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2001年5月の見聞録



5月1日

 浦沢直樹『20世紀少年』(ビッグスピリッツC、小学館)5巻を読む(4巻はココ)。ついに「ともだち」のロボットは動きだし、どうなったかが描かれぬまま、世界を「ともだち」が支配しているとみられる未来へと舞台は移る…。前に、このマンガは『MONNSTER』のパロディでは、と書いたけど、それが当たってるかどうかはともかく、結構思いつくままに描き進めているような気がする。まあ、その思いつくままをマンガにするのは難しいのにそれをやってるのはある意味すごいねんけどね。

 しげの秀一『頭文字D』ヤングマガジンC、講談社)21巻(20巻はココ)。対プロレーサー・館智幸編。ついにプロドライバーにも勝ってしまって、次の対戦相手はどうなるんだろうか。たとえどんな相手でもプロよりは見劣りがするような気がするなあ。


5月3日

 樹なつみ『八雲立つ』(花とゆめC,白泉社)15巻を読む(14巻はココ)。前に,「姉の寧子が弟の闇己を想う禁断の恋愛関係の行方がクライマックスに関係する…わけないか」みたいなことを冗談で書いていたら,本当に関係しそうな感じになってしまった。寧子がついに告白してしまい,それを拒否した闇己の前から姿を消してしまう…。闇己がだんだんと壊れていって,どういう風にクライマックスを迎えるのかが楽しみ。


5月4日

 岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数が出来ない大学生』(東洋経済新報社、1999年)を読む。現在の大学生の数学能力の低下を学識者たちが警告している本。創造性や個性を伸ばすという名目で,授業時間を減らしたり単に学歴社会を批判する風潮によって,学力低下が生じたとする見解にはそれなりに正しいと思うのだけれど,個人的には納得できないような記述の方が多い。すべて書いていくときりがないので,特に気になった点についてのみ書く。
 まず,数学能力が低下したということに対して現在のデータは示されていても,過去のデータが示されていない点。現在のことに関しては学生をテストしてその統計データを用いているのに,過去のことに関しては著者たちの感覚に基づいているのは,著者たちの言葉をそのまま借りて言えば,「論理的ではない」のではなかろうか。その過去のデータも高度成長以前・高度成長期・現在のデータを並べる必要があり,単に「昔に比べて」と言っているだけでは説得力がない。しかも,学力の低下が産業の危機であることを示すのならば,高度成長期以前もしくは高度成長期の学生についてではなく,新規就業者・および就業者全体の学力調査のデータを示す必要がある。もし,こうした人を対象とした学力データに関して現在の方が明らかに低ければ,それは確かに21世紀の日本は危ない,ということになるかもしれない。でも,現在の方が高いかもしくはそれほど変わらなければ,学校の勉強で図られる学力は,戦後の日本の経済発展と大して関係ないことになる。すでに言ったことがあるが,一流大学の学生が出来ていないからと言って,それが日本全体の危機とつなげるのは,大学という自分たちの居場所が世俗から乖離した場所だということを知らないためではなかろうか。日本の未来が不安な状況であるという認識は間違っていないとも思う。この本は,それを数学を始めとする学問領域という観点から「も」指摘するのではなく,数学「のみ」から指摘しようとして他のことを考慮していないように見えてしまう。


5月5日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』12巻(11巻はココ)。ついにプロ棋士となったヒカル。デビュー前のプロとの対戦を行うことになっているヒカルを、逆指名したのは塔矢名人だった。佐為は塔矢名人との対戦を自分がしたいと強く主張する…。このマンガはだんだんと女の子の登場するシーンが減っていっているような気が…。やっぱりまだ囲碁の世界は男性が中心という事実を反映しているのかなあ。

 鈴木央『ライジングインパクト』10巻(9巻はココ)。キャメロット杯個人戦も後半戦へ突入。いきなり登場したクエスターの父親が,ガウェインの父親と判明する…。7つの組すべてを独立して描きつつ,しかもそれぞれのストーリーに個性溢れるキャラを上手く絡ませて描いているのは,今までのゴルフマンガにはなかったのではなかろうか。『プロゴルファー猿』以外のゴルフマンガってきちんと読んだことがないから何とも言えないけど。

 許斐剛『テニスの王子様』8巻(7巻はココ)。対聖ルドルフ戦中盤戦。まあ,特に何も書くことはないかな。

 岸本斉史『NARUTO』7巻(6巻はココ)。大蛇丸との絡みで色々と伏線が張ってあるが,果たしてこれらがうまいこと本当に1つに結びつくのだろうか…。

 矢吹健太朗『BLACK CAT』3巻(2巻はココ)。世界の3分の1を闇で牛耳る秘密結社クロノスとそれに対抗する新興組織「星の使徒」のエージェント同士がついに接触し,クロノスを抜けたトレインもそれに巻き込まれる…。やっぱり話や設定が薄っぺらく見えるなあ。絵は綺麗なんだけどね。


5月6日

 野田宣雄『二十一世紀をどう生きるか』(PHP新書,2000年)を読む。国民国家の衰退と職業を生き甲斐とする人生観の崩壊という現代の風潮を「新しい中世」の到来と混乱の始まりと見なし,その中でどのように生きるかのヒントを親鸞に求めようとしている。「新しい中世」(そういえば,村瀬学『ことわざの力』でも言ってた。そもそもは1993年にアラン=マンクが出版した書物のタイトルらしいけど)という考え方は面白いのだけど,何だか気になる。確かに細分化が進んでいく状況は中世に近いと言えるのかもしれないけど,過去の時代に現代を喩えるとするならば,グローバリズム化によって帰属する場所が家や都市を媒介としないでいきなり世界につがっていく状況は,むしろそれ以前の原始的な状況に近いような気がする。親鸞の教えから生き方のヒントを得ようとするのは,ビジネス書によくあるような気もするし,まあそういう考え方もあるかなというぐらいにしか感じなかった。


5月7日

 佐々木倫子『Heaven?』(ビッグスピリッツC,小学館)12巻を読む。謎の女性オーナー・黒須仮名子にスカウトされて新しく始まる「ロワンディシー(Loin d'Ici)」という名のフレンチレストランで働くことを決めた伊賀観。しかし「この世の果て」という意味を持つこのレストランは,繁華街からも駅からも住宅地からも遠い墓場のど真ん中にあり,シェフ以外のスカウトされた人物は全員未経験者であり,おまけにオーナーはとんでもない自己中オンナの素人だった…。
 著者お得意の職業マンガシリーズで,今度はレストランが舞台。この人のマンガは色々とそれぞれの職業の専門の知識が盛り込まれつつも,決して蘊蓄マンガのようにはならないところが上手いと思うのだけれど(『おたんこナース』ではちょっとバランスが崩れたような気もするが),それはこのマンガも変わらない。自己中オーナーに振り回されて諦観しているスタッフの表情が,どれもこれもこの人の絵柄とすごくマッチしていて,読んでいて一緒にため息を付きそうになりつつニヤニヤ笑ってしまう。


5月8日

 木田元『反哲学史』(講談社学術文庫、2000年)を読む。哲学を崇めまつるのをやめて、「反哲学」という立場から哲学を相対化し、その視点からソクラテスからニーチェに至るまでの哲学の歴史を眺める。著者の一般教養科目用のノートを元にして書かれたものらしいので分かりやすいとは思うが、元々がそういうものだから特に新しい知見があるわけではなかった。ただ、プラトンからデカルト、カントへという流れは抑えてあっても、もう一方のイギリス経験論の流れは抑えなくてもいいのかなあ。あくまでも、素人考えだけれど。


5月9日

 市立図書館で借りたCDを聴く。KORN「ISSUES」(1999年)。彼らのアルバムは初めて聞いたのだけれど、この手のモダン・ヘヴィネスの音をあんまり聴かない私でもこれはなかなかいける。RAGE AGAINT THE MACHINEはいまいちピンとこなかったけど、このアルバムは曲単位でそれほどいいと思う曲はない(というか曲ごとにそれほど違いがないように思える)けれども、音楽に浸っているだけでそのグルーヴ感が割と気持ちいい。

 HAREM SCAREM「LAST LIVE」(2000年)。その名の通り、HAREM SCAREMとしての最後のアルバム。見事なまでに「BIG BANG THEORY」「RUBBER」の曲しか収録されていない。未発表の新曲もそれらのアルバムにつながる曲だし。まあ、それ以前のアルバムの曲は他のライヴ・アルバムに収録されているからあえて省いたのかもしれないが、たとえ質の高いアルバムだとしても「MOOD SWINGS」が名盤だと考える身からすればなんとなく釈然としないものを感じる。彼らにとって「MOOD SWINGS」の頃のひねりのきいた曲展開をするハードロックはやっぱり過去の遺物なのだろうか。

 FIREHOUSE「CATEGORY 5」(1998年)。疾走する曲も哀愁のメロディが散りばめられたマイナー調の曲が多くそれなりに聴き応えはあるのだが、すごくちまちました音作りに聞こえる。悪いアルバムではないのだけれど、大きくガッツポーズを取るのではなく、片手の拳を握って、小さくガッツポーズをしたくなるような作品。ただしアルバム最後のラップのような部分は無駄な部分にしか思えないけど。


5月10日

 C.ラッシュ『エリートの反逆』(新曜社、1997年)を読む。現代アメリカのエリートや知識人が様々な意味でノブレス・オブリジュを放棄している現状を暴き批判を加える。色々と面白い部分があったが、個人的に興味深かったのは、左派も右派も教育問題に攻撃を加えていることに対して触れた部分。両者は共にメリトクラシーが上流階級の子息が高学歴を得る世襲的な制度に手を貸しているのを批判しているが、メリトクラシーが下層階級から有能な人間を吸い上げてしまうために下層階級には指導者がいなくなるという真の理由を知らずに、社会的流動性が高められていないことを嘆くいかがわしい議論で満足している、と述べている。これって現在の日本の教育問題をめぐる議論とぴったり一致するのでは?
 この本の原著は1995年というアメリカがまだ不景気にあった頃に書かれている本だということを差し引いても、日本の一部の識者が騒ぎ立てるほど、アメリカが恵まれているわけではないことが分かる。そういうことを言う人たちにとって、アメリカという言説は自分をえらく見せるために使われているにすぎないのだろう。


5月11日

 川原正敏『修羅の門』(講談社漫画文庫)910巻を読む(7・8巻はココ)。ボクシング・ヘヴィ級統一王座トーナメント決勝戦。ボクシング編は終了して、次はヴァーリトゥード編…のはずだが著者の後書きによると、ここまでの文庫版コミックの売り上げによって発売されるかどうかが決まるらしい。


5月13日

 宮崎学『アジア無頼−「幇」という生き方』(徳間文庫、2001年)を読む。著者が小説『血族』の登場人物のモデルに使った実在の人物である竹村好雄を主人公としたノンフィクション。戦中を養父ともに大陸で過ごした竹村は、ヤクザとのいざこざで日本にいられなくなり、故人となった養父のつてでヴェトナムへと逃亡する。日本人でありながら能力が認められ「義」のある人物と見なされた竹村は、中国の秘密結社「青幇」と「紅幇」の最上位メンバーとして迎え入れられる。ヴェトナム戦争・カンボジア内乱でアウトローやゲリラとして活動を行うが、マカオでの抗争の中において消息不明となる…。
 著者はマカオで消息不明となる前の竹村と知り合い、竹村に「兄弟」とまで呼ばれる仲となり、竹村の手記を手渡されたとのこと。これはどこまで本当かどうか確かめる術はないが、現代アジアの史料として一級品のものであることに間違いはないし、下手な小説よりも全然面白い。青幇のメンバーであり東南アジアでの実力者でもある通称「将軍」(クンサーではない)の言う、アジアには国民国家型のナショナリズムは不要であり、自立した民族同士の自由なネットワークこそが必要であるという考え方も、この本を読んでいると説得力があるように思える。まあ、説得力がある、というのと実現可能かどうかというのはイコールではないのだけど。


5月14日

 板垣恵介『バキ』(少年チャンピオンC、秋田書店)8巻を読む(7巻はココ)。ドリアンが烈海王の兄弟子にあたることが分かるこの巻で、ドリアンは高いところから飛び降りるときに例の鋼鉄線を街灯に引っかけて地面へ叩きつけられる衝撃を和らげていたけど、あの鋼鉄線だったら街灯をもぶった切ってしまうと思うけどなあ(このマンガに対して書いてることってなんか突っ込みばっかりな気が…)。

 矢口高雄『釣りキチ三平 海釣りselection』(講談社漫画文庫)56巻(3・4巻はココ)。サーモンダービー完結編。今さら言うのも何だけど、この巻で巨大キングサーモンを釣ってるシーンを見てて思ったのは、釣りマンガは一種の格闘マンガなんだなあということ。しかも魚との戦いだけではなく、誰かとの勝負をする場合には人間との戦いもプラスされるのだから、その面白さもアップするしね。ただ、このマンガでやり尽くされた感があるから、釣りマンガというジャンルは、たとえ幾つかか出てきたとしても、後があんまり続いていないようだけど。


5月15日

 宮崎哲弥『正義の見方』(新潮OH!文庫、2001年)を読む。夫婦別姓論争、オウムをめぐる宗教論、戦後世代の戦争責任の持ち方などを扱う。原著のオビに書かれた西部邁氏によるとされる「10年に一人の天才」という推薦文が、実は自分で考えたものということが『ゴーマニズム宣言』で暴露されていたが、まあ別にそれはどうでもいいことで、要は中身が面白ければ問題はないことだと思う。様々な論点について上手く整理してまとめているとは思うけど、個人的には特に目を引かれるものはなかった。ただし、奇を衒ったことを言うのではなく、的確に必要なことを述べるスタイルは非常にバランスが取れていると思う。 特に夫婦別姓論批判に関しては読みやすくかつ説得力があり、夫婦別姓を推進するのはリベラルな進歩派の論者が多いのに、もともとは「封建的な」スタイルである夫婦別姓を押し進めようとする矛盾を鋭くついている。ただ、夫婦別姓によって家への帰属意識が高まり責任を放棄する傾向が生まれるのではないかと危惧するのは、個人の意識を高く評価しすぎではなかろうか。行き着く先は同じ方向だけれど、名前は生まれてからのもの持ち続けて、親族への責任は放棄するという個人のエゴこそが強まるより悪い結果へと進むような気がする。


5月16日

 森永卓郎『<非婚>のすすめ』(講談社現代新書、1997年)を読む。結婚によって家庭を構えるという考え方が、日本においては国家の政策によって主導されたものであることを明らかにし、「日本の家族の仕組みは、政府や企業の直接統制を受けていた、「社会主義」の時代から、効用の最も高まる家族のスタイルを、個人の自由で選択するという「市場経済」の時代へと移行しつつある」(46頁)とする。日本の税制が専業主婦を優遇しているというフェミニストなどの批判に対して、様々なシミュレーションによって決してそうではないことも明らかにしている。
 女性の処女性を必要以上に重んじるような概念が近代以降に作られた概念であることは、すでに様々な論者によって指摘されており、事実であろう。それでも、戦前や高度成長期のように経済的効用を考える必要はないのだから、もはや終身結婚制度に縛られる必要はない、と言われると何だか納得できないような気がする。それは国家経済的な意味での合理性を捨てたものではあっても、個人経済的な合理性を選んだにすぎないのではなかろうか。別に人それぞれの生き方の選択の幅を広げようとする著者の主張を批判するものではないし、その見解が間違っているというのではないが、そうした態度は人間の感情から消し去ることの出来ない矛盾を捨て去ったような態度のような気がして、そこまで合理的な主張が戦略として有効なのかなあと思ってしまった。


5月17日

 相原コージ『なにがオモロイの』(小学館)を読む。1回4頁からなるギャグマンガを書いて、雑誌連載前にインターネットと出口調査で面白いかどうかをアンケートで聞き、その意見を元に万人に受けるギャグマンガを作ろうとする試み。1つのマンガごとに読者の意見と著者のコメントが書いてある。最初の頃の読者の否定的な意見は批判じゃなくて単なる罵倒が多く、著者がだんだんと壊れていく様がよく分かる。それじゃあ、面白かったのかというと…うーん。面白くないというわけではないんだけど、とりたてて面白いというわけでもないような気が…。よくよく考えたら、ギャグマンガというのを最近あんまり読んでいない自分に気が付いた。読んでいるのは鈴木みそ、伊藤理佐の両氏ぐらい。これは恐らく、インターネット上の素人のHPのお笑いの方が面白いという理由なのではないかと思う。素人はプロの漫画家よりもネタのストックが長続きしないだろうけど、ネタを持つ素人が続々と出てくるから、次々と新しい笑いに出会えるのだ。しかも電話代以外はタダやし。プロのギャグ漫画家には辛い時代なのかもしれない。ただ、それでもこのマンガの支持率は50パーセント以上を稼ぐときもあって、それはさすがにプロやと思うけど。
 ただ、このマンガで1つ興味深いことがあって、砂漠を舞台としたギャグマンガ面白いかどうかをエジプトで調査したとき、ほとんどのエジプト人が舞台設定を詳しく説明しない限り、内容が分からなかったということ。これは日本とエジプトとの文化の差ではなく、マンガという表現様式がエジプト人の意識にはまだ無いことの現れだろう。マンガは絵があるから分かりやすいというものではなく、やっぱり小説や演劇や映画やTVドラマとは違う物語の表現形式なのだ。


5月19日

 J.ヴィクター=コシュマン『水戸イデオロギー』(ぺりかん社、1998年)を読む。主に江戸後期の水戸学を主題として取り扱い、水戸学の言説を明治維新につながる大きな流れの中から解釈しようとする従来の研究に対して、同時代の水戸において水戸学がいかにしてイデオロギーとして当地の人々を行動へと駆り立てたのかについて考察する。水戸学を幕末の江戸の騒乱と結びつけることなく、水戸学そのものの構造という観点から考察しようとしている…と、思うのだが、いかんせん江戸の思想史について不勉強な私の知識では、残念ながら理解することができない部分が多々あった。情けない…。

<お知らせ>

 突然ですが、お知らせがあります。本日、早急に片付けねばならない仕事が舞い込んできたため、このホームページの更新に手を回せない状況になってしまいました。6月9日までに終わらさねばならないので、当分はそちらに専念することになると思います。したがって、従来のようにほぼ毎日見聞録を書くのは不可能になり、更新速度がかなり低下します。カウンターが、本当にごく微量ですが毎日回っているということは、制作者である私以外にこのHPをわざわざ訪れて下さる方がいらっしゃるようですので、念のために書いておきます。ご了承下さい。(…なにしろ、このHPは自分以外にどんな人が見ているのかまったく分からないもので。


5月25日

 仕事が何とか片付きつつあるので、久々に仕事とは無関係のものを読んでHPを更新する余裕が出来た。井上雄彦『バガボンド』(モーニングC、講談社)10巻(9巻はココ)。柳生の里に招かれた武蔵と四高弟との戦いがついに始まる…。この人の画力は相変わらず凄まじい。ただ絵が上手いとかそういうのじゃなくて、物語のあるマンガとして圧倒される。特に、小柳生の四高弟と戦っていた武蔵が、お通.の笛を聞いて思わず一瞬気を取られるシーンからが圧巻。武蔵vs.四高弟の戦いと武蔵を思いつつ笛を吹くお通のシーンを、セリフも擬音もなしで絵とコマ運びだけで進めているのだ。音のない表現形態を逆手にとって、完全に音に関するものを排除することによって、逆にお通のもの悲しさと戦闘の迫力を浮き上がらせており、唸らされる。やっぱりすげえわ、この人は。

 田島隆・東風孝広『カバチタレ』(モーニングC、講談社)7巻(6巻はココ)。今回は市議会選挙と土建屋やの利権をめぐる抗争に田村が巻き込まれる話。今回の話の中に出てくる「投票用紙を盗む部隊を某政党は常設している」という話は本当なのだろうか?
 前に「いらないのでは?」指摘したオビタタキの青木雄二氏の今回のお言葉は「青木雄二も絶叫!!!」。びっくりマーク3つ付き。『コロコロコミック』の表紙の定価表示の部分にあるフレーズと同じレヴェルの適当な宣伝文だと思う。


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