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2002年2月の見聞録



2月1日

 吉田司『宮沢賢治殺人事件』(文春文庫、2002年、原著は1997年)を読む。「動物愛護」や「自己献身的」な文学として崇め奉られている宮沢賢治の文学を、宮沢賢治の生涯や当人の経歴とともに考証することによって、その本質が花巻の商業階級の庇護のもとに生まれた遊民の文学にすぎないとする。そして、賢治の自己献身の思想こそが、八紘一宇の言葉を作った田中智学の国柱会への参入にもつながったとしている。
 私自身は宮沢賢治に特に興味もないのだが、この本を読もうと思ったのは文庫本の後ろに書かれている「「賢治教」を信奉する現代日本の精神に挑んだ」という言葉に興味を持ったため。しかしながら、現代日本の精神を批評するというよりは、宮沢賢治を断罪するような部分がほとんどでちょっと拍子抜けだった。別に宮沢賢治がダメ人間だったからといって、その文学が現在もてはやされていることをけなす根拠にはならないんじゃなかろうか。宮沢賢治記念館には「宮沢賢治はアンデルセンやゴッホやアインシュタインに並ぶような偉人」と書かれているらしくて、著者はそれをくさしている。宮沢賢治がそれに並ぶほどの偉人であるとは私も到底思わないけど、そもそもゴッホやアインシュタインだって普通の世間一般の尺度で測ればダメ人間だったはずで、それを批判したところで彼らの業績を否定することにならないのではなかろうか。もし現在の宮沢賢治のもてはやされ方に疑問を持つのであれば、そのような考え方をする現代の思想に切り込んでいかなければならないと思う。
 それと、この人の文章は妙に古くさい。たとえば「こーゆー」や「ド〜ヤラ」みたいな書き方。感覚で言うと「ナウい」という表現をいまでも流行りと考えているのに近いような気がする。そういう文体が内容と合わさって、呑み屋で大きな声をあげて話をしているオッサンみたいな本だった。


2月2日

 細野不二彦『ギャラリーフェイク』(ビッグスピリッツC、小学館)24巻を読む(23巻はココ)。長谷川等伯「松林図」を取り上げた話の中で、携帯電話が日本に普及した理由を、濃密な人付き合いを求める日本の湿度の高い気候が携帯電話やメールによるコミュニケーションとマッチしたとして、その湿度と等伯の絵の人気の理由をくっつけているが、これは何かこじつけっぽいなあ。ところで、藤田は偽者の絵を売ったとして裁判に掛けられたお話の中で、裁判の証人として出てきた三田村が絵は真作であると証言するのだが、その後に二人が堂々と美術館で会ってるシーンがあるけど、これがスクープでもされたら、三田村館長の進退問題に関わるんじゃないかなあ。ちなみに、カッパドキアの洞窟の罠だらけの迷宮の話に出てくる「悪魔の数字」がローマ数字になってるけど、カッパドキアにあるのならばギリシア数字じゃないとおかしいんじゃないかなあ。
 …などとどうでもいい突っ込みを連発してしまったけど、マンガとして面白くないわけじゃないので、念のため。


2月3日

 坪内祐三『靖国』(新潮文庫、2001年、原著は1999年)を読む。軍国主義の象徴として批判されるか、英霊を祀る聖地として祭り上げられる、という単純な二項対立のみで捉えられてしまう靖国神社の歴史を社会史の文脈から解きほぐす。その成立時においては、靖国神社はサーカスや相撲のような見せ物の場でもあり、その度に屋台も並ぶ有効の場でもあったのだが、時を経るとともにその空間の場所も意味も限定されていき大正10年の大鳥居の完成とともに、この空間は封印されて、単なる靖国神社の境内になってしまったとする。こういった大まかな流れに沿って、靖国神社に関する様々なエピソードや考証が詰め込まれており、これから靖国神社に言及するにあたってはこの本が基礎文献となるだろう。明治史研究に最も意味があるのは靖国神社によって「山の手」と「下町」に区分が出来たのではないかという推測かな。ところで、この本は文庫版あとがきに一読の価値があるので、これから読む人は文庫版がお薦め。冒頭で紹介されているエピソードである、靖国神社の敷地が駐車場化されている理由が、実は靖国神社が政府の支援を受けずに独立独歩でやっていくための収入源とするためであったこと、周恩来が靖国の大祭に参加して日本の近代化に、感銘を受けたことなどが紹介されている。後者については、別に昔は中国人も靖国神社を肯定的に見ていたという意味ではなくて、当時の靖国神社における祭礼はお祭り的なものであったことを示しているのだと思う。
 靖国神社をイデオロギーとして否定する人も、日本人の精神の源として賞揚する人も、自分自身のイデオロギー性を自覚せずに靖国神社をイデオロギー化していることがよく分かる。ちなみに、前者の象徴としてすぐに上げられるのが、この本の解説をしている野坂昭如。この本を読んだからには、今まで靖国神社を決して肯定的に見てこなかったはずの自分自身の精神を暴露するか擁護するかしなければならないはずなのに、思い出話を語って終わっている。イデオロギーを自覚できないというのは怖い。


2月4日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。許斐剛『テニスの王子様』12巻(11巻はココ)。前のときにキャラを楽しむマンガになってきたといったけど、それに加えて必殺技を楽しむ『聖闘士星矢』みたいになってきて、テニスマンガとしての面白さはほとんどないような気がする。もう読むの止めようかな。

 尾田栄一郎『ONE PIECE』21巻(20巻はココ)。ルフィvs.クロコダイル三度目。このマンガも必殺技同士の戦いでもあり、なんとなく理屈がおかしいような気もするのだが、有無を言わせぬ勢いでなんとなく納得させられてしまう。『テニスの王子様』が『聖闘士星矢』なら、こっちは『北斗の拳』か? 何だかたとえがうまくないのだけれど。


2月6日

 稲垣武『新聞・テレビはどこまでやんでいるか』(小学館文庫、2002年)を読む。タイトルと内容に若干食い違いがあって、「新聞・テレビ」というよりは「朝日新聞と少し毎日新聞とほんのちょっとニュースステーション」であった。この人の『「悪魔祓い」の戦後史』(文藝春秋、1994年、現在は文庫版)など他の著作を最新版にして簡潔にしたような感じで、それらを読んだことがある人ならばあらためて読む必要はないかな。岩瀬達哉『新聞が面白くない理由』ほどの新聞の問題点への本質的な突っ込みはない。


2月7日

 今日の産経新聞朝刊の経済面を読んでると、「40年ぶり、神戸に新証券会社」という見出しがあって、小見出しに「マクド社長・藤田氏ら出資」とあった。「マクド」って新聞でも使うんだなあ。他の新聞や近畿版以外でも「マクド」って書かれているのだろうか?
〔追記〕
 今日の産経新聞朝刊の経済面を見ていると、やはり「マクド」と書かれていた。ただし、1ヶ月ほど前の紙面には「マック」と書かれていたのを読んだ気がする。もしかして、記事を書いた記者が属する支局の違いによって、こうした表記の差異が生じるのだろうか? (2002年7月16日)

2月9日

 田川建三『書物としての新約聖書』(勁草書房、1997年)を読む。加藤隆『「新約聖書」の誕生』が新約聖書の誕生までを扱っていたが、こちらはその誕生から発展・翻訳まで新約聖書に関する考察を700頁ほどにわたって網羅的に行っている。前半部分ではキリスト教の聖典宗教として成立の問題を扱う。キリスト教が聖典宗教となったのは4〜5世紀以降であり、しかもその成立のきっかけとなったのは異端とみなされたマルキオン派であったことを明らかにし、新約聖書の文体や正文批判に関して考察を行う。後半部分では世界各国の新約聖書の翻訳についてその歴史の概略を述べし、その翻訳を批評する。
 新約聖書の何たるかを知らしめる学術書としても有用なのだが、読み物として猛烈に面白い。というのは、極めてポレミカルだからであり、かつその喧嘩腰っぽい書き方も単なるイチャモンではなく、高度な学術的知見に基づいた上で議論を行っているからだ。批判も洗練させればここまで優れた批評になるという見本のような感じだ。これについては自分自身も偉そうなことを言えないのだけれど、日本人の研究者は日本人に対しては持って回った批判をすることが多いのだが、この人は相手が日本人であろうと外国人であろうと剛球一直線である。もちろん評価すべき研究に対してはしっかりと評価しているから、その批判も生きる。新約聖書について少しでも関心があれば読んで損はない。
 色々と興味深いエピソードがあるのだが、そのうち1つを拾ってみると、前1〜2世紀のユダヤ人のディアスポラの増加が、現代ではヘレニズム諸都市でのユダヤ教への改宗者の増加のためであると見なされているのに、英語版聖書においてそうしたことを匂わせる記述が削除されているということがある、というもの。なぜならば、もし上記のことが事実ならば、ユダヤ人がパレスチナから追われたためにディアスポラが地中海世界に広まったという見解が間違っていたことになり、そのことをイスラエル国家主義者が強固に嫌がるからだとしている。宗教というイデオロギーによって成立した聖書ですら、現代のイデオロギーからは逃れることは出来ない。


2月10日

 橋爪紳也『祝祭の<帝国>』(講談社選書メチエ、1998年)を読む。坪内祐三『靖国』で紹介されていて興味を持ったので読んでみた。明治期に創設された杉の葉アーチ、凱旋門、花電車などの記念物やオブジェやオブジェ近代日本の「欧化」と「祝祭」の基層を探る。明治期の都市のディスプレイを知ることが出来るというてんではそこそこ面白いのだが、それぞれのテーマごとに独立しすぎているような気がしする。特に前半部分と後半部分は別の話のように思える。


2月12日

 ジュディス=メリル『SFに何ができるか』(晶文社、1972年、原著は1971年)を読む。SFには特に関心はないのだが、山形浩生『新教養主義宣言』で紹介されていたので読んでみた。大きく2部に分かれた構成であり、前半はSFの歴史とその展望について述べており、後半はSF小説の書評集。先にも書いたようにSFには関心があるわけではないので、SFそのものについては特に言うことはないのだが、今後しばらくはSFという分野がかつてほどの隆盛を取り戻すことは難しいように感じた。小説以外のメディアが小説を上回ってしまっている現在においては、基本的に近未来が舞台であるSFは細部までの描写が難しいように思える。小説ならばごまかせても映像メディアではごまかせないので、ものすごい労力が必要だと思うので。その点では著者がSFには含めないとした宇宙冒険物語の方が書きやすいだろう。もしこの状況が変わるとしたら本格的に宇宙旅行が実用化されて広大なフロンティアが存在するようになったときだと思う。


2月14日

 J.クセルゴン『自由・平等・清潔 入浴の社会史』(河出書房新社、1992年、原著は1988年)を読む。フランスでは19世紀にはいると肉体の不潔さが健康を損なうという認識が生まれ、「不潔=悪」という概念が上層階級に生じ始めて、それはやがて民衆レベルにも不潔の追放を強制するようになっていったとする。こうした清潔の強制という観念が義務教育の小学校で植え付けられたというのは興味深い。ただ分からないのは、それでは19世紀より前には不浄や汚れという概念以外の汚いという考え方はなかったのか、ということ。極言すればウンコは臭くて汚いものとは見なされていなかったのか、それともウンコは臭くて汚いという考え方すらなかったのかのどちらかが分からないのだ。
 あと、冒頭の皮膚の垢は許容されていたという文章を読んで、井上雄彦『バガボンド』9巻の、風呂場の中で柳生の長男に武蔵が「垢が落ちると、感覚が鈍るような気がするから、風呂が嫌いなんだろう」みたいなことを言われているシーンをふと思い出したりした。


2月16日

 近田春男『考えるヒット3』(文藝春秋、2000年)を読む。『週刊文春』に連載のJポップ批評の1999年分をまとめたもの。永江朗『批評の事情』で評判がよかったので読んでみた。本当はもっと新しい巻があるのかもしれないが、市立図書館ではこれが一番新しい巻だった。確かに文章は面白い。音楽なんて主観的な感覚に基づく部分が大きいので、言葉にするのは難しいだろうと思っていたら、これはうまい。ほとんどはよく知らない曲でラジオなどでしか聴いたことがない曲なのだが、それでもなんとなく著者の言ってる意味が分かるというのは凄いことだと思う。そういう意味で食べたことのない料理でもなんとなく分かるグルメ記事みたいでもある。ただ、これが『週刊文春』というオヤジ雑誌に載っているというのがどうも引っかかる。このままじゃオヤジの知ったかぶり用雑学に成り下がってしまうような気がする。紹介している曲を聴くような読者が主流の『CDでーた』あたりに載せるべきなんじゃないかなあ。もしかしたら、『CDでーた』だと余計な圧力がかかるのかもしれないが。あと、sex MACHINGUNSを激賞しているのはちょっとビックリ。それならば他のメタルバンドも紹介して欲しいな。


2月19日

 森川ジョージ『はじめの一歩』(少年マガジンC、講談社)5960巻を読む(58巻はココ)。デビッド・イーグル戦。結局鷹村の目は網膜剥離じゃなかったみたい。うーむ、なんだか単なる時間稼ぎのために挿入した話っぽいなあ。

 川原正敏『修羅の刻』(月刊マガジンC、講談社)12巻(11巻はココ)。信長に力を貸す虎彦と狛彦。しかし、しかし、虎彦は信長に、狛彦は信長の敵である雑賀孫一に心を惹かれていき、いつも同じだった二人の心が始めて違う意見を持つようになる。そして、狛彦は雑賀孫一の鉄砲に1人戦いを挑む…。殺人拳の本領発揮で、二人とも必要とあれば殺しまくってる。


2月20日

 荷宮和子『アダルトチルドレンと少女漫画』(廣済堂出版、1997年)を読む。図書館で背表紙を見て、パラパラめくると色々な漫画のタイトルが載ってるから面白いかもと思って借りてみたら、大失敗だった。タイトルのうち、比重が置かれているのは「少女漫画」よりも「アダルトチルドレン」であり、しかも思いっきり偏ったバランスのかけ方。「すなわち、今の日本の社会に生きている女は、すべからく「アダルトチルドレン」と称されるべきなのだ」(13頁)という文章を読んでこれはヤバイと思ったら、やっぱりそういう本だった。それが正しいとしても、「アダルトチルドレン」には男もいると思うんだけど。目新しい単語をダシにして自説を補強するやり方は、女だろうが男だろうがみっともない。まともに突っ込みを入れるのはあほらしいが、1つだけ。「『少年ジャンプ』の中で『スラムダンク』は読みにくい、という声が一部の男子読者から聞かれたが、『スラムダンク』は少女漫画である、と考えたならば、それはある意味で当然の結果だった」(202-3頁)。後半部分はおいといて、前半部分はめちゃくちゃ。一部って本当に一部でしょ? 『スラムダンク』はあんなに売れたんだから。別に「読みにくい」と言った一部の男性を無視しろと言いたいのではなくて、そういう自分に都合のいい見解だけを持ち出すのはやめて欲しい。こういう箇所はいくらでもある。…いやー、しかしどうでもいい本ってのは頭を使わなくていいから、文章を書くのも簡単だね。でも時間の無駄だった。


2月22日

 青山剛昌『名探偵コナン』(少年サンデーC、小学館)3536巻を読む(34巻はココ)。35巻ではNY編が終了。黒ニットの帽子の日本人が実はFBIかもみたいな場面あり。36巻では爆弾事件に巻き込まれて、コナンが高木刑事と一緒に東京タワーのエレベーターに爆弾と一緒に閉じこめられて、爆発直前に正体を仄めかすようなシーンで終わる。ちなみに36巻佐藤刑事の3年前の回想シーンで、殉職した警官が携帯のメールを使いまくってるのは、何だか釈然としない。このマンガが始まったころには、現実世界だけじゃなくて、このマンガの舞台設定の中にも携帯はなかったと思うけどなあ(我ながら細かいツッコミ)。

 河合克敏『モンキーターン』(サンデーC、小学館)19巻を読む(17巻はココ)。波多野がケガから復活。相変わらずリアルでありながら面白い。


2月24日

 日垣隆『「学校へ行く」とはどういうことなのだろうか』(北大路書房、1999年)を読む。旧著である『<ルポ>高校ってなんだ』(1992年)と『<検証>大学の冒険』(1994年)を1つにまとめたもの。『それは違う』が面白かったたので読んでみた。高校と大学に関するルポ。一番最初の神戸の高校の校門圧死事件のルポは丹念で読んでいて面白かったけど、他はそれほど面白くはない。以前も何度か書いたことがあるが(たとえば、『論争・学力崩壊』の項)、少なくとも日本では学校の問題は就職の問題と密接に絡んでおり、それについての言及がない限りいかなる提言も机上の空論に近くなってしまうことは否めない(特に大学に関して)。先に挙げた校門圧死事件を例に取れば、学校の授業が面白くなかったとしても、校門に押しつぶされるかもしれないということが過去の事件から知っているにもかかわらずそこにあえて飛び込んだのは、学校を卒業することができなくなるという意識からだろう。というよりも辞めさせられれば、就職に差し障るかもしれないという意識かもしれない。だからそういう意識がない人は退学することを別になんとも思ってないから、退学してしまうんだろうし。もちろん現実に困っている人はいるので、それを救うような行動は必要だとは思うけれど。


2月25日

 山田南平『紅茶王子』(花とゆめC、白泉社)1516巻を読む(14巻はココ)。もしかしたら、登場人物が固定してほんわかコメディになるかと思ったら、あっさりとベコーが3つ目の願いを叶えてしまい、元の世界に帰ってしまった。ゴパルダーラの人間嫌いやセイロンの母親が人間であったことも明らかになっていき、ほんわかムードの裏に黒いものが混じってる展開が強くなってきた感じ。


2月26日

 神尾葉子『花より男子』(マーガレットC、集英社)31巻を読む(30巻はココ)。つくしと司が起きたときに乗っていた船には二人以外には誰も乗っておらず、無人島へと到着する。実はそれは滋・西門・美作が二人をくっつけようとする策略だった。無人島から帰ってきた港で司は道明寺家に恨みを持つ人間に刺される。そして、病室の前で待つつくしの前に司の母親が現れた…。と、あらすじを書いているだけでいかにぶっ飛んでるかが分かる。


2月27日

 佐藤賢一『カエサルを撃て』(中央公論新社、2002年、原著は1999年)を読む。紀元前52年のガリアを舞台にカエサルとウェルキンゲトリクスを主人公に二人の戦いを描く。圧倒的にカエサルの描かれ方のほうが面白くて、部下やライバルの人間関係を調整する才能で政界を渡り歩きながらも、ポンペイウスやウェルキンゲトリクスにコンプレックスを持っている卑小な内面を持つ人物として登場している。なるほど、カエサルをこう解釈する方法もあったのか、という感じ。『ガリア戦記』の文章は簡潔な名文であると言われているが、それが自己の敗戦をさりげなく隠すためだったという設定で、さらにその記述を行うカエサルの心理描写も面白い。ただ、クライマックスの戦場の描写は今ひとつわかりにくいのはもったいない。


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