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2001年8月の見聞録



8月1日

 吉村明美『海よりも深く』(フラワーC、小学館)8巻(7巻はココ)。眠子と十三は結ばれたのだが、占い師に「3年後に死ぬ」と予言されてその期限の年を迎えた。眠子の前に再び現れた占い師は、「十三が死ぬことになっているが、予定日よりも先にお前が死ねば十三は助かる」と告げる。眠子は自ら命を捨てようとするが、すんでの所で十三に助けられ、変わりに十三の意識がなくなってしまった…。
 次の巻ぐらいで完結しそうな感じだけど、やっぱり『麒麟館グラフィティ』や『薔薇のために』なんかと比べると今ひとつ盛り上がりに欠けた気がするなあ。主人公も周りの人間も、今ひとつキャラが弱かったせいかな?

 田村由美『シカゴ』(フラワーC、小学館)2巻(1巻はココ)。主人公の過去と謎の指揮に関わる人間が出てきたところで、突然終了してしまった。あまりにも中途半端な感じは否めない。


8月2日

 織田一朗『日本人はいつから<せっかち>になったか』(PHP新書、1997年)を読む。タイトルに偽りあり、みたいな本で『日本人と時間』というタイトルの方がまだもっともらしい気がするような本。一言で言えば、日本人は戦後にせっかちになっていったのであり、時間の大切さを認識すべきといった内容か。日本人が時間をどう捉えていたかに関する豆知識的なエッセイのような本であり、特に得るものはない。


8月3日

 浦沢直樹『20世紀少年』(ビッグスピリッツC、小学館)6巻を読む(5巻はココ)。歌舞伎町でのローマ法王暗殺計画を知ったカンナに、刺客の手が迫る。その計画を知った「ショーグン」は東京湾の監獄島からの脱出を図ろうとする…。思いつくままに描いていたかのように見える物語がだんだんとはっきりとした輪郭を持ち始めているような気がする。


8月4日

 森重雄『モダンのアンスタンス』(ハーベスト社、1993年)を読む。「教育」という概念が、近代学校制度という装置とともに作り上げられたものであることを論じる。近代的な概念を相対化しようとするポストモダンっぽい書。どうでもいいけど、こういうタイプの本って割とカタカナが多いけど、この本は明らかに多すぎる。漢字のふりがなにまでこれ見よがしにカタカナが振ってあるのは、原著の雰囲気を出そうとしているのかもしれないけど、ただ読みにくいだけだ。


8月6日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』13巻(12巻はココ)。塔矢行洋名人が突然倒れ、入院する。病室でネット碁をしている名人を見たヒカルは、ネット場での佐為との対戦を申し出て、ついに2人の対局が実現する…。本編とは関係ないけど、この巻ではキャラの人気投票の結果が載っていて、ヒカルは5位だった。得票は一位の伊角の5分の1強。主人公の人気があまり高くないのはよくあることだけど、ちょっと低すぎないか?

 岸本斉史『NARUTO』8巻(7巻はココ)。中忍選抜の第2の試験を突破したなるとたちだが、予想以上に突破した人間がおおかた為に、個人対戦形式の第3の試験の予備選が行われる…。戦闘そのものは面白いのだけれど、どうしても大蛇丸のことが気になる。「S級の手配人物」である大蛇丸が試験会場にいて色々な人の前に姿を現しているのに(この巻では中忍たちの中に姿を紛らせている)、どうして他の人は探し出して捕まえようとしないのだろう?

 矢吹健太朗『BLACK CAT』4巻(3巻はココ)。リンスの頼みを引き受けてあるパーティー会場に参加することになったトレインはA級手配の人物を発見する…。やっぱりどうも設定に深みがないので、いまひとつのめりこめないなあ。でも人気があるみたいなのはちょっと不思議なんだけど、こういう何も考えないですむような軽い感じの方が売れやすいのだろうか?

 秋本治『こちら葛飾区亀有公園前派出所』126巻(125巻はココ)。疑宝珠家に新しい妹「蜜柑」が生まれる。まあ、そういう話しです(いつも投げやりなコメントをしてる気が…)。


8月7日

 松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』(中公新書、2001年)を読む。福沢諭吉と中江兆民はともに西洋文明の受容に大きな役割を果たしたが、日本での受容に対する考え方は異なっていた。福沢が現段階で最高峰にある西欧文明を受容することが善で野蛮的な状態から脱する存在であると見なしていたのに対し、中江は文明が道義ある存在というわけではなく、文明開化の意識に他の「後進」地域に対する侮蔑意識が伴っていることを告発していた。この背後には、福沢が幕末の混乱を経験しているがゆえに維新前の封建的要素を弊害と見なす経験をしているのに対し、中江にはそのような経験がなかったことに由来したとする。オーソドックスな入門書であるとは思うが、はしがきに書いてあるような「同年に没した思想家2人の文明論・国家論を現代の問題関心から読み起こし、新世紀の展望を開く」という内容には感じられなかった。


8月8日

  前川たけし『ブレイクショット』(講談社漫画文庫)34巻を読む(1・2巻はココ)。相変わらずスーパーショットのオンパレード。このマンガの中に出てくる技を1つでも身につけていたら、実際の世界レヴェルでも負けることはないだろうなあ。


8月9日

 伊藤文学『薔薇開く日々』(第二書房、2001年)を読む。『薔薇族』の編集長が連載しているコラムをまとめたもの。読者からの手紙をもとに綴られている文章が主体であり、その内容には辛いものも多い。ゲイであるけれども、家族や世間のことを気にして無理に女性と結婚して悩んでいる人が少なからずいる、ということは知らなかった。
 色々と興味深い記述もある。ゲイの人にとって女性の性器は気持ち悪いだけの存在であるということは、言われてみれば確かにそうだけど、気付かなかった。脳性麻痺でありゲイである読者の深刻な悩みを紹介しながら、乙武洋匡『五体不満足』(講談社文庫、2001年、原著は1998年)を読んで人間としての根元的な性欲の悩みは語られていないという感想を述べているが、この本についてこういう指摘を公の場でした人はいないのではなかろうか。


8月11日

 大島司『シュート 新たなる伝説』(少年マガジンC、講談社)7巻を読む(6巻はココ)。帝光Vs久里浜。去年インターハイ決勝を掛川と戦った帝光に対して、5点差ゲームを予告した宏は、本当にそれを実行していく…。帝光相手にこんなに強かったら他の高校なんか相手にならないのでは? これでこのあとに1点差ゲームを展開したら、すごい矛盾だ。

 藤沢とおる『GTO』(少年マガジンC、講談社)21巻を読む(20巻はココ)。学園内部をかき乱そうとする勢力を鬼塚がぶった押していくというパターンがそろそろマンネリ化しつつある気がするなあ。

 前川たけし『新・鉄拳チンミ』(少年マガジンC、講談社)12巻を読む(10巻はココ)。相変わらずチンミVsボル将軍。ようやくチンミの雷神が発動するも、ボルには不完全な形で決まる…。本当にこの戦いは長い。いい加減だれてきた。


8月12日

 E.ショーター『近代家族の形成』(昭和堂、1987年)を読む。恋愛感情や家族愛が近代以降の産物であることを、非嫡出子率や乳児死亡率などの統計データや民衆生活に関する資料を駆使して論じる。前近代の伝統社会では、結婚が氏族を軸とした結びつきと見なされており、また家族同士の結びつきよりも、共同体内部での結びつきが重要視されていた。19世紀後半はいると、性に対する抑圧がなくなるとともに、氏族を重視する結婚から男女間の恋愛感情を伴う結婚へのシフトが生じ始め、同時に家族中心の生活様式が主体となっていき、恋愛感情や家族愛・母性愛が生み出されていったとする。その背後には資本主義の発展にともなう市場経済の合理性があり、その合理性が一般生活にまで及んだ為に、こうした心性の変化も生じたとする。
 色々な統計データを用いておりそれなりに説得力があるとは思うものの、釈然としない気持ちの方が強い。恋愛感情や家族愛が近代以降に特に顕著になったということは事実であろう。しかしながら、そうした心性的な事象の成立を、ほとんど出生率や非嫡出子率といった統計学上のデータのみによって論じる手法には疑問を覚える。色々な統計データを持ちだしてはいるものの、決して網羅的なデータであるとは言えない。もちろん史料上の限界から、近世から近代に至る時代のデータを完全にとることは不可能であろう。むしろそうであるからこそ、統計データを活用するときには注意を払わねいはずだ。つまり、たまたま正確にとることが出来たデータが、著者の議論の方向性と一致している可能性があるように思える。さらに穿った見方をすれば、著者は徹底的な統計を行っている振りをしながら、自分に都合のよいデータのみを取りだしているようにも見えるのだ。
 そして、心性上の変化が生じたことを詳細に論じつつも、それが何故生じたのかについてはほとんど触れられていないことも気になる。資本主義の勃興が原因とする文章が10頁ほど述べられているだけである。これでは、旧来の(マルクス主義的な)発展史観とどこが違うのかということになる。そもそも核家族化は古代ローマにおいても前2世紀以降から生じていたとされるし、中世における宮廷恋愛の開花は恋愛そのものが存在していたことを示している。著者がいうような統計上の変化は近代成立以前にも見られたのであり、なぜ資本主義の成立が現代的な心性を作り出す決定的な要因となったのかを述べない限り、どうも説得力が弱いように思える。


8月13日

 満田拓也『MAJOR』(少年サンデーC、小学館)3536巻を読む(34巻はココ)。部員がそろった聖秀野球部は、海堂野球部と練習試合を行う。三振をとるピッチングではなく打たせてとるピッチングで、野球部としての結束を強めようとする吾郎であったが、吾郎が海堂を辞めたことを根に持つ江頭は、部員に命じてクロスプレーで吾郎の足を潰してしまう…。吾郎が色々な壁にぶちあたってそれを乗り越えていくというのが、このマンガのパターンだけれども、そろそろ飽きてきた気もする。

 高橋留美子『犬夜叉』(少年サンデーC、小学館)22巻(21巻はココ)。やっぱりいまひとつな気がするなあ。内容としては子供向けの戦隊ものとそれほど変わらない気がするなあ。もう読むのをやめるかな。


8月14日

 梅図かずお『14歳』(小学館文庫)2巻(1巻はココ)を読む。地球上の動植物を救うためには動植物を連れて宇宙に逃げるか、人間を絶滅するしか道がないと知ったチキンジョージは後者の道を選ぼうとする。しかし、コンピューターは人間を絶滅させると動植物も絶滅すると告げた。博士に捕らわれていて辛くも逃げ出した少年の首には、博士が培養していた生物が寄生していた…。この巻は伏線を張ってるような展開で、特に話は進展しない。まあ、これからに期待しよう。どうでもいいけどチキンジョージはオックスフォードの博士となっているけど、それはいくら何でも無理な設定な気が…。


8月15日

 坂本多加雄『新しい福沢諭吉』(講談社現代新書、1997年)を読む。部分的に取り上げられて賞賛や批判されることの多い福沢諭吉の言説を、福沢諭吉の思想全体に基づいて読み直し、現代社会におけるその意義を捉え直そうとする。福沢諭吉がM.ヴェーバーの言うところの即物的sachlichな近代合理主義者であったことを改めて指摘している。松永昌三『福沢諭吉と中江兆民』があげていた「文明論・国家論を現代の問題関心から読み起こし、新世紀の展望を開く」という課題は、むしろこの本の方が成功しているように思える。


8月17日

 E.H.キンモンス『立身出世の社会史』(玉川大学出版部、1995年、原著は1981年)を読む。明治から昭和初期までのエリート階層における「立身」の概念を主に雑誌の投稿欄などの史料を用いて考察する。明治初期のエリート階層にとって、「立身」の思想は富と名誉の獲得に結びついていた。たとえば、国会開設をめぐる活動が行われていた際には、国会議員になることで立身を果たそうとしたが、国会が開設されて彼らの願望とはほど遠い存在だと分かると、富貴のために有利だとみなした学問へと向かっていった。それ以降には、階層が低いほど富を尺度に立身の成功を図り、高いほど学業を尺度とするようになる。そして、学問を修めても立身を約束されなくなった明治後期になってから、学問において立身を目指すのではなく人生の意味を追究し始めるようになったとする。そして、学歴による立身はサラリーマンとしての立身へと変化していったとする。
 なかなか面白かったのだが、個人的には一番興味をそそられた記述が多く見られたのは日本語版への序文だった。たとえば、「当時の就職に関する様々な記録を通覧していくと分かるのは、侵略に関与したり、侵略から利益を享受していた組織や企業への就職を、大学卒業生が嫌がったという証拠がどこにもないということである。むしろ全く逆である。日本のアジア侵略に深く関与していた満鉄や、様々なシンクタンクは、当時のエリート学生にとってももっとも人気の高い就職先であった」(4頁)、「もし日本の軍国主義・ファシズムの興隆を「封建遺制」で説明しようとするならば、「封建遺制」が日本よりももっと強く残った英国社会が、なぜ軍国主義やファシズム国家にならなかったのかという問題に突き当たることになる」(6頁)など。この序文によるとこの頃のことについて研究中ということなので、もしすでに出版されているならばぜひ読んでみたい。
 戦前に学歴エリートの再生産システムが始まりつつあったとする、竹内洋『学歴貴族の栄光と挫折』も参照のこと。なお本書は共訳であるが、訳者には『日本人のしつけは衰退したか』『教育言説の歴史社会学』の著者である広田照幸氏もいる。


8月18日

 羅川真里茂『しゃにむにGO』(花とゆめC、白泉社)9巻を読む(8巻はココ)。部員たちの懇願によってひなこはマネージャーに復帰し、地区予選を軽々突破した幕之鎌高の部員たち。そして県大会個人戦決勝ではついに延久と留宇依が戦う…。この2人の戦いを読んでいて思い出したのは、『スラムダンク』。2人の試合を見ていた池田コーチが、「同時に才能あるプレイヤーを2人も手にするなんて、俺は恵まれてるよ」と呟いたシーンを見て、最後の方の巻で安西監督が流川と桜木の2人の才能に打ち震えたシーンを思い出した。このマンガが終わってしまうのかも、と一瞬感じてしまったのは、『スラムダンク』のそのシーンのせいだろう。ただし、池田コーチは延久を「楽しみながら成長する」として、一方で留宇依を「苦しみながら成長する」としているが、前者が桜木だとしても、後者は流川ではないな。というか、「苦しみながら成長するキャラ」の方がキャラ立ちしやすい点でこっちの方が一般的であったスポーツマンガにおいて、「楽しみながら成長するキャラ」をリアルに描いた『スラムダンク』はやっぱり凄いマンガだったのだと思う(リアル、というところが重要)。ちなみに、留宇依の母親がフランス人の元トッププロであるような感じの展開も描かれている。


8月20日

 村上龍『未来のあるフリーター 未来のないフリーター』(NHK出版、2001年)を読む。フリーターに関する識者の座談会と読者からのメールを掲載したもの。ただし後半部分はフリーター問題とは直接には関係ない質問に識者が答えるものも掲載されている。著者も言っているように、何よりも問題なのはフリーターであることについて意識を持っている人間はこの本を読んでも、むしろこの本を読んでほしいと村上氏が考えるようなような漠然とフリーターをやっている層はこの本を読まないということだろう。
 ちなみに、本のオビに「大企業の正社員なら未来があるというのか」と書いてあるが、これはあんまりいい書き方ではないような気がする。フリーターを必要以上に貶めることもないけれど、持ち上げることもないだろう。同じことは正社員にも言える。つまり、フリーターには安定した雇用や老後の保証がないという問題があると言うことは事実であり、自分自身にサバイバルの能力がないと自覚して、下手なリスクを負うよりも平凡に生きるという選択もあるからだ。ただ正社員である人は平凡に生きるしかないという自覚があることが多いのに対して、フリーターは自分がリスクを負っているという自覚があまりないように見えることが問題なのだろう。


8月21日

 立花隆『ぼくはこんな本を読んできた』(文春文庫、1999年)を読む(原著は1995年)。著者の読書論と読書日記。以前読んだ立花隆『ぼくが読んだ面白い本・ダメな本 そして僕の大量読書術・脅威の速読術』の前著にあたる本。幼少期から青年期までの読書経験を述べたインタビューや文章もある。これを読んでいると、到底俺なんか読書家と名乗る資格はないな。ただ、この人が薦めるような速読で膨大な著書を読むやり方は普通の人には向いていないと思う。知的好奇心があれば大量の本を読んでも別にいいのかもしれないけど、自分自身の考えを表現する場所がないとそうした行為は虚しくなってしまいそうな気がするからだ。そういう意味でこれは素人向きというよりはプロの物書きが自分自身を奮い立たせるために読むべきものかもしれない。


8月22日

 中島梓『コミュニケーション不全症候群』(筑摩書房、1991年)を読む。オタク・ダイエット症候群・ジュネ少女などの現代の若者の現象から、大人になることを拒む心性を読み取り、自分自身の精神に閉じこもるコミュニケーション不全症候群が蔓延しているとする。大人になることを拒否する心性を、男はオタクが世間と隔絶することによって、女はダイエットによって少女の肉体で留まることによって保とうとすることから読み取ろうとしているのは面白いけれども、橋本治『青空人生相談所』や同『絶滅女類図鑑』などを薄めて読みやすくしたような感じに思えて、個人的にはそれほど新しい知見が得られなかった。


8月24日

 井上雄彦『バガボンド』(モーニングC、講談社)11巻を読む(10巻はココ)。ついに柳生石舟斎の元にたどり着いた武蔵。しかし、石舟斎は眠り続けるにも関わらず、その器の大きさに圧倒されて動けなくなった武蔵は、自らの過去を振り返りながら、「天下無双」とは何かを自問する…。相変わらずマンガを描くのがうまい。今回一番気に入ったシーンは、焦って石舟斎に剣を突き立てようとする武蔵が、石舟斎の放り投げた孫の手にあたって倒れ込むシーン。たかが孫の手なのに、石舟斎が投げたからこそ、その孫の手の頭上に広い天空がひろがっているかの感覚に陥る武蔵の表情がいい。


8月25日

 井上史雄『日本語ウォッチング』(岩波新書、1997年)を読む。言葉の変化を最近の現象だけを取り出して論じるのではなく、何百年単位の言語の変質から論じる。「ら抜き言葉」、「半疑問形」、「『うざったい』、『チョー…』などの俗語表現」などについいて見ていく。
 個人的に一番興味深かったのは「ら抜き言葉」に関する記述であった。ら抜き言葉は中部・中国地方において約100年前から使われ始め、徐々に日本全国に使われていくようになったのであるが、それには可能の意味と尊敬の意味の区別が出来る意味の明瞭化、そして、1000年単位で生じた言語活用の単純化の2つの理由があるとする。前者については常々考えていたけど、後者については新しい知見であり、説得力のある見解だ。前者については尊敬の「られる」を使う人間にとっては、改めて書く必要がないほど一般的なものである。たとえば、「○○さんは来られます」といえば、対象の人物に対する尊敬の表現だし、「○○さんは来れます」といえば対象の人物の行動が可能であることを示す、ということだ。
 後者については、著者は「ら抜き言葉」というよりは「ar抜き言葉」であるとする。動詞活用の中から「ar」が抜けていく傾向が1000年単位で生じて、現在はその過渡期であるとするのだ。たとえば、何百年も前から五段活用動詞である「読まれる」は「読める」と表記・発音されており、これはyom-ar-eruがyom-eruになったためである。同様に、たとえば「見る」のような一段活用動詞においても「見られるmi-ra-reru」が「見れるmi-reru」になりつつあるのだとする。つまり、言語が徐々に単純化しているとするのだ。「ら抜き言葉」は日本語の乱れと決めつける単純な議論とはひと味違う見解であろう。そうした単純な議論の背後には、年寄りのノスタルジアに加えて、他人を貶すことでしか自分の欲望を満たせない知識人の虚栄心があるのだろうな。
 また、俗語表現の分析から、東京が常に言語表現の広がりの中心点ではなく、地方から東京へとは行って広まったと見られる者が多数あることを様々な例からも論証している。アクセントの平板化がその言葉に対する専門的知識を身につければ身につけるほど進んでいく、とする「専門家アクセント」という指摘も興味深い。
 ただ、一つだけ指摘しておくと、関西でギャグとして使われる「チャウチャウチャウンチャウ」の意味を、著者は「(その犬は)チャウチャウではないか」としているが(132頁)、その場合には普通「チャウチャウチャウ」を使い、「チャウチャウチャウンチャウ」は「(その犬は)チャウチャウではないのではないか?」という疑問形の意味で使うことが普通だと思う。

〔追記(2001年12月6日)
 最後の「疑問形」は「否定疑問形」の間違いでした。「疑問形」だったら著者と同じ主張になってしまうので。失礼しました。


8月26日

 G.リッツア『マクドナルド化の世界』(早稲田大学出版部、2001年、原著は1998年)を読む。作業を合理化していくマクドナルドシステムが、現代のパラダイムとなり、現代社会の様々な分野に影響を及ぼしているとする。まあ、よくある現代社会批判のパターン。著者は学問の世界においても合理化された論文が生み出されているマクドナルド化が見られるとしているが、この本だってそうしたシステムから生み出されているかもしれないということを考えもしないところにこそ、この本の問題がある。つまり、さらにいえば、マクドナルド化している世界の中で、著者自身はいかなる態度を取っているのかも分からない。現代社会に関する論評を行う場合には、そのスケッチの中に自分自身をも描かないと年寄りの説教にしか聞こえない。


8月27日

 吉田秋生『YASHA』(フラワーC、小学館)10巻を読む(9巻はココ)。人質を取られた静は自ら雨宮協一郎と凛の手に落ちる…。このマンガも最初の方の展開を読み直さないと忘れつつある部分がある。でもこのマンガは続き物ストーリーであるはずなのに、途中の部分だけを読んでも面白いというのがすごい。

 篠原千絵『天は赤い河のほとり』(フラワーC、小学館)25巻を読む(24巻はココ)。ついにカイル・ユーリの皇太后との対決が始まりつつある感じ。けど、この巻の主役はイル・バーニとウルヒだな。


8月28日

 福本伸行『アカギ』(近代麻雀C、竹書房)11巻を読む。久々の新刊。アカギvs.鷲巣も2回戦が終わり、3回戦に突入する。それまでの流れからアカギの優勢ムードでありながらも、親の鷲巣は東2局でカンドラを8つ載せるという強運を発揮し、ツモってもアカギの血を致死量まで抜ける手を作ってしまう…。と書いたが、この巻のハイライトは、3回戦の戦いよりも2回戦での勝ち方を説明するアカギの語りだろう。連載3回分を使って説明しているのである。前にも同じようなことをやってたけど、相変わらず凄い。


8月29日

 池内了『科学は今どうなっているの?』(晶文社、2001年)を読む。ここ何年かの間で新聞や雑誌に掲載した科学に関するエッセイをまとめたもの。原発やクローン、科学者の育成などがテーマ。重要なテーマを扱っているのだろうけど、軽く読み流せるエッセイであり、それ以上でも以下でもない。科学についての知識をさらっと知りたい人にとってはちょうどよいのでは?


8月31日

 浦沢直樹『MONSTER』(ビッグコミックス、小学館)17巻を読む(16巻はココ)。ついにフランツ=ボナパルダに遭遇したルンゲとグリマー。しかし、ヨハンは511キンダーハイムの皆殺しの悲劇をボナパルダ住む町でも引き起こそうとしていた。そしてニナとテンマもその場所へと向かう…。どうやらついに次の巻で完結するらしい。ただ、最後の舞台がドイツの山間の小さな村というのは、何だか話がスケールダウンしたように感じるのは私だけだろうか? とはいえ、舞台は小さくなってもそこで展開されるドラマは、主要な登場人物が集結するだけに、もの凄く濃いものになりそうだけど。


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