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2006年6月の見聞録



6月4日

 山下正男『思想としての動物と植物』(八坂書房、1994年)を読む。『動物と西欧思想』(中公新書、1974年)と『植物と哲学』(中公新書、1977年)の2冊を1冊にまとめたもの。ヨーロッパ中心だが、東洋にも随時触れられている。博物学的なものというよりは、タイトル通り語源を踏まえた動物と植物を巡る思想史がメインとなっている。動物については羊・牛・馬といった個々の動物を中心に取り上げ、植物については、人間とのアナロジー・植物イメージ・哲学と宗教・宇宙論といったテーマ別に論じている。
 キリスト教における悪魔は、土着の宗教における角のある神であったとする指摘、自らを神に捧げたイエスは、信徒を導く善き羊飼いであると当時に、信徒の代わりに犠牲として処刑されて捧げられた神の子羊でもあるという解説、アリストテレスによる目的論的な植物イメージが、中世にも引き継がれ、近代に入ってから機械的自然学が自然科学になるといった概説など、随所に興味深い記述が見られる。動物や植物のイメージだけではなく、西洋や東洋の思想史の一端をのぞき込むための入門書として、鯖田豊之『肉食の思想 ヨーロッパ精神の再発見』(中公新書、1966年)あたりと並んで、古くてもいまだ有益な書だと思う。
 ただ、気になったのは、動物論の結びのところで、古代における奴隷を戦争による狩猟の獲物と見なし、近代の奴隷制と同一視している箇所。確かに、古代の奴隷のほとんどがそうした虐げられた地位にいたことは確かだが、古代の奴隷には政治的自由が認められていなくとも、経済的自由は多くの場合に認められていたことは、近代の奴隷との大きな違いと思われる(この辺については、伊藤貞夫『古典期アテネの政治と社会』(東京大学出版会、1982年)にて、少し触れられている)。とはいえ、政治的自由が認められていなかったのだから、動物に等しいと見なされていたとも言える。しかし、もしこうした仮定が成り立つのであれば、ギリシア・ローマでは、動物が人間よりも明確に下位に位置するという概念が成立していなければならないだろう。自然を下位に位置づける考え方は、古代社会では一般的なのか、それとも特殊なのか。そして、ヨーロッパはどうなのか。これは改めて考えられるべきテーマという点でも、本書の持つ意義は今でも高いと思う。


6月5日

 岡嶋二人『クラインの壺』(新潮文庫、1993年、原著は1989年)を読む。全身をヴァーチャルリアリティの世界へと誘う新しいゲーム機のストーリーに、採用された青年・上杉。テストプレイヤーとしてゲームに参加していたが、ふとしたことからシステムそのものに不審を抱いていると、同僚のテストプレイヤーの女性が失踪する。そして、現実とヴァーチャルリアリティの世界が交錯し始め…。
 ヴァーチャルリアリティと現実の交錯というのは、それほど目新しいテーマではないが、長編小説としてうまく仕上げているため、最後まで単調さやありきたりさを感じずに読み終えることが出来た。最初に手をつけた者のアイディア勝ち、といったところだろう。とはいえ、本当に最初かどうかは分からないが。いずれにせよ同系統の作品は、これ1つでもういいか、という気がする。


6月8日

 宮部みゆき『火車』(新潮文庫、1998年(原著は、1992年))を読む。休職中の刑事・本間は、親戚の銀行員に自分の婚約者が失踪したから探して欲しい、と相談を持ちかけられる。女性は過去に自己破産をしていたことが判明するとすぐに失踪していたのだが、その前に徹底して自分の存在を消し去っていた。その女性の過去には、全く別の人生を過ごしたとしか思えない女性が浮かび上がり、それとは別の自己破産の物語も浮上する…。
 もし、これが意外なラストを考え出すのが好きな作家ならば、本間と家族ぐるみの付き合いのある近所の夫婦を、ラスト辺りのどんでん返しとして黒幕に関連させるだろうが、設定の現実性を重んじるからこそ、それをしない。そのために地味に見えるので、人によっては淡々としているラストに思えるかもしれないけれども、それが作風と言える。
 ちなみに、この作品を読んで思い出したのが、はるか昔に読んだ西村京太郎『ミステリー列車が消えた』(新潮文庫、1985年(原著は1982年))。両作品とも、ほぼ最後まで犯人が出てこず一言も台詞はないのだが、その犯人に一歩ずつ近寄っていく過程がスリリングに描かれている。ところで、以前に横山秀夫『動機』の欄で書いたように、私は最近になって『このミステリがすごい』を参照しつつミステリ作品を読んでいっているのだが、ミステリファンにおける西村京太郎の評価はどんなものなのだろう。『ミステリー列車が消えた』以外にも、それなりに面白い作品はあると思うのだが、評価の対象にすらなっていないような気がする。
 なお、この小説の解説は佐高信だが、フィクションであるこの小説が現代社会とリンクする場面を的確に拾い上げている点で、優れた推薦文と言える。本当に偶然なのだが、読みながら印象に残った上述の部分は、佐高の拾い上げたシーンとほぼ一致してしまった。昔の同僚のOLが突然電話してきた理由を、負けている仲間を捜していると説明したシーン、クレジット三昧になるのは、そうすることで錯覚の中に浸かることができるからだ、との台詞、借金まみれで失踪した父親の生死を確認しているときに、思わず吐きだした「どうか死んでてくれ、お父さん」という呪詛、などがそれにあたる(これ以外に、破産に追い込まれるのは、余所から借金してでも頑張って返そうとする真面目できまじめな人間、という解説も印象深い)。ただし、ネタバレもしているので、文庫の巻末に位置する一般的な小説の解説としては不適格かもしれないが。


6月10日

 東野圭吾『パラレルワールド・ラブストーリー』(講談社文庫、1998年、原著は1995年)を読む。脳に関する実験を研究所で続けている敦賀は、親友に恋人を紹介される。その彼女は、大学時代の通学電車で常に見かけて気に掛けていた女性だった。彼女への愛情を募らせていく一方で、彼女と付き合っている自分の記憶もまた同時に存在し…。
 これ、タイトルにパラレル・ワールドと入っていて、冒頭の部分にもそれを促すような描写があるが、実際にはパラレル・ワールドというよりも、脳に関する実験の方が話の根幹に関わってくる。実は、パラレル・ワールドに関する話と思っていて密かに期待していたのだが、オチが説明をぼやかしたSF的なものなのでちょっと残念だ、というのがあくまでも個人的な本音だったりする。それはともかくとして、ミステリとしては綺麗にまとまっていて、楽しく読めるのだけれど、そつがなさすぎるようにも感じる。その意味で、TVドラマや映画向きの小説ではなかろうか。


6月12日

 香納諒一『幻の女』(角川文庫、2003年(原著は1998年))を読む。弁護士の柄本は、かつて愛し合いながら突然姿を消した女性・瞭子と、偶然の再会を果たす。しかし、彼女は柄本の電話に留守電を残したまま、殺された。彼女に何があったのか、その過去を探っていくうちに、彼女が別の女の過去を持つ事に気付き、政財界とそこに絡む裏社会の動向に巻き込まれていく。
 これもやはり、藤原伊織『テロリストのパラソル』、原ォ『そして夜は甦る』・『天使たちの探偵』と同じくオッサン小説。しかも、主人公が「自分は格好いいとは思っていないふりをして酔っている中年」といった感じなので、見たくない意味でのオッサンぶりがよりいっそう鼻につく。非常に長い2時間ドラマといった感じだ。


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