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2006年2月の見聞録



2月10日

 岡崎勝世『世界史とヨーロッパ ヘロドトスからウォーラーステインまで』(講談社現代新書、2003年)を読む。タイトル通り、ヘロドトスからウォーラーステインに至るまでの、ヨーロッパ人の歴史認識について取り上げている。時代は循環していると見なす古代、天地創造から最後の審判までの、神によって「神の国」の創造へと導かれる直線的な時間の中に、世界全体を含む普遍的な世界史を作り出した中世キリスト教社会に対して、近代には世界史の概念が登場する。ヨーロッパ人の世界認識が広がることにより、聖書の記述よりも古いと見なしうる中国の存在、そして自然科学の発展による天地創造以前とも見なされかねない自然そのもの歴史的な把握が普遍史を揺るがしたためである。やがてそれは、進歩主義と啓蒙主義に基づく、近代ヨーロッパ的な発展史観を生むことになった。エジプト史やギリシア・ローマ史研究の発展による古代史や、封建制に基づく中世史という、時代の独自性を把握する態度も出てきたものの、近代ヨーロッパ的な進歩史観は、アジアやアフリカを未発展の停滞社会と見なす態度をも生んだ。
 史学概論の授業などで、そのまま教科書に使えるのではないかというくらい、非常に手際よくまとめてある。たとえば、ヨーロッパ人はアルファベットを高く評価し、漢字を初めとする象形文字を低く評価しがちだが、それは啓蒙主義時代の進歩史観において、前者の方が習得が容易であるがゆえに知識の独占が起きないと考えていることに由来すること、そして、それゆえに読み書きが出来ない人間の多かった中世ヨーロッパが、近代の前段階と位置づけられること(158〜62頁)など、進歩史観を具体例で説明しているのも分かりやすい。ヨーロッパ人の時間概念や時代区分論、そして世界観などの歴史を、とりあえず簡単に知っておきたいと思う人がいれば、基本的な事柄や概念は本書でほぼ抑えられるだろう。


2月11日

 柳治男『<学級>の歴史学 自明視された空間を疑う』(講談社選書メチエ、2005年)を読む。学級崩壊に関する議論の中で、学級はあることが当たり前のものとなっている。これに対して、サブタイトルにあるように、その存在そのものを、主としてイギリスの事例から歴史学的に問い直し、そこから現在の状況を社会学的な観点で見直していく。
 教わりに来る学生に沿った形で、個々に教育を行っていた旧来のシステムと異なり、カリキュラムに基づいて教育する学校は、19世紀になってから現れた。そこでは、生徒は内容別・能力別に分けられて、モニターと呼ばれる上級生が、各クラスごとに指導を行い、全体的な指導計画をマスターと呼ばれる教師が行っていた。計画を練る教員と指導を行う教員の分業制は、20世紀に急速に普及したテイラーシステムに基づく工場や、ファーストフードやコンビニなどのチェーン化に見られる、マニュアル的分業制の原型と言える。これに、教育内容の統一化を図る国家からの統制が掛けられ、年齢別の要素と一斉授業のスタイルが加えられて、現在の「学級」が誕生した。こうした中で、貧困層が通っていた私塾的な学校は、彼らが生きて行くには過不足ない内容の教育が行われていたものの、圧迫を受けて廃れていく。この制度の下、子どもの未来のために良くない環境から切り離すという意味において、教師は宗教的な使命感を持つ司牧としての役割を担うことになる。これは放蕩な生活をする貴族とも、貧困にあえぎながらも怠惰に暮らす下層階級とも異なった、中産階級的人間の形成へもつながった。
 欧米の学級制度を日本は引き継いだが、日本の学級は学問の教授のみならず、生活共同体としての性格を強く保持している。近所の子どもが年齢に関係なく集まっていた集団とは異なり、見知らぬ村落出身の子ども同士が年齢別に「学級」へ集合させられることで、伝統的な子どもの集団は姿を消していく。ただし、伝統的な村落共同体が持っていた、他の共同体との競争意識は、学級運営に取り入れられていく。だがそのことは、学級の存在を自明のものとしてしまい、それに基づく良い教育と悪い教育という二項対立の構図の中でのみしか、教育言説が語られなくなる。ゆとり教育をめぐる問題はその例であり、「心の教育」の事例はさらに分かりやすい。つまり「ファーストフードの店で、いきなり心のこもった一流のフランス料理をつくれと命じられる」(166頁)ようなものである。
 近代の学校教育について、学級の概念からその問題点を鋭くえぐっており、広田照幸『日本人のしつけは衰退したか』・広田照幸『教育言説の歴史社会学』、刈谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』、岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』などに興味があれば、読んで損はない。近代の学校教育は、家庭や共同体から教育権を奪うことこそ重要なのであり、だからこそ教育的な効果や効率は無視されると喝破した、関曠野「教育のニヒリズム」(『野蛮としてのイエ社会』(お茶の水書房、1987年)所収)ほどの思想史的な奥深さはないものの、分かりやすさと読みやすさは、本書に軍配が挙がる。たとえば、「「カンニングしてはならない」という競争的個人主義に基づく中産階級的倫理観と、「困ったときには助け合うのが当たり前」となっている貧しい人々の日常生活の倫理観との隔絶はあまりにも大きいものであった」という一節は、上記の教育権の剥奪を分かり易く示している。また、日本における子どもの集団の消滅の話は、橋本治『ぼくたちの近代史』(河出文庫、1992年(原著は1988年))を学問的にした感じとも言える。
 戦前の教育で、豊臣秀吉の立身出世と二宮尊徳の刻苦勉励の話が取り上げられたのは、教師が児童の自己抑制と努力を求めるという理由と共に、未来に目を向けさせることで、教師の支配の秩序を確立しようとした、とある(184〜85頁)。前者はパオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』の「日本人は勤勉ではない」の論につながる気がする。
 ただし、本書ではこれをどのようにして乗り越えるかについては、ほんの少ししか触れられていない。もちろん、現在の問題は実は学級という歴史的な存在が根元にあることを明るみに出すことこそが、本書の意義なのだから、この問題の解決までをも本書に強く求めることは、筋違いだろう。ただ、呉智英『ホントの話』(小学館文庫、2003年(原著は2001年))で語られていたように、教師は知識と訓練を売る商売人である、と意識のを持つようになることが、まずは必要なのではなかろうか。


2月13日

 横山秀夫『動機』(文春文庫、2002年(原著は2000年))を読む。思うところがあって、ミステリを読んでみることにした。とりあえず、書評Wikiに掲載されている『このミステリーがすごい』(宝島社、リンクは2005年版)の年度別ベスト10を基に、この中から選んで読んでいくつもり。
 県警本部で機構改革を進めようとするも、ある署内で起こった警察手帳の大量紛失事件で窮地に追い込まれる警視、過去の殺人の罪を隠して働いていたところに、殺人依頼の電話がかかってきた元殺人犯、自分の記事へのクレームから立場が悪くなったところへ、引き抜きの誘いがあった女性の地方紙記者、公判中に居眠りしたことで、大っぴらにしがたい再婚の過去と向き合う必要が出た裁判官、といった4人をそれぞれ主人公にした短編集。いずれも警察やそれに関連する新聞社や裁判所の組織と、そこに属する人間のリアリティを保ったままで、ミステリを構築している点は、なかなか優れていると思う。とはいえ、こういったリアリティを保ちつつ短編に仕上げるのは、こじんまりとまとまってしまうような印象があるのも確か。こういうタイプのものは、長編の方が面白みがあるのだろうな、とも思ってしまった。
 なお、新聞記者の話で、入社式の日に「弱者のための記事を書きたい」といっていた主人公が、事件の被害者を思いやる余裕もなく、記事と保身のことを考えている、というシーンがある。この主人公と同じ考えをしながらも挫折をしなければ、岩瀬達哉『新聞が面白くない理由』に出てくるような、自分は正しいことをしていると疑わない権力を持つ記者が産まれるのかもしれない。裁判官に関しては、門田隆将『裁判官が日本を滅ぼす』の酷い状況に比べると、この小説の登場人物はずいぶん人間くさく見えてくる。はたして、どちらが本当なのか。それとも人間くささが自分の正義へと昇華してしまうとああなるのか。


2月20日

 天童荒太『永遠の仔』(幻冬社、1999年)を読む。四国の児童精神科に入院させられていた1人の少女と2人の少年は、霊峰にて少女の父親の殺害を決意する。時は流れ、その後会うことがなかった3人が再会することで、3人自身と首位の人間まで大きく揺れ動かされていくことになり、やがて起きた殺人事件に巻き込まれていくなかで、3人の過去が明らかになっていく…。現在と入院時代のストーリーが各章ごとに交互に配されており、少女の父親の殺害を3人が決意していく理由と過程が、徐々に語られていく構成を取っている。
 ストーリーそのものは、児童虐待・家庭の不和・老人介護といった現代社会の問題にも関わる内容を含んでいるがゆえに、陰鬱なシーンが多いものの、確かに面白い。上巻でいったん読むのを辞めようと思っていたにもかかわらず、最後まで読んでしまった。それだけ、読者を惹きつけるものがあるのは間違いない。それは称賛に値することである。ただし、これをもう一度繰り返して読むかというと、おそらくないだろう。
 まず、ミステリーのプロットを挟み込む必然性が弱いのが気になる。最初の殺人は必然性があったとしても、2つ目以降の殺人は必要だったのかな、と。つまり、ミステリに仕立てあげることで、ストーリーを盛り上げようとしたように見えてしまうのだ。2つ目以降の殺人は出さずに、1つ目の殺人のみを主軸にして、本編でも語られている誰が殺したのか、という部分のミステリをもっと深めるとか、よくあるパターンだけれども誰かに秘密が知られそうになって苦悩するといった感じの方が、ストーリーとしての深みが出たのではなかろうか。
 とはいえ、ミステリーとしてではなく、普通の物語として読めばいいのかもしれないが、実はそれでも読む気がしない。少女や少年の話し方が年相応に見えない、という点も引っ掛かりを覚えるのだが、それよりも気になる点がある。ここからはあくまでも個人的な意見なのだが、登場人物の行動やそれにまつわる事件が、劇的すぎるように見えるのだ。確かに、本書の主題ともなる児童虐待の問題は、現代において痛ましく悲惨な事件になることが多い。だが、悲劇的ということと劇的ということは微妙に異なっており、本書は後者へと傾きすぎているように見えてしまうのだ。言葉を変えると、あまりにもスペクタクルすぎるように映ってしまう。確かに物語を形作るには劇的な事件があるほうが、話は盛り上がる。しかしながら、現実の世界はもっと地味に悲惨なのではなかろうか。児童虐待のような現代社会の影とも言える部分を抉るというよりは、悲劇の主人公による歴史物語を読んでいるような気分になってくる。それはそれで面白いのは事実なのだけれども、私としては前者の方が面白くもあるし怖くもあり、読み返したくなる種類の本であると言える。そのために、本書を読み返すことはないだろうな、と感じたわけだ。
 などと考えつつ思い起こしたのが、業田良家『自虐の詩』(竹書房、1996年)上である。ろくでなしの亭主を持つ幸江を4コマギャグで語るこのマンガは、笑いを含みつつも、最後に怒濤の展開と感動のクライマックス迎える。けれども、冷静に読んでみれば、たとえ不幸であっても、それほど珍しくないような出来事の重なりにすぎないように見えるのだ。普通の不幸と普通の幸せを、ここまで心を揺さぶるまでに描き得るだけの力量は希有なのだな、と『永遠の仔』を読みながら思った。


2月22日

 大崎滋生『音楽史の形成とメディア』(平凡社選書、2002年)を読む。これまでの音楽史は、刊行された全集や楽譜集の考証による実証主義へと向かっていた。こうした物事を徹底的に探る実証主義を捨て去ることは出来ないものの、実証だけでは事実が点のように確認できるだけにすぎない、とする。そうではなく、全集や楽譜集というメディアがなぜ作成されたのかという観点から、換言すれば、音楽史は楽譜を中心とするメディアによって形成されたとする視点から、ヨーロッパの音楽史を再構成していく。
 教会カンタータ上演がプロテスタント教会で広まるのは、三十年戦争終結によってやや安定を取り戻した17世紀後半であり、ヨーロッパにおける記譜の作成は、こうした教会音楽と密接に結びついている。ただし、楽譜の登場は「楽譜がないと成り立ち得ない」音楽の誕生でもあり、これにより音楽は専門化・職業化すると共に芸術化への道を歩むことになる。やがて、楽譜が第二線ト音記号に統一されるのは、19世紀直前であった。これは「合唱からピアノへというヨーロッパ音楽史上の大変化を映し出している。神を讃える機能から、個人的精神生活を支援する機能への大転換である。それは音楽の”芸術化”過程とも言い換えらることができよう」(118頁)。こうした状況は楽譜の社会的なあり方からも理解できる。使われた形跡のない楽譜があるということは、楽譜を「所持」することが宮廷社会の一員であるというステータスになっていた可能性がある。出版された音楽はそのような社会関係に引っかかったにすぎない。こうした需要が楽譜出版を決定するのであって、需要外のものは出版される理由はなかった。メディアこそが音楽史を形成したと言える。
 一方、19世紀以前の楽譜には最低限のことしか書かれていなかった。それを基に音楽を創ることこそ演奏家の仕事であった。18世紀以降ヨーロッパ各地で市民の音楽レッスン熱が上昇し、ピアノと印刷楽譜はその時流に合致するようになり、誰でも引けるレシピのような楽譜が登場する。それに基づき演奏された家庭の音楽は、プロによる音楽とは異なるものであった。その帰結が20世紀であり、20世紀はポピュラー音楽の時代である。音楽が自動演奏化されていき、誰もが楽しめる時代、すなわちポピュラー化していったのだから、それは時代の必然であった。とはいえLPまでは、機械が場所をとるまで家族で音楽を聴くという形態を崩すには至らなかった。だが、CDの登場により、音楽は個人で消費するものへと変化した。こうして、宴会の社会性と共通した社会的機能を持っていた音楽は、食事が食べたいときに食べるものという性格を持つようになったのと同じく、聴きたいときに個人で聴くものとなった。ただし、LPやCDのみならず楽譜も、その場に居合わせた人と音楽を共有する、という意味を希薄にしていった。いわば、メディアが発達して音楽を社会で共有することによって、音楽の共有性は失われたのである。
 あとがきによれば、本書は東大文学部での講義をまとめたもの。そこで著者自身も述べているとおり、後半部分で時間が足りなくなってずいぶん焦っている感じが、本にも反映している。しかしながら、講義をまとめたものであるがゆえに、内容は非常に分かりやすく、そして興味深い。音楽、特にクラシック音楽に興味があれば、音楽を考える手助けになることは間違いない。
 ところで、この本は音楽史という、どちらかといえば歴史学というよりも芸術学に近いことをやっているのだが、前半部分に書かれた音楽史をめぐる史料の問題は、明らかに歴史学にも関わる問題でもある。たとえばこのような文章。「歴史とは、「かつて在ったこと」ではないのだから、そもそも”実証”することが歴史学の最終目的なのではない。〔中略〕遺っているものの意味を吟味するためには、遺っていないものを含めた総体についてのイメージを脹らませなければならない」(49頁)。また、出版された書物を全部読む時代が終わった現在においては、「数少ない資料の掘り起こしをしながら点と点を想像力で結ぶ歴史学から、見きれない資料の山、扱いようによって何でも出ていそうな山を相手に、自分は何を見たいのかが問われる歴史学への転換」(55頁)が生じるのではないか、とも述べている。これは、たとえば20世紀から21世紀、つまりこの文章を書いている現在の時代の歴史を、22世紀の人間が研究しようとしたときには間違いなく突き当たる問題だが、すでに現在の歴史学も直面している問題でもある。その意味で、歴史学に関心がある者も、本書を読めば知見を得られるだろう。
 また、音楽史はナショナル・アイデンティティと結びつく問題であることにも言及されている。たとえば、19世紀前半にドイツで刊行されていた『総合音楽新聞』は、ドイツ語圏の話題を中心として取り上げており、これによりドイツ音楽中心史のパラダイムが形成された。また、音楽史教育と演奏家教育のカリキュラムの中に取り入れられた音楽のみが、価値ある音楽の枠組を形成し、それが再生産されてきた。19世紀後半になると、それまで楽譜化されていなかった民謡やダンス音楽まで楽譜化されていく。これは民族が語り継いできた音楽が国民の文化遺産だからであった。このように、楽譜化はナショナル・アイデンティティとも結びついていた。文化的なものからアイデンティティを見るというのは、最近の流れでもあるけれども、音楽からもこのようなことが言えるのは、非常に興味深い。
 メモ的なものを。オペラ劇場が日本に造られたことは、オペラという文化を支えるだけの人員や設備が整ったことを意味する。ヨーロッパ文明圏の外部に位置する日本にオペラが根付いた事実は、ヨーロッパ文明の抗しがたい力を示す、と述べている(26頁)。ヨーロッパ文明の浸食性とでもいうべきものについて、P.A.コーエン『知の帝国主義−オリエンタリズムと中国像−』の項で同じようなことを書いたのだが、ここで言われていることに関すれば、オペラに限らず、音楽全般に当てはまるのではなかろうか。


2月27日

 北村薫『スキップ』(新潮文庫、1999年(原著は1995年))を読む。昭和40年代の17歳の高校生が、ある朝目覚めたら、25年後の自分になっており、夫との間には17歳の娘までいた…。
 いわゆるタイムスリップものだが、決してそれを無理に劇的な方向へと進ませるわけではなく、おそらく意図してか、淡々と語る筆致が採られている。前半に強烈なインパクトを与え、後半はいかになだらかに着陸するかに気を配った点で、何となく萩尾望都『残酷な神が支配する』に似ている気がする。タイムスリップして最初の方は、自分の境遇に戸惑っているものの、それをどうやって受け入れていくのか、という描写が少し乏しい気がする。その分、全体的に柔らかい雰囲気が保たれているのだけれども、突然わけの分からない場所に放り込まれたがゆえの緊張感を、もう少し描いて欲しいなあ、と。この辺は個人の好みなのかもしれないが。ただ、そんな中でも時代の違いゆえの意識のズレが語られるシーンはちょくちょくあり、たとえば、男女の高校生カップルが、手をつないで歩いていくのを見て、主人公が「あんなこと普通なの」と聞くシーン。人間の意識や考え方は、根本的な部分で変わらないとしても、そこから派生する表面的なものは、短い間でも変わっていくという微妙さを、さりげなく描写しているシーンだ。
 ちなみに、作者がもとは国語教師だったためか、国語の授業の描写には妙に力が入っていて、授業の見本集とも言えるような内容になっている。たとえば、古文読解に対して文法を学ぶ意味について、「文法やらなくっても読めるっていうのは正解だよ。だけど、そいつはよっぽどセンスと力とやる気のある人がいう台詞なんだ。凡人はな、文法やった方がよっぽど楽なんだ」(235〜36頁)と主人公の未来の夫である教師に語らせている。著者は現役時代できる限り面白い授業を行おうとしていた記憶や、もしくはこんな授業をするべきではないのかという思いが込められているのかもしれない。


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