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2006年9月の見聞録



9月5日

 スティーブン・クラッシェン(長倉美恵子、黒澤浩、塚原博共訳)『読書はパワー』(金の星社、1996年)を読む。子供の学力を促進するために自由読書プログラムを推薦する著者が、様々な調査結果と共に自説を補強していく。自由読書とは2種類あり、5〜15分のあいだ好きな本を黙読させる「黙読の時間」、生徒に読んだ本について話し合いをさせる「自由選択読書」の時間であり、1年間以上これを行えば学力の向上が見られる、と統計データに基づいて主張している。
 読書運動が学力向上に貢献するという点については、今では一般的に見て異論がない気がするので、それについては特にいうことはない。それよりも本書は読書そのものに関して色々と面白いことが書かれている。黙読の時間に教師が黙読していると、保育園や幼稚園の図書コーナーの利用が増加する。同じく、本を読む楽しみを語る親がいる場合、その子供はより本を読む傾向がある(63頁)。
 アメリカでは1950年代に、マンガを読めば子供は読書が困難になるため有害である、との論調が強くなって検閲が行われた。だが、その後の4年生と6年生を対象とした調査によって、最もマンガを読む量が多い10%の児童と、少ない10%の児童を比較すると、ほぼ同じ平均点の成績を取り、問題がないとの結果が出たことがある(73〜74頁)。また、マンガしか読まないと言語能力は高いレベルに発達しないとは言え、長期間のマンガ読者は、より本を読むという調査結果が出たこともある(82頁)。加えて、中学校の図書館において、マンガを配架しなかった期間と配架した期間とでは、貸出冊数の1日平均が前者は1日77.5冊、後者は1日101.0冊という差が出た(83頁)。
 マンガと同じくテレビが悪玉にあげられることも多い。確かにテレビが初めて導入された地域や、視聴者が幼くてテレビを見始める年齢の時は、テレビを見る人の読書量は減る。しかし、テレビが普及したり視聴者の年齢が上がると、テレビを見る人も見ない人も同じくらい読書をするし、テレビの視聴と読書の間には相関関係がないことが示されている(113〜114頁)。さらに、1日2時間までのテレビ視聴ならば、テレビを見る時間が長いほど成績はよくなるという調査結果が出たこともある(117頁)。
 パオロ=マッツァリーノ『反社会学講座』で紹介されていたのを見て本書を読んだのだが、非常にコンパクトでありながら、上述のような情報が得られた点で非常に有益だった(もっともこの中には、すでに『反社会学講座』で紹介されているものもあり、わざわざここで挙げる必要はないかもしれないが)。あくまでもアメリカの調査なので日本にはあてはまらないかもしれないが、中野晴行『マンガ産業論』でも触れられているように、マンガを理解できない学生さえいるようなので、マンガをある程度読む人間ほど学力があるということが、日本にも言えるのではなかろうか。なお、『反社会学講座』では、読書量が減っている要因を年配層の新聞購読としている。
 ただ、読書が学力を上げるとしても、手放しで喜べない気もする。これに関しては浅羽通明『教養論ノート』が、読書運動に関して述べた指摘から窺える。「強固な友達共同体へ溶けこんだ生徒たちの、横のつながりを「黙読」の強制によって断ち切り、彼女らの「内面」を創生して、各生徒を共同体から分離させて「個」へと解体した上で、再び教師の方へ顔を向けさせるメソッドこそ、「朝の読書運動」であった」(111頁)。永峰重敏『雑誌と読者の近代』でも述べられているように、明治初期までの読書とは音読と精読であり、黙読と多読ではなかった。つまり、読書運動はたとえそれが自由な読書であったとしても、学校という枠組の中で営まれているものにすぎないのではなかろうか。もちろん学力が上がるというメリットはあるかもしれないが、それも学校という枠内で評価される学力かもしれない。別に学校を否定するわけではないのだが、本を読むことは良いこと、という価値観そのものは本書では絶対的であるかのように見えるのが、少しだけ気になった。


9月6日

 ピーター・バーク(井山弘幸・城戸淳訳)『知識の社会史 知と情報はいかにして商品化したか』(新曜社、2004年)を読む。近世において「知識」をめぐる状況がいかなる変化を遂げたのかについて、様々な観点から眺める。知識を分類する図書館・百科事典、知識を管理する教会と国家、知識を売る市場と出版、知識を獲得する読者などが取り上げられているが、割と事実を淡々と並べていくような感じで、近世の思想史の概説書とも言えるような感じであり、これについて知りたいときに簡単に参照するには便利だろう。
 ところで、リベラル・アーツと有用な知識の位置関係についても本書では出てくるが、近世において後者は商売人や職人と同じように低い地位にあったが、やがてこの時期を通じて前者の優越は徐々に弱まっていく、とある(130頁)。これについては事実だと思うのだが、一方で前者がアカデミックとしてさらなる排他的な優越感を形成していくのもこの頃ではないだろうか。これは当時の学校と深く関連していると思うのだが、残念ながら本書ではあまりそれには触れていない。この辺についてもう少し知りたいところではある。


9月15日

 新堂冬樹『鬼子』(幻冬社、2001年)を読む。パリを舞台にした純愛小説を上梓し続ける袴田は、印税だけでは生活できず、マンションの管理人をしながら生活費を稼いでいた。それでも自分の小説のファンであった妻と結婚し、息子と娘と一緒に幸せに暮らしてきた。しかし、自分の理解者であった母親の死と共に、妻は急によそよそしくなり、そして息子は突如として荒れ出し、家庭は崩壊していく。そして、新たな担当となった編集者からは、自分の家庭を題材にしたノンフィクションを描かなければ、出版を打ち切ると通告される。娘と妻の運命まで狂いだし、追いつめられた袴田は、息子の「除外」を決意する…。
 息子の暴虐によって家庭が荒んでいく描写は圧巻であり、本当の家庭内暴力もこのようなどうしようもない絶望感が蔓延しているのだろうな、と思う。だが、最後にその真相が明らかになると、原因が分かったがゆえに、その無慈悲なまでの暴虐さの印象が逆に薄れる気もする。とはいえ、この作品の場合救いがないのだから、その救いのなさに実はちょっとだけ同情できる点もあるというところが、逆に後味の悪さを醸し出しているとも言える。何だかどっちつかずな感想だが、人間のいやらしさを描くという点では非常に巧みであり面白いと言える。
 ただ、物語の最後の独白はいらないのでは? たとえ、ある程度の事実が不確定で終わるにしても、ここはもっと短い方が男の凄みが醸し出されたのではなかろうか。回答を明示しなければならないという考えに縛られているような点において、悪い意味で推理小説的な気がする。
 ところで、実は個人的に最も印象に残っているのは、家庭内暴力に蝕まれていき引き返せない道へと踏み込む袴田ではなく、小説家としての袴田の生活と言動だったりする。先に書いたように、袴田は純愛小説だけでは十分な生活費が稼げず、マンションの管理人をしているが、パリを舞台にした純愛小説を書いている自分が、マンションの管理人をしているということが知れ渡れば、イメージが台無しになってしまうと信じて、それはひた隠しにしている。ところが、彼の小説は売れない。20作以上連続して3000部の初版止まりであるが、目を掛けてくれている編集者のバックアップのおかげで、何とか出版をしてもらっている立場だ。だが、彼自身は自分の小説が売れない原因を世の中に求める。「編集者や読者に、真の文学とはどういうものかが分かる読み手がいないこと」(9頁)である、と。そして実際に、ある本屋で袴田の本を取って目を落としていた女性は、自分の流麗な文体に魅惑されると考えていた袴田の思惑とは別に、彼の本を酷評して嘲笑する。袴田はその場から逃げ出してしまう…。
 これって、現代の知識人や学者、もしくはその卵である大学院生と似ているのではなかろうか。自分の学問に高い価値があることを信じ、さらにはそれを理解できない人間を嘆く鼻持ちならなさは、真の文学とやらを標榜する袴田と同じだ。それでいて、まともな稼ぎのない等身大の自分に関しては直視しないようにする態度は、マンションの管理人をしていることを隠そうとする袴田と重なる。また冒頭にて、マンションでピンクビラを配る青年に袴田が説教をしながらも、自分の現状に気づいて暗澹たる気分になる場面がある。これなど、学問を偉そうに振りかざして学生や読者に自説を訴えるいるアカデミシャンの暗喩にしか見えない。両者に共通することは、自分自身が生み出した作品に、自分自身の立ち位置が反映されていないことだろう。
 それでも袴田は、地獄絵図を描ききることで、最後に自分自身の中から紡ぎ出した言葉で作品を生み出すことには成功した。とは言え、袴田は自分自身をも破滅させる悲劇的な最後を迎えてしまったこともまた事実である。積み上げてきた知識をどのように書き記し、自分をその中にどのように位置づけるのか、そしてどうすれば読者に伝えられるのかという現実的な問題が、本書には窺える気がする。


9月21日

 ジョン・エンタイン(星野裕一訳)『黒人アスリートはなぜ強いのか? その身体の秘密と苦闘の歴史に迫る』(創元社、2003年(原著は2000年))を読む。原題の直訳は『タブー なぜ黒人アスリートはスポーツを支配し、そしてなぜ我々はそれについて語るのを恐れるのか』となる。アメリカで言えば、メジャーリーグやNBA(特に後者)では黒人選手が主流を占めている。また、陸上競技でもアフリカ大陸出身の選手がトップアスリートである。なおかつ世界記録の大半を保持しており、短距離は西アフリカ人、中距離は北アフリカ人、中・長距離はケニア人を中心とした東アフリカ人が大部分を占める。さらに、サッカーでもフランスの代表選手には黒人が多いし、イングランドのプレミアシップでも黒人選手が5分の1ほどを占めている。こうした状況は実は人種的な区分が身体能力の才能を決めていることの証拠ではないか、と主張する。
 こうした問題の難しいところは、著者が何度も指摘しているように、黒人は肉体能力がある分だけ思考能力が劣るという差別的な言動につながる可能性があることだろう。これは古くからの難問であり、その分かり易い一例が、本書で紹介されている第2次世界大戦期の黒人ボクサーのジョー=ルイスは、ドイツ人ボクサーにリターンマッチで勝利したのだが、彼のせいで黒人は体力はあるが頭は悪いというイメージが強化され、黒人層の進学の妨げになると考える者が、黒人の中にさえいたらしい。恐らくこうした状況は現在でも変わっていないのではなかろうか。
 非常に興味深いテーマなのだが、やや無駄とも言える部分が多い。はっきり言って、近代以後の黒人差別の動向について記された中間部分は、本書においては不要だ。誤解のないように書いておけば、あくまでも「本書においては」である。おそらく本書を読むような読者は、ある程度の黒人差別に関する知識を持っているような人間だろう。その上で、黒人は本当に遺伝子的にスポーツの才能を持っているのか、そしてなぜそれについて語ることはタブーなのか、ということに興味を持って本書を手に取るはずである。その意味でシェルビー・スティール(李隆訳)『黒い憂鬱 90年代アメリカの新しい人種関係』(五月書房、1994年)を読むような人が対象であろう。だから、本書に求めるものにとって、中間部分の黒人差別の歴史は、補足的なものにすぎないにもかかわらず、その部分があまりにも長すぎるのである。中間部分を削って、もっと具体的な証言や言説の紹介と考察を深めて欲しかった気がする。とはいえ、データ的なものは割と紹介されていて参考になるし、黒人差別の問題やスポーツと人種の関係に関心があれば、お薦めできる本だろう。
 ちなみに、上述の黒人ボクサーと戦ったドイツ人ボクサーは、その前にユダヤ人にも負けてたそうだ。こうしたことによって、ナチスドイツが訴えるアーリア人の優位性の主張が揺らいだとのことである(251〜56頁)。


9月23日

 サイモン=クーパー(柳下毅一郎訳)『アヤックスの戦争 第二次世界大戦と欧州サッカー』(白水社、2005年)を読む。題名通り、アヤックスから第2次世界大戦を眺めるのだが、アヤックスは戦前からユダヤ人の会員が数多いたとされており、それが本書のメインテーマとなってくる。ただし、アヤックスはそのデータを開示してくれなかったため、アヤックスのみが本書の中心になるわけではない。むしろ本書の題名の直訳となる「アヤックス、オランダ人、戦争」の方が本書の内容に近い。オランダは『アンネの日記』でも有名なため、ナチスドイツに対してレジスタンス活動を行っていたかのように見えるし、そのように語られることが多い。しかしながら、実はオランダに当時住んでいたユダヤ人のうち、4分の3はナチスに連行されている。さらに、ナチスはたいした抵抗にもあわずオランダの占領に成功しており、ナチス占領後もオランダ人はそれまでと変わらずサッカー観戦に興じていた実態を述べていく。なお、こうした状況はイングランドでも大きく違っていたわけではなかった、とも記している。
 先に書いたとおり、アヤックスはユダヤ人のサポーターがかなりいたことは間接的に判明しているものの、アヤックスから内部資料の閲覧許可が下りないため、直接的な証拠は挙げられていない。そのため、残念ながら本書の内容は焦点がぼやけてしまっているとも言える。しかし、大戦中のサッカーが持つ政治的な意味を知りたければ、本書はなかなか役に立つのではなかろうか。
 以下、メモ的なものを。大戦中のあるドイツ人ジャーナリストは、ドイツ人が国際試合には何万人も集まるのに、そうした観客はリーグの試合を見ないと嘆いた(42頁)。ナチスドイツ時代に、イングランドはドイツとベルリンで国際試合を行ったが、一般的なイメージと異なり、試合は極めて友好的な雰囲気で行われた。ナチスは勝利と同じくらいフェアプレイを重視していたため、イングランド代表に紳士的な対応をした。そして、ファシスト式敬礼もこうした友好的な雰囲気なもので行われたのであり、強制されたものではなかった(54〜58頁)。近年のフェイエノールトのサポーターは、アヤックスとの試合ではホロコーストの歌を歌い、ガス室の物まねの口笛を行うようになった(272頁)。


9月28日

 浅羽通明『教養としてのロースクール小論文』(早稲田経営出版、2005年)を読む。そもそもは法科大学院の論述試験の対策用の講義録。だが、現代の社会や思想について問うものが数多く出題されているため、その解説を行った本書は、必然と現在の思想状況を包括的に論じた概説書ともなっている。こうした構造を著者自身がはっきりと意識していることは、本書の目的として「現代を掴む『思想』『哲学』と触れる知的エンターテインメントとして」も使える、と前書きに書かれている事実からも明らかであろう。題材として取り上げられているのは、自己決定論とパターナリズム、グローバリズムと市場経済、専門家と大衆、正義論など。以下、メモ的なものを。
 旧ソ連では売春や犯罪は資本制が生んだ悪だから、社会主義の国には有り得ないとして、調査や報道を怠っていた。特に性犯罪に関しては、発生していないことになっていたため保護者は警戒しておらず、性犯罪者の天国になっていたらしい(72頁)。かつての専門家は優れた「手段」を持つがゆえに尊敬されていた。だが、大衆社会となり大衆の欲望を満たすようになると、目的を見出せない大衆は専門家は優れているのだから「目的」も教えてくれるとの期待を持つようになってしまった。そのため、手段に秀でているだけのはずの専門家も、自らが目的を示せるように思いこんでしまっている(262頁)。極言すれば、現代のエリートである弁護士や裁判官も正義を実現するための手段である(264頁)。
 後書きでも触れているように、そもそも実務に長けている人間を法曹へ取り込もうとしているのに、そうした人間が不得手であろう現代の思想に関連する問題が出ていることは、ロースクールの制度的な欠陥である。ロースクール試験のための実用書である本書の存在そのものが、実はロースクールの制度の問題点の核心を突いているのは何とも皮肉だ。それに対する著者の主張は昔から基本的には同じであり、本書の第4章の末尾に出てくる。それは、これだけは譲れない、もしくはこれさえあれば生きられると言う基準を指針として持つ、ということである。宮部みゆき『火車』『理由』『模倣犯』を、普通の人が普通に生きることが正しい、というメッセージと読み解き、日々の雑事や問題を1つ1つこなしていくことを生活の原点することが、心を安定させると主張する。そして、そうした普通の読者は何を知りたいのか、なぜ知りたいのかを、専門家は意識して、自分の仕事が何の役に立つのかを省みることを訴える。逆に、専門家は外の空気に晒されないアカデミックなものを書き、読者は専門的なムードに触れるという見栄でそれを読むという、一種の共犯関係が成り立っている現状に疑問を呈す。ロースクール試験用の参考書でありながら、一種のエンタテインメントであろうとする本書は、そうした著者の思いによって成り立っていると言える。
 ちなみに、本書には誤字・脱字がかなり多い。誤字・脱字を見つけるのは楽しくても、そんなことで本の価値を決めることはしないつもりだが、本書はかなり目立つ。講義録という臨場感を醸し出している、という好意的な解釈も可能だが、著者による同じ講義録である『野望としての教養』(時事通信社、2000年)にはそれほど目立たなかった事実から考えれば、これは出版社の編集・校正能力の差を露呈していると言えよう。


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