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2001年11月の見聞録



11月1日

 かわぐちかいじ『ジパング』(モーニングC、講談社)5巻を読む(4巻はココ)。山本五十六のすすめによって横須賀へと向かうみらい。しかし、海軍内部は1つにまとまっているわけではなく、みらいとアメリカ海軍を戦わせようとする策略が始まってしまっていた。一方、日本へ舞い戻った草加は石原莞爾と会い、重慶に眠る石油資源によって戦線の打開を図る計画を練る…。日本が大慶の石油資源によって、アメリカやソ連から満州の安全を得ようとする策を持ちだしてきたが、さてそれほどうまくいくかな? この巻で一番気に入ったシーンはみらいの乗務員が楓島に停泊したときに芸者遊びをすることになって、芸者たちと出会ったときの乗務員のつばを飲み込む表情。何とも言えないいやらしい表情が妙にリアル。


11月2日

 岩松研吉郎『日本語の化学』(ぶんか社、2001年)を読む。現代において新たに使われるようになった日本語を解説する。まあ、それだけの本。著者は『磯野家の謎』を書いた人らしい。まあ、それだけ。同じ新書サイズの本を読むならば井上史雄『日本語ウォッチング』を読んで下さい。後者の方がはるかに面白いので。


11月3日

 浦沢直樹『20世紀少年』(ビッグスピリッツC、小学館)7巻を読む(6巻はココ)。収容所から脱出したショーグンは一緒に脱出した漫画家に「2000年 血の大晦日」の真実を語り始める…。「血の大晦日」の話は、どっちかというとおちゃらけたようにも感じられた2000年を舞台にしていたころの以前の「ともだち」との戦いに比べて、何だかシリアスなアクションものみたいな感じになってきた。2014年のストーリーになってからは妙に醒めた怖さがずっとあるけどね。


11月5日

 竹内洋・中公新書ラクレ編集部編『論争・東大崩壊』(中公新書ラクレ、2001年)を読む。編者は以前紹介したことのある『学歴貴族の栄光と挫折』の著者。様々な執筆者による評論を収録したもの。「ピンからキリまで」というよりは、「まあまあからヒドイものまで」といった感じ。まあまあなのは評論としてそれなりに読めるものでもあったり、データとしては参考になるものであるのだが、ヒドイものは情緒的な作文レベルである。寄せ集めの感が強い。どうもこのシリーズはそういう寄せ集めすぎる評論集であったり、使い古しの評論の再利用が多すぎる気がする。
 以前に、「大学生の学力低下と言われているが、それは大学進学率が上がっているために全体的に低下したのにすぎないのでは」と何度か書いたことがあるが(大野晋・上野健爾『学力があぶない』、岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数が出来ない大学生』、鈴木みそ『オールナイトライブ』の項を参照のこと)、Z会の鈴木功氏によれば、東大合格者の最低点も下がっているので、一概にそうとは言いきれないのかもしれない。ただ、東大学長の蓮實重彦氏の言う「東大生の3割は非常に優秀であり、学力低下は起こってない」という言葉が正しいと思うのだけれど。

11月6日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。冨樫義博『HUNTER×HUNTER』13巻(12巻はココ)。久々の新刊。幻影旅団との対決は、団長のクロロが念を使えなくなってとりあえず終了し、グリードアイランド編へと突入。グリードアイランドはゲームのヴァーチャル空間に実際に入り込むゲームであった…。幻影旅団編のラストの団員同士のやりとりはやっぱり圧巻。完全に主役を喰ってったな。幻影旅団のフェイタンとフィンクスもゲームに参加してるからまだ完全に終わったわけではないけど。ちなみに、この巻で『コミックバンチ』が実名で登場しているけど、他社の雑誌を描いていいのだろうか(前にも似たようなことがあったな)。

 森田まさのり『ROOKIES』17巻(16巻はココ)。いよいよ夏の甲子園予選が開始。しかし、世間は事件を忘れていなかった。そして、阿仁屋が中学時代に試合で完敗した川上がいる笹崎高との試合が迫っていた…。マンガよりも気になったのカバーの著者のコメント。松本人志を絶賛し、笑いを追究するマンガを描きたいと書かれてあった。主人公の顔とタイトルもできているとのこと。この人がマンガの中でたまに描く笑いは、思わずくすっと笑うようなオーソドックスなものが多いけど、そういう人が抜群に面白いけど万人には理解されない松本人志のようなギャグをどう描くのかと思うと、ちょっと想像が難しい。

 和月伸宏『GUN BLAZE WEST』1〜3巻。西部開拓時代のアメリカ。西の果ての地にあるといわれる「GUN BLAZE WEST」を目指す少年ヒュー=バンズが主人公の物語。
 尻切れトンボな感じで終了してしまっているのは、たぶん作者が煮詰まってしまってどうしようもなくなったからだろう。実を言うと、前作『るろうに剣心』が終了したとき、この人は次は青年向けのマンガを書くのではないかなと、思っていた。このことは『るろうに剣心』の「人誅編」を読んだときに思ったのだが、「人誅編」で神谷薫が殺されたのを読んだとき、「これは少年誌の展開ではないな」と感じたからだ。主役級の人間が死んでしまって舞台から消える、というのは少年誌の約束では許されないことだと思うので。そして薫の死体が実は精巧に作られた人形であり、別の場所で幽閉されて生きていた、という展開になったとき、「主役級は死なない」という少年誌の約束に無理矢理戻したな、と感じた。実際に著者は薫を生きていることにするか死んでいることにするかでかなり悩んだみたいだったので。まあ、伏線として、縁のアジトに人間の死体がたくさんあったことや、人形使い(名前忘れた)が「戦い『では』負けた」みたいなことを言ったとき、別の人形=神谷薫の人形を作っていたという振りはあったから、とりあえずストーリーとしての整合性は保ってはいたとも言える。
 しかし、物語としての完成度を高めるためには、やっぱり神谷薫は本当に死んでしまったままにしておくべきだったように思える。再び大切な女性を失ったあとに、今度はしっかりと剣心が悲しみから立ち直るというストーリー展開の方が、読者に強い印象を与えたように思うのだ。少年誌の制約に縛られてしまって自分の思った方向に進めなかったように見える。だから、先に書いたように『少年ジャンプ』から青年誌に連載の場所を移すのかなと思ったのだけれど、予想は見事に外れて、『少年ジャンプ』に再び連載し、しかも少年を主人公とした作品だった。そして半年で連載終了…。
 あくまでも勝手な個人的考えだけれど、この人には『少年ジャンプ』を飛び出て大人のエンタテインメントを描いてほしいなあ。よく、「ハッピーエンドこそがエンタテインメントの基本」って言ってたけど、完全なハッピーエンドではなくても、悲哀感も混ぜつつささやかな幸せを描くようなハッピーエンドもこの人なら絶対いいものになると思うのだけれど。ただ、『少年ジャンプ』以外にこの人の架空活劇モノを描けるようなメジャー誌が思い浮かばないんだよなあ。


11月7日

 福本伸行『賭博破戒録カイジ』(ヤンマガKC、講談社)34巻を読む(2巻はココ)。班長とのチンチロリン対決が始まる。班長のイカサマさいころを暴いたカイジは、思いもよらないイカサマさいころの使い方で、班長から200万以上のペリカを奪い取る。しかし、カイジは勝負を終わらせるつもりはなかった…。班長のイカサマのネタはそれほど奇抜ではないものの、カイジの逆襲のネタはかなり虚をつくもの。イカサマとそれへの逆襲よりも、班長とカイジの「視線」をめぐる心理戦が面白い。


11月8日

 北野誠・竹内義和『おまえが言うな』(主婦と生活社、2001年)を読む。ラジオ番組「サイキック青年団」のパーソナリティ二人による、政治や社会についての時事放談。世の中の色々な矛盾を斬っていくので読んですっきりするが、それでは自分たちでどうすればいいかについての具体的な提言はない。飲み屋でのよた話を、他の人が読んでも面白いと思わせる文章にまで高めたのは、話芸の力量があってこそ出来たこととは思うけどね。それなりに面白い時事放談エンタテインメントといったところかな。


11月9日

 樹なつみ『八雲立つ』(花とゆめC、白泉社)16巻を読む(15巻はココ)。眞前の元へと去っていった闇己を説得しようとする七地。一度は七地の説得を拒否した闇己だが、もう一度信じたくて七地の元へと急ごうとする。しかし、一人帰ろうとする七地には眞前の手が迫っていた…。この巻で重要であり、かつ印象に残ったシーンは、闇己が七地へかけてきた電話を取ったしをりが、闇己に嫉妬して「七地はあいたくないと言ってる」という場面。最近の巻では、こういう恋愛・親子愛・友情などの愛情が絡む怖いシーンの方が、本編の物語よりもなんだか印象に残るなあ(14巻でもこういうシーンがあったし)。


11月10日

 速水融『歴史人口学で見た日本』(文春新書、2001年)を読む。20世紀半ばより欧米で発展してきた歴史人口学を日本史の分野で行ってきた著者が、自伝的に近世・近代日本の歴史人口学の発展とその成果を述べる。歴史人口学とは、ヨーロッパでは「教区台帳」を、日本では「宗門改帳」をそれぞれを用いて、人口動態や家族形態の変化を読み取る歴史学。これは読みやすいし、歴史人口学への入門書としてよくできていると思うので、歴史に興味ある人にはお勧めだろう。
 個々の論点にも興味深い指摘がいくつもある。例えば江戸時代において、飢饉や干ばつが生じた危機年を除いた通常年には、農村地方は人口が増加しているにもかかわらず、江戸や大坂といった都市部の人口は同じくらいか減少している。この現象に対して著者は「都市アリ地獄説」を主張しており、経済的な発展を遂げる都市は絶えず農村部より人を惹きつけなければその発展を維持することが出来なかったとしている。また17世紀に人口増加が起こったのは、この頃に単婚家族化が進み結婚率が上昇して子供を産む比率が上がったためと推測しているのも興味深い。歴史人口学に関しては都市部より農村部の方が史料が充実しているというのも意外だった。一般的な歴史学とは逆の状況だろう。
 ただ、この学問の先進国であるイギリスやフランスではすでに大方の史料を使い尽くしてしまったようであり、これから先にはどのような展開をしていくのだろうかと思う。プロジェクト化して進めることが最適な分野であり費用も結構かかるみたいなので、歴史学の補助的な学問になってしまったらすたれてしまうような気がするので。
 佐渡島の史料を用いて江戸時代の農民の状況を考察した田中圭一『百姓の江戸時代』を読んだとき、資料的な偏りについて考慮せずに江戸時代全体にあてはめているのではないか、と書いたことがあるが、この本を読むと少なくとも農村部においては全般的にあてはまるのだという気もする。このサイトで取り上げたことのある本書に関連するような本として、E.ショーター『近代家族の形成』がある。


11月11日

 さいとうたかを『サバイバル Another Story』(小学館文庫)を読む(9・10巻はココ)。文庫化に際してカットされた部分を収録したもの。地熱発電を利用して電気を復活させた町にたどり着いたサトル、しかし、そこは市長による独裁制がしかれた都市であった…。ところで、なぜ全11巻にして本編に収録しなかったのだろう? 11巻になると半端になると考えたためだろうか? それとも、あまりにも文明都市っぽい描写がこのマンガの世界観にあわないと判断されたためだろうか?


11月12日

 R.シャルティエ・G.カヴァッロ編『読むことの歴史』(大修館書店、2000年)を読む。古代ギリシア。ローマ世界から中世・近代ヨーロッパにおける読書について扱った論文を集めたもの。「読書」という共通のテーマはあるものの、それぞれにつながりはないので、個々のテーマに興味がなければ、それほど面白みはないだろう。個人的に一番興味深かったのは、「読む」という単語の考察から、古代ギリシアにおける読むこととは、書かれたものを口に出して話すことによって成立した、と主張している最初の章だった。
 ちなみに、現代の読書を扱ったこの本の最後の章でも、読書の「カノン」が崩れていることをやや批判的に述べている。前にも小谷野敦『バカのための読書術』、佐野眞一『だれが「本」を殺すのか』の項で書いたことと関連するが、本を読むことが自分の職業の一部となっている人は、読書という教養が崩れることに批判的であるのだけれど、その背後には自分の世界が世間で通じなくなっている危機感や焦りが見え隠れしているような気がする。


11月13日

 寺沢大介『ミスター味っ子』(講談社漫画文庫)12巻を読む。中学生の天才料理人・味吉陽一が主人公の料理マンガ。懐かしさのあまりつい読んでしまった。この人の絵ってこの頃はこんなに子供っぽかったのか。『ミスター味っ子』は、マンガよりもアニメの方で忘れられない場面があって、味皇が大阪城を壊すシーン。アニメ版では、料理を食べた登場人物が「こ、これは…美味い!!」と大げさに驚き、派手な演出をともなって描かれていたが、その究極が大阪城破壊シーン。「美味い」と言った味皇が巨大化して、口から炎を出して大阪城を壊してしまったシーンは忘れることが出来ない。徳川家康・味皇・ゴモラは、俺の中で「大阪城を壊した三大有名人」だ。最後のは人間じゃないけどな。(註:記憶が曖昧なので、もしかすると、大阪城を壊したのは味皇以外の味将軍か誰かだったかもしれない。間違ってたら誰か教えてください)


11月14日

 佐藤健二『歴史社会学の作法』(岩波書店、2001年)を読む。歴史社会学は「異文化としてとの過去との出会いを自覚する」方法であり、「小さな断片のままでも認識の生産に役立つ、知識と実践の複合体である」とする立場から、柳田国男の再解釈やテクスト論の考察を行う。本書では過去の論文をまとめたものであり、著者が言うところの認識の生産に役立つ断片がそれほど有機的に結びついているわけではないので、読んでいて小間切れな感じが強いのが残念。次は、そのような断片を緩やかにつなぎ合わせる方法論を書いてほしい。


11月15日

 鈴木みそ『アジアを喰う』(双葉社、2001年)を読む。このサイトではおなじみのちんげ教教祖の新刊。何年か前に『ファミ通』で連載していた『あんたっちゃぶる』の連載を100回でやめて、1年間アジアを放浪したときのネタを描いた放浪記。教祖の本の中では一番取っ付きやすいマンガだと思う。ただし、ネタは相変わらず下品で、1話目のネタは海外でのウンコとトイレの話。俺は飯を食いながら読んでいたのだが、1話目からいきなりこれだった。まあ、面白いし馴れてるからいいけど。おかしな日本語がプリントアウトされたアジアのTシャツ事情を扱った話があったのだが(「なとりのトトロ」はねえよな)、日本によくある英語がプリントアウトされたTシャツも、英語圏の人から見ればおかしく見えるだろうと思う。ただ、英語圏のマンガ家にこのネタをこんな風にギャグとして拾える人はまだいないような気もするけど。
 ちなみに、これの元は『週刊アクション』に連載されたものなのだが、単行本にするためにはかなりの書き下ろしを加えねばならないことに気付かずに連載を終えたため、ずっとお蔵入りになっていた。ちゃんと日の目を見ることになってよかった。さて、かなり前に『サラブレ』に連載されてた作品は単行本化される日は来るのだろうか?


11月16日

 鹿島茂『絶景、パリ万国博覧会』(河出書房新社、1992年)を読む。19世紀に開催されたパリ万国博覧会の思想的背景には、ミシェル=シュバリエを始めとするサン=シモン主義者たちによる「社会組織の根本的変革」の思想があったとする。ナポレオン3世から支援を受けて進められた万国博覧会のプロジェクトは、国家的なものであると同時に、人間に関わりある「万有」を展示して国民の産業意識の変革を行うという意図があった。そして、万物の展示を行った博覧会では、商品を見るだけで買わなくてすむという行為が歴史上始めて行われるようになったとして、近代的な商業のパラダイムを作り出すに至ったとする。豊富な図版を使ってパリ万国博覧会の様子を伝えているが、むしろそれはダシ。その背後にあったサン=シモン主義者たちの思想をあぶりしていて、なかなか読ませる本だと思う。サン=シモン主義者たちの状況や思想がパリ万国博覧会が終わった後にどのように変化したのかまでを描いてほしかったような気がするが、それはまた別の主題なのかもしれない。


11月17日

 平田弘史『名刀流転・落城の譜』(ちくま文庫、1994年)を読む(原著は1965年)。この人のマンガはいつも探しているのだが、なかなか見つからなくて、ようやく1冊見つけた。「名刀流転」は許嫁を同業者に奪われた片腕の刀鍛冶がの物語で、「落城の譜」は「この曲を吹けば城が滅びる」として吹くことを禁じられた曲を弾いたために城を追われた男が主人公の物語。どちらも悲しい終わり方である。派手な戦闘シーンがあるわけではないが、避けられない戦いがリアルに描かれているので、どうしようもない悲哀感が漂っているのがいい。この人のマンガを元にして時代劇を作れば面白いと思うけどなあ。でも、時代劇はマンネリで安心して楽しめないといけないから、この人の作品じゃ視聴率は取れないかな。


11月18日

 スティーブ=ハッサン『マインドコントロールの恐怖』(恒友出版、1993年)を読む(原著は1988年)。統一教会の信者であったこともあり、今はカルト信者の脱会を援助する仕事をしている著者が、破壊的なカルト団体に対する防衛策や、カルトにはまった人間をどのようにして周りの人間が助けるべきなのかについて解説している。「ミイラ取りがミイラになった」というよりは「ミイラがミイラ取りになった」という感じであり、カルトによって被害を被っている人に対する十分なガイドとなりうると思う。
 ただし、一番考えさせられたのは、実は訳者・浅見定雄氏によるに凡例の最後の部分。そこではカルトからの脱出を援助した人間に対する報酬の話が書かれているのだが、はっきりとは書かれていないものの、日本では解決した後に被害者の家族とその際にかかった費用や報酬のことでトラブルがあることも少なくないようだ。簡単にいうと援助を受けた側が謝礼を払わないことがあるらしい。さらには浅見氏は統一教会から相談の謝礼によって「浅見御殿」を建てた、とデマを書き立てられたらしい。いっそのこと、きっちりとした料金体系を勝手に打ち立ててしまった方がトラブルは減るような気がするなあ。ボランティアの人も「あなたたちカルトのおかげで商売が成り立ってます」と開き直れる気もするし。現代においては宗教はもはや特別な存在ではなく、数ある思想体系の1つにすぎないのだから。


11月19日

 マガジンCの新刊を読む。川原正敏『修羅の刻』11巻。今度の舞台は織田信長の時代。陸奥辰巳とその息子である虎彦・狛彦の物語。やっぱり『修羅の門』は描かないんだなあ。まあ、最後の巻のあとがきで、レオン=グラシエーロを作中で殺したことに対して非難が来たことに対して、「活人拳」に対するアンチテーゼとして「殺人拳」を描きたかったという考えが読者に理解されてなかったとぼやいて、描きたいと思わない限り描かないと言ってたからなあ。その意味では、なんの気兼ねもなく「殺人拳」を前面に押し出せる『修羅の刻』の方が描きやすいのだろう。

 前川たけし『新・鉄拳チンミ』12巻(11巻はココ)。カナン編がついに終了。チンミはボル将軍を倒し、カナン自治区解放計画が成功。ボル将軍との戦いは長かったなあ。最後に空中からチンミがボル将軍に頭から体当たりをするシーンは、『ドラゴンボール』の天下一武道会での孫悟空対ピッコロの決着シーンみたいだった(まあ、チンミ対ボルはこの後にもう少し動きがあるんだけど)。次はどうも皇帝の密命で行動を行うらしいけど、どんな展開になるかな?


11月21日

 P.A.コーエン『知の帝国主義−オリエンタリズムと中国像−』(平凡社、1988年)を読む(原著は1984年)。この前読んでなかなか面白かった彌永信美『歴史という牢獄』に紹介されていたので読んでみた。アメリカにおける近代中国史研究は、「西洋文明の中国における衝撃と反応」・「中国の近代化を援助した西洋」・「中国の発展を疎外した帝国主義」という3つの伝統的な中国観によるバイアスがかかっていたと批判する。そして、西洋文明が到達する以前に中国内部で生じつつあった変化を見落として研究を行うべきではないと論ずる。
 西欧文明の影響による変化という観点から非西欧文明を考察しすぎることは危険であり、西洋の影響を近代中国の変質の要素のなかの1つとして考える必要があることは事実であろう。しかしながら、西欧人には理解しにくいのかもしれないのだが、西欧文明には他の文明を呑み込んで溶かしてしまうような特徴があるのもまた事実だと思う。


11月23日

 井上雄彦『バガボンド』(モーニングC、講談社)12巻を読む(11巻はココ)。佐々木小次郎の名前を騙った又八は、宍戸梅軒の元に向かう武蔵を目撃する…。この巻で、水墨画っぽい絵をかっこいい登場人物に使うのではなく、脇役に使ってかえって逆に主役クラスの存在を細かい絵で描いて浮かび上がらせるという描き方をしてるけど、これもまたうまい。テレビや映画で中心となる被写体にピントを合わせて、それ以外の部分をぼやかして被写体を目立たせるというやり方があるけど、それをこんな風に使うとは…。まだまだマンガの描き方は発展するんだなあ、と実感。


11月25日

 桝山寛『テレビゲーム文化論』(講談社現代新書、2001年)を読む。テレビゲームの歴史を振り返るとともに、文化としての観点からテレビゲームを捉える。人々の行動基盤が生存から社会的価値にシフトした近代社会において、技術は生活の便利さをあげるものと楽しみを提供する「相手=パートナー」としての技術へと二分化しており、後者への分岐点となったのがテレビゲームであると論じている。
 ゲーム好きの人間が感覚的に理解していることを、うまく文章にしている感じで「テレビゲーム論」という大学の授業があったら、そのまま使えそうな感じの本で、そつなくまとめてあると思う。なお、「テレビゲームは文化か」ということに関しては、永田泰大『ゲームの話をしよう 第2集』のときにも書いたことがあり、この本を読んでも基本的にその考えは変わっていない。文化の定義についてはいろいろあると思うが、高尚であるとか低俗であるといった観点よりも、それが個人の考えや生き方にどれほど強い影響を与えるのかという部分を重視するならば、やっぱりゲームはまだ文化ではなく風俗であると思う。そういう意味でゲームのパワーが衰え始めているような兆候が見えるのが気になる。本書に載っているデータによると(ただし何に依拠したのかは不明)、昔はゲームをしたが今はやらないという階層が1998年には29.9%だったのに対して、2000年は39.2%に増加しているらしい。ゲームは風俗の1つとして消えるのか、それとも文化として根強く残るのかは、これからが正念場なのかもしれない


11月26日

 みずしな孝之『いい電子』(ビームC、エンターブレイン)2巻を読む(1巻はココ)。相変わらず独特のテンポでゲームをする姿が描かれてる、この人のマンガはやっぱりなかなか面白い。この単行本用書き下ろしページのほとんどが、見開きページに写真とイラストが1つずつポツンとあってコメントがあるだけなのは、きっと締切ギリギリまで何もできなかったからだろうな。ところで、結局ドラクエZは終わったのだろうか?


11月28日

 山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』(平凡社新書、2001年)を読む。よい論文ではなくて合格するための論文を書くための指南書。形式的な部分についてはこれ一冊で十分に足りると思うのだが、どうやって手を抜くのかという学生にとってはこれでもまだ足りないと思う。著者は論文になりそうな主題を決めてきちんと調べるべきとしていているのだが、普通の学生はそこまでするのが面倒くさいのであって、論文を書く書式云々よりも、主題を決めて調べる過程を手抜きしたいはずだからだ。
 著者のいうところの偏執者っぽく指摘すると、170ページに例として挙げられている「Platon, Res Publica, 509B」における「Res Publica」の部分は、著書のタイトルであるためにイタリックにすべきだろう。
〔追記:2010年9月4日〕
 小笠原喜康『新版 大学生のためのレポート・論文術』を読んで、ふと本書をパラパラと読み直したのだが、学生のための合理的なマニュアル本としては、こちらの方が分かりやすい。論文になりやすいような絞り込んだ主題の設定をどのようにするかに触れているからだ。ただし、参考文献の書き方はあちらの方がすっきりしていて分かりやすい。なお、「合理的」と書いたのは、いかに最短距離で無駄を省いて書くか、という意味である。つまり、ある種の仕事として書く人向きである。したがって、自分の中に本当に書きたいことがあるという人には、本書は向いていないだろう。



11月30日

 野村進『アジアの歩き方』(講談社現代新書、2001年)を読む。鈴木みそ『アジアを喰らう』が面白かったので、読んでみた。アジアに関して詳しい著者が書いたものでもあるため、色々と豆知識的なもの得られるのでアジアに興味がある人は読んで損はしないだろう。アジアでは概して人気があった「おしん」は、フィリピンでは人気がなくて打ち切りとなり、貧しい少女が実は富豪の娘と分かって成り上がっていくというドラマが変わりに放送されて大ヒットを記録したという話は面白い。
 ただ、特にアジアへの興味があるわけではない私のような人間からすると、こういうエッセイめいたルポは、著者の人間性の面白さによってその本の読み応え度も左右されるのだということが、よく分かった本でもある(同じアジアものでも、宮崎学『アジア無頼』くらいまで突き抜けてしまった濃いものだと、それだけで十分面白いのだけれど)。
 ただ、1つだけ書いておきたいのは、最初の方でアジアの危険性について注意を促しておきながら、「スラムの内側に入り込んでしまえば安全」と真ん中あたりに書いてあるのはどうなのだろうか? いいたいことはなんとなく分かるものの、そんなことを書いたら不用心にスラムに住み込もうとする読者が出てきてしまい、著者のいうところの「だから私は、マスコミのアジア情報を、まず鵜呑みにしないことにしている」(153ページ)という言葉が本書にもあてはまってしまうような気がする。


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