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2007年2月の見聞録



2月1日

 桜庭一樹『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』(富士見文庫、2004年)を読む。海辺の田舎町に住んでいる山田なぎさは、引きこもりの兄がいる母子家庭に暮らし、早く社会に出て、何かをなすための「実弾」を手に入れたいと思う中学生であった。二学期が終わり、とある有名人の娘であり、自分を人魚と言い張る海野藻屑という女の子が転校してくるが、藻屑は妙に馴れ馴れしくなぎさへと関わってくる。やがて、藻屑が抱え込む暗闇をなぎさが知っていくなかで、物語は急激に動き始める…。
 表紙やイラストは、オッサンが手に取るにはかなり恥ずかしいものなのだが、それに反するような重苦しい内容であり、ラストは輪を掛けて痛々しい。荒んだ状況が何となく醒めた文体で描かれる物語全体の方が注目を浴びるのかもしれないが、個人的にはなぎさの兄である友彦に一番興味を惹かれた。友彦はひきこもりであり、部屋にこもって必要最低限の食事をとるにすぎない。ただし、あらゆることを考えているとも記されており、なぎさは友彦を「神の視点を持つ傍観者」だと評する。実際に、なぎさが身の回りで起きたことを友彦に説明すると、友彦はそれに関して的確に説明を加えていく。しかし、友彦は母親が稼いだ金で作ったなぎさの料理がなければ生きていくことはできない。彼は自分の部屋という小宇宙の中だけで神であるにすぎない。
 ここまでならば、引きこもりに対する批判ともとれるのだが、物語が終盤に入り、なぎさは藻屑が抱えている絶望的な状況を知って、彼女に歩み寄っていくときに、その状況は変化を遂げる。現在の状況に絶望に近い感情を抱き、早く社会に出たいという願望を持つなぎさだからこそ、藻屑が危機的な状況に面していることを理解して周りの大人に訴えが、誰も取り合ってくれない。しかし、たった一人信じてくれたのが兄の友彦であり、友彦はなぎさの言葉を信じて藻屑を探しに行こうと言うのである。しかし、友彦は久々に家を出たショックから何度も嘔吐し続ける。結局、悲劇的な結末を迎えてしまうのだが、それに直面して口がきけなくなったなぎさに代わって、しどろもどろになりながら事情を説明したのも友彦であった。
 ここで私は、友彦を馬鹿にしたいわけではなく、むしろ逆である。彼は神の視点を手に入れていたからこそ、なぎさを理解して最後の最後に彼女を助けることができたのではなかろうか。だから、彼がひきこもって考えていたことは、たとえ小さなものといえども役には立ったのだ。ここにはひきこもりが見いだしうる一つの光明があるように思える。だが、最後のエピローグ部分にて、引き籠もっていた家から外へと出た友彦は、結果として神の視点を失った、となぎさは考えている。いくら誰かを救えたとしても、その代わりに神の視点を失ってしまうのでは、あまり成功例と言え無いのは事実である。この点で、新藤冬樹『鬼子』の袴田に近い。いわば、彼は自分の小宇宙を築くことはできても、それを用いて世の中という大宇宙との関係を結ぶことには、十分に成功しなかった。したがって、大宇宙との関係を結ぶ方法については、別の事例から考える必要もあるのだが。


2月3日

 山本文緒『恋愛中毒』(角川文庫、2002年(原著は1998年))を読む。しつこくつきまとう昔の彼女のせいで、前の会社を辞めた井口は、ついに新たな職場にまで彼女が追いかけてきたのを知り、また脅える羽目になる。そのことを古株の女性社員である水無月に語ると、水無月は自らの過去の恋愛話を始める…。
 ほぼ9割5分をしめるのが、水無月の恋愛話であり、それがこの作品のメインとなっている。はっきり言って、読んでいてかなり痛い。恋愛で失敗した水無月が、もう恋愛はしないと決意しながら、小説家・逸路と出会うことによって、男女の関係を意識してしまう、ある意味では幸せな時期。しかし、逸路には妻だけではなく幾人もの愛人がいるのを知りながら、そこから逃げられなくなり、やがて狂おしくなるほど彼が欲しくなって、少しずつ狂気へと陥っていく描写が、読んでいて凄まじく痛々しい。ネガティヴな意味での見事な「恋愛小説」だろう。
 なお、林真理子の解説が非常によくて、内容のさらなる理解を助ける。以下、林の解説を借りてこの物語の構造を説明すると、まず冒頭部分は、井口が昔の彼女に本当に辟易している描写が続く。にもかかわらず、水無月の長い長い語りが終わった後に、再び冒頭の場面に戻ると、文体が井口の視点から水無月の視点へと変わっており、しかもこれから会うことになってしまった、という台詞を「どこか嬉しそうに」語ったと描かれているのである。つまり、恋愛中毒になってしまっている水無月からすれば、しつこくつきまとう彼女と会うことに、井口が実はどこか喜びを感じていると解釈されてしまっているのである。これこそ、まさに恋愛の恐ろしさであろう。
 恋愛と関係ないけど、ものすごく真実みを感じた場面を。逸路が今の妻とだけは結婚した理由は、彼女だけが自分の母親を案じてくれたから、であった。しかし、逸路と離れて暮らしていた娘が帰ってくることになったとき、妻はこれに強い嫌悪感を示す。義母の世話をしたはずなのに娘はなぜいやがるのかと聞いた水無月に、彼女は「もうすぐ死ぬ人には優しくできて当たり前じゃない」と言い放った。これは人でなしのような発言ではあるが、ある意味で真実をついているのではなかろうか。


2月5日

 田中秀臣『経済論戦の読み方』(講談社現代新書、2004年)を読む。構造改革、日本の財政、年金問題などを、あくまでもマクロ経済学の枠組を用いながら、その現状と改革すべき問題を提示する。おそらく、実際の問題からマクロ経済学の基本を学ぶという点において、格好の入門書になっていると思うのだが、こういった方面に関心がないため、読み流してしまった。これは私自身の趣味の問題であって、本書のせいではない。
 1つだけ興味深かった論点を。戦後日本の経済体制は、戦時中の経済統制期に形成され、それが経済成長の土台となったものの、欧米に追いついた現在となっては経済成長の生涯になってしまっているため、その改革が必要である、とする1940年代テーゼは、現在でも支持が多いらしい。しかし著者は、この主張には「資源の誤配分によるミクロ的な非効率性と、資源の有給(=失業)によるマクロ的効率を峻別する視点が欠けている」と疑問を呈する。それゆえに、この見解を支持する論者の多くが、70年代には悲観者であり、80年代には支持者となり、90年代にまた悲観論者に戻ってしまった、と指摘する。そして、80年代は90年代よりも規制が多かったにもかかわらず高成長を遂げたのは、「『低い失業の実現』というマクロ経済政策のいちおうの成果ゆえであった」と述べている(124〜126頁)。この部分に関しては、マクロ経済学の有効性を認識させてくれたといえる。なお、このあたりの経済学者の変転する主張の問題に関しては、飯田史彦『日本的経営の論点』で論じられていることに通じる気がする。


2月7日

 福井晴敏『川の深さは』(講談社文庫、2003年(原著は2000年))を読む。警備員として生計を立てていた元警官・桃山のもとに、突如逃げ込んできた少女と少年。彼らを匿うことで、正体不明の敵と関わることになり、それはかつて起きた地下鉄テロ事件と国家の暗部へと踏み込むことも意味していた…。
 地下鉄テロ事件は、明らかにオウム真理教を意識したもので、これに自衛隊内部の組織や北朝鮮が絡んでいくというもの。こういった筋書きの小説には興味が無いわけではないのだが、どちらかといえば国家論的な主張がやや表に出すぎているために、それほど興味がわかない。無理矢理レッテルづければ保守的といえるのだが、それは別にどうでもよい。それよりも、主要人物の行動がノスタルジー小説的に見えるだけではなく、そうした舞台に用いられる登場人物の記号そのままといった趣であることの方が、読んでいてややつらい。いわば、舞台や主張の重みに、登場人物の言動が負けてしまっているように感じるため、筋書きとしては楽しめるが、小説としてはあまり面白みを感じなかった。


2月9日

 高村薫『レディジョーカー』(毎日新聞社、1997年)上を読む。日本に冠たるビール企業である日之出ビール。薬屋を営む物井には孫がいたが、日之出ビールの就職面接を受けた際に、部落出身である父親を持つ事実をきっかけとして失敗に終わり、そのまま事故死した。ぼんやりした暮らしを送るうちに、大井競馬場で付き合いのある知人たちに、何とはなしに日之出ビールへの恐喝を持ちかける。こうして物井は、施盤工、障害者の娘を持つ元自衛官のトラック運転手、信用金庫職員、所轄の刑事らと共に「レディ・ジョーカー」を名乗り、日之出ビールの社長・城山を誘拐しつつ、裏では商品のビールを人質にして、20億円の要求を行う…。
 なお、所轄の刑事以外の犯人側の動きは、序盤と終盤を除いてほとんど描写されず、むしろ、日之出ビール、警察、東邦新聞という新聞社の三者の描写が中心となっている。物語は、誰が見ても明らかなように、グリコ・森永事件をモチーフにしている(Wikipediaの記事)。この事件に関する詳細なルポである一橋文哉『闇に消えた怪人』のなかでは、脅迫された企業と犯人が実は裏取引をしたのでは、という推測がなされていて、本書もそれに従ってプロットが起こされている。
 『マークスの山』は、確かに暗い描写もあったけれども、どちらかといえば前向きなエネルギーを作品から感じられたのに対して、こちらはネガティヴな感じが前面に出ている気がする。同時代を象徴するような犯罪をテーマにするのだから、同時代の暗部を映し出すために暗くなるのは当たり前なのだけど、たとえば同じようなスタイルで描かれている宮部みゆき『火車』『模倣犯』よりも、暗い印象が強い。陰鬱というよりは、荒涼とした雰囲気と言うべきか。事件を大きな流れにしつつ、企業の上層部、現場の刑事、新聞記者という3つの職場を通じて、現代の会社や組織が持つ不快な部分を濃縮させたような描写が続くために、そのような感じとなるのであろう。こうしたことに関するルポは山ほどあるだろうが、フィクションであるがゆえに、その不快さを際だたせることに成功しているのではなかろうか。もちろん、悪い意味での悲劇めいた感じを抱かせないのは、著者の力量によるところが大きいのだが。
 なお、本編と全く関係しない、どうでもいいことを。警察側の主人公格である合田雄一郎を、読み終わる前にちょっとした偶然でGoogleにて調べたら、ヒット数が1万5千件を超えていた。『マークスの山』を含めて、他の作品にも登場しているみたいだし、映画化もされたらしいし、それで有名なのかな、と考えていたら、合田雄一郎ファンサイトもあるらしく、どうも本当に人気があるらしい。なぜだろうかと思いつつ最後まで読み終えると、自分の中にある義兄への思いに気づいて語りあげるシーンがあって、これか、と(違っていたらごめんなさい)。


2月11日

 芦辺拓『グラン・ギニョール城』(創元推理文庫、2006年(原著は2001年))を読む。ヨーロッパの城であるグラン・ギニョール城に招かれた名探偵ナイジェルソープ。この城を買い取ったアメリカ人オーナーは、この城をアメリカに移送しようとしていた。しかし、嵐によって陸の孤島となった城では殺人事件が生じる。一方、弁護士であり素人探偵でもある森江は、関西国際空港から帰る電車の中で遭遇した殺人事件を調べる中で、未完成のままである幻の探偵小説『グラン・ギニョール城』の存在を知る。そして、森江は物語と現実が交錯するかのごとく、グラン・ギニョール城へと向かうことになる…。
 グラン・ギニョール城での描写と森江の行動が交互に描かれているが、決してメタフィクション的な物語ではない(途中の描写はそのように感じさせるのだが)。構造が判明した後は、オーソドックスなトリックものの謎解きへと移行する。トリックそのものは、推理小説の基準からすれば、それほど度肝を抜かれるようなものでもはないので、そこに至るまでの叙述が本書のミソといったところか。
 ところで、『グラン・ギニョール城』に入り込んだ森江は、そもそも完結を欠いている物語であるがゆえに、未完に終わっている部分まで至れば、全てが最初に戻るのではないかという恐怖を感じている。「自分はとんだ好奇心から、その果てしない円還運動に入り込んでしまったのではないだろうか」(281頁)と。うまく言えないのだが、完結しない物語は、どうとでも取り繕うことができる、と言えるのではないか、と。


2月13日

 岩井志麻子『ぼっけえ、きょうてえ』(角川ホラー文庫、2002年(原著は1999年))を読む。「ぼっけえ、きょうてえ」とは岡山の方言で「とても、怖い」を意味するらしく、そのタイトル通りホラー小説であり、4つの短編が収録されている。表題作は、明治の遊郭にいる醜い女郎が、客に向かって身の上話を語るという、岡山弁の一人語りで話が進んでいく。それ以外の3編のうちの1つも、前半部分で同じ構成を取っている。
 日本ホラー小説大賞を取っただけあって、確かに怖い。ただし、私が感じた恐怖というのは、ホラーやサスペンス、怪奇現象といった怖さではなく、村社会の因習からくる怖さである。たとえば、明治時代の岡山の小村を舞台として、コレラに罹っている者を密告する箱を管理する役人を主人公とした「密告箱」は、これが分かりやすい。ホラーやサスペンス的な要素で言えば、村外れに住む妖しげな祈祷師や、最後の場面のコレラ患者の家の側にある川で魚を捕り、それを夫に食べさせようとする妻の描写が、その最たるものに当たる。ところが、個人的にそれよりも恐怖を感じたのは、しばらく姿を見ないある人物はコレラではないか、と主人公が疑って訪問した裕福な家の描写である。その人物は家の主人であったのだが、精神を病んで地下に押し込められていた。「三方を囲む白い土壁一杯に、墨でびっしり自分の名前を書き連ねてあったのだ。安西康治安西康治安西康治…」。精神病者が怖いのではない。それをごく当たり前のように押し込めているのが怖いのである。そして、「虎列刺でねえことがわかったら、帰りんさい」と短く告げる。
 村社会では、近しく暮らしている人々同士が、助け合って暮らすこともあり得るのだから、決して悪いわけではない。だが、きだみのる『気違い部落周遊紀行』で描かれているように、決してそれだけではなく、小ずるく、そしてときには平然と残酷に生きることも珍しくない。そして近しければ近しいほど、それだけどろどろした感情が渦巻き、それが怨念に至ることもあるだろう。特に表題作は、それを方言で語っているがゆえに、その村社会が持つ暗部を極めて醜い形で描出している意味でも優れた作品と言えよう。
 なお、1つだけメモを。「密告箱」の主人公は、成績が良かったために役場へ勤めることができたが、読み書き算盤という「知的な」仕事で生計を立てていることが、親にとっては自慢の息子であった、とある。これが、この時代の地方に暮らす人々の心情かどうかについて、詳しく知りたい。


2月15日

 首藤瓜於『脳男』(講談社文庫、2003年(原著は2000年))を読む。連続爆弾犯のアジトで、犯人と格闘していた謎の男・鈴木一郎。彼は逃亡した犯人がまた爆弾を仕掛けると予告するが、精神病棟へと入院させられる。彼は全くと言っていいほど心や感情を持っていなかった。しかし、その病院に爆弾が仕掛けられたことが判明し、事態は急変する…。
 物語の中心となるのは、鈴木と刑事と鈴木を診る精神科医であり、爆弾犯との攻防というメインストーリーに、心を持たないはずの鈴木の内面に生じた微妙な揺れという物語が絡んでくる。決して面白くないと言うわけではなく、エンタテインメントとしてはまずまずではないかと思うし、人間の意識や感情に関する問題にも興味がないわけではないのだが、なぜかそれほど心に残るものがなかった。これは単に個人の嗜好の問題だろう。


2月17日

 U.ヌーバー『<傷つきやすい子ども>という神話 トラウマを超えて』(岩波書店、1997年(原著は1995年))を読む。子供時代のトラウマが現在の問題を生じせしめている、とするセラピー療法に対して、厳しい批判を行っている。たとえば、子供時代に虐待を受けた親は、自分の子供にも虐待を行うという説は根強い。しかしながら、同じ家庭環境に暮らしても兄弟姉妹で反応が違う例は珍しくない。たとえば、精神分裂病の母親が「食べ物に毒を入れた」と言うと、上の姉はそれから家で食事をしなくなり、下の娘は父親がいる時だけ食事をするようになり、一番下の息子は無頓着だった、という事例が確認されている(85頁)。もしかすると、生物学的な遺伝子が子供たちの反応の差を引き起こした可能性もあり得ることになる。そして、幼児期の経験が人生を決めるのではなく、子供の気質に対する周囲の世界の反応こそが重要である、とする。トラウマの経験が鮮明であったとしても、それが現在の問題に直接関係するとは限らない。さらに、こうした考え方は、子供時代に責任を転嫁して、自分を許すことにもつながると指摘する。
 そもそも、幼児期に関するものに限らず、記憶は本人によって後から作られてしまう可能性がある。たとえば、スペースシャトルのチャレンジャーの事故について、そのとき自分は何をしていたのかというアンケートを、事件直後と3年後にとったところ、3分の1以上の回答において後者の方がドラマティックな状況へと変化を遂げており、そうした回答をした者のうち、ほとんどは事件直後の自分の回答は間違っていると答えた(114〜116頁)。また、ある心理学者は4歳から7歳の子供に対して、2つのビデオを見せる実験をした。1つ目のビデオは、遊ぶのが禁じられている池の側にいた少女を見つけた隣人が、「警察に言うよ」と言って家へ送る場面であり、2つ目のビデオは、警官が家へやってきて事情を聞いたところ、池で遊んでいて隣の家のおじさんにぶたれたと答える場面である。これを見た何人かの子供は、どんなことをビデオで見たか、と聞かれて、となりのおじさんが少女をぶつのを見た、とビデオには流れなかった場面を答えたと言う(119〜120頁)。
 加えて、セラピストたちは、患者の物語を作り上げてしまう傾向がある。それを物語るかのように、フロイト派の患者の方が、状況や行動派より感情的に体験され、ユング派の患者の方が、古い伝説や神話で知られている状況を夢に見ることが多かった(169頁)。
 こうした状況の背後には、多様な選択肢があり、それらは実現できるという考え方のある現代社会の傾向も関連している。というのは、自己実現の妨げになるものは、内面の精神的なものも含めて、妨げるか改善する必要があると見なされるからである。そして、その際に選ばれる物語が、子供時代のトラウマであり、そのおかげで現在の自分はうまくいっていないと見なす。そのような「贅沢」ができるのは、社会的な弱者に置かれていない人間のみであり、だからこそ心理療法を受けるのは、中流・上流階級に属する人間にほぼ限定されている。
 このようにトラウマ理論を批判すると、犠牲者への攻撃とみなして信奉者は批判者への逆撃を行う。だが、セラピーとは、クライアントが自己治癒能力を発揮して、セラピストなど不要にするために本来は行うものであろう。トラウマ療法は、逆にセラピストへの依存関係を存続することにもなりかねない。そもそも、子供時代に何らかの傷を負った人間は、他人の気持ちに敏感になることもあり得る。となれば、子供時代の傷を舐めているよりは、それでも立派な大人になったことを誇るべきである、とする。つまり、トラウマ療法のように、子供時代をネガティヴなものと見なすのではなく、それをポジティヴに用いつつ、現在の自分の不遇を過去のせいにすることを改めるべきだと結論づける。
 基本的には、心理療法に対する鋭い批判なのだが、後半部分でも現在の社会が持つ問題とも密接に関係する論点が提示されている。上記以外にも、このような記述がある。「「どうしてこの私が、なぜ私だけが、こんな目に遭わなければならないのか」という問いが、否応なしに頭をもたげてくる。〔中略〕占星術にすがる人が出てくる。危機や問題の原因を星によって説明してくれるからだ」。心理療法のみならず、今の自分が本当の自分のはずはない、ということからへの逃避がいくつもあるのが、自分自身の個性を重視する現代社会の特徴といえよう。
 また、記憶が作られるという部分は、歴史学に通ずる問題でもある。「これまでの人生を物語る時、われわれは中立的な報告者ではなく、物語の著者であり演出家なのである。事実だけで書かれた脚本に基づくだけではない。思い出した体験を独自に脚色もするのだ。ひからびた事実として語られ、体験されたことに、われわれの想像を付け加えることによってはじめて、まともな物語ができるのである」(108頁)。史料は客観的な事実を報告するのではなく、何らかの形で歪められており、それを用いる自分自身もまた何らかの形で歪める。心理学と歴史学は、人文学という観点からすれば意外と立場は近いのかもしれない。


2月19日

 横山秀夫『半落ち』(講談社文庫、2005年(原著は2002年))を読む。現職警察官が、アルツハイマーを患う妻を殺したと自首してきた。しかし、殺害から自首までの2日間の行動だけは決して語ろうとしなかった…。
 県警の警視、地方検察庁の検事、地方支局の新聞記者、弁護士、裁判官、刑務官と、各章ごとに事件と警察官に関連する人物の視点へと切り替えながら、空白の2日間の持つ意味が徐々に明らかになっていく構成を取っている。各職業ごとのしがらみと不幸を交えつつ描くという点では、同じ著者の『動機』や高村薫『レディジョーカー』に近いものの、これらとは若干異なり、現代社会全体にうかがえる個人と社会の関係を総体論として描写しているといった感じか。面白くないわけではないのだが、天童荒太『永遠の仔』と同じような理由で、繰り返し読むことはないだろう。特に最後の真相は、確かに感動的ではあるけれども、妙に劇的すぎるというか。やはり、ドラマティックすぎるものは肌に合わないんだな、と。


2月21日

 中野雅至『はめられた公務員 内側から見た「役人天国」の瓦解』(光文社、2005年)を読む。公務員天国と揶揄される、日本の公務員の現状を報告する。著者は、「政界・官僚・企業」の癒着によって極めて悪化した財政赤字の責任を、政界と企業が官僚に押しつけて、マスコミもそれに乗っていたが、現在はその批判の矛先が国家公務員から地方公務員に向かっている、と現状を分析する。その上で、公務員の状況を描いていく。
 まず、「小さな政府」を目指している日本の現状に疑問を呈し、公務員数は先進諸外国と比べて決して多くはないデータを提示する。日本の国家公務員は約110万人、地方公務員は約130万人であり、軍人・政府企業職員も含めた人口千人あたりの職員数は35.1人である。一方、2001年現在においてドイツは、58.4人、イギリスは73.0人、アメリカは80.6人、フランス96.3人であり、日本の方が「小さな政府」であることは間違いない。40歳時の月収で比べると、国家公務員は約40万円で、民間は約34万円だが、政府の規模と同じ500人以上の企業に絞ってみると民間の平均は約50万円となり、決して国家公務員が高いわけではない。そもそも、国家公務員のコントロールが弱くなっていることは、国家財政において公債に頼りすぎている状況からも分かる。財務省は借金を嫌うので、支出が歳入を大幅に上回るのは、政治家の力の方が強いことを示しているからである。
 こうした分析を踏まえた上で、地方公務員が置かれた状況を描き出す。地方公務員は国家公務員の3倍いるにもかかわらず、2002年度現在で財源配分は国税の方が約57%と、地方税よりも多い。そして国税から地方へと交付される金額は、地方自治体の歳入の約35%に当たるため、地方自治体は国税に依存しなければ仕事ができないという、中央集権体制ができあがっている。それでも、国から補助される地方交付税は、日本全国で一律の行政サービスを支えるためにも役立ってきたが、使い道を定められていないため、それを使った経費の無駄遣いも地方自治体では生じている。加えて、40歳前後の国家公務員の月収は、上述のように約34万円であるのに対して、地方であればあるほど物価は安いのに、地方公務員は約44万円である。さらに地方自治体はこれまで何か問題が生じたとき、国のせいにしてきた。こうして、地方自治体は危機感のないまま財政を悪化させていっていた。
 だが、地方分権化が進むことによって、今度は地方公務員が責任をとらされ、ついにはリストラの対象になる状況が生じつつあるとする。そうした現状から地方公務員が身を守るためには、公共サービスに地域間競争を取り入れ、積極的な広報活動を行うべきとする。
 著者は、同志社大学を卒業後、地方公務員として勤務しながら、国家I種行政職試験に合格して、旧労働省へ入省して、現在は兵庫県立大学の教員という経歴を持っている。地方・国家の両公務員を経た実体験を持つだけに、その内容にはかなりの信憑性がおけるだろう。ただし、タイトルと内容に若干のずれを感じる。タイトルと表紙に記された宣伝文からだと、公務員に実は非が無いのに悪者にされているという印象を受ける。実際に、国家公務員についての記述に関してはそのように感じるのだが、地方公務員については、どちらかといえば逆であって、それまでのツケが回ってきたとの批判をしているように思える。なので、タイトルとしては『追い詰められた公務員』の方が正しい気がする。どうもこの「はめられた」は「騙された」の意味ではなく、「かたにはめられた」の意味に近いらしい。
 それに加えて、どうも感覚が少しずれていると感じるところも多い。たとえば、官尊民卑と言われているが役所を尊敬しているところ人などいない、と述べているが(76頁)、この言葉が意味するところは、尊敬しているというものではなくて、偉そうにしている官に民は卑屈にならざるを得ない、という皮肉にすぎない。本書でも、一部の(としておこう)お役所仕事の怠慢さに触れているはずなのだが。また、野球選手が億単位の年収を稼いでいることに対して、ボール投げやバット打ちが上手いだけでそれだけの金を稼いでるのに、国家公務員はそれほどの金を稼いでいないと、プロスポーツ選手を揶揄するが、これはスポーツ選手を見下した言い方ではなかろうかはなかろうか。莫大な金を稼いでいるのはごく一部の選手に過ぎないし、それは才能の見返りでもある。そうしたプロスポーツ界の構造が間違っているのかもしれないが、本書はそれを批判する場ではないはずだ。また、公務員は税金で食べているという人は多いが、その税金は一部の富裕層が払っている税金でほとんど賄われているのだから、中・下層階級の人間は金持ちに感謝すべき、といった皮肉めいたことをいっているが、まあそうなのかもしれないけれど、論点のすり替えに聞こえてしまう。
 確かに行き過ぎた公務員批判があるのは事実なのだろうが、それに苛立って反応していることが裏目に出てしまっているようにしか見えない。下手をすれば、公務員を批判している本なのに擁護しているようにも見えてしまう。著者自身は、良くないところを改めて、やる気のない公務員を排しようとしているはずなのに、そうした意図が薄まってしまう危険性がある。こういう文章を読むと、やっぱりお役人はふつうの人々の考えが分からないんだ、となるからやめておいた方がいいと思うのだが。編集者がこうした表現にストップを掛けなかったということは、出版社の人間も、感覚が少し異なっているのかもしれない。
 なお、地方公務員への批判が強くなっていくだろうとの予測があるが、岩瀬達哉『新聞が面白くない理由』によれば、地方自治体の官マスコミ接待は、官官接待に迫る金額だとされる。地方公務員への批判は、こうした状況を変化させるのだろうか。
 ところで、国立大学に対する改革について、公務員になぞらえた興味深い指摘がある。国立大学の独立行政法人化が議論になったとき、世間は全く同情せず、進歩派の新聞さえも世論形成を行わなかった。これは大学がどういう役割を果たしてきたのかシビアに判断された、と主張しているが(197頁)、その通りだろう。今の社会は役に立たないものを切り捨てている、という批判もあるかも知れない。世の中は役に立つか否かだけでは判断すべきではないと思うが、役に立たないのであるならば、卑屈になる必要はないものの、それをわきまえることも必要だろう。この辺については、阿部謹也『学問と「世間」』の項でも、寄生虫にたとえて書いたことがあるが、自分は偉いと勘違いしたからしっぺ返しを食らったとも言える。ちなみに、本書によれば、地方公務員の大部分を構成するのは教員とのことである。
 最後に、公務員の人数に関して、本書に上がっているより細かいデータ(45頁)の補足を。日本における人口千人あたりの公的部門の職員数の細かい内訳は、軍人・国防職員が2.2人、地方政府職員が24.4人、政府企業職員が5.8人、中央政府職員が2.8人である。先に挙げた4カ国と比べて、軍人・国防職員と地方政府職員は日本が一番少ないが、政府企業職員はアメリカが3.2人と最も少なく、中央政府職員は2.2人とドイツが最も少ない。ただし、両者はイギリスやフランスと比べても、地方政府職員が多い。


2月23日

 東野圭吾『名探偵の呪縛』(講談社文庫、1996年)を読む。同じ著者の『名探偵の掟』の主人公である名探偵・天下一が長編で再登場している。図書館を訪れた小説家の「私」。しかし、いつの間にか別世界へと迷い込み、天下一となっていた。そしてその町の市長から、依頼を受けるのだが、それと同時に奇妙な話も聞かされる。それは、この町には歴史がなく、住人もなぜここにいるのか分からないのだが、クリエーターなる人物がこの町を創ったということはわかっている、という話であった。そして、市長の依頼とは、クリエーターの秘密の地下室と彼のミイラが最近になって発見されたのだが、そこにあったはずなのに、掘り出されて盗まれていた「何か」を探し出して欲しい、というものであった。さらに奇妙なことに、これに関連していると考えられる密室殺人事件も生じていくのに、この町には「本格推理」という概念もなかったのである…。
 『名探偵の掟』は推理小説の設定を次々とパロディ化していくのだが、本書はどちらかといえば、真面目な本格推理。ただし、そのこと自体がトリック、という仕掛けになっている。個人的には『名探偵の掟』の方が楽しめたかな。とはいえ、この町の住人は何のためにここにいるか分からないから、クリエーターの末裔という歴史を求める、という設定は興味深い。ラストにて、「私」が以前は「こんな非現実なもの」として封印した本格推理の世界を、「いつでも戻ってこれる自分だけの遊び場にしたい」と告げたのも、それにつながる意識という気がする。


2月25日

 米澤穂信『春季限定いちごタルト事件』(創元推理文庫、2004年)を読む。高校へ入学した小鳩常悟朗と小佐内ゆきは、恋愛関係にもない依存関係にもないが互恵関係にある。その目的は、小市民として暮らすこと。にもかかわらず、二人の前には頻繁に謎が現れて、立ち回らざるを得ない状況となってしまうのであった…。
 日常の謎系の連作短編集。小鳩は何でも分かってしまう名探偵系の人物だが、過去にその性質ゆえに痛い目にあって自分を封印しており、小山内に関しても猫をかぶっているが彼女に関しては、本書では過去に何があったかは明らかにされていない。小鳩に関しては、問題を解決しても、人から嫌な顔をされてしまうことに嫌気がさした、という設定もある。設定としては問題ないと思うのだが、おそらく次巻以降で徐々に核心に触れていくと思うのだけれど、ちょっと説明不足な感じで、今ひとつ表面的な描写に終わってしまっている気がする。
 なお、佳多山大地・鷹城宏『ミステリ評論革命』でも触れられていたが、本作は学校を舞台としているのに、教員の存在感がほとんどない。指摘されている通り、学校は若者の敵たりえない現代の状況を反映した小説と言えよう。と言うよりも、学校や教員は昔のように絶対的な存在ではなくなったことの証か。ふと思ったのだが、学級崩壊の現象とジュブナイル系小説の傾向を重ね合わせると、何か見えるのかも知れない(ものすごくせせこましい評論になってしまいそうでもあるが)。
 ちなみに、この二人の設定は、物語そのものの方向性は異なるものの、何となく乙一『GOTH』に近い気がする。


2月27日

 浅野智彦編『検証・若者の変貌』(勁草書房、2006年)を読む。導入部分の第1章にて「本書の狙いはデータを用いて若者像を描き直すことにある」とあるように、データを中心として、若者論、特にネガティヴな論調が強い若者論を中心に問い直す。基となるデータは、1992年と2002年に東京都杉並区と神戸市灘区・東灘区で16歳から30歳までの男女を対象にして行われたアンケートであり、それぞれ約1100人が回答している(有効回収率はそれぞれ22%と55%)。題材となっているのは、音楽生活、メディアとの関わり、友人関係、アイデンティティ、道徳意識の5つ。興味を引かれたデータに関してメモを。
 この10年において、若者が行うことについて大幅な減少が確認できる質問項目は、「音楽を複製メディア上で編集すること」、「カラオケに行くこと」、「ブランド品を購入すること」、「占いコラムを読むこと」であった。一方で変化していない項目として、「友達といるよりも1人でいる方が気持ちが落ち着く」、「友達との関係はあっさりしていて、お互いに深入りしない」などが挙げられる(24〜26頁)。1980年代後半の読売新聞のコンテストへ応募されたエッセイに、大学生が書いた「情報化社会への期待と不安」というものがあるが、寸評も含めて、どちらかといえば期待感に満ちた論調で語られていた。これが2000年代になると敵視するような風潮へと変化する(80〜82頁)。
 ゲーム世界に没入することで現実世界の人間関係が希薄化する、という意見が目立つ。テレビゲームの登場人物に思い入れがある者とない者とでは、1人でいる方が落ち着くという回答率において、確かに前者は61.8%、後者が44.3%であるものの、親友と友達の平均人数は前者が5.3人と17.0人、後者が3.8人と14.4人と、前者の方が平均人数は多かった。また、インターネットで知り合った相手と友達付き合いがある者とない者でも、同じような傾向が見られた(100〜101頁)。
 道徳心に関するアンケートにて、その結果から高規範群と低規範群・平均群との2つに分けた場合、それぞれに強く見られる回答は、前者では自分らしさの維持と勉強や仕事に真剣に取り組むこと、後者ではみんなで力を合わせても社会を変えることはできないという項目と、生活できるならば定職に就く必要はないという項目であった。ただし、前者に関しては大人社会が要求する模範的な若者像に近づこうとしていると解釈することもできる。また、後者についても、定職にこだわらないのは3割に過ぎない。一方で、見た目・日頃の行動・所持品や、個人で社会を変えることはできない、日本は平等である、日本の将来は明るい、などの社会への意識においては、両者の間に統計的な差異はない(212〜219頁)。
 以上のような興味深いデータを得ることはできたのだが、読んでいて物足りなさを感じたのも事実である。というよりも、アカデミックであることの限界を感じた。確かに学術的ではあるのかも知れないが、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』での語りの面白さと比べると、アカデミックであるために踏み込めない限界を感じてしまったのである。こうした研究が、基礎的なデータとなっていることは疑い得ない。ただし、広く世間に訴えるのであれば、アカデミックな装いを出来る限り捨てるべきだろう。そうでないと、「最近の若者は…」というお手軽な社会批判に対して、個々の議論という戦場では勝利しても、社会全体での戦争には勝利しえない。お手軽な社会批判に疑問を呈しているにもかかわらず、そのような批判の対象となっている人間には本書の内容は届かず、アカデミックな世界で消費されていきそうな状況に、もどかしさを感じてしまうのである。


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