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2005年12月の見聞録



12月31日

 赤川学『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書、2004年)を読む。あとがきに書かれている言葉が、おそらくこの本の内容を端的にまとめている。「子どもは、少子化対策や男女共同参画の道具ではない。まして「子どもを産んだら得をする」とか「子どもに老後の世話を頼みたい」とか、親のあさましい動機で産まれてくるべきでもない。〔中略〕愛情を持って育てる覚悟を持てた男女だけが、子どもを産めばよいのだ。そうした選択の結果、産まれる子どもの数が少なくなったとしても、それはそれで仕方のないことだ」(217頁)。
 まず前半部分では、男女共同参画を進めれば少子化は止まる、とする言説を、特にそれらの言説が用いている統計の検証から批判する。たとえば、女性労働力率が高いところは出生率が高いとする説に関しては、第3次産業労働者の労働率が高い場所、つまり都市化が進んだところでは女性労働力率が低くなるためにすぎず(第1次産業の方が女性の働き手を要する)、両者の間に相関関係はないとする。また、男性の家事分担や保育サービスの充実といった男女共同参画のための政策は、統計学的に少子化対策として有意ではないとし、両者を切り離して考えるべきだと提言する。そして、少子化対策は社会全体の豊かさに対する期待水準の向上によって生じるのだから、それは食い止めようがなく、少子化を前提とした制度設計を行うべき、とする。
 専門的な統計を用いていきなり論旨を追いにくくなるところはあるものの、論じている内容はかなり素直であり、トータルで見れば読みやすいので、少子化問題に興味がある人は読んで損はない。なお、「豊かさに対する期待水準の向上」は山田昌弘『パラサイト・シングルの時代』からの援用であり、女性が自分よりも地位は上で、現在よりも経済水準を上げてくれる男性との結婚を望むがゆえに、晩婚化が生じているとする主張を取り入れてのもの。
 なお、少しだけ気になることを。男女の賃金格差は労働市場における男女差別に由来するので、どうせならば就職活動で性別も尋ねず、面接試験はカーテン越しに声も変換して行えばよいのでは、とある(196頁)。確かに「女性だから」といった不平等な差別は撤廃すべきだろうが、男女差に加えて美醜の差というものを除くのは、それも差別なのではなかろうか。美醜を武器として生かすのは差別だとするならば、溝上憲文『超・学歴社会』でも触れたような、男女が共同生活を営んだ古代スパルタのような政策をするしか手はないように思える。
 メモとして書いておくと、戦時中の「産めよ増やせよ」政策においては、結婚や出産を機械的に規制するつもりではない、と明言されていたそうだ。これは現代の少子化対策の主張とたいして変わらない(135〜36頁)。


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