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2001年6月の見聞録



6月10日

 ようやく用事(詳しくは、こちら)が片付きました。1つのことをここまで集中してやったのは久しぶりなんで、かなり疲れが…。まさか、こんなに苦労をするとは思わなかった。ほとんどこのホームページを更新できなかったもんなあ。今回の件では色んな人の力をお借りしましたが、Y.N、S.S、N.N、K.K、M.O、K.K、D.M、S.I、Y.Yの各氏には、特に世話になりました。この場を借りてお礼申し上げます(名前を挙げた人の中で、このホームページを見ている人はほとんどいないとは思いますが)。

 それでは、久々に更新を。金子達仁『秋天の陽炎』(文藝春秋、2001年)を読む。1999年11月、試合に勝てばJ1昇進を達成する大分トリニータとJ2残留が決まったモンテディオ山形によるJ2最終戦を、選手・監督・審判へのインタビューを通じて再構成していく。著者お得意のサッカー・ノンフィクション。同じ著者の『28年目のハーフタイム』(文藝春秋、1997年)ほど面白いかと言われれば、首を横に振るであろうが、それでもじんわりと面白い。オビタタキには「精力的な取材で浮き上がる迫真のドラマ」と書いてあるが、後半部分は決して正しいとは思わない。はっきり言って迫真のドラマというほど、歴史的な試合でもないし劇的な物語でもない。ただし、さっきのオビタタキの前半部分はその通りだと思う。他人から見ればなんでもない事実を、色々な証言から集めて組み立てていって忘れられないドラマへと昇華させるのが本当にうまい。『Number』での連載がだいぶ前に中断したままになっている在日韓国人のKリーガー(名前を忘れてしまった)のノンフィクションも続きが早く読みたい。


6月11日

 曽田正人『昴』(ビッグスピリッツC、小学館)5巻を読む(4巻はココ)。ローザンヌ・コンクール決勝。バレエには重さを消して舞い上がる「クラシックバレエ」と重さを魅せる「コンテンポラリー」の2種類があり、この2種類それぞれにスペシャリストがいても同時にこなせる人は滅多にいないそうだ(この本でそう書いてあっただけで、本当かどうかよく分からないけど)。この人のマンガがすごいのは、その両方のタイプのバレエの動きを止まった絵の連続で表現しきってしまうところだと思う。

 七月鏡一・藤原芳秀『闇のイージス』(ヤングサンデーC、小学館)2巻を読む(1巻はココ)。練り上げたストーリーと巧みな舞台設定で主人公の面白さを生かす『パイナップルARMY』の面白さへ向かうことを期待してたけど、今のところはキャラクターの魅力だけで物語を描こうとしているような気がする。


6月12日

 オバタカズユキ『何ノ為ニ働クカ』(幻冬社、1998年)を読む。色々なサラリーマンへの取材を通して感じた会社や仕事に関するエッセイといった感じの本。以前読んだ『何の為に学ぶのか』と同時発売された本らしい。前の本がそれなりに面白かったのでこれも読んでみたのだが、あんまりピンとこなかった。まあ、たぶん就職もせずにいまだに学生をやっている私のような読者は対象じゃないのだろう。


6月13日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。森田まさのり『ROOKIES』15巻を読む(14巻はココ)。新入生編スタート。このマンガは野球の試合のシーンよりそれ以外のシーンが多いけど、果たして甲子園に行くのに何巻までかかるのだろうか?

 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』125巻(124巻はココ)。京都旅行編&超神田寿司修行編。まあ、取り立てて書くこともない、かな。

 荒木飛呂彦『JOJOの奇妙な冒険第6部 ストーンオーシャン』7巻(6巻はココ)。あかん、本当にストーリーがよく分からなくなってきた。やっぱり読むのをやめようかなあ。ただこの巻の後半部分の「最も弱いスタンド・サバイバー」の話は何だか面白そう…ということは結局続きを読んでしまうのだろうな。


6月14日

 I.イリイチ『テクストのぶどう畑で』(法政大学出版局、1995年)を読む。現在の読書の形態の誕生を印刷術の登場より前の12世紀に設定し、その頃に文字サイズの小型化・紙の軽量化・紙片を綴じる装丁などの技術が登場することによって読書に対して根元的な変化がもたらされたとする。そして、12世紀の神学者であるユーグの著作『学習論』をもとに、ユーグまでの読書は、「聖なる読書」であったが、それ以降にアカデミックな知識を得るものとなり、読書は祈りと勉学に分裂したとする。
 副題が「ユーグ『学習論』の一考察」となっていることからも分かるように、内容の大半は神学に関する議論であり、神学に関する知識がないと全てを理解することは出来ないだろう(…すいません、私はあんまり理解できませんでした)。ただ、著者はあくまでもヨーロッパのみしか対象にしていないようだが、よくは知らないけど、中国などでは先の技術はヨーロッパで活用されるよりもさらに前にすでに存在していたと思うのだが、どうだろうか? 訳者解説の中で、「読書の習慣を、西洋の特殊歴史的形態であると考えるとする」(208頁)とあるが、むしろ西洋以外を考察対象から排除しているような感触を受ける。


6月15日

 篠原千絵『天は赤い河のほとり』(フラワーC、小学館)24巻を読む(23巻はココ)。ヒッタイト対エジプト戦は前者の勝利で終わる。どうも終わりに近付きつつあるような気がする。この人はだらだらと話を続ける人ではないから、きっちりと締めてくれるだろう。

 きら『まっすぐにいこう』(マーガレットC、集英社)22巻を読む(21巻はココ)。この巻でとりあえず完結らしい。相変わらずヘヴィな話が続く。お互いに好きあっているからこそ、相手のことを気遣って面と向かって言いたいことを言えなくなる状態が、お互いの気持ちをきちんと確認していない状態に似ていて、迷ってしまう郁子の心理状況を描いている部分は上手いと思う。それでもお互いがお互いのことを好きだということを確認して終わっているけど、まあいい落としどころだろう。このまま続いていくと幸せな状態のはずの両想いの恋愛の暗い面ばかりを見せられそうで、あまりにも重くなりすぎそうな気がするので…。まあ、幸せな状態っていうのは一様に幸せであって、作品として他人が読んでも面白いように描くのって難しいから、人それぞれ状況が違う不幸な状態を描く方が物書きとしては楽やとは思うのだけれど。


6月16日

 羅川真里茂『しゃにむにGO』(花とゆめC、白泉社)8巻を読む(7巻はココ)。ひなこの復帰をかけた大学生とのダブルスの試合は全敗に終わる。その中で新コーチ・池田の過去が少しだけ明らかになる…。この巻を読んでいて思ったのだけど、スポーツ選手の様々な心理描写は読んでいて面白いのだけれど、この人のゴチャゴチャした感じの画風とテニスのスピーディーな展開が上手く噛み合ってないように感じて、スポーツマンがとしての爽快感が少し欠けているような気がする。今はいいのだけれど、話が進んでいって徐々に試合内容もハイレヴェルになって行くほど、そうしたチグハグさが目立ってしまうかもしれないなあ。そうならなければいいのだけれど…。


6月17日

 橋本治『「わからない」という方法』(集英社新書、2001年)を読む。以前に『ああでもなくこうでもなく』を読んだときに、「しばらく評論活動は辞めて創作活動一本にした方がいいのかもしれない」と書きつつも、またこの人の評論の新刊を読んでしまった。20世紀は「どんなことにも答えがある」と考えた時代であったとして、そうではなく「わからないからこそやる」という考え方で物事を進めるべきだということを、『男の編み物、橋本治の手トリ足トリ』や『桃尻語訳枕草子』などの自分の著作を実例としながら述べていく。評論というよりは自伝風のエッセイに近い、かな。今までにも、「どんなことにも答えがある」みたいな考え方が20世紀にはあったことを指摘した人はいたと思うけど、どの人よりもくだけた言い方になっているのはさすがだと思う。実際にマルクス主義なんかはその典型なんだろうな。


6月18日

 夢枕獏・岡野玲子『陰陽師』(ジェッツC、白泉社)10巻を読む。久々に新刊が出たので読んでみたら、今までの内容を全く忘れてしまっていた。これより前の巻って、わりと一話完結タイプの話が多くて、その巻だけを読んでいても楽しめていたような気がしたのだけれど、この巻はだいぶクライマックスが近いのか、きちんと話の筋やつながりをおさえておかないと内容が分からないようだ。


6月19日

 小山ゆう『あずみ』(ビッグC、小学館)22巻を読む(21巻はココ)。静音兄弟に捕まり、どうしても逃れることの出来ない状況と拷問(調教?)の激しさにもはや脱出を諦めたあずみを、親の敵を討つことを願う里の子供が助けに来る。しかし、捕まっていたために天海の指令を果たすことが出来ず、内乱が始まってしまう…。静音のモチーフは天草四郎だと思うのだけれど、この2人の静音を天草四郎のとは正反対のイメージで悪魔のごとく描いているのは、わざと?


6月20日

 千葉徳爾『たたかいの原像』(平凡社選書、1991年)を読む。藤木久志『雑兵たちの戦場』で紹介されていて興味がわいたので、読んでみた。人が動物と狩猟によって「たたかい」を行ってきたことが、対等な立場において1対1の全力で一方が完全に動けなくなるまでたたかう、日本における人間同士のたたかいの原像になっていると主張し、その典型が武士であったと論じる。こうした「たたかい」が、卑怯であっても策略によって勝利を得ようとする「いくさ」とは違っていると指摘している点は興味深い。また、日本人のそうした「たたかい」を色々な面から論じてもいる。ただし、「たたかい」が日本独自のものであるとするならば、日本以外の場所での「たたかい」の原像はいかなるものであり、なぜ他の社会と同じように狩猟を行っていながら日本独自の「たたかい」が生まれたのかについて、もう少し説明があった方が説得力があるような気もする。


6月21日

 森川ジョージ『はじめの一歩』(少年マガジンC、講談社)57巻を読む(56巻はココ)。世界戦が決まった鷹村の目に対して、宮田と一歩が網膜剥離の疑惑を持ち…。鷹村自身は網膜剥離を否定してたけど、後で伏線としてどうにでも使えるな、これは。

 大島司『シュート 新たなる伝説』(少年マガジンC、講談社)6巻を読む(5巻はココ)。インターハイ1回戦。掛川vs.光明商工。「5点差で勝つ」と久里浜イレブンに予告した神谷の言葉通り、5対0で掛川が勝利する。そして久里浜の伊東も冬の準優勝校・帝光相手に5点差ゲームを予告する…。相変わらずスーパープレイのオンパレード。

 藤沢とおる『GTO』(少年マガジンC、講談社)20巻を読む(19巻はココ)。新校長による鬼塚追い出し作戦によって、給料がゼロになった鬼塚。引きこもり生徒を連れてきたら査定アップという約束に、2年間登校していない生徒の家に行くが、そこはヤクザの組長らしき人物の家だった…。しょうもない疑問だけど2年間引きこもりだったら、出席日数が足りないので、3年生を受け持っている鬼塚のクラスには進級できず1年生のままではないのでは?


6月22日

 中条比紗也『花ざかりの君たちへ』(花とゆめC、白泉社)15巻を読む(14巻はココ)。中津が佐野の気持ちに気付き、佐野は「瑞稀が好き」と中津に宣言してから、3人の関係がギクシャクし始める…。この三角関係って言葉で書くとめちゃくちゃ面倒くさいことになると思うけど、マンガだとなんとなく感覚で理解できるから不思議だ(言葉で書くのはしんどいからここでは書かないけど)。


6月23日

 長谷川三千子『正義の喪失』(PHP研究所、1999年)を読む。日本の外交、ボーダーレス・エコノミー批判、フェミニズム批判などを扱った評論をまとめたもの。ボーダーレス・エコノミー批判はむしろ近代資本主義経済成立論といった感じのもので、関曠野「資本主義、その過去・現在・未来」を簡略化したもののように感じた。特に目新しいことが書いてあるわけではないが、どれもオーソドックスな内容で分かりやすい(歴史的仮名遣いで書いてあるので読みにくいとも言えるが)。


6月24日

 鈴木みそ『オールナイトライブ』(ビームC、エンターブレイン)5巻を読む。このホームページではおなじみ「ちんげ教教祖」の最新刊(教祖のホームページはココ)。今回はルポものが中心でどれも楽しめるのだけれど、一番面白かった、というよりも衝撃的だったのはゲーム専門学校の講師に話を聞いている回。この講師が勤めている専門学校では4年間で就職者ゼロらしい。生徒の学力については、何度か述べてきたように、昔も今も勉強の出来ない子はいたはずで、近年に入って進学率が上がるにつれて、学力が低い子供も上位校に進む傾向が高くなったために学力低下が目立つようになった、と考えている(たとえば、『学力があぶない』『分数が出来ない大学生』などを参照のこと)。ただ、彼らの無気力さというか危機感のなさはすごいんじゃないかな。ゲーム専門学校に来ていながら九九が出来ないとか、たった4行のプログラムが面倒くさいから打てないとか、ゲームを作るどころか考えないと進めないゲームはやることすら辛いとか、本当にゲーム業界で飯を食おうとする覚悟があるのだろうか、と偉そうかもしれないが考えてしまう。ないんだろうな、たぶん。講師の話では「ただなんとなく生きている」らしいし、「親が死んだらどうしよう、という想像力はない」らしいから。
 まあ、私たちの世代も「やる気がない」とか「自己中」とか色々言われながら、曲がりなりにもやっていっているので、何とかなるのかもしれない。ただ、この中である講師が話している「ケータイを持った白アリが目的もなく長話をしながら日本という国の土台を食いつぶしているような」(121頁)という感想は、(私たちの世代も含めて)当たっているような気もする。私たちの世代が壮年から老年になる頃には、日本は緩やかに衰退していって、生活レヴェルも若干落ちているのではなかろうか。個人的にはそうなっても仕方がないと思うけど、こうした私たちの世代が年長者になったときに、「最近の若い者は…」と自分を棚に上げて愚痴を言う人間だけは出てこないで欲しいものだ。
 ちなみに、私の周りでは(私がいつもネタにしているため)「鈴木みそ」という名前を聞くと下ネタを思い浮かべる人が多いのだけれど、この巻では少な目…ということはやっぱりあるのだけれど(女性も楽しめるネットワークHゲームを考える企画、など)。


6月25日

 サンデーコミックスの新刊を読む。高橋留美子『犬夜叉』21巻(20巻はココ)。なんのかんのと言いつつやっぱり読んでしまった。いや、面白くないわけじゃないとは思うのだけれど、どこかが面白いのかと言われると、困ってしまう。なんとなく何も考えずに読むのにはいいのかも。

 椎名高志『MISTERジパング』5巻(4巻はココ)。守護代織田信友を殺害した信長。その一方で、天回によってパラレルワールドから別の性格を持つ藤吉郎が呼び寄せられて、この世界の藤吉郎と遭遇する…。と、こんな風に、歴史物と思いきや、SFっぽい要素が混じり始めた。

 河合克敏『モンキーターン』17巻(16巻はココ)。全日本選手権の大舞台において、波多野は秘策で洞口スペシャルのペラに挑もうとするが…。ところで、人物画に限ってだけれど、なんとなく絵が大友克洋氏に似てきたような気がする(そういえばこの人はいま何をしているのだろう?)。


6月26日

 オバタカズユキ・石原壮一郎『大学図鑑!2001』(ダイヤモンド社、2001年)を読む。偏差値だけではなく世間や学生の評判などを加味した実用的な大学のランク分けを行い、各大学の特色を学生の実体験に基づいて記述する。自分が知っている大学について読むと、かなり的確に書いてあるので、この本全体の信用度は高いと思う。受験生が同じくらいの偏差値のどの大学に進学すればいいか迷っている時に読めば、かなり役立つだろう。「○○大学で○○学をやりたい」などという奇特な受験生がいれば、そんな受験生の幻想を冷まさせるのにも使える。
 ちなみにこの本のホームページもある。


6月27日

 神尾葉子『花より男子』(マーガレットC、集英社)29巻を読む(28巻はココ)。母親とぶつかる覚悟を決めた道明寺はつくしとの白昼デートを決行する。しかし、母親の手がすぐそばまで伸びていることを感じた道明寺は、誰にも告げず密かに母親のいるニューヨークに乗り込む。それを知ったつくしも単身ニューヨークへと向かう…。さて、今度こそエンディングへと向かっていくのだろうか?

 矢口高雄『釣りキチ三平 海釣りselection』(講談社漫画文庫)78巻を読む(5・6巻はココ)。ハワイのブルーマーリン編の途中まで。こういう風な競技形式の釣り大会を見るのはそろそろ飽きてきた。


6月28日

 中古CD屋で買ったMARILYN MANSON「ANTICHRIST SUPERSTAR」(1996年)を聴く(980円)。“The Beautiful People”を聴いて、結構気に入ったので中古盤を買ってみた。だが、あんまりピンとこず。どこが悪いというわけではなくて、なんとなくすーっと流れてしまったのであった。“The Beautiful People”はキャッチーな曲やと思うねんけどね。歌詞を読みながら繰り返して聴いたら、もっといいと思えるのかもしれない。


6月29日

 阿部謹也『学問と「世間」』(岩波新書、2001年)を読む。著者が以前から進めている世間論を、日本の学者世界にもあてはめて考察を行ったもの。日本の学者たちが、西欧の個人概念を意識しながら発言や執筆を行っていながら、実際の生活の場では西欧的個人からかけ離れた「世間」のしがらみの中にいる現状を無視していることを批判している。さらにそうした研究が誰にも読まれないような代物であることにも批判を加える。そして大学を専門家から開放して、「生活空間」学問を構築していき生涯学習へとつなげることを提言する。
 言いたいことは分かるのだが、なんとなく釈然としない。日本の学者が西欧の学問形態に追随しすぎている面が強いのは確かだろう。しかしながら、その改善のために同じ西欧人のフッサールの学問論を持ち出してくるのは、何だか違うような気がする。そもそも西欧の学者もまた、その常識のなさを色々と皮肉られてきたのであり、それほど日本が遅れているのではなく、日本の学者もそういった西欧の伝統を引き継いでいるに過ぎないのではなかろうか。
 それと、世間が日本独特のものであり、それが排他的な差別を助長してきたということが事実だろう。そうした日本古来のものであるからこそ、学者による活動などではそう簡単に世間を排除することなど出来そうにないのではなかろうか。世間を排除したあとにいかなる社会を構築するのかということについての具体的な提言がなければ、単なる批判に過ぎないのではなかろうか。現場主義を旨とする生涯学習を支える学府としての大学、というヴィジョンが提言されているものの、やっぱり理想論に聞こえる。
 学者の研究が世の中でほとんど役に立っていないということは間違いない。でも全ても人の仕事が役立っているかといえば決してそうではないだろう。学者の研究もそんなものだ。学者や教師は別に偉いものではなく、社会の寄生虫みたいなものだ、という認識こそが必要なのではなかろうか。そして、寄生虫は、宿主に悪い影響を与えることもできれば、体の中にいる悪性の細菌を地道に駆除することもできる。寄生虫だからこそできる仕事を、学者や知識人、教師がをしょうもないプライドの高さにとらわれずにする必要があるのだと思う。


6月30日

 福本伸行『天』(近代麻雀C、竹書房)17巻を読む(16巻はココ)。5人目の対面者・僧我三威は、赤木と同じ裏プロのトップに君臨したことがあるのに、自分の方が世間では評価が下のままで赤木に死なれることに納得できずに、麻雀牌を使ったゲーム「ナイン」で自分が勝ったら、死ぬことをやめて生き続けることを求める。しかし、赤木は何十万分の一もない確立で起こる引き分けの状況を意図的に創り出す…。「勝負が人生の全てであり、その他の時間は休んでいるにすぎない」と言いきる赤木に、自分の能力だけで生きる野生動物の美しさを見て取る僧我、というシーンはなんとなく説教くさいが、いいシーンだ。そういえば、久しぶりにマンガの中に麻雀牌が出てきた気がする。ただ、僧我が赤木に向かって「おどれはわしら凡人の感覚や論理を越えて生きてきた人間」と言ってるけど、このマンガでの僧我の活躍を見る限り、僧我も十分に凡人ではないねんけど…。


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