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2006年1月の見聞録



1月20日

 倉阪鬼一郎『活字狂想曲 怪奇作家の長すぎた日々』(時事通信社、1999年)を読む。現在は怪奇作家である著者が、まだ売れていなかった頃に就いていた校正の仕事に関する日記。今でいうとむしろブログか。なお、私はこの人の作品をまったく読んだことがなく、浅羽通明『野望としての教養』(時事通信社、2000年)で紹介されたのを見て読んでみた。巻末には解説もあるが、当然のことながら浅羽通明。
 いくつも面白いネタが語られており、さらにそれが著者の狷狂な性格と絡み合ってスパイスを利かせており、出版文化としての書籍に興味がある人間は、笑えるネタはいくつもあるし、そして逆に笑えないことは間違いない。たとえば、印刷業における過酷な環境、卑小な上司や、何かが欠落している同僚など、読んでいるだけで面白い。
 なお、浅羽は解説において、仕事のディテールに満ちた会社の姿を描くと共に、実践知に満ちたその中での生き方を提示した、といった感じのことを書いている。浅羽があとがきで取り上げているもの以外でも、非常に興味深いものがある。たとえば、再生紙を使っているとアピールする企業のチラシを見て、割り箸や包装紙を作っているのは零細企業であり、そうした資源保護運動はただ弱小企業を圧迫しているだけであること、電算写植機を使っている校正の現場ではいくらでも紙が無駄遣いされていることを語りつつ、一方で電算写植機を作ったのも環境保護に取り組んでいるのも技術者であると指摘している(99〜100頁)。これなどはあくまでも現場にたちながら、そこで得られた経験を知識によって語りあげている好例だろう。
 ただ、現在ではそれがすでに仕事に関するネタを披露したサイトやブログによって、ディテールの語りはそれなりに成し遂げられている気がする。別にネットを持ち上げる気はないが、ネットを利用することで、それまで語られなかったことが語られるようになったという意味で、プラスの側面があるではなかろうか。ただし、もし知識人が必要とされることがあれば、膨大に生み出されるこれらの言葉の中から、意味を見出してそれをつなぎ合わせてひとつの語りとして組み立てることだろう。ネットは誰でも書けるということかは、ゴミも多いということでもある。また、ネタそれだけでは、結局のところ一過性のネタにすぎない。その意味で、この本を的確に紹介した浅羽のごとく、ネットの文章から大切なものをすくい上げる行為は、きちんと為されなければならない仕事なのではなかろうか。
 もう1つ、解説でも取り上げている話に、関曠野が『野蛮としてのイエ社会』(御茶の水書房、1987年)で、自分自身のインテリゆえのナルシズムとプライドのために、サラリーマン時代のディテールを記述できなかったという指摘があるが、これに引っかけて考えたのが、インテリ、というよりはある程度以上の高学歴の人間の身の振り方。たとえば、本書に出てくる横光君は、東大卒という高学歴を持ちながら、明らかな社会不適合者であるが、ここまでおかしい人間でなくても、こうした人間は、これから山のように出てくるのではなかろうか。一言で言ってしまえば大学院卒、特に文学部系の院生だ。大学院へ行って、勉強しているというプライドだけ高めた社会不適合者が、どうやってプライドと折り合いの付かない仕事をしていくことになるのか、ということについては、いずれ問題になるだろう。まあ、所詮は本人の甘さの問題にすぎないので、世間一般の問題として考える必要など全くないと思うが。


1月22日

 『少林寺三十六房』(2004年、DVD)を見る。この映画は、こどもの頃にTVで放映したものをビデオに撮ってよくみていたのだが、いざ大人になってレンタルビデオで見ようと思ってもどこにもなくて、ずっと残念に思っていた(日本では、1982年に劇場公開されたらしい)。いつのまにやらDVD化していたので、早速借りてしまった。Amazonのカスタマーレビューを見ていると、同じような人はどうやらたくさんいるらしい。
 清の初期の時代、仲間と共に清の支配に抵抗しようとして失敗したサンテイは、少林寺に命からがら逃げ込み、修行場である三十五房で修行を積む。やがて師範となったサンテイは、広く少林寺の教えを広めるべきと考え、下山して、清の将軍を成敗すると共に、見込みのある若者を集めて、少林寺に入山しなくても武術を学ぶことが出来る三十六房の師範となる。
 こうやって筋書きだけ書いても、ちっとも面白さは伝わらないと思うが、何よりも面白いのは修行シーン。平衡感覚を養うために水に浮かぶ木の板の上を走ったり、鉄がつり下げられた竹竿の端を握りながら鐘を叩くことで手首を鍛えたり、など今から考えれば変な気もするのだが、子供の頃に見たときは、修行を重ねていって強くなるシーンにわくわくさせられた。サンテイが、少林寺での最後の試練のような感じの1対1の対決シーンで、敗北を重ねていくうちに三節棍を考えて勝利していくシーンも、少しずつ強くなっていることが実感できて格好いい。後の『ドラゴンボール』などに代表される、格闘ものの修行シーンの原点があるとさえ思えるほどだ。
 ちなみに、日本語の吹き替えも入っているのだが、これはTVで放映されたものを使っているので、TVではカットされたシーンになると、突然広東語に変わる。なお、サンテイの声は池田秀一。
 舞台設定はどうでもいいと思いつつも、少し考えたことがあるのだが、清の武人に「どこで修行した」聞かれて「少林寺だ」とサンテイは答えているが、こんなことがばれてしまえば、少林寺はあっという間に清の軍隊に壊滅させられてしまうのではなかろうか。鄭成功の名前が出てくるということは、清の初期の話であり、サンテイの行為は大きな歴史の流れから見れば、いまさら明の復興を願うという時代に逆行したことにすぎないので。ただ、現代の中国の人々からすれば、もしかして清は中国の王朝ではない、という考えがあるのかもしれないが。こういった娯楽映画に、実は中国人のこうした考えが反映しているのならば、面白いのだけれど。


1月25日

 パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス、2004年)を読む。もともとは著者のサイトで発表された文章を加筆・修正したもの。「社会学者の個人的な偏見をヘリクツで理論化したもの。それが社会学です」(16頁)との考えのもと、社会学の手法をパロディ化して、社会学者や世の中の現象を批判的に見たがる見解に疑問を呈して、異なった見方を提示する。ギャグっぽい文体で書いているのだが、内容そのものは出典を明記した上での論述であり、明快な論旨で分かりやすく、現代社会を見ていく上で鋭い指摘がいくつもある。
 たとえば、これから多くの人に言及されるだろうと思われるのは、第2回の「キレやすいのは誰だ」。平成の少年凶悪犯罪の検挙人数は、平成9年頃にそれまでの倍ほどの2500人弱へと上昇していることから、少年が凶悪化したという言説が一般化している。ところが戦後以後の時代も視野に含めると、昭和35年頃は検挙人数は約8000人にも上っており、昭和50年頃に2000人ほどへと減っていることが分かる。ちなみに、14〜19歳の人口は、昭和35年が1千1百万人弱であり、1千2百万人弱である平成2年より少ないことから、発生率も著しく高い。つまり、少年犯罪が近年になって特に増加しているというのは、決して正しいわけではない。ちなみに、「学力低下を防ぐには」では、1960年代から大学生の学力低下を主張する学者がいたことを紹介している。
 この他にもいくつも鋭い指摘が見える。以下、そのうちのいくつかを取り上げる。
 「パラサイトシングルが日本を救う」は、おそらく山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』に対する皮肉。年収一千万以上の層から、現住居以外に住宅を所持している確率が急激に上がり、2千万円以上だと39.6%に上るが、その7割が貸家として用いている。もしいわゆるパラサイト・シングルが全員独立すれば、彼らが部屋を借りることで家賃相場が上昇し、家賃を払うべき階層は苦しくなり、部屋を貸している富裕層はますます金持ちになるということが怒ってしまう。続く「公平な社会をつくるバカ息子(娘も)」では、そうした富裕層の財産を受け継ぐ者に課税を高めるという提案ではなく、バカ息子に金を使わすことで、消費を拡大させることで、景気を回復させれば、とする。
 「日本人は勤勉ではない」も、刺激的で面白い。ヨーロッパではキリスト教のもとで怠惰は罪になったが、日本では江戸時代の段階では結婚しても日雇い仕事をしていた者、つまりフリーターも多かった。明治時代になると教育によって勤勉は美徳と植え付けられる一方で、第1次世界大戦の若者は戦争バブルを経験して、「明治っ子」と呼ばれる新人類でもあり、戦後の高度成長期にも仕事がしんどければ辞めてしまうことも珍しくなく、しかも、その頃に建設された建物は、金儲けゆえにコストを安くしたため危険なものが多い。こうして「人間いいかげん史観」を提唱し、近年の歴史認識をめぐる問題も、皮肉ってみせる。
 欧米を持ち上げて日本の後進性をくさす風潮に対して、若者の事例から批判する「本当にイギリス人は立派で日本人はふにゃふにゃなのか」。たとえば、ドイツ以外ではフリーター率が高く、学生は自立しているというのも、欧米では国立大学にはほとんど学費がいらないためであり、アメリカでは学生が自立しているというのは誇張が多く、実際には多くの学生が援助を受けている可能性を明らかにしている。他にも、ふれあい社会の嘘くささを語る「ふれあい大国ニッポン」、少子化を声高に訴える人は、そうでなくては自分が困るか、今の社会が悪いものだとこじつけたい人だと喝破する「スーペー少子化論争」など、興味深いテーマばかりである。少しでも今という時代に興味のある人は、そうしたことに関する知識を得られるのみならず、面白い読み物という点でも読んで損はしない。
 もっともらしいデータや論旨のいいかげんさを暴くという点では、谷岡一郎『「社会調査」のウソ』に近い本と言える。エンタテインメントの形で論じることで、社会科学も人文学も所詮はこじつけの学問であるということをまざまざと見せつけている。データや記述の間違いは別として、これを批判する学者がいれば、それは著者の思うつぼであり、結果として自分をけなすにすぎない。積み上げた学問をどうやって分かりやすく提示するのかを自覚するために、そして自分自身を見つめ直すために、いわゆる「研究」とやらに勤しんでいる人にとっても必読の書だと思う。

追記:2008年3月17日〕

 少し読みしていたのだが、ビジネスマナー関係の最初期の著書である1959年出版の『新入社員への覚え書き』には、出勤時に挨拶をしない、お茶や映画に誘われても行動を共にしない、映画・音楽・カメラ・ゴルフなどにはまり結婚資金もできない、といったような新入社員が嘆きとともに紹介されているらしい(148頁)。その中でも最も興味深いのは、言葉の表現方法に関する問題。この当時のお偉いさん方は戦後に始まった新かなでよみかきができず、新カナで書かれたビジネスレターを読み、「君の会社の社員はろくに文字も書けないのか」と怒りだした、という。そしてこうした状況を、ワープロに対する手書き派の不満、そしてEメールに対する「誠意が伝わらない」という嘆きといった、最近の動向と並べているのは(149頁)、確かにその通りだろう。この辺は、加藤徹『漢文の素養』について書いたことにもつながる。


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