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2006年7月の見聞録



7月28日

 京極夏彦『姑獲鳥の夏』(講談社文庫、1998年(原著は1994年))を読む。文士・関口は、知人である京極堂へ、20ヶ月も身籠もったままという女性がいるという不思議な話を伝えに行く。それをきっかけとして関口は、関わらない方が良いという京極堂の忠告にもかかわらず、病院を舞台とした失踪事件や密室殺人が絡む、病院の経営者一族の呪われし因縁に由来する奇怪な事件に巻き込まれていく…。
 冒頭で不確定性原理とそれに関連した共同幻想の話が長々と続くので、これは何なのだろうと思っていたら(面白くないわけではないのだが)、まさかこれが殺人のトリックに結びつくとは思わなかった。ただ、このトリックには納得のできない人もいるような気がする。個人的には「やられた」と思ったけれど、このトリックは1回限りだろうな。考えつくだけでも凄いとは思うけど。


7月29日

 山口雅也『ミステリーズ』(講談社文庫、1998年(原著は1994年))を読む。ミステリーの短編集。個人的には可もなく不可もなくの短編集といったところ。興味深かったのは「禍なるかな笑うものよ」。ホッブズの「笑いは他人に対してわれわれの優越を、突如として、しかも極めて明瞭に得た結果、生ずる」という言葉を挙げて、万人の万人に対する戦いを主張した人に相応しい「闘争的なお言葉」と記している。さらに同じようなことをいった人物を挙げ、その中からボードレールの「笑いとは侮蔑的なものである」という言葉も挙げている。そして、これらの学者や文学者たちは「面白ければいいとテレビの前に笑い惚けている善男善女をあざわらいたかったのかも」と書く(55〜56頁)。こういう人たちは、自分達のような偉い人間が理解できないようなことで笑っていることに腹を立てていたのかもしれない。そして自分達の価値を分かろうとせずせせら笑うような人間を許せなかったのだろう。自分が偉いんだ、と思っている人間は他人が笑っていることに寛容にはなれないんだろうな、と。それこそが他者の笑いを招く、という悪循環が待ち構えているのだが。


7月30日

 菅野覚明『武士道の逆襲』(講談社現代新書、2004年)を読む。現在のいわゆる「武士道」は明治以後に形成された武士道であり、それ以前の時代の武士道を様々な原典から探っていく。全体の4分の1を占める明治以前の武士道に関する説明に関しては、原書に対する知識が乏しいため完全には理解できなかったし、端的にまとめることが難しいので、興味があれば読んでもらうほかない。1つだけ挙げておけば、武士は士道のために死ぬのではなく、自分自身とその主君という極私的な心情に基づいて行動した。とのこと。これなどはいわゆる武士道のイメージをひっくり返すものであろう。
 明治武士道に関しては最後の1章のみであるが、個人的にはここに一番関心があった。明治の武士道は、天皇に味方する諸藩の連合軍としてではなく、天皇を大元帥とする皇軍として編成する必要があった当時の状況が大きく関連している。天皇への忠誠心を大和心と言う概念でまとめ上げようとしたとき、武士道の理念も利用された。ただし、士族の反乱によって、武士道の限界も判明していたため、その部分を抜き取ったものが明治武士道として成立する。いわゆる武士道が造られた言説である、ということはこの部分を読めば分かるので、安易な「武士道」という物言いに反論するときには便利だろう。
 ちなみに、生きては良心に従い死しては国家に使えるキリスト者こそが真の武士道の体現者である、と新渡戸稲造や内村鑑三は説明していたらしい(280頁)。田川建三『書物としての新約聖書』でも、ディアスポラの言説と『新約聖書』の翻訳の関係が述べられていたが、キリスト教も教義を時代の動向に合わせられる点で、やはりイデオロギーということなのだろう。


7月31日

 皆川博子『死の泉』(ハヤカワ文庫、2001年(原著は1997年))を読む。ナチス・ドイツ時代、「命の泉(レーベンスボルン)」で働いていた看護婦・マルガレーテは、ナチスの将校でもある医師・クラウスにプロポーズされてそれに応じる。同じ頃に引き取られた兄弟フランツとエーリヒ、クラウスによって偏執的な歌手の教育を施され、終戦間際に、エーリヒは歌声を保つ為に去勢手術を施される。戦後、兄弟は自分たちへの行為の復讐としてクラウスと彼の息子であるミヒャエルを探しだし、クラウスが買い付けた古城へと迫る…。
 事件の関係者でもあり、クラウスと結婚する前のマルガレーテが恋仲であったギュンターが記したドイツ語の書物を日本人の翻訳家が訳したという体裁を採っており、最後の訳者あとがきで、ちょっとしたどんでん返しを行う。やや冗長にすぎるところもあるが、ナチスドイツ時代のドイツの様相と、退廃的であり異様とも言えるクラウスの精神世界がうまく融合している。ちなみに、近世の教会音楽において、より高音を必要とする男性歌手が去勢によってソプラノを出していた、というのは初めて知った。キリスト教の教義からすれば許されない行為であるはずと言う批判に対して、教会がこの声を必要としたのだ、と熱っぽく語るクラウスの偏執さが際だつ場面でもある。
 ところで、物語の後半、館に閉じこめられているミヒャエルが、外の世界を必要ないと冷ややかに語る場面がある。「楽しいこと、面白いことは、書物で追体験する方が現実に勝ります。苦痛だって、想像のなかから、娯しみにすりかえることができる。ほんとの苦痛は経験したくない。そうでしょう? 何にしても僕は”外”はいらないんです」。そして、自分は死人だ、と(409頁)。これは、いわゆるオタク批判をひっくり返したような言葉、つまりはオタクであることの開き直りのようにも見える。にもかかわらず、この文章を読む限りオタク的にはあまり見えない。恩田陸『三月は深き紅の縁を』でも書いたように、本を読む人間は自分をオタクではない高尚な人間と勘違いすることがあるが、もしかして一般的認識からすると、本を読むことはトレンドや特に偉いことでないのはもちろんのこと、オタク的な趣味にすらなれないのかもしれない。


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