前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2004年3月の見聞録



3月8日

 門田隆将『裁判官が日本を滅ぼす』(新潮社、2003年)を読む。日本の裁判官がエリート意識に凝り固まり、法令の条文や前例にとらわれて、いかにひどい状況判断をしているのかを実例と共に厳しく糾弾する。たとえば、大手銀行が詐欺まがいの契約をして、しかもその契約書を隠し続け、ついに提出せざるを得ない状況になると、今度はそれを誤記であるという言い訳をし出し、しかも田中壯太裁判官がその主張を受け入れてしまった判決はすごい(第6章)。契約書を誤記した点で銀行側の過失は明らかであろうが、おそらく退官後に銀行の顧問弁護士になる可能性を消したくないため、銀行の意向に添った判決を下したらしい。
 法廷に遺影を持ち込んだ遺族に対して、それを片づけろと怒鳴りつけ、しかも官舎を訪れた著者の取材に対して「あなたはそれを見たの? そう言っている人がいるだけでしょ」と嘯き、「こんなところでの取材は問題ですぞ」と批判した堀内信明裁判官。社員が勝手に捺印し自らは印鑑も押さなかったのに、裁判では契約を行ったと認定されてしまい、和解を行おうとして和解調停を行った席上で、家族がこのままでは自殺するしかないと言ったところ、「仕方ありません。どうぞ御勝手に。私たちは関係ありません」と言い放った井上稔裁判官。
 実例に関して、思わず書中に挙げられている実名を記したのは、あまりに唖然としたから。他にも山形マット事件で被告の少年達を無罪とした手島徹裁判官など、読んでいてやりきれない事例がこれでもかと出てくる。さらにどの裁判官も、著者の取材に対してほぼ一様に「判決がすべて」として、一切答えない姿勢をとっていることもまた驚かされる。守秘義務と言うよりは密室主義の印象を受けてしまうのは、あまりにもひどい例ばかり読まされたからだろう。この本を読む限り、何かことがあっても裁判に訴えることが出来さえすればなんとかなると頼っても、そう簡単にはいかないと思い知らされる。
 確かに、この本に挙がっている実例は、常識的に考えて納得できないものばかりであり、衝撃度という点では、いままで読んだノンフィクションの中でも最高レヴェルだろう。それを認めた上で敢えて言わせてもらうならば、裁判官すべてがこうした認めがたい判断をしているわけではない、というのもまた事実なのではなかろうか。たとえば、一審と二審ではまったく判決が逆転する事例がある。たとえば、無期懲役の仮出所中の人間が殺人を犯し、しかも遺体をバラバラに刻んで遺棄した事件で一審では死刑が避けられ再び無期懲役となった事例や(二審では死刑、第7章)、堺の通り魔殺人の被告であった少年の実名報道である(第10章)。本書の記述を読む限りでは、常識的な判断をしなかった裁判官の方が、おそらく良くない意味での教条主義的な考え方に沿っているようであり、本書で暴露されている悪い意味でのエリート主義に固まってしまっていると考えられる。それとは逆の判決をしたということは、そうしたエリートへの出世の道程から外れることを意味するのではなかろうか。もしかすると、裁判の判決が裁判官による恣意的な独断が強いために、まったく逆の判決が出るということがあるのかもしれない。しかしながら、本書を読む限りでは、裁判官が純粋培養されたために世間一般の常識的な考えを知らず、エリート主義的な独善主義に陥っていることにしか原因を求めていないように見え、上記の恣意的な判断という説は提示していなかったはずだ。
 もしかしたら、こうした考え方は素人的な浅はかな考えなのかもしれない。しかしながら、判断がまったく違うという矛盾をさらに調べて切り込んでいけば、そこには何かあるのではないかと思えるのだ。そうすれば、この本は現状の調査とその報告を越えて、これからどのようにすべきなのかに関するより具体的な提言も成し得たのではなかろうか。ぜひ、その辺をさらに深く突っ込んだ続編を書いていただきたい。
 ちなみに、堺通り魔事件の実名報道に関して、朝日新聞の社説は、「一雑誌のこうしたやり方」と書いており、著者は「新聞の「二流メディアが何を言うか」という差別意識が象徴的に表されている」(173頁)と述べている。この辺に関しては、岩瀬達哉『新聞が面白くない理由』を想起させる。
 もう1つ強烈な印象を受けたのは、障害者をリンチで殺した少年に対して(ちなみに、リンチの理由は、リンチを受けた被害者が努力して全日制高校へ合格したことに対するひがみ)、「感受性豊か」という理由で刑事裁判に掛けず、少年院送りにした判決。しかも、少年が知人に送った手紙には、「オレがいない一ヶ月の間! さみしい? おもんない? オレも早く出て○○ちゃんと遊びたいわー!」(204頁)などと書かれていた。子供には無限の可能性があって個性を大事にすべきという論者は、この少年の感受性が評価された判決を断固として支持せねばならないだろう。こういう反常識的な行動は個性と見なせないと言うのであれば、所詮は自分たちの常識の範囲内で判断できる個性しか認めないにすぎない。


前の月へ    トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ