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2005年11月の見聞録



11月20日

 溝上憲文『超・学歴社会 「人物本位」「能力重視」の幻想』(光文社、2005年)を読む。現在においても、企業は就職から昇進までにおいて学歴を重視している実態を、人事担当者への取材を基に指摘していく。まずは、社員の採用において学歴を問わないと掲げている企業が増えているにもかかわらず、バブル崩壊から就職氷河期を経た現在において、一流企業における高学歴者の採用率は上がっているというデータを提示する。その上で、現在に至るまでの学歴と採用の関係、採用試験における学歴、入社後の学歴などを述べていき、企業内部に学歴に基づいた階層構造が出来上がっていると指摘する。
 「中央公論」編集部・中井浩一編『論争・学力崩壊』の項でもでも触れたことがあるように、現在の「学校教育」問題は就職の問題とセットで考える必要があると思う。だが、そのことはある種の常識としては知れ渡っているものの、活字として取り上げたものは意外と少ない。本書はこれから就職活動を行う学生に現実を知ってもらうために有効であろう。たとえば、自由採用枠がある一方で実は有名校に対してはリクルーター制度が密かに行われており、有名校の枠が確保されているという実態(125〜128頁)は、有名校以外の学生は知っておくべきだろう。その意味で、本書の価値は決して低くない。
 にもかかわらず、この本を読み終わると、いまひとつ釈然としない。まず、それではどうすべきなのか、という点において、企業が学歴を重視している点に問題がある、という主張をしているように見える点。確かに、東大卒を採用しないと役員からクレームが来る、という意味での学歴重視は単なる見栄にすぎず、批判されて当然であろう。だが、学歴が高い人間はプライドが高くて、優遇されているという点を批判したいという、結論が先にあるように思えるのだ。たとえば、東大卒の人間が「高卒の管理職に仕事を教えたところ何度も問い合わせてきて、理解力がない」と言っているのを優越意識の表れと述べているのだが(59頁)、これはどう見ても、単に仕事を一緒にする上で業務内容をなかなか理解してもらえない嘆きにしか見えない。確かに「高卒」ということに対する蔑視めいたものがあるのかもしれないけれども、これまで色々な人と仕事した上で、高卒の人は理解が悪い傾向がある、というそれなりに積み重ねてきた経験論を話している可能性もあるのだ。実際には、やっぱりエリート意識かもしれない。ただ、どうとでもとれるような解釈が可能な書き方をしていれば、こういう屁理屈だって出来るということ。
 また、普段は採用しないレベルの大学の中に優秀な学生がいたために採用したけれども、その大学の採用枠は次年度以降に結局のところ広がることがない、という話(169-70頁)もその説明が変に思える。企業は「その次の年以降、前回始めて実績をつくった大学の学生と考えて観察してもなぜか眼鏡にかなう人物はいなくて、その大学は実績校にならない」という主張に対して、最初の人物は入社後も通常以上の評価がある場合が多く、その後にも普通の社員並みの水準に達している学生はその大学にいるはず、と反論している。が、素直に読めば、最初の学生が飛び抜けて優秀であって、何年かに一度そういう学生が出ると考える方がごく普通なのではないか。学歴によってすべてを判断するのは問題があるだろうけれども、現代において若者を測る尺度のなかで一番分かりやすいのが学歴である以上、それを重視し、それでも優秀な人材を捜そうとして、少し学歴が落ちる大学からも広く人材を集めているという点で、この企業はよくやっていると言えるのではなかろうか。著者は学歴重視を完全に否定しているかのように見えるのである。先に、高学歴校が優遇されていることに対する批判、と書いたが、下手をするとやっかみにしか聞こえない。
 そして、これが釈然としない第2の点と関わってくるのだが、学歴重視批判をしているにもかかわらず、著者の結論としては、これからの企業社会で生き残って行くには学歴を高めることが第一である、と主張しているしか見えないこと。というよりも学歴を高める以外にこれといった代案がない。あるのは起業家になるとか専門的な技術を取得する、といったもので、前者はあまりにもリスクがあるし、後者は企業に役立つような技術となれば高学歴の学校でしか取得できない。この部分は、いわゆる学歴偏重に悩まされるであろう人たちへのメッセージに思えるのに、結局のところ高学歴な道を選びなさい、と言っているように見える。
 そして、学歴社会に対する批判として、高学歴を得る人間の両親が富裕層であることを挙げているが、これはすでに指摘されていることで、おそらくその通りである。しかしながら、だからといってどうしようもないのではなかろうか。もし、これを本当の意味でこの状況を解消するのであれば、古代ギリシアのスパルタで行われていたとされる政策を真似て、赤子のうちに両親から引き離して育てるしかない。それはまず無理だろう。となれば、世の中にはそのような差別もある、という現実を、ある程度は受け入れるしかない。こうした考えに至ってしまうのは、刈谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』で指摘されている、誰でも努力すれば百点が取れるという考えゆえに、身分格差が隠蔽されてしまった、という事情があるのは間違いない。
 そもそも、この本を読むといわゆる有名企業に就職することのみが、尺度になっているように思える。つまり、学歴で差別せずに学生の資質を見よ、と言う割には、最終的な尺度が企業への就職のみになっているような気がするのだ、このあたりは、岩木秀夫『ゆとり教育から個性浪費社会へ』で主張されている、個性消費社会と近代的能力主義が不安定なバランスを保っている、考えがそのまま当てはまるような本にも見える。
 どうするにせよ、有名企業に就職できる人間は限られている。となれば、訴えるメッセージとしては、それ以外の生き方もありますよ、ということなのではなかろうか。とはいえ、就職活動をするいわゆる中流より下のレベルの大学に在籍する大学生は、現実を知るためにも読んで損はないだろう。
 なお、京都大学エグゼクティブ研究会の調査によると、会社役員のアンケートで「名門大学は昇進に有利か」という質問に対して、有利と答えた人の70%は「官庁等に友人が多い」だったそうである(271頁)。予想されていた結果で「やっぱり」といった感じなのだが、興味深いとは言える。


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