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2010年9月の見聞録



9月4日

 小笠原喜康『新版 大学生のためのレポート・論文術』(講談社現代新書、2009年)を読む。前著『大学生のためのレポート・論文術』(講談社現代新書、2002年)の改訂版だが、後書きにある通り、前書の骨格を生かしつつも、ほぼ全編書き直しに近い内容となっている。
 参考文献の表記の仕方、ネット上での文献・情報検索のためのサイト紹介や入手の方法、レポート作成の基本、卒業論文の執筆方法、わかりやすく書く方法、などが主な内容となっている。文献表記や収集法は分かりやすいが、レポートに関しては、形式面についての説明はあっても、どのように書けばよいのかについての説明はない。ただし、卒業論文の書き方において、資料の集め方や書く前の準備のやり方、テーマの設定方法や絞り方などについて書かれているので、レポートを書くための参考になるとも言える。レポートや論文を書いていくと、視点が異なってくるので、それまで集めた文献を捨てて新しい文献を入手していくべきというアドバイスも、学生が思い至らないことが多いため、伝えるべき重要な点だろう。ただ、より具体的な全体の構想と個々の内容の構成方法とその組み合わせ方などは記されていないので、これだけでは実際に書くには少しつらいだろう。そのあたりのマニュアルとしては、山内志朗『ぎりぎり合格への論文マニュアル』が役に立つ。なお本書には、卒業論文の執筆ためのスケジュールの始まりを3年生の12月からにしていて、4年の5・6月に文献を読みつつノートを取って、7・8月に序章を書いてみるとあるが、そんなに早くから始められる学生は、99%の確率でいないと思う。
 分かりやすく書く方法として、宇佐美寛『大学授業入門』と同じく一文を短くせよとアドバイスしているが、やはりこれは誰でも行き着くアドバイスのようだ。ただし本書では、接続詞は必要なところに入れるべきだが最小限にすべき、とも説いている(接続詞については、石黒圭『文章は接続詞で決まる』が詳しくて分かりやすい)。それ以外だと、同じ言葉や同じ意味の言葉を2つ以上入れない。「〜が」「〜り」「〜し」などでの箇所は、文を区切ってしまう、「〜というのは」「〜と考える・と思う」「〜なのである」を削るなども挙げているが、これもその通りだと思う。
 ところで著者は、近代日本の教育の目的が工場で働く人間をつくることであったと触れた上で、そうした教育が現代には合わなくなったとの指摘を行っている。自分の頭で考えて自分の論理をつくることが大事なのに、子供たちの学力低下を嘆く一方で、論文の書き方は指導されず、自由作文や感想文を書かされ、読解力を試すのはパズルの正答主義のようなテストばかりと批判している。その上で、「本書は、こんな日本の教育を受けてきた若者たちへのささやかなエール」だと述べ、「自分の頭を信じて論文を書いてほしい」と言っている(219頁)。『議論のウソ』にて学力低下論を批判した著者らし言い方であり、素直に拍手を送りたい態度だと思う(なお、学力低下論の問題に関しては、神永正博『学力低下は錯覚である』も参照のこと)。
 ただし、あえて言わせてもらうのだが、著者の思いとは別に本書は、楽をしたい学生のためのマニュアルとして消費されてしまう気もする。もしかして、そのために具体的なレポートの書き方を挿入しなかったのかもしれないが、そうなると、そこを書いてくれよと本書をくさす者も現れるかもしれない。さらに、著者は前書からコピペを頭ごなしに否定するのではなく、論文の大部分はコピペで出来ていると指摘していることも関連してくる。これはその通りだと思う。ただし、全文コピペではなく先人の言葉を使いつつ、自分の論理を述べねばならない、とも注意しているのだが、この部分を都合よく解釈して、論理をひねればいいのだ、と開き直ってほぼコピペという代物を書く学生もいるだろう。また、「批判」を「批難(ママ)」とは異なり、相手の論理を吟味した上でその弱点や問題点を指摘しながら、よい点も明らかにすることだ、と定義づけているが、そういう学生にはこのあたりのことも理解できないだろう。
 なんだか我ながら悪意に満ちた学生観のような気もするが、前向きの学生もいれば手を抜きたがる学生もいるということにすぎない。このあたりのことは、著者も十分に分かっていると思うのだが、少数の学生の悪しき行為を全学生に敷衍させて批判する教員もいる。そうした人から見れば、本書も最近の学生を甘えさせるマニュアル本だ、と「批難」するのだろう。


9月9日

 綾辻行『殺人鬼』新潮文庫、1996年(原著は1990年)を読む。サマーキャンプのために双葉山を訪れた「TCメンバーズ」の一行。怪談話をした後に、本当に現れた殺人鬼によって一行は次々と残虐に殺害されていく…。
 裏表紙に「驚愕の大トリック」というのはどんなものなのかと気になりつつ読み始めたのだが、章題の下にアルファベットが書き添えられているのと、TCメンバーズという名称の意味がずっと明らかにならないから、何かトリックがあるのだろうと思っていたが(個人的には時間が違うのかと思っていた)、個人的にはそれはちょっと…というオチだった。綾辻行人『どんどん橋、落ちた』にもはまりきれなかったし、残念ながら、どうやら私にはこの人の作風は合わないようだ。
 なお本書は、ミステリとしてよりもむしろスプラッターとしての印象の方が強い。人間を串刺しにする、首を刈る、腕を切る、目玉を食べさせるなどの描写が、細部に至るまで省略されることなく描かれ続ける。一方で著者は文庫版あとがきにて、自分自身は実際の暴力は嫌いだし血も見るのも苦手だけれども、ホラーは大好きだと述べて、現実とフィクションとを異質なものとして分けていると断言する。そして、暴力的な小説や映画を好むものが暴力的な行為へ走る、という論理を批判している。私自身もそうした理屈は馬鹿馬鹿しいと思う。だが、そういった論理を唱えるものは、作者の言い分ではなく、それを混同する読者がわずかでもいるという点を強調するのだから、悲しいかな双方の主張は噛み合わないだろう。ただし、「暴力や恐怖や死の幻想を綴った素敵な小説や映画がもっともっとたくさん創られることによって、現実世界に偏在するそれらの全部がそこに吸収され、封印されてしまえばいいのに」(307頁)という著者の願いには同意する。
 なお、解説にて大森望は笠井潔『探偵小説と二〇世紀精神』にて主張されている、ミステリが創り出した「意味ある死者」と本作のむごたらしく殺される死者とを比較して、本作では登場人物の「ハウ・ダイド(いかに殺されたか)」がリアリティを持って描かれている、と述べている(313〜314頁)。パズル的な推理小説が隠蔽してきた部分を描くことで被害者の肉体を取り戻したと見なしているが、それほど大げさなものではなく、殺害方法の様々なレパートリーで味付けされたキャラのように見えてしまった。とはいえ、ホラーやスプラッターとしては楽しめると思うので、そのようなことはあまり気にしなくてもよいのだが。


9月14日

 笠井潔『探偵小説と記号的人物 ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』(東京創元社、2006年)を読む。笠井潔『探偵小説と二〇世紀精神 ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』の続編。前著でも指摘されていた登場人物の記号性に関する議論をさらに掘り下げて、近年の探偵小説に見られるキャラ性について論じている。なお、参照しているのは、タイトルからも想像できる通り東浩紀であろう(本書は東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生 動物化するポストモダン2』)よりも前に出ているが、その基となった評論はすでに発表されていた)。探偵小説にも東がいうところのキャラ性を前面に出したものが見られる、といったところ。ただし、大部分を大塚英志に対する批判が占めていて、どうにも読む気をそがれる。これは個人的な感想にすぎないので、面白みを感じる読者もいるだろう。


9月19日

 田代裕彦『痕跡師の憂鬱』(幻冬舎(幻狼ファンタジアノベルス)、2010年)を読む。世界で唯一の魔術師の教育機関であるマーベルランク学園に新入生として通うレウ・レイシアは、警察組織も兼ねるメインゲートにも属していた。そうしたなかで起きた殺人事件の現場に向かったレウの前に、魔術による犯罪を捜査する有能な捜査官である痕跡師も派遣されてきていた。その人物は魔術学院の教師でありながら魔術が使えない「語らずの先生」と呼ばれていて、生徒に蔑まれているアッシュ・クロムウェルであった。しかし、第2の事件が生じ、ついに学園領内で第3の事件が起きた時、アッシュの推理が隠された真相を暴き出す…。
 あとがきにて著者は、本書はミステリではなくファンタジーだ、と述べているが、もし本作だけを読むのであれば、上に書いたあらすじからも分かるように明らかにミステリに分類される。トリックに魔法が取り込んであるものの、魔法だからなんでもOKというものではなく、魔法という論理を取り入れた上で組み立てられたロジックとなっている点でもミステリと言える。ただし、これから先に何作か続いてこの世界を舞台にして何か書きたいことがあるならば、ファンタジーの要素が強くなるだろう。実際に、本作では1回で使い切るにはもったいないような舞台設定が、割とじっくりと描かれている。たとえば、この世界における魔法とは、体内魔力を呪文という形で放出して空間魔力に干渉させるものという説明や、魔法を使える者たちの特権意識などである。ミステリではなくファンタジーというのであれば、続編を期待したいところだし、ファンタジーとして何を描きたいのかも気になるところだ。
 なお、術者が魔術を発現させようとする行為は、魔力に語りかけることに近いので精神的な要素が強くなる、という説明とともに、この世界の著名な魔術師が、だから魔力に恋すべきであると語った、という描写がある。これを読んだ時に何となく思い起こしたのは、『うみねこのなく頃に』の「愛がなければ視えない」という台詞だった。


9月24日

 小川光生『サッカーとイタリア人』(光文社新書、2008年)を読む。イタリアの各地域ごとに分けてクラブを取り上げつつ、その歴史的な背景と現在の状況について述べていく。興味深いのはまえがきで述べられている、イタリア人のクラブに対する愛着。一般的にヨーロッパのサポーターというと、自分の地元のクラブ一筋というイメージがあるのだが、イタリア人の場合、自分の地元のクラブとは別に、ユヴェントス、ミラン、インテルのどれかのチームを応援することが多いらしい(ローマやラツィオ、ナポリ、フィオレンティーナのファンのようにチーム一筋のファンがいるチームもあるようだが)。あと、後藤健生『サッカーの世紀』でも確認していたことだが、やはりイタリアの最初期のクラブは、もともとイギリス人が創設したものが多いようだ。イタリアの全地域を取り上げているため、個々の地域に関する分量はやや少なく、厳しい言い方をすれば、表題以上のものでも以下でもないということにはなるが、表題に興味を持っている人ならば、それなりに楽しめるだろう。


9月29日

 米沢穂信『秋期限定栗きんとん事件』(創元推理文庫、2009年)上を読む。前作の『夏期限定トロピカルパフェ事件』に続くシリーズ第3作。夏休みの事件を最後に分かれた小鳩くんと小山内さん。それぞれ別の人物と付き合い始めるのだが、それと並行して起こる連続放火事件。小山内さんは、新聞部に籍を置く新しい彼氏がその事件を追うのを応援しているのだが、小鳩くんは事件の背後に小山内さんの影を見出してしまう…。
 これまでと同じく日常の謎系ミステリだが、1年越しの物語とかなり長い時間設定となっている。犯人はある程度予想が付いてしまったのだが、その動機になんとも言えない、しかしリアルな苦々しさを感じるのが、いかにも著者らしいというところか。ただし、前著で分かれた2人がまた寄りを戻す形で終わる点については、今ひとつ釈然としない。というのは、第1作の『春季限定いちごタルト事件』にて語られている2人の過去についての話が次作へまた持ち越しになったのはともかく、結局のところ両者が精神的に成長したという描写が窺えないからだ。両者は過去に苦い思いをしたために、それぞれの知識を封印する形で猫をかぶろうとしていたはずなのだが、今回はそれを一部分の人間に対してさらけ出してしまった。それでは、昔の自分たちと変わらないのではないだろうか。それと共に、小鳩と小山内がそれぞれ付き合い始めた人物たちと結局のところ別れるのはともかく、その救われなさや後味の悪さについて、何も説明がなかったのもいまいち納得できない。小鳩と小山内がご都合主義で幸せになったように見えてしまうのだ。春・夏・秋と来て次作の冬でおそらく完結するのだろうが、どのようにして自分の過去と向き合って成長するのか、というところを期待したい。


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