンと人間との恋愛はうまくいくかということがテーマになるのだろうけど、いかにもオタク受けするようにパソコンが美少女で、その他にも主人公の周りに美人や美少女が何人も登場させているあたりがあざとく感じられてしまった。けれども、まあそれを狙って描いて成功しているからこそ売れているのだろうから、それにのめり込めない人間がとやかく言う筋合いはないのだろう。


3月18日

 丹羽健夫『悪問だらけの大学入試』(集英社新書、2000年)を読む。著者は河合塾の講師であり、大学入試で出されている悪問を例示しながら、河合塾が大学入試問題作成の委託を受けることになった事情を明かす。大学入試に悪問が多いことは事実であると思う。ただ、著者はその原因の一つに大学から教養部がなくなっていっていることを挙げていたが、これはもともと教養部がなかった私立大学にはあてはまらないのではなかろうか。それぞれの大学が入試の回数を増やしているために、問題作成の手間が増えて入試問題の質の維持が難しくなったというのは正しいと思うけど。それと前にも大野晋・上野健爾『学力があぶない』の項で書いたことがあるが、大学生の質が下がったのはやっぱり大学への進学率が上がって、以前よりは低い学力でも大学へ進学出来ることになったこともあるのではなかろう。きちんとしたデーがないために何とも言えないが。
 あと、この本はタイトルに関係している部分は基本的に前半部分だけであり、後半は教育問題や河合塾に関するエッセイであり、タイトルに偽りあり、とも感じられる。


3月19日

 『週刊少年サンデー』の新刊コミックスを読む。青山剛昌『名探偵コナン』31巻(30巻はココ)。このマンガもいつまで続くのだろう。まあ赤川次郎や西村京太郎みたいなものだからこれでいいのかな。ところで、本編とはまったく関係ないけど、いくら服部平次が剣道の達人といっても、上段から振りかざされた真剣をかわしてその上に立つというのはちょっと無理じゃなかろうか?

 河合克敏『モンキーターン』16巻(15巻はココ)。この巻で、洞口がスーパーキャビテーティング型プロペラを使って、並み居る強豪を打ち破ってGIで優勝してしまうけど、実際にプロの競艇選手でこのプロペラを使っている人はいるのだろうか? 普通のプロペラでは直線で85キロが限界なのに、このプロペラでは90キロ出るということは、1秒で約1.4メートルもつまることになり、もし実用されたならば競艇界に革命的な変革が訪れることになるような気が…。

 満田拓也『MAJOR』34巻(33巻はココ)。やっぱりマンガとしては面白いけど、それは「野球マンガ」としての楽しさではないような気がする。その点では、「マンガ」としては面白いけど「ボクシングマンガ」としての面白さではない『あしたのジョー』と似ているのでは?

 あだち充『いつも美空』3巻(2巻はココ)。このマンガはどこに向かおうかとしているのかがまったく分からない。

 皆川亮二『ARMS』16巻(15巻はココ)。建物そのものがサイボーグというビル内部での死闘が続く。だんだんとゴチャゴチャしてきて分かりにくくなってきた気が…。

 高橋留美子『犬夜叉』20巻(19巻はココ)。やっぱりあんまり面白くないなあ。戦闘シーンでも、なぜ勝つことが出来たのかが深く描かれているわけではないので、なんとなく読み流してしまう。


3月20日

 兵藤裕己『<声>の国民国家・日本』(NHKブックス、2000年)を読む。幕藩期の忠孝のモラルから天皇を親とする「日本人」の一元的な民族意識を明治期の庶民の中に形成させたものとして、浪花節芸人の語る「声」に注目する。彼らが語る義侠・任侠の様々な物語が、エリート層から疎外された人々に国民への意識を目覚めさせたとし、自由民権運動の衰退と日清・日露戦争での高揚がそうしたことをより顕著にさせていくとする。
 テーマはそれなりに興味深いと思うのだが、各章ごとのつながりが弱く、また時代も行ったり来たりするので、読んでいてもの凄くとっつきにくい。

 板垣恵介『バキ』(少年チャンピオンC、秋田書店)7巻を読む。加藤vs.ドリアン。加藤は鋼鉄線で首筋を切られて大動脈から出血していたが、死んでいないみたいだ。いくら何でもあれは死ぬんじゃなかろうか? まあ、このマンガは何でもありか。


3月21日

 楡周平『朝倉恭介 Cの福音・完結編』(宝島社、2001年)。「悪」のヒーロー・朝倉恭平とジャーナリスト・川瀬雅彦のシリーズが完結。日本でのコカイン・コネクションを作り上げた朝倉をCIAと川瀬が追跡し、朝倉は絶体絶命の立場に追いつめられる…。この人の小説は物語や設定のプロットとディテールは面白いのだが、偶然に起きる事件があまりにも多すぎるのでは、という気がする。今回の作品でいえば川瀬とギャレットや祐子との出会い、ケガにうなされたギャレットが川瀬の前で朝倉の名前を呟くシーンなどは、あまりにも偶然すぎる。


3月22日

 井上三太『TOKYO TRIBE2』(祥伝社)5巻を読む。アジア(中国?)の大長老から派遣された刺客・ジャダキンスが、東京のトライブ同士の争いをさらに激化させていく…。話のストーリーそれ自体はそれほど新鮮味があるものでもないのだが、広角的な視点とも言える独特な画風が迫力あるマンガへと仕上げるのに一役買っていると思う。

 井上雄彦『リアル』(ヤングジャンプC、集英社)1巻を読む。バイク事故を引き起こしたことがきっかけで高校を辞めた野宮朋美、片足を失い車椅子で生活している戸川清春、バスケに対する激しい情熱を持つ2人が出会い、物語が進んでいく。そして、野宮が辞めたあとにバスケ部を仕切っていた高橋久信も事故によって下半身不随意となる…。まだ1巻なのでこれから先にどうなって行くかどうか分からないが、この人のマンガで「天才」が出てこないマンガってこれが始めてじゃなかろうか? タイトル通り「リアル」なマンガになるような気がする。ところで巻末に2巻の発売予定日が載っているのだが、「2002年春」とえらく先の話である。


3月24日

 トーマス=キューネ編『男の歴史』(柏書房、1997年)を読む。「男らしさ」がいかにして近代社会において形成されたのかについて、19世紀から現代に至るドイツ社会を中心とする論考を集めた論文集。重要なテーマであると思うのだが、個人的にはなぜかあまりのめり込めなかった。ただ、女性が男性社会に疎外されているとして男性全体を敵視する傾向があるフェミニズム論者も、これからはこうした男らしさの形成をも視野に置こうとしない限り、フェミニズムそのものが批判のための道具となってしまい、堕して先細りになっていくような気がする。そういう意味では無視できない本ではなかろうか。


3月26日

 岩明均『雪の峠・剣の舞』(KCデラックス、講談社)を読む。2つの歴史短編を収めた作品集。「雪の峠」は江戸初期の出羽藩を巡る物語。関ヶ原の戦いで西軍に付いた佐竹家は、戦後に常陸から出羽へと転封された。その新しい所領の府の位置の決定を巡って、戦国の世の習慣を忘れることの出来ない譜代家臣と、佐竹家当主・佐竹義宣および彼に目をかけられており太平の世にふさわしい町を作ろうとする渋江内膳との「戦」を描く。「剣の舞」は竹刀の考案者でもあり新陰流の創始者・上泉信綱の弟子である疋田分五郎とある少女の巡り会いを描いた物語。どちらの物語も、歴史上において決してメジャーではない人物を取り上げながらも、しっかりと調べて構成してあることが窺える。それに飄々とした渋江内膳、感情をあまり出さない剣の達人疋田分五郎とともにキャラが立っており、エンタテインメント作品としても読み応えがある優れた作品だと思う。全然作風や画風は違うけれど、この人が昔の白戸三平のようなマンガを書いたらすごく面白ものができるような気がする。


3月27日

 松本侑子『誰も知らない「赤毛のアン」』(集英社、2000年)を読む。『赤毛のアン』を新たに翻訳した著者が、モンゴメリの書簡や近年に入ってようやく刊行された彼女の自叙伝などを用いながら『赤毛のアン』を読み解く。『赤毛のアン』は現実離れした女の子向けの空想小説などではなく、舞台となったカナダのプリンスエドワード島の当時の状況を色濃く反映させたものであった。そして、作家としての情熱を持っていたモンゴメリは、決して『赤毛のアン』を書き続けたかったわけではなく、読者や出版社のために『赤毛のアン』という「道徳的な児童文学」を執筆せねばならない状況に不満を常に抱えていた。さらに、愛する人と別れ、牧師と結婚することになったモンゴメリは、少女の真の姿を描くような「不道徳な」物語を書くことが許されない立場にあったとする。それでも、そういうジレンマの中にいたからこそ、アンが生活する理想の世界を描くことによってモンゴメリは幸せを感じていたのではないかと著者は推測する。
 作者と読者・出版者の関係は、前に読んだ藤子・F・不二雄の『ドラえもん』に関するジレンマを思い起こさせる。少女のありのままの姿を描くことが不道徳として許されなかったとしている部分で、著者が「男性作家には、本当の少年が書けない、真実の少年の性や内面を書くと批判される、という抑圧が、過去と現在にあるだろうか」(179頁)と書いているのは非常に興味深い指摘だ。以前に『絶滅女類図鑑』(文藝春秋、1994年)で橋本治氏が言っていたことを借りて書けば、女流文学という言葉がある限りは、文学の世界は男性原理でできあがっていることになるのだと思う。


3月28日

 神尾葉子『花より男子』(マーガレットC、集英社)28巻を読む(27巻はココ)。つくしと司がついにHか、というところまで行ったけど、結局何もなし。際に司がニューヨーク行きのチケットを見せたから、母親との直接対決が始まるかもしれないけど、何だかまだ終わらなそう。「あたしたちがお互いのことを考えていればよかったのは思えばこのときだけだったね」なんていうつくしの思わせぶりな台詞もあるし。

 吉村明美『海よりも深く』(フラワーC、小学館)7巻(6巻はココ)。男に触られると放電する男性アレルギーは治ったものの、今度は他人の心の中がすべて見えてしまうことになってしまう。さらに、幽体離脱を始めた眠子の魂は、世の中の醜さといきることの辛さから、眠子の存在を消滅させようとする…。この巻で眠子と十三がエッチをしたということは、このマンガはそろそろ終わるかな? この人のマンガは主人公同士がエッチをするとだいたい終わりに近付いていることが多いし。


3月29日

 S.アンドレスキー『社会科学の神話』(日本経済新聞社、1983年)を読む。社会科学における惨状を社会科学者自身が批判する。特に、社会的な効用を考えずに済むために、社会学者が役にも立たない主張を繰り返し発表していることや、「科学」の名の下に数量化できるものだけを学問の対象として、それ以外のものを学問ではないとみなして考えようとしない態度を厳しく攻撃する。
 原著は1972年だが、今の学問世界に対する批判としても十分に通用することは悲しむべきことなんだろう。A.ソーカル『知の欺瞞』は科学者の立場からポストモダンの学者たちの科学知識のいい加減な援用を痛烈に批判しているが、この本ではパ^ソンズはじめとする社会学者による科学知識の勝手な利用をあげつらっている。なお、「科学的な」統計調査が多くの場合において非常にいい加減であることは谷岡一郎『社会調査のウソ』も参照のこと


3月30日

 川原泉『ブレーメンII』(ジェッツC、白泉社)2巻を読む。船長を除いたすべての乗組員が、遺伝子操作によって知性を獲得した動物である宇宙輸送船・ブレーメンII号のSFドダバタ劇。この人のマンガでファンタジーやSFっぽい要素が使われることはよくあったが、主人公が今の日本に生きる人ではないのは始めてじゃなかろうか? ほのぼのとして味はあるのだけれど、昔のようにごちゃごちゃと色々と描き込まれている画風を使って欲しいような気がする。


3月31日

 細野不二彦『ギャラリーフェイク』(ビッグスピリッツC、小学館)21巻を読む(20巻はココ)。前には「だんだんと楽しめなくなってきた」と書いたけど、台湾の政治事情と「茶藝」を絡ませたり、カードのスキーミングをおなじみのニンベン師が暴くストーリーなど、最新の政治・社会事情を描いたストーリーに美術関係の知識を盛り込みつつ物語を創るのがやっぱり上手い。まだまだ『美味しんぼ』化するのは先のようで嬉しい。


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