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2005年10月の見聞録



10月31日

 潮木守一『世界の大学危機 新しい大学像を求めて』(中公新書、2004年)を読む。タイトル通り、イギリス・ドイツ・フランス・アメリカの大学の状況と、それぞれが直面している問題点について述べていく。そもそもは下層身分からの流入がほとんど存在せず、市民大学の登場と共に徐々に変化し始めたイギリス。「研究を通じての教育」であるゼミナール方式により、教育を施す大学の自由な選択が可能なドイツ(ただし、有料の私立ビジネス系大学も出てきているらしい)。20世紀後半にバカロレア取得者が急増し、大学生が増えながらも、その上のエリートコースであるグランゼコールは高級官僚養成機関として存続しているフランス。ドイツの方式を導入して、大学院のシステムを整えて20世紀後半の研究をリードするようになったアメリカなど、それぞれの国ごと特徴を挙げていく。
 これらを読みながら、考えたのは日本の大学の状況。安定した資産に恵まれた大学は、それが個々の教員の身分保障につながるため機能不全に陥りやすい、というのはおそらくその通りであり、これはおそらく日本の大学にも当てはまる。だからこそ、それが事実かどうかは別として、「学生一流、教授三流」などと揶揄される大学があると言える。それに関連するのは、『現代気分の基礎知識』(1984年)のデータ。これによれば、学校へ行けないため窓の外から授業を眺めた「おしん」に対する嫌悪感が若年層には強くなっており、ここから学校は「うらやましい」ところではなく「我慢して」行くところになっているとしている(213-14頁)。そうしたなかで大学が労働の代替物としての場所となっている、つまり働く代わりに大学で時間をつぶしているというのも事実だろう。
 ただし、ここからが少し気になって、そのために大学を成人のための学習センターや職業訓練の場として活用できるようにする、というのは理論としては正しいと思う。これは大学が機能不全に陥ることを逃れるためのより新しい方法であると言えるし、少子化が進む現代日本の大学がとるべき方策であるとも思う。ただ悲観的なことをいうようなのだが、成人のための学習センターになったとして、いま「我慢して」行っている世代が成人や老年になったときに、そうした学習センターに通おうとする意志を持っているのであろうか。また職業訓練の場というのも、専門的な職業訓練など企業で出来るものは到底出来ない気がするし、もし出来たとしても、それを大学と言えるのだろうか。もちろんこうした試みを頭ごなしに否定したいのではない。こうした動きは、大学の持つステータスを今まで通り高く維持しようとする試みであり、社会全体の流れをトータルに見た上でのより大きな意味での大学の生まれ変わりにはつながらないように思えてしまうのだ。
 こうした考えはあくまでも私の個人的な雑感にすぎず、本書にはデータとして活用できそうな部分が多々あり、上記4カ国の大学について基礎情報を知りたいときに便利という点で十分すぎるくらいの内容と言える。もう少し参考文献が詳しかったらなおよかったのだけれど、それは新書という形態からして仕方がないのかもしれない。


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