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2005年6月の見聞録



6月30日

 永峰重敏『雑誌と読者の近代』(日本エディタースクール出版部、1997年)を読む。明治・大正期における雑誌の読まれ方から、読書が生活の中にどのように位置づけられ、読書形態はどのように変化したのかを追う。明治30・40年代に、少数の本を精読するよりも、多数の本を読む習慣へと変化している(当時の指導者層は、この傾向を「乱読」と見なして、危機感を持っていた)。そして、前田愛「音読から黙読へ」『読書空間の近代』を更に補強する形で、黙読による読書形態の登場を、図書館や学校などの禁止事項に音読の禁止が現れたことなどから確認している。
 その後の諸章では、教育雑誌が教員の意見交換の場として読書共同体を形成しているとの指摘があり、さらに『太陽』と『中央公論』、そして『キング』の読者から当時の読書の問題を考えている。音読的系譜に経つ反復的な読まれ方をする『国民之友』に対して、様々な記事が収録され視覚的な要素が強く部分読みがなされる『太陽』が、読書形態の移行期に中間層へと広く受け入れられて隆盛を誇っていくとする。その後、知的権威を象徴するものとしての『中央公論』が台頭し、家族共同体に広く受け入れられた『キング』は、未だ活字メディアの普及が弱かった農民や都市労働層などの、何度も同じ本を熟読する階層へと受け入れられて、修養主義の内容と相まって民衆教化の役割を果たすことになった、とする。
 前述したように、前田愛の論を受け継いで、読書形態の変化を雑誌の読者から探っていく点は、ある種統計に依拠した研究のような味気なさも感じるとは言え、近代日本における読書の意味を探るにあたっては、基礎的な文献になるのではなかろうか。音読から黙読への転換は、読書をする人間の「心の」座敷が家人から別れていった、と述べた柳田國男の議論につながる気もする。
〔2006年1月24日追記〕
  少し用があって簡単に再読したので、それに伴い追記を。明治初期においては、「多読」は乱読であり、「精読」こそが読書であると見なされていた。本を読むという価値観が常に一定だったわけではないことを物語っている。また、電車のなかで新聞の音読は普通であったが、明治30・40年代には厳しい視線が向けられていく。これなどは、現代の携帯電話の問題と似ているのかもしれない。


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