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2001年9月の見聞録



9月1日

 萩尾望都『残酷な神が支配する』(プチフラワーC、小学館)17巻を読む(16巻はココ)。ついに完結。イアンとジェルミがお互いの愛に対する考え方を語り合い、お互いが穏やかな状態で緩やかに結びつくといった感じのラスト。これはこれでいいラストだけど、やっぱり前半の愛憎劇が凄すぎただけに、前半で盛り上がったドラマが後半ではゆっくりテンポダウンしていったというような印象を受けてしまうなあ。もう一度読み直せば別の感想を持つかもしれないけど。


9月2日

 山田康之・佐野浩編著『遺伝子組換え植物の光と陰』(学会出版センター、1999年)を読む。遺伝子組み替え食品について、遺伝子組み替え植物の仕組み、その安全性、生態系にもたらす影響、欧米諸国における対応などの様々な論点について、複数の執筆者が論じる。遺伝子組み替え食品は、そもそも病害による農作物の減収を防ぐために遺伝子組み替えを行った植物を用いている食品であること、現時点で認可されているものは、安全性が確認されているが、たとえばフロンガスのように、30年後に危険性が分かる可能性もあること、などが述べられている。
 私自身は今のところやっぱり感覚的に、なんとなく食べるのが怖いような先入観を持っているのだが、それはこの本を読んでもあまり変わらなかった。ただ、食べざるを得ないような状況、つまり遺伝子組み替え食品の方が明らかに安くなったときには、そちらを食べるようになるだろうと思う。遺伝子組み替えを行わなければ、結局のところ農薬を大量に使わざるを得ない、ということがこの本にも書かれていたことからは、遺伝子組み替えの技術へと移行する可能性が強いのではなかろうか。


9月4日

 曽田正人『昴』(ビッグスピリッツC、小学館)6巻を読む(5巻はココ)。謎の人物の言葉に従って、ローザンヌのスカラーシップを蹴ってまでニューヨークのバレエ団にきた昴だが、そこでみたバレエ団のオンボロであり、まともな後援をしばらくやってないところであった…。素直にローザンヌ編に行くとダイナミックな展開にしにくいから、また1からやり直すような設定にしたのかな?


9月5日

 別冊宝島編集部編『「小学校」絶体絶命!』(宝島社文庫、2001年)を読む。公立小学校の現場の声や実態、中学入試の状況、総合学習を目指した学習指導要領の改訂に対する批判などを収録する。これまで何度か書いてるように、本当に学力が以前より落ちているのかということについては、まだ納得しているわけではないが、小学校の授業が成り立たなくなりつつあるという状況だけは明らかに以前と変わっているような気がする。今も昔も小学生には授業についていけない児童はいたと思うけど、最低限授業だけは成り立っていたような気がする。ふと思ったのだが、一般の児童や生徒までが騒ぎ出して授業が荒れ始めたのは、ゆとり教育が導入されてからではなかろうか。
 一番興味深かった事例は兵庫県朝来町立山口小学校の事例の中の記述。山口小学校では、ゆとり教育の風潮に反するかのように、プリントを繰り返し学習させるスパルタ方式を使ったところ、児童の基礎学力が劇的にアップし、授業についていけない児童も激減したらしいのだが、その結果としてたとえば4時間かかる授業が2時間で済むようになり、あまった授業時間を社会見学などのゆとり授業をする余裕が生まれたそうである。授業時間を減らしてその内容も簡単にすることによって、「ゆとり教育」の確立を目指している文部省への痛烈なカウンターパンチではなかろうか。ただ、この山口小学校のやり方って公文式のやり方なのでは?


9月6日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。尾田栄一郎『ONE PIECE』20巻(19巻はココ)。アラバスタ王国軍と反乱軍との戦争を煽ったバロックワークのエージェント達との戦いが始まるが、ルフィはクロコダイルに敗れる…。エージェントそれぞれとここの主要キャラとの戦いが始まりつつあるが、これが結構面白そう。

 森田まさのり『ROOKIES』16巻(15巻はココ)。2年生の極悪な噂を聞きつけて入学したのに、野球に打ち込んでいる姿を見て失望した新入生部員が、2年生部員にケンカを仕掛ける…。今どき東京制覇なんていう野望を掲げる不良なんているのかな、と突っ込みつつ、川籐のセリフはクサすぎるよな、とか思いつつ、読みいってしまうのは、こんな感じの熱い王道ドラマが今は少ないからだろうか?

 荒木飛呂彦『JOJOの奇妙な冒険第6部 ストーンオーシャン』8巻(7巻はココ)。「最も弱いスタンド・サバイバー」の話の続き…のはずだが、この巻ではそのスタンドの話は出てこずに、他のスタンドとの戦いが続く。

 許斐剛『テニスの王子様』10巻(9巻はココ)。極悪キャラ・阿久津登場…なのだが、このキャラはちょっと滅茶苦茶すぎるのでは? ただ性格が悪くて乱暴なだけのキャラっぽくて、薄っぺらく感じる。そういえば、この巻には読者人気投票の結果が載ってるけど、主人公が1位だった。主人公が一位になるのって結構珍しいことのような気がする。


9月7日

 E.ツァンガー『天からの洪水』(新潮社、1997年)を読む(原著は1992年)。地中海の地理考古学の専門家が、プラトンの史料やトロイアと同時代の東地中海の考古学の検証によってアトランティスの位置を再考察する。まず、プラトンの記述の詳細な考証によって、アトランティスがトロイアであったのではないかとの仮説を示す。そして、プラトンの『ティマイオス』と『クリティアス』にはアトランティスに関する詳細な記述が見られるが、後者において叙述は未完成に終わっているのは、プラトンが執筆中にその事実に気付いたからであるとする。つまり、ソロンなどの史料を用いてアトランティスの崇高さを讃えようとしたプラトンが、アトランティスがトロイアでためにギリシア人とはつながりがないということに気付き、執筆を辞めてしまったと推測する。この仮説を地理考古学の成果に基づき補強する。
 慎重な史料の検証を下地にして大胆な仮説の提示を行っており、読み応えがある。ただし、アトランティス伝説に何か神秘的なものを考えている人にとってはつまらない本であろう。つまるところ、アトランティス伝説の一番の問題は、それを超古代文明と見なして崇め奉ろうとする人がいることにあるのではなかろうか。それはアトランティス伝説に関する主要な史料が、プラトンであるということと無関係ではないと思われる。プラトンの史料の哲学的評価ではなく、歴史史料としての評価は決して高いわけではないと考えられるからだ。実際のプラトンが同時代人によって決して高く評価されていたわけではないという事実を見落としてはならないだろう(これについては、廣川洋一『プラトンの学園アカデメイア』(講談社学術文庫)を参照)。つまり、プラトンは実際の生活の中では実現できなかった自らの理想とする完全な国家を、著作の中だっけで夢想していたと考えることも可能であろう。プラトンのアトランティス伝説の記述は、『国家』・『政治家』・『法律』などと同様に、自分の理想論を投影したものなのではなかろうか。アトランティス伝説が必要以上に奉られるのは、それらの人々がそうしたプラトンの精神と同じものを持っているからではなかろうか(ここで繰り返しておくが、これは後代から見たプラトンに対する哲学的評価とは無関係である)。
 そうしたアトランティスを素晴らしいものとして持ち上げる人に対する解毒剤としては、本書は弱すぎるような気もする。まあ、そういう役割を担った本ではなくて、むしろ解毒剤を開発する人にとっての有効な材料足り得る本であるだけでも十分いいのだけれども。


9月8日

 しげの秀一『頭文字D』(ヤングマガジンC、講談社)22巻(21巻はココ)。拓海が秋名のダウンヒルで正体不明の敵(たぶん父親)に負け、啓介を鍛えるためのプロジェクトDの新たな戦いが始まる、といった展開。拓海の親父が今回使った車が、将来の拓海の車となって新たに物語を展開させるための伏線、かな。

 七月鏡一・藤原芳秀『闇のイージス』(ヤングサンデーC、小学館)3巻を読む(2巻はココ)。まあ、面白いことは面白いんだけど、ちょっとになるのが、身近にいる人物が実は最終的な敵だったというパターンが多いことがちょっと気になる。


9月9日

 紀田順一郎『東京の下層社会』(新潮社、1990年)を読む。明治期のスラムや貧民について、当時の史料や貧民窟ルポなどを用いながら見ていく。貧民の極貧生活やその生活環境の不潔さなどがこれでもかと描かれている。その状況自体もかなりショッキングであるが、これがほんの100年ほど前には当たり前の風景であったことこそがさらに驚きであろう。高度成長に対する批判は色々とあるだろうが、たとえ現在の下層階級に位置する人間でも、少なくともここまでひどい困窮生活を送らずにすんでいるという点は、決して低く評価されるべきではないであろう。


9月10日

 さいとうたかを『サバイバル』(小学館文庫)5〜8巻を読む(1〜4巻はココ)。今までは自然との闘いが主であったけど、生き残った人間達もちょくちょく登場するようになってきた。家族を捜して旅を続けるサトルだが、どうやら家族は本当に生き残ってる展開のようだ。何かご都合主義っぽいけど、サトルのサバイバル活動そのものは面白いから、まあいいか。


9月11日

 きだみのる『気違い部落周遊紀行』(冨山房、1981年)を読む。原著は1946年に出版されたものであり、戦前から戦後にわたって東京近郊のある村落で暮らした著者によるルポルタージュ。ちなみに「気違い」には特に深い意味はなく匿名であることを表し、「部落」は被差別部落ではなく村落を意味する。ついこの前読んだ紀田順一郎『東京の下層社会』とおなじく、ここに描かれているのはほんの数十年前の日本の姿なのに違和感を覚えてしまう。この本には、ごく普通の田舎の山村に住んで、自分たちの利益をせこく、時には小ずるく追い求める泥臭い人間たちの姿が記述されている。現在では「田舎に住む人々は素朴で、人情に溢れている」という物言いがよく見られるが、それとは相対するような人間のあり方が至る所に描かれているのだ。別に田舎の人間も汚い人間だと言いたいわけではなくて、田舎の人間を無理矢理人情ある人間とみなそうとするのは、一種のユートピア思想に近いのかもしれないということだ。


9月13日

 徐朝龍『長江文明の発見』(角川選書、1998年)を読む。豊富な考古史料を明示しながら、古代中国においては、黄河文明だけではなく長江文明も存在していたことを強く主張する。長江流域ではすでに紀元前9000年から7000年ごろから稲作が始まっていたことが考古史料から判明し、それとともに都市文明へと進展していったことも、都市の城壁の遺構などからも明らかであるとする。その長江下流域で栄えていた良渚文明は紀元前2000年ごろに恐らく洪水によって崩壊したが、その崩壊から逃れた難民の一部が北方民族と融合して夏王朝の基礎を築いたとする。長江文明について非常に分かりやすく紹介している本だと思う。新たな考古史料の発見によって古代史の知識は次々と塗り替えられていっているが、これらが学校の教科書に登場するのはいつになるのだろうか。それとも長江文明はすでに教科書に登場しているのだろうか(このことについては『市販本・新しい歴史教科書』の項でも触れたことがある)。


9月14日

 前川たけし『ブレイクショット』(講談社漫画文庫)56巻を読む(3・4巻はココ)。土門巌のD.S.IIIvs.信介のD.H.S.というスペシャルショット対決。それ以外に言いようもないな。まあ、これだけ色々とスペシャルショットを考えるのはある意味凄いことだけどね。

 矢口高雄『釣りキチ三平湖沼釣りselection』(講談社漫画文庫)12巻を読む。その名の通り湖や沼での釣りの話しで1巻はフナ釣り編、2巻は鯉釣り編。その内容よりも目が引かれたのはオビタタキで、『釣りキチ三平』の新作を収めた本が出ているみたいだ。最近、オッサン向けに懐かしの作品のリメイクや続編が色々と出てるけど、まさか『釣りキチ三平』まで出るとは思わなかった。


9月15日

 片桐雅隆『自己と「語り」の社会学』.(世界思想社、2000年)を読む。自分の手帳にこの本のタイトルのメモ書きがあったのだが、いつどこで書いたのか覚えていない。とりあえず読んでみたが、「自己」に関する概念や、それが戦後日本においてどのように語られていったのかについて学問的に手際よくまとめているとは思うけど、それ以外にこれといって特に得ることもなかったかな。手帳のメモ書きの整理をする必要があるな。


9月17日

 少年マガジンコミックスの新刊を読む。川原正敏『海皇紀』12巻(11巻はココ)。ついにファン率いる影船8番艦と現・海王率いる海都軍20隻との戦いが始まる…。船のことはよく分からないけど、この艦隊同士の戦い(というか一隻vs.艦隊か)は見応えがあるね。いままでのマンガのバトルといったら肉弾戦が普通だったけど、こんな事も描けるんだということを改めて実感。

  森川ジョージ『はじめの一歩』58巻(57巻はココ)。高村の世界戦の前座で木村・青木・宮田の試合が始まり、宮田が圧倒的な強さを見せる…。宮田ってだいぶ前の方の巻でかなり減量に苦しんでいたような気がするのだけれど、いまは大丈夫なのだろうか?

 天樹征丸・さとうふみや『探偵学園Q』1巻。中学3年生のキュウは勉強は出来なくても抜群の推理力を持っており、探偵になる夢を持っていた。そして、日本で唯一の警視庁特別公認探偵が運営していた探偵学校の入学試験を受ける。1次・2次と突破したキュウだが、最終試験会場で本当の殺人試験が起こる…。『金田一少年の事件簿』に続く作品だが、『金田一少年の事件簿』よりも設定が子供向けすぎて読んでいて今ひとつのめり込めない。今どき「警視庁公認特別探偵」なんて幼児向けヒーローものみたいな設定を出すところが、ちょっとねえ。他にも突っ込みどころ満載。まあ、パズルみたいな推理トリックを楽しむ作品なのかなあ。


9月18日

 森孝一『宗教からよむ「アメリカ」』(講談社選書メチエ、1996年)を読む。「アメリカは共通の過去を持っていないために、共通の未来についての意志を欠くと、昔の民族的アイデンティティへと逆行してしまう国である」(55ページ、ただし、これは別の宗教学者の言葉)とし、それゆえに宗教的な感覚での未来への共通意志を必要とし、それが「アメリカの見えざる国教」の中核となっているとする。そうした観点から、モルモン教・アーミッシュ・人民教会・ブランチ=デヴィディアンなどの異端についても見ていっている。
 アメリカの精神史についてのオーソドックスな著作であって、それほど新しい知見が得られたわけではないけれども、大統領と賛美歌についてのエピソードが個人的な面で印象深かった。大統領就任の直前に、前大統領のクリントン夫妻と前副大統領のゴア夫妻は礼拝に参加して賛美歌を歌うことになったのであるが、彼らの席には賛美歌が用意されていなかった。ゴア夫妻は歌詞を曖昧にしか覚えていなかったのとは対称的に、クリントンは最初から最後まで歌詞を間違えることはなかった(61-63ページ)。著者は意外にも後者に宗教的な敬虔さがあったことを強調していたのであるが、私には前者の宗教的にそれほど熱心ではなかったことの方が印象に残った。というのは、1980年代後半にハードロック/ヘヴィメタルを聴いていた人間には、音楽の歌詞が悪い影響を与えるとして検閲活動を激しく行っていたPMRCという組織の中心人物であった、ゴア夫人の存在を忘れることは出来ないからである。当時、PMRCはキリスト教の強硬保守派であったファンダメンタリズムと一緒に語られることが多く、それに関わったゴア夫人もキリスト教を深く信仰しているものと思い込んでいた。しかし、この本を読む限り、PMRCはあくまでも政治的な活動であったようである。
 なお、アメリカ建国神話の宗教性については大西直樹『ピルグリム・ファーザーズという神話』を参照のこと。


9月19日

 梅図かずお『14歳』(小学館文庫)3巻を読む(2巻はココ)。大統領はチキン=ジョージの研究所に向かうが、研究所から逃げていったチキン=ジョージに14年経てばすべてが分かり、人間は本当の友達が必要になる、という謎めいた言葉を投げかけられる。一方、経済界を支配する女性・ローズは、自らが老いていくことに耐えられず不老不死の薬の開発を命じたのであるが、そこにチキン=ジョージのメッセージが送られてきて、動物をつれて逃げるロケットを作るためのお金を貰う代わりに、不老不死の技術を教えるという交換条件を提示する…。ついに『14歳』という謎めいたタイトルの意味が少しだけ分かり始めてきた。この人のマンガって、人物設定は結構いい加減なのに、その雰囲気と意味不明一歩手前のストーリーの凄まじさで読ませるところがあるなあ。


9月21日

 井上史雄『日本語の値段』(大修館書店、2000年)を読む。同じ著者が書いた『日本語ウォッチング』が面白かったので、読んでみた。日本における外国語の価値をテクストの発行部数や語学学校の講座数などから格付けしたり、世界における日本語の利用頻度について日本語を母語としない人間がどれくらい利用しているのかという観点から考察する。ただし、こうした考察からはじき出された結論が、「日本では英語の価値がずば抜けて高い」ということや、「東南アジアでは日本語の学習度もそれなりに高いが、やがて英語に席巻されるであろう」といったなんとなく感覚的に理解しているものなので、分かりやすいけれども、読んでいて物足りないとも言える。1つだけ気になったのは、NHKの語学講座の英語のテクストの売り上げが、1990年から1991年の間で200万部強から400万弱にまで跳ね上がっていること(8ページ・図1)。著者は特に説明していないのだけれど、これは何故なのだろうか?


9月22日

 青山剛昌『名探偵コナン』(少年サンデーC、小学館)34巻を読む(33巻はココ)。英語教師のジョディーを探る話と、蘭の回想によるニューヨークの話が始まりかけるところ。どうやら、ちょくちょく出てくる謎の青年が絡んでいるらしい。何だか恒例になっているしょうもない突っ込みを入れておくと、電車の殺人の中で「サッカーでウィングという選手を使う戦術は古い」と書いてあるけど、4−2−3−1のフォーメーションの2列目の左右の選手と両サイドバックのは、ウィング的なサイドアタッカーの役割が強いんじゃないかなあ(サッカーにそれほど詳しくないので間違ってるかもしれない)。

 椎名高志『MISTERジパング』(少年サンデーC、小学館)6巻(5巻はココ)。ヒナタを救うために天回がいる比叡山に乗り込もうとする藤吉郎。しかし、そこには信長だけではなく、武田信玄までもがやってきていた…。戦いがますますSFチックになってきた。戦国時代の物語をそのままマンガにすると少年誌らしい面白味に欠けるし、やりすぎると戦国という舞台設定が崩れて、現代の物語を呼んでいるような気もするし難しいところ。


9月23日

 乙武洋匡『五体不満足 完全版』(講談社文庫、2001年、原著は1998年)を読む。ベストセラーになった 文芸書の文庫版。先天性四肢切断という障害を持つ著者による手記。「障害は不便です。だけど不幸ではありません」と語り、大勢の仲間に囲まれて、前向きな生き方を明るく綴っている。辛くても頑張って生きていて思わず涙をしてしまいそうな障害者、というありがちな姿ではなく、明るく爽やかな障害者、というのは少なくとも公の形になるのは珍しいだろう。
 実は、この本を私はいままで読んだことがなかった。ベストセラーになってるから読まない、というひねくれた考えを持っていたのもあるが、どうせ感動を誘うようなことしか書かれてないのだろうと思ったのである。文庫化されて読んでみたのだが、あまりにも明るくて楽しすぎる、というよりも「いい人」すぎる著者の姿に何だか胡散臭いものをやっぱり感じてしまった。前向きに生きる障害者と、それをあたたかく応援する周囲の人間。模範としての障害者とその周囲の人間が、現実を無視したきれい事の理想像に見えたのだ。文庫版の加筆部分である第4部を読むまでは。
 第4部は、原著発刊時から現在に至るまでの活動や心境を綴った部分である。ここには、主として明るい障害者という理想像の部分だけを見せたことに対する苦悩が吐露されている。「もし神様がやり直しを認めてくれるならば、私は『五体不満足』出版以前に時計の針を戻すかもしれない」(268ページ)とエゴめいたセリフまで述べている。私は何も著者の暗い部分を読んで、「所詮、彼も人間なんだからこういう部分もあるんだ」と貶めたいわけでは決してない。そうではなくて、「どんな障害者も健気に頑張っているのだから、応援しなくてはならない」というのは、逆の意味での差別にすぎないのではないかと思っただけだ。それが如実に現れているのが、著者に対して講演を依頼した団体が、著者の拒否に対して激怒したということだ。「私たちは営利目的の団体ではなく、ボランティアで、善意で活動を行っている団体なのです。にもかかわらず、どうしてご協力できないのでしょうか」(272ページ)。
 というわけで、もしこの本を読むならば、文芸書版ではなく文庫版を読むことを強くお薦めする。


9月24日

 日高万里『世界でいちばん大嫌い』(花とゆめC、白泉社)13巻を読む(12巻はココ)。ついに完結。進路に悩む万葉だが、それについて何も言ってくれない真紀への苛立ちが爆発する…。最後は真紀が万葉と結婚して、夫婦で一緒に美容室を切り盛りするという終わり方。間延びする前にうまく終わったのではないかな。嫌いあっていた人間がお互いに惹かれあっていき好意への関係へと昇華するというモチーフが、この人のちょっととんがった感じのする絵柄とマッチしてて、なかなかいいマンガだと思う。すでに『花とゆめ』で始まっているらしい次回作も楽しみ。


9月25日

 彌永信美『歴史という牢獄』(青土社、1988年)を読む。抽象的な観念からではなく、具体的な歴史事物や歴史事象から歴史思想を考察した評論を集めたもの。オリエンタリズム再考・日本思想史におけるキリシタンの意義・聖書における歴史概念の創出・中世ヨーロッパの怪異論などが主な内容。衒学的な装いが少しだけ見られるものの、どの評論も歴史や思想に関心があるならば読み応えがあるものだと思う。サイードのオリエンタリズム批判が、ヨーロッパ近代主義を自己批判して自らを相対化することによって、逆にヨーロッパの普遍性を弁証法的に高めることになるという指摘は適切なものだろう。また日本のキリシタンをめぐる考察から、「日本の思想は無思想である」というレッテルのためにそれを批判するか賞揚するかしかない二分法の状況を指摘している点や、大航海時代の完成によって、どうなっているのか分からない境界より向こうの世界という概念が消失することによって、ヨーロッパにおける怪異は模範に対する異常にすぎない存在となり、それがヨーロッパ近代主義の萌芽となったする見解も興味深い。


9月26日

 田島隆・東風孝広『カバチタレ』(モーニングC、講談社)8巻(7巻はココ)。今回は敷金返済をめぐる話と、交通事故の保険に関する話の途中まで。毎回のことながら、依頼者が絶対善ではないところがいい。敷金返済をめぐる話では、田村たちが自分は何もしなかった依頼者の夫に、「法律やゆうてもあんまりあてにならんのー」と言われていて、思いっきり後味の悪い終わり方やしね。
 毎度おなじみオビタタキのセリフだけれど、今回は「青木雄二も震撼」。ただ、今回はどっちかというとあんまり目立たないように書かれている。さて、次はどうなるかな?


9月27日

 ジェフ=グッデル『ハッカーを撃て!』(徳間書店、1996年)を読む。1980年代から1990年代前半に活動を行っていたハッカーと、その追跡者の攻防を描いたノンフィクション。インターネットが本格的に普及する前の事件だから、若干の古臭さを感じさせる。この事件に登場するハッカーは、「ニューヨークタイムズ」の一面で扱われたこともあり全米で有名だったみたいだけど、この本ではそれほど凄いハッカーとして描かれてはいない。それほど凄くないハッカーでもプログラムさえ手に入れれば、高度なハッキングを行うことができるという事実は結構怖い気がする。それはともかく、このハッカーを追いつめたのが日本人技術者なのだが、彼のことを著者は「サムライ」という称号を与え、原題でもそれが使われている(原題はThe Cyberthief and the Samurai)。アメリカ人にすれば、優れた日本人はやっぱり「サムライ」なのかなあ。


9月28日

 なにわ小吉『くぴっと一杯』(集英社C)2巻を読む。『週刊少年ジャンプ』に載っていた『王様はロバの耳』は結構好きだったので、久しぶりにこの人のマンガを読んでみた。絶対にありえない設定から話が始まるのは『王様はロバが耳』と一緒だが、ドリフのもしもシリーズのようにその設定で実験的なことをするのではなく、『くぴっと一杯』の方はその設定のまま物語が進んでいく。個人的には『王様はロバの耳』の方が面白いように感じたのだけれど、これは年を取って自分の中のギャグの感覚が少し弱くなってきたせいなのかもしれない。ところで、ヘタウマのようだった絵柄が少しマンガっぽくなった気がする。


9月30日

 板垣恵介『バキ』(少年チャンピオンC、秋田書店)10巻を読む(9巻はココ)。5人の脱獄囚を捕らえるために、アリゾナにVIP並の待遇で収監されている受刑者オリバの出動が要請される…。またもや強烈に強そうなキャラが登場。このマンガも『ドラゴンボール』化が進んでる気がする。


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