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2001年4月の見聞録

4月1日

 田中貴子『日本ファザコン文学史』(紀伊国屋書店、1998年)を読む。マザコンばかりが問題視される中で、ファザコンの問題も同様に世の中には存在しているとする考え方から、平安〜室町に至る女性による文学作品に見え隠れするファザコンの意識を検証していく。
 古典文学にフェミニズム研究の手法を応用して女性のファザコンの心性を見出すというやり方そのものは非常に興味深く読めたのだけれど、古代・中世のファザコンと現代のファザコンとでは微妙に食い違いがあるのではなかろうか。父親が娘を手放したがらないと言うのはいつの時代でもそう変わらない(娘を自分の家の政治や経済状況に応じて進んで手放すことはあっただろうけど)。しかし、女性の立場について言うと、前近代においては基本的に女性は家庭外での自立を許されない時代であり、父親の庇護を求めるには父親を意識して振り向かせる必要があった。それに比べて現代は、女性は自立を許さているにもかかわらず父親の元に残りたがっていることがままあるのではないかと思う。ちなみに、これは別に女性についてだけではなくて、男性についても言えることであり、現代では男性だって親元に残ることはよく見られることである。ただし、男性はマザコンと罵られても女性はファザコンと批判されることはない、という点が大きく違うのであり、現代社会のおかしな点であるそこのところを突っ込んで欲しかった気がする。と言っても、中世文学を対象としている本書にそれを求めるのは筋違いなのかもしれないけど。
 すでに誰かが言っているかもしれないけど、どうして女性は自分の恋人や夫がマザコンなのを嫌がる癖に自分の息子にはマザコンであり続けて欲しいと望むことが多いのだろうか?


4月2日

 お笑い番組に関する本を続けて読んでみる。日本テレビ編『ガキの使いやあらへんで5<裁判>』(ワニブックス、2001年)。「ヘイポー薄っぺらい疑惑」や「おちょこ松本疑惑」などの裁判シリーズと最新のトークを納めたもの。フジテレビ編『笑う犬には謎がある』(角川書店、2001年)。『笑う犬の生活』と『笑う犬の冒険』にのコントに関する様々な謎を解明したものに出演者の対談やインタビューを収録したもの。どちらも今ひとつな気がする。『ガキ』について言えば、もともとの番組を見ている私のような人間には楽しめるのだけれど、番組を見ていない人が字面だけを追っていてもあんまり楽しめないのではなかろうか。『笑う犬』の場合はコントに関する謎の解明が一昔前の謎本のレヴェルであり、つまらない。どうせならば、インタビューや対談は面白かったのだから、出演者が各コントについて語る構成を取ればよかったのに。


4月4日

 村上龍『「教育の崩壊」という嘘』(NHK出版、2001年)を読む。中学生1600人アンケートと、教育関係者との対談・鼎談をまとめたもの。学校教育そのものの質は決して下がったわけではなく、高度成長期以降に子どもたちへ生き方を示すことが出来ていないことから現場の混乱が生じていると著者は考えているようである。教育格差が存在している原因に各家庭の経済格差が厳然としてあることを指摘しているのが興味深い。教育の問題については広田照幸『家庭のしつけは衰退したか』や大野晋・上野健爾『学力があぶない』の項でも書いたことがあるが、「個性」を伸ばす教育よりも「中庸」を生きる生き方の教育の方が必要なのではないかと考えている。


4月5日

 大山誠一『<聖徳太子>の誕生』(吉川弘文館、1999年)を読む。厩戸王の実在は事実であるが、聖徳太子の事績が歴史的に作られたと論じる。聖徳太子についての史料は大きくわけて『日本書紀』と法隆寺系の諸史料があげられるが、前者には後者において言及されている出来事がほとんど記述されていないことから、聖徳太子の偉大さが強調されがちな後者の史料は『日本書紀』以降に作為的に書かれた史料であるとする。そして、『日本書紀』編纂は唐との外交が再開されて中国からの情報が流入してから行われたため、それまでに著述されてきた『古事記』で描かれているような時代遅れな「大王」国家ではなく、律令制に基づいた国家像を提示する必要に迫られた。そのときに、ヤマトタケルのモデルであった久米王の実兄である厩戸王が選ばれ、編纂に関わった藤原不比等によって儒教、長屋王によって道教、道慈によって仏教のそれぞれのイメージが形成されたとする。そして、長屋王の失脚とともに道教の要素が薄れ、法隆寺の存在が想像された聖徳太子のイメージを強調するものとなっていったとする。
 かなり斬新な主張であるが、奇をてらっただけのものでは決してなく、史料の検証もかなりしっかりと行われており、これが通説と認められたら日本古代史の流れは大きく変わるのではなかろうか。ただ、聖徳太子の存在の否定に関して、法隆寺の焼失によってもその遺品が失われていないことから、遺品そのものが後代に作られたとしているけれど、最近の考古調査によって法隆寺の焼失そのものについての議論が行われていたので、この辺と絡むとまた結論が変わるのかもしれない(これに関してはきちんと覚えていないので、本書とは関係ないかもしれない)。


4月6日

 Metal Boxから借りたREINGOLD「UNIVERS」(1999年)を聴く。MIDNIGHT SUNのヨナス=ラインゴールドのソロ・プロジェクト。いかにもな哀愁漂うメロディアスな北欧ハードロックだけれど、何よりもびっくりしたのが、ほぼ全部の曲で歌っているヨラン=エドマンの歌の上手さ。特にバラードで聴かせてくれる歌は絶品。実はいままでイングヴェイのアルバムで歌っているのしか聴いたことがなかったのだけれど、こんなに上手い人とは知らなかった。


4月7日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。尾田栄一郎『ONE PIECE』18巻(17巻はココ)。前に「ストーリー展開が分かりにくくなってきた」と書いたが、やっぱりあんまりよく分からない。いや面白くないというわけではなくて、キャラクターは個性的なのがいっぱいいるし、個々のストーリーやバトルシーンは面白いのだけれど、それがどういう風につながるのかがよく分からないのだ。キャラクターのぶつかり合いの中でどんどんと新しい設定を作っているからだろう。たぶんこういう風に理屈っぽく読んでるからこういういちゃもんめいたことを言ってしまうのであり、こういう読み方をしてはいけないのだと思う。

 森田まさのり『ROOKIES』14巻。このマンガは最近読み始めたのだけれど、個人的に一番熱くなってグッとくるマンガ。野球を通じて語られるメッセージはクサいといえばクサいお約束な台詞なんだけど(この巻でいえば沢村先生の台詞)、結構ツボにはまってしまう。ただ、このマンガも「野球マンガ」としてではなく「マンガ」として面白いと思う。

 樋口大輔『ホイッスル!』16巻(15巻はココ)。設定は地味だけれど、逆にだからこそサッカーの面白さがダイレクトに伝わってくる気がする。もしかすると、野球はサッカーに比べて絵で情報を伝えることが難しいのかもしれない。そのために、野球の面白さをマンガで伝えようとすると文字の比率が多くなって蘊蓄マンガのようになってしまうので、「野球マンガ」よりも「マンガ」としての面白さを追求する形になるのではなかろうか。野球はサッカーに比べて偶然の要素も強いということも原因かもしれないけど。

 荒木飛呂彦『JOJOの奇妙な冒険第6部 ストーンオーシャン』6巻(5巻はココ)。前に「読むのをやめようかなあ」と書きつつ、結局また読んでしまった。でも、まあ毒を持つ蛙の体液から身を守るために蛙そのものでネットを作る部分はなかなか面白かったので、まあいいか。

 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』124巻(123巻はココ)。またまた新たな登場人物が登場。一体どこまで新たな人物が登場し続けるのだろう?


4月8日

 伊藤理佐『やっちまったよ一戸建て!!』(アクションC、双葉社)12巻を読む。著者が一念発起して自分の土地を買って家を建てるまでのドキュメント。一人用一軒家、というフレーズ(と言うか、本当のことだからフレーズじゃないのか)も笑えるけど、この人に手にかかれば、世間一般の人々もみんないつもの独特の妙な味のキャラクターに変身するのが面白い。マンガ家にも色々なタイプの人がいんだろうけど、この人は自分の存在自体が自分のマンガの登場人物のようなおかしな人なんだろうなと思う。そうじゃなきゃ、家を造るという地道なドキュメントがこんなに楽しめるはずがない。しかしながら、やっぱり新しい家に吹き抜けのあるトイレがあるってのは変じゃないかな。


4月9日

 プロレス中継を立て続けに見る。「ワールドプロレスSP」(ABCテレビ)。新日本プロレスvs.猪木からの刺客というのが主な構造。現場で観戦している人間はまた違った感覚だったかもしれないけど、テレビで見ている分には興ざめだった。プロレスにある程度は興味のある私でもつまらなく感じたので、興味のない人ならば全然面白くなかっただろう。まず、試合内容そのものよりも、テレビ番組としてのしきりがあまりにも悪すぎる。コマーシャルがいい加減なところで入って試合がぶつ切りになってしまうのだ。特に最悪だったのは村上一成vs.獣神サンダーライガーで、ゴングが鳴った思ったらコマーシャルに入り、コマーシャルが終わって番組に戻るとすでに試合は村上の反則負けで終わっていた。VTRで振り返ることもなかったので、何が起こったのかすら分からない。まあ、それは普通のプロレス番組のようにダイジェスト版を見ていると考えればいいのかもしれないけど、それよりも問題なのは試合内容。一番印象に残ったのが小川と長州の絡み合いだったというのはちょっとまずいのでは? 藤田vs.ノートンの試合の最後の方はそれなりに面白かったけど、橋本vs.健介はなんか尻切れトンボだったし。
 「NOAH中継」(読売テレビ)。GHC初代王者決定トーナメント一回戦・秋山vs.大森のダイジェスト版。試合内容はこっちの方が先の新日のすべての試合よりも面白かった。秋山は肘攻めを、大森のアックスボンバーを絡めて首攻めをそれぞれが執拗に繰り返していてねちっこい試合だったけど見応えがあった。
 ただ、この2つの放送を見ていて思ったのは、「古いタイプのプロレスは生中継には向いていない」ことと「プロレスが再び一般の人々の間に浸透することはむずかしい」ということだった。ラウンド制ではないために、今のテレビ番組の枠に入れることが難しいのだ。その点やっぱりK−1というのは上手いルールだと思う。そして、テレビでやっていないから決してメジャーにもなれないマニアのための存在でしかない。いくらドームで興行をやっていたとしても、今はプロレスの選手が出ているコマーシャルはない。はっきりいって私のバイト先のような普通の本屋では、プロレス雑誌の売り上げはプロ制度もないバドミントンとどっこいどっこいぐらいなのである。これでは、プロレスはマニアのための存在として先細りになってしまうのではなかろうか。


4月10日

 M.バークン『災害と千年王国』(新評論、1985年)を読む。自然災害や社会的災害によって訪れるドラスティックな破壊によって訪れる千年王国の願望について考察する。千年王国の願望は、連続した災害によって、人々の心の中に単純な善と悪の世界観が生じて、自己の救済を求めようとして、カリスマ的な指導者によって熱狂的な運動が起こることによって生じ、キリスト教とは関係なく世界各地で見られるものであった。前近代においてはそれは農村部においてよく見られるものであったが、近代において形を変えて現れたものがナチスドイツやロシア革命、中国の太平天国の乱や毛沢東の台頭であったとする。
 最後の方に未来の予測めいたことを書いているのだが、そこに「”千年王国の追求”において宗教的熱狂家は旧秩序を動揺させる手段としてだけではなく、それ自体なにかよきものとして災害を創出する」(350頁)とあるのは、まるっきりオウム真理教にあてはまるのが怖い。


4月11日

 中古CD屋で購入したARTENSION「MACHINE」(2000年)を聴く。4thアルバム。このアルバムでも、ギターとキーボードもスリリングな演奏を聴かせ、その上に上手いヴォーカルが乗る様式美系正統派な曲を聴かせてくれる。ただし、ヴォーカルのジョン=ウェストが脱退することが決定した上で創られたアルバムだからか、1stや2ndアルバムに比べると、曲そのものが持つフックという点で明らかに劣っている(3rdアルバムは未聴)。どんなに演奏が素晴らしくても、練りの足りない曲の上にのってしまうと心に響かない、ということを実証しているようなアルバムだと思う。


4月13日

 廣末保『辺界の悪所』(平凡社、1973年)を読む。江戸時代における辺界の意義を扱った表題となっている論考と、それに関わる評論を集めた著作集。歌舞伎や遊郭などは江戸時代の身分制における辺界として位置づけられていたが、それゆえに階層秩序的な現実の世界から超越的な部分を持つ「悪所」の空間として存在し得たとする。祭のような一時的なものとしてではなく実在し続けるこのようなある種の虚構社会が、非実在的・観念的な文芸という虚構の生産を媒介したと論ずる。
 江戸時代の文芸についてまったく疎いために、よく分からない部分があったのだが、近世の身分制について考えるにあたって参考にすべき部分が多いと思う。どうでもいいことだが、もしかするとこの本を都合よく利用して、江戸時代の辺界を身分制から解放された社会と主張して、現代社会よりも素晴らしい世界と持ち上げるような論者がいたのではなかろうか。


4月14日

 大島保彦・霜栄・小林隆章・野島博之・鎌田真彰『駿台式!本当の勉強力』(講談社現代新書、2001年)を読む。駿台予備校の英語・国語・数学・社会・理科のそれぞれの教師が、自分の科目の魅力・面白さや重要性を語る。勉強好きな人が見る勉強の本ではあっても、これを読んで嫌いな勉強が好きな勉強になる、ということはないと思う。個人的には、数学の話はパズルに関する本を読んでいるような感じでそれなりに楽しめたけど、それ以外の教科の文章は読み流すような感じになってしまった。


4月15日

 「中央公論」編集部・中井浩一編『論争・学力崩壊』(中公新書ラクレ、2001年)を読む。「学力低下」や「ゆとり教育」をめぐる言説や文部省と現場の教師の声など、近年に行われている学校教育についての論争に関する主だった論考や鼎談を収録する。ここ最近、学校や教育に関する本を割と読んでいるが、この本は今のところ一番読み応えがあったように思う。特に、刈谷剛彦氏の論考が興味深かった。刈谷氏は、高学歴者たちの親たちが比較的裕福であることから学歴社会が階層化しつつも、高学歴者たちがエリートとしての意識を持てていないことを指摘したり、高度成長期の日本の経済は基本的な学習能力を保持している人たちに支えられていたが、これ以降の日本の教育でそのような中間層を育成できるのかについて疑問を呈したりしている。
 読み応えはあってもやっぱりどうしても納得できないことがある。それは「現在の日本の「学校教育」(「教育」ではない)における就職の問題がほとんど扱われていないことだ。ほとんど唯一の記述は、日本経済新聞のアンケートを引用して企業は学生の学力が落ちたと感じていると述べているところ(162頁)ぐらいである。日本において、就職にとってなによりも役立つのは学閥であったことは間違いない事実だと思う。つまり、学校で何を学んだのかよりも、どこの学校を出ているのかということの方が大事だったということである。そうだとすれば、分数が出来ないことを始めとする学力低下についての懸念は、俗世間から離れたスコラ学が出来ないことを嘆いているだけに過ぎないのかもしれないと言える。この本の論者たちは、そのほとんどが学校の内部にいる人たちであり、自分たちの学問が世間的には「スコラ学」のようなどうでもいい学問と思われている可能性を、どこまで認識しているのかということが引っかかるのである。「学校教育」問題は学生の就職や会社の論理といったより俗っぽい問題をも射程として捉えねば、司祭が経典の問題をウダウダと使徒たちともめているようなごく限られて内輪の論争となり、発展性がないような気がする。


4月16日

 川原正敏『修羅の門』(講談社漫画文庫)78巻を読む(5・6巻はココ)。この巻のなかで龍造寺巌が陸奥九十九のことを阿修羅のように怒り・悲しみ・意志の3つの面を併せ持つ、と言ってるけど、このマンガのなかで悲しみはどこに持っているのかは結局語られていなかったような気がするのだが、どこかでそれらしきことが語られていたのだろうか? どうでもいいけど、アナクレト=ムガビっていうボクサーの腕はあまりにも長すぎじゃなかろうか。あれじゃチンパンジーみたいだ。


4月17日

 「中央公論」編集部編『論争・中流崩壊』(中公新書ラクレ、2001年)を読む。『論争・学力崩壊』と同じ構成の本で、「一億総中流」と呼ばれていた日本において階層分化が生じているとする見解を巡る諸論考を収録する。様々な統計や学術的なデータを駆使して興味深くはあるのだが、階層分化の問題は、実際の社会における問題と人々の意識における問題を分けて考えねばならないのではなかろうか。この本で扱われているのは主に前者だが、機会の平等がある社会でもある程度の階層分化は存在し続けるはずだ。それでも平等だと考える意識(幻想)が人々の心の中にあり続けたために、中流意識も存在し続けたのだと思う。いまそうした中流意識が崩れ始めたのは、そうした意識を支えるだけの社会の全体的な基盤が崩れたためなのであって、階層分化が先鋭化したためではないのではなかろうか。まあ、人々の意識の問題を探るのは非常に難しいとは思うけど。


4月18日

 安達哲『さくらの唄』(講談社漫画文庫)上を読む。高校生の市ノ瀬俊彦は、他人の目を異常に怖がる暗い生活を送っていた。そんななかで、同じ美術部に所属する美少女の仲村真里に憧れを抱きつつも、大きな勢力を持つ地上げ屋である叔父夫婦が、姉と2人暮らしをする家に転がり込んできて、俊彦の生活は大きく歪んでいくことになる…。
 前半部分を読んだときは、暗い高校生が美少女の同級生に対する憧れから妄想に入り込んでいって破綻が訪れるようなストーリーかと思っていたら、叔父が地上げ屋だと分かる後半部分からとんでもないはちゃめちゃな展開をする。ただ、はちゃめちゃであっても、独りよがりであったり妙な衒学的な雰囲気が漂っていないために、苦痛を感じずに最後まで楽しめた。男性によって理想化されていない剥き出しの女性を描くのも上手いけど、山本直樹のマンガに出てきそうな映画好きのもう1人の暗い奴・野平というキャラクターみたいなじめじめした人間を描くのも、もの凄く上手いと思う。「リアル」というよりも「生々しい」のだ。


4月19日

 前川たけし『新・鉄拳チンミ』(少年マガジンC、講談社)11巻を読む(10巻はココ)。物語もだいぶ佳境に入ってきて、国主のジライも捕まり、ついにチンミも禁断の奥義「雷神」を使う決意をするところまで来た。しかし、ボルvs.チンミもなかなか終わらへんなあ。1対1の戦いだけやったら『ドラゴンボール』よりも長いんとちゃうかなあ?

 大島司『シュート 新たなる伝説』(少年マガジンC、講談社)5巻(4巻はココ)。久里浜のだめ押しの追加点で光明商工との戦いが決着。どうでもいいけど、4巻から後半戦が始まったのだけど、なんかすごく短すぎるような気が…。1つのプレイの描写が濃いから余計にそう感じてしまうのだけど。


4月21日

 藤木久志『雑兵たちの戦場』(朝日新聞社、1995年)を読む。戦国期の戦争は、雑兵や百姓にとって生活の糧を得るための略奪の場であった。そして、戦場では人狩りも行われており、そうした人狩りによって得られた奴隷は、特に九州から東アジアへと輸出される主要品目であった。秀吉によって天下統一が行われると、こうした雑兵は糧を得る場を失ったが、朝鮮出兵や東アジアの戦場へと略奪の場を広げていった。やがて江戸時代になると、こうした雑兵の糧を得る場は、城郭と都市の建設や佐渡の金山の採掘へと向かうことになったとする。
 戦国期を英雄といった立場から見るのではなくて雑兵という下の立場から考察するといっても、左翼的な民衆史観から眺めるのではなくて、戦国の歴史をさらに立体的に組み立てようとする力作だと思う。著者も自分で言ってるように、ヨーロッパの戦場を考察した山内進『掠奪の法観念史』(東京大学出版会、1993年)の日本版といった感じだが、読み易さの点ではこっちの方が上だろう。


4月22日

 青山剛昌『名探偵コナン』(少年サンデーC、小学館)32巻を読む(31巻はココ)。この巻に登場する大阪人の大阪弁が、妙に古くさく感じるのは私だけだろうか?

 椎名高志『MISTERジパング』(少年サンデーC、小学館)4巻を読む。信長の父親が急死し、織田家の中で生じた権力抗争に、草履持ちとして再び信長の元で働き始めた藤吉郎も巻き込まれていく…。戦国歴史ドラマをコミカルに味付けさせている物語で、肩の力を抜いて楽しめる。色々な英雄たちもデフォルメされており笑える人物になっているの。しかしながら、やがてこれらの登場人物同士が戦国の世の中で裏切り争い続けていくことになるはずであり、こうしたコミカルな味付けとドロドロした人間関係のバランスを保てるのどうかがちょっと気になる。


4月23日

 上杉忍『二次大戦下の「アメリカ民主主義」』(講談社選書メチエ、2000年)を読む。総力戦となった第2次大戦下のアメリカの民主主義はいかなる形態をとり、黒人・日系人・女性・共産主義などのマイノリティがいかなる状態におかれたのかについて検証する。第2次大戦中には、ファシズムに対する反発やソ連との協力もあって、第1次大戦中よりもはるかにリベラルな雰囲気があり、戦争に向かった兵士が働いていた職場の穴をマイノリティたちが埋めることになったおかげで、彼らの地位は向上した。しかしながら、そうした自由はあくまでも国益を利するナショナリズムに組みした者のみが得られるものであったとする。
 ふと思ったのだけど、近代民主主義の総本山とも言えるアメリカは、現在の領土を獲得してからは、南北戦争以外では本土が戦場となる経験をしたことはなかったように思う。万が一、アメリカ本土が戦場となったとき、そうしたアメリカの民主主義は今までの形態を維持できるのだろうか。


4月24日

 日高万里『世界でいちばん大嫌い』(花とゆめC、白泉社)11巻を読む(10巻はココ)。父親の美容院のある東京へと戻った真紀だが、そこには嫌な奴だった頃の真紀を嫌いだった神谷もまだ働いていた…。前にも書いた「登場人物それぞれが、嫌いだったはずの人間に惹かれていく」というモチーフ通りに、またしても憎悪を持つキャラクターが登場してきた。というわけで、希望的な観測は外れて物語は続いてしまうようである。面白そうな感じだから、まあいいか。

 いくえみ綾『朝がくる度』(クイーンズC、集英社)を読む。短編2本を収録。妹を愛している男をめぐる物語と、彼氏が好きになってしまったオンナと一緒に同棲することになった女性の物語。この人はやっぱり短編を書くのが上手いと思う。こんな風にちょうどいい適度な感じに話を膨らまして、きっちりオチを付けるのが出来る人はあんまりいないと思う。なんとなく最近の絵が井上雄彦氏に似てきたように感じるのは気のせいだろうか?
 ただ、集英社がこの「クイーンズコミックス」という新しいシリーズを始めたのには何か意味があるのだろうか? マーガレットコミックスやYOUコミックスと違うシリーズをわざわざ始める必要があったのかなあ。


4月25日

 刈谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書、1995年)を読む。前に読んだ『論争・学力崩壊』の中で、この人の文章が一番興味深かったので、この本を読んでみた。高学歴を求める人々の心情と経済的な豊かさに支えられて、日本は他の先進諸国と同様に大衆教育社会となった。他の先進諸国では、こうした大衆教育社会においても経済や身分格差の問題が潜んでいることが指摘され、実際に属する身分によって受けられる教育の格差が存在し続けている。しかし、日本では学歴社会に対する反発はあるものの、それは成績による序列化を忌避する心情から来るものであり、平等な教育を行えば誰でも100点を取れる教育こそが理想の教育とされた。こうした平等主義は逆に努力すればするだけ出来るという考えの能力主義につながり、日本にも厳然として戦後以来から存在する、上流階級の者が上流校へと流入しつつける身分格差の問題を隠蔽する役割を果たしてしまったと主張する。
 日本の教育問題に身分格差の問題があることを、様々な統計データから指摘している議論には非常に説得力がある。ただ、何度か書いたことがあるが、やっぱり現代の教育問題には就職の問題=会社という世間の問題が絡んでいることにもう少し触れて欲しかった気がする。それと、今の教育問題は「教育」問題ではなく「学校教育」問題なのではなかろうか。「教育」の問題が、学校という俗世間から離れた社会に居続けているインテリたちのみによって、声高に話し続けられていることにこそ問題があるような気がする。


4月26日

 かわぐちかいじ『ジパング』(モーニングC、講談社)3巻を読む(2巻はココ)。「みらい」は日本海軍と接触し、燃料や食糧の補給を行うと共に、帝国海軍の兵士と邂逅する。草加少佐は山本五十六と面会するために日本軍の艦隊へと乗り込み、「みらい」もまたガダルカナルへの米軍進出を阻止する戦いへと自らの意志で進軍していく…。
 ついに実際の歴史を変えてしまうような行動に「みらい」が突き進み、物語も色々と展開していき面白くなってきたけど、印象に残ったのは2つの言葉。まず米軍の兵士に日本軍の兵士のことを尋ねられた指揮官がその兵士に言った言葉。「向こうだって諸君と同じ人間だよ。エンペラーの意のままに動く全体主義の奴隷などとなめてかかるな。彼らも我々と同じように祖国を愛し家族を愛している.。だから彼らに最高の敬意を払い細心の注意をもって…皆殺しにしろ」。この言葉はなんか出来過ぎている言葉なので作者の創作かもしれないけど、凄みのある言葉だと思う。もし万が一史実だとするならば、精神的な意味でも日本は勝てなかったことがよく分かるような気がする。あと1つは帝国海軍の兵士に自衛隊員が戦争の結末を尋ねたときに、戦後の日本は経済発展を遂げて日本人はあなたたちに感謝していると答えたこと。彼らのためを思っていった台詞だろうし、間違ってはいないと思うけど、はたして今の日本人にそんな風に考えている人はそれほどいるのかなあ。


4月27日

 堀切直人『ヨーロッパ精神史序説』(風媒社、1999年)を読む。ヨーロッパ世界のエトスがどのようにして形成されたのかについて、古代と中世のヨーロッパの歴史から探る。ローマ人の暴力性とゲルマン人の野蛮性に端を発するヨーロッパ社会に文化を与える役割を果たしたのが、ギリシア人の言論とユダヤ人の使命であったとする。中世ヨーロッパにおいてそうした文化的な役割を果たしたのは修道院であったが、そうした修道院の活動を大学が抽象的な頭脳遊戯にしてしまい、国家権力と結びついた資本主義が教会内部からも派生することによって衰退したと主張する。
 色々な文明論のいいとこ取りをしたような本で、特に新鮮味があるとは思わないが、ユダヤ人の文明性を高く評価するのが他の論とは少し違うかな。ただ、ギリシア人はつつましい生活をして、その言論性は紀元前4世紀には衰退したと書いているけど、ギリシアでは前5世紀頃から伐採のしすぎで森林の荒廃が進んだとされているし、民主政も4世紀が一番安定していたと最近では言われているような気がするのだけど…。


4月28日

 矢口高雄『釣りキチ三平 海釣りselection』(講談社漫画文庫)34巻を読む。ムツゴロウ編・後編とカナダのサーモンダービー編・前編と読み切りを収録。釣りの話よりも、カナダの天才少年サムと三平は意気投合して仲良く話をしているけど、何語で話しているんだろう…などとしょうもないことが気になってしまった。


4月30日

 山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』(ちくま新書、1999年)を読む。成人しても親元に同居し続けて経済的に依存し続けて、自分で稼いだお金は自分のために使う「パラサイト・シングル」が日本に増えていることについて分析し、その増殖へとつながった社会的背景やそれが経済や社会に及ぼす影響について考察する。男女共に親元への依存というぬるま湯に浸かっていることから、自立を伴う結婚を行いたがらないことにつながり、また親元に居続けるために生活消費財の需要が押さえられ、経済の低成長を生じさせているとする。
 確かに言ってることは非常に的確だとは思うのだけど、パラサイトシングルとして家計を助ける人物が1つの家庭にいることによって、その家は低成長な時代でも楽を出来るのでは、という気もする。つまり倹約して将来に備えている、という考え方もあるのではないかと思う。それでは消費が伸びず経済は成長しない、と単純には言い切れないのではなかろうか。ただし、パラサイトシングルである私がこんな風なことを言うと、言い訳にしか聞こえない部分もあるのだけれど。それに、この本はパラサイトシングルを単純な悪と決めつけてそれを批判する本ではなくて、その社会の中での位置づけをきっちり見定めて論評する本であるので、よくあるようなえらそうな説教だけの本とは違うしね。


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