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2002年1月の見聞録



1月1日

 古谷実『ヒミズ』(ヤンマガKC、講談社)2巻(1巻はココ)。住田を借金から助けるために、悪友と一緒に侵入した家で人殺しに加担してしまった正造。そして、ふらりと戻ってきた父親を殺した住田。両者の世界が少しずつ狂っていく…。どうやら「不条理な出来事がるのが日常の世界」という展開に持っていくみたい。もうすでに誰もが言ってることだろうとは思うけど、この人のマンガって何だか望月峯太郎に似ているっていうことに今さらながら気付いた。


1月2日

 リリー=フランキー『増量 誰も知らない名言集』(幻冬社文庫、2001年、単行本は1998年)を読む。日常に転がる作者自身の友人たちのおかしな話から、名言をすくい取る。笑わせてもらった名言は「中で出してないから、ヤッてない」(浮気を指摘された男のお言葉)。「もうちょっとで損するところだったよ」(ゴキブリサンドを食ってのお言葉)。「手紙を書きなさい」(自分の性器が嫌いな女性への精神科医のお言葉)。衝撃の言葉は「次の日は苦い」(スカトロマニアによる自分のウンコへの感想)。はっきり言ってどれも下品だが猛烈に面白い。俺を知ってる人がこれを読んだら、「まさしくお前のためにあるような本だ」と言われそうだ。著者曰く、男は生まれてから死ぬまでウンコとチンコの話が好きだが、女はこうしたところから離れているというスタイルを貫くものの、それは表層上の話であり、サラリーマンのカッコをしたヤクザのように悪質、というのは確かに当たってる。
 ただ、面白いんだけど複雑な気分。前にも相原コージ『なにがオモロイの』を読んだときに書いたことがあるが、こういうネタ的な文章は今やウェブ上でいくらでも面白いものがあるので、わざわざ本を買ってまで読むという気があまりしなくなってるのだ。雑誌のコラムとして載ってるならばその雑誌を買うついでに読むけど、短いネタ的なコラムが集まったものとして単行本を買うという行為はもしかしたら廃れていくのかもしれない。


1月4日

 川村湊『文学から見る「満洲」』(吉川弘文館、1998年)を読む。満洲における文学を、日本人・満洲人・在満朝鮮人・白系ロシア人のそれぞれの作者ごとに分類して、それを題材として考察することによって満洲の「五族協和」の理念と現実の乖離を指摘する。やりたい方向性は面白いと思うのだけれど、基本的に文学作品から考察を進めており、それらを書いた人や読者がいかなる考えを持っていたのかについての記述はないために、あらかじめ「日本による満洲政策は間違っていた」という答えに沿うような論の運びになってしまっているように見えてしまうし、後世という安全地帯から当時の過ちを非難したにすぎないだけになってしまうような気がする。たとえば古厩忠夫『裏日本』で指摘されていたような北陸・山陰地方の移民が、そうした満洲文学をどのように消費したのかという踏み込んだ考察をすれば、より立体的な記述が出来たように思えるのだけれど。


1月6日

 吉沢由起子『大学サバイバル』(集英社新書、2001年)を読む。読売新聞の連載記事をまとめたもの。カバー解説に「変貌する大学の姿を、現役の新聞記者が多面的に解説する」という言葉がまさにあてはまる、新聞記事的なあっさりとしたルポをまとめたタイプの本経営危機・学力低下といったメジャーな話題を取り上げて大学の現在の問題点について紹介しているのだが、特に目新しいことを書いているわけでもない。大学の事情に詳しくなくて、ちょっと豆知識を知りたいという人くらいにしかお薦めできなさそう。
 細かい点を言うときりがないのだが、いくつか挙げてみると、大学問題と就職問題がリンクされていない点。前にも『論争・学力崩壊』を読んだときに書いたことがあるが、大学で何を学んだかよりもどこの大学を出たかと言うことが重要視されていることに触れずに、大学の問題について語ることは出来ないと思う。大学が冬の時代を迎えたのは少子化の影響もあるのだろうが、日本の経済不況の直撃を受けたためという理由の方が多きのではなかろうか。日本の大学教員が出世のために教育をおろそかにしていると書いてある部分もあるのだが(85ページ)、これは出世のためというよりも研究が出来なくなるため、というだけのことだろう。ちなみに、刈谷剛彦『アメリカの大学ニッポンの大学』(玉川大学出版、1992年)が指摘しているが、アメリカでも教育を担当している教官と教育から離れている教官との間に研究に携わりうる時間の格差があるそうであり、こうした問題は日本だけの問題ではないのだ。また、非常に細かいのだが、お茶の水大学に女性の学長が誕生したことについて私立大学では珍しくないことだが、「国立大学はやはり男性社会なのか」と男性社会に対する疑問を呈しているかのような文章があるけど(158ページ)、それでは新聞社はどうなのかと逆に言いたくなる。
 学力低下の問題に関しては岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数が出来ない大学生』の時にも「大学生の質が下がったのはやっぱり大学への進学率が上がって、以前よりは低い学力でも大学へ進学出来ることになった」書いたことがあるが、本書で引用されているデータによれば高校卒業者数は1991年から2001年の間に180万人から133万人へと減少しているが、大学・短大入学者数は77万人から73万人とほとんど変わっていない。あと最近の学生は勉強しなくなったという議論も見られるのだが、これには2つの注意が必要で、まず自分の過去の美化と「最近の若者は…」という問題。昔の大学の授業では講義室はがらがらだったということは珍しくなかったはずだ。そしてそれよりも重要なのが、勉強をしなくなったと言う人が大学教員に多いということ。この人たちは学生時代に勉強を進んでやっていた特殊な人で、周りの普通の学生は勉強をしてなかったという可能性もあるのだ。こういう人たちが「最近の研究者を目指すような」学生は勉強しなくなった、というのであれば正しいのかもしれないが、学生全体にその物言いをあてはめるのはどうも違うような気がする。自分が教員になってからの経験で語っているとすれば、先に書いた大学進学者の問題ゆえな気がする。別に今の学生を擁護したいのではなくて、出来る限りの調査をしてそれをとことんまで煮詰めた主張が行われていないのではないかと思っているにすぎない。
 1つだけ全然知らなくて興味深かった記述が、学校で教える上限と見られる指導要領を最低基準と見なすような見解を文部省が2000年秋頃から出したという部分。それじゃ、自分たちのやろうとしてるゆとり教育を、文部省自らが批判していることと同じになるのでは?


1月7日

 板垣恵介『バキ』(チャンピオンC、秋田書店)11巻を読む。(10巻はココ)。「アンチェイン」オリバ、範馬勇次郎が見守る中、シコルスキー対バキが開始。中断されて違う場所で行うも、途中に割り込んだオリバにシコルスキーが一蹴される…。どこまで強いやつが出てくるの? というか、派手に登場したシコルスキーが単なる雑魚キャラやん。


1月9日

 大橋良介『京都学派と日本海軍』(PHP新書、2001年)を読む。副題に「新史料「大島メモ」をめぐって」とあり、本書の後半部分ではその発見された大島メモの原文をおこしたものを150ページほどにわたって紹介している。前半部分は太平洋戦争開戦後に行った京都学派のメンバーと海軍軍人の秘密会合の様子を、京都学派のメンバーであった大島康生がメモした史料がごく最近になって発見されたこととからんで、京都学派の戦時中の行動について再考察を行ったもの。京都学派のメンバーが海軍関係者としばしば秘密会合を行ったことは、戦争協力の証拠として弾劾されがちな傾向にある。しかしながら、その背後には、大陸進出を志向する陸軍と、戦争の短期終結を主張する海軍との対立があった。秘密会合は、開戦に至ってしまった戦争をいかにして最小限の被害に留めて終結させることが出来るかを話し合ったものであり、秘密であったことが当時の状況をリアルに反映したものであったとする。
 こうしたテーマに沿って紹介されている個々の議論も非常に面白く、興味深い事実や見解が多かったのだが、タイトル(というか副題)と内容に少し食い違いがあることが気になる。前半部分の考察において「大島メモ」がどのようにこれまでの見解に新たな観点を与えるのかということは見られないし、「大島メモ」そのものに対する検証も行われていないのだ。そして、最初のうちは「大島メモ」がどのような経緯で発見されたのがまったく分からなくて、あとがきを読んで初めて分かる。『京都学派と日本海軍』というタイトルに偽りはなく、それだけを念頭に置いて読むと面白いのだが、副題の「新史料「大島メモ」をめぐって」ということに注目していた人は肩すかしを喰らうのでは? 「大島メモ」を刊行したことに意味があるのかもしれないが、それならば、大島メモを中心にした本を別に出すべきな気がする。これは編集者のミスかなあ(…最近、編集者のミス、ということを何度も言ってるような気がする)。ただし、本書のあとに別の本も出るそうなのでそちらでは、こうしたことがきちんと書かれてるのかもしれない。
 ちなみに、麻田貞雄『両大戦間の日米関係』(東京大学出版会、1993年)は、大戦間においてアメリカの戦略が国際協調関係的な新外交から植民地主義的な旧外交に転換したのに対して、日本ではその逆の道を辿り、さらに太平洋戦争を限定戦争と捉えてしまった日本海軍は戦略的な失敗を犯したとしている。
 ところで本論とは直接関係ないが、著者は田中美知太郎が戦中は京都学派の行動を冷ややかに見ていて、戦後はあくまでも学問的な発言に留まっていたとするが、果たしてそうなのだろうかと素人考えながら感じた。学術書においてはあくまでも学問的な記述に限定していたが、学術書以外においてはわりと保守的な発言を行っていたような気がするのだけれど。勘違いかなあ。


1月10日

 原哲夫・武論尊『蒼天の拳』(バンチC、新潮社)2巻を読む(1巻はココ)。上海に乗り込んだ拳志郎は朋友のために、上海を牛耳る紅華会に単身で戦いを挑む…。うーむ、何だかまだあまり面白くないなあ。『北斗の拳』の面白さは、舞台設定やストーリーよりもキャラクターの強烈さに負うところが大きいので、拳志郎以外に対した強いキャラが出てない現段階では今ひとつ盛り上がりに欠けるような気がする。といっても、『北斗の拳』に出てくる流派を使いこなす人物を出してしまうと話が矛盾するから、それよりも弱い流派の人物を出すしかないのだけれど、そうすると結局小物の敵で終わってしまうしなあ。難しいところだ。


1月12日

 斎藤美奈子『あほらし屋の鐘が鳴る』(朝日新聞社、1999年)を読む。以前読んだ『読者は踊る』が割と面白かったので、これも読んでみた。『uno』・『Pink』等に連載していた時事エッセイをまとめたもの。辛口エッセイといった感じで、女性雑誌評論が一番楽しめた。ただ、言いたい放題言ってたエッセイそのものが連載されていた『uno』自身が、廃刊されてしまったのは笑えるけど(その最終号で『uno』評論も行ったようだ)。永江朗『批評の事情』では、著者はフェミニストであるとされていたが、それよりはむしろ『おじさん改造講座』の人たちに近いオッサン嫌いの人のように思えた。


1月13日

 川原正敏『修羅の門』(講談社漫画文庫)11巻を読む(9・10巻はココ)。いよいよヴァーーリトゥード編が開始。10巻には、11巻の発売はそれまでの文庫版コミックの売り上げによって発売されるかどうかが決まる、と書いてあったので、11巻が発売されたということはどうやら売り上げは十分にあったようだ。ただ、私のバイト先の本屋ではこれはほとんど売れなかったのだけれど。


1月14日

 山村恒年・関根孝道編『自然の権利』(1996年、信山社)を読む。副題に「法はどこまで自然を守れるか」とあるように、人間だけではなく自然も権利を持っているのかという論理を法律学的に考証した本であり、いくつかの論文から構成されている。
 極論を言ってしまえば理論はあっても現実はない本。法律上における議論を限界まで突き詰めておくことはそれなりに意味はあるだろうと思うけど、自然を守るというのも1つのイデオロギーにすぎないのでは? 守るべき自然と守らずにすませてしまう自然の選択も所詮は人間の都合で選んでいるにすぎないと思うし。論者同士で意見が食い違うところもあるのだが「法の機能を、市民の自由を確保し、権力者の権力から解放することとする点では共通している」と序文に書いてあることから自然権論者と推測され、彼らとしては別に矛盾した考えではないのだろう。いま行っていることは人間の切実な利害に絡まない事例がほとんどだが、そのうち本当に自然環境の激変によって人類のエネルギー・食糧危機が起こって、生き延びるために自然を犠牲にするのかそれとも人間の数を減らして自然を守るのかの決断に迫られたときに、こうした議論の実効性が試されるだろう。先にも書いたけど、法律学的な議論を出来る限りやっておくことは無駄ではないのだろうけど、今のところは自分の生活から乖離した安全な場所で傍観しながら話し合っているようにしか見えないのだ。ただ、そのときにはこの本の共著者たちはこの世にいないだろうけれど。


1月15日

 彌永信美『幻想の東洋』(青土社、1987年)を読む。同じ著者による『歴史という牢獄』がかなり面白かったので読んでみた。古代ギリシア・ローマを源流とするヨーロッパ世界において、東方とは唯一の真理をもたらす世界であると認識される傾向にあったとして、そうした「幻想の東洋」がヨーロッパ世界においてどのように認識されていたのかについて、ザビエルの日本到来に至るまでの時期を論じる。
 個人的な趣味の問題かもしれないが、中世以降よりも中世以前の方が面白かった。次は近世・近代でも同じような考証をして欲しい。著者は次のように語っているので、書く気はあると思うのだけれど。「地球の丸さが、確実に証明されて〔相互に極を持つ南北とは違い相対的な違いしか東西にはなくなってから〕、もう500年近くがたつ…にもかかわらず、こんにちに至るまで、「東洋」も「西洋」も、れっきとして存在し続けている。「ヨーロッパ−西洋」がつむぎ出してきたのは、「東洋」についての幻想だけではなかった。この「東洋(そして「西洋」)そのものが、途方もない観念−普遍主義という観念−の産物なのである」(36ページ、〔 〕内は引用者註)。
 ところで、私の知人の古代エジプト史研究者によると、エジプト文明はその初期において外来文化を受容してその文明を築き上げていったのであるが、そうした影響を与えた文明には南部に位置するヌビアも挙げられるそうである。しかしながら、欧米人はそれを認めたがらないらしい。知人曰く「欧米人は自分たちの文明の源流はエジプトにあると勝手に思っているために、そのエジプト文明に黒人文明が影響を与えたことを認めたくない」とのことである。実際に、徹底的な調査もなされないままにダムの下へと水没させられてしまった遺跡もあるらしい。本書の定義からすれば、欧米人にとってエジプトは自分たちの真理の源流である東洋であり、その真理に黒人の影響があることは許せないのであろう。歪んだ形での「東洋」と「西洋」の概念が生き続けていることが分かる。


1月16日

 武田徹『偽満州国論』(河出書房新社、1995年)を読む。戦時中の満洲を論じるというよりも、満洲を材料として国家論を捉え直している本。論点が結構とんでいるので全体をまとめにくいのだけれど、幻想としての国家とリアリティのある都市との二項対立から、安易な国家論を廃して都市的な方向へと揺り戻すべきと提唱しているようだ。満洲という国家をだしにして、安易に日本人論をぶちかますことに対する一種の批判といった感じ。ただ、個人的に細かいエピソードの方がそういった大きな主題よりも印象に残っている。戦時中に現地人へと強制された日本語が現地人の日本への皮肉として逆に利用されたというエピソードがある。フィリピン人は「万歳」と唱和させられたとき、タガログ語で「死体」を意味する「バンカイ」と言い換えていたそうである。「日本語を日本的なるものの束縛から逃れる武器にすることもできるのだ」(120ページ)
 そういえば、古厩忠夫『裏日本』・川村湊『文学から見る「満洲」』と最近はなぜか満洲関連の本を読んでるなあ。


1月17日

 諸星大二郎『無面目・太公望伝』(潮漫画文庫)を読む。「無面目」は『荘子』の寓話に出てくる無面目というあだ名の思索の神・混沌を題材にした作品。宇宙の始まりから存在し続けたとされる無面目に対して訊きたいことがあるために、仙人の東方朔はのっぺらぼうの無面目に顔を描いた。質問に答えた無面目は下界に興味を持ち、人界へと向かうのだが、ときは漢の武帝の末年であった。宮廷の陰謀に興味を持ちつつ巻き込まれていく中で、無面博は思索の神としての自分を忘れていく…。「太公望伝」はその名の通り太公望が主人公であり、周の文王に出会うまでの遍歴を描いた作品。どちらの作品も現代人から見れば不条理な古代支那の呪術世界の不気味さをうまく描いている好編だと思う。
 ところで、先に書いた「無面目」の冒頭の東方朔の無面目への質問は、宇宙の以前はどうなっていたのかというものであった。これを読んだとき、P.C.デイヴィス『新しい物理学と神』で紹介されている物理学者たちの疑問、「宇宙がビッグバンによって作られたのならば、それ以前はどうなっていたのか」というのを思い出した。残念ながら無面目が東方朔にどう答えたのかは書かれていない。


1月19日

 馬波レイ・大地将『プロレススーパーゲーム列伝』(ソニーマガジンズ、2001年)を読む。プロセスを題材にしたゲーム・112本を集めてレビューした本。「ファイヤープロレスリング」にはまった頃を思い出しつつ楽しませてもらった。プロレス好きじゃなくてもゲーム好きならばなかなか楽しめるだろう。ただしその逆の場合は無理な気もするけど。ところで、記憶違いかもしれないけど、セガのアーケードゲームで実名レスラーをもじった2等身のキャラを動かすプロレスのゲームがあったんだと思うけど、それはこの本では紹介されていない。どんなゲームだったか気になるんだけど。あと、『ファミ通』のクロスレビューで2点を取った伝説のクソゲー・PS版「修羅の門」も紹介されてない。まあ、これはプロレスじゃないからしょうがないか。ちなみに、クロスレビューで2点を取ったソフトはこれしか知らない。他にも2点を取ったソフトはあるのかもしれないけど、あれは「ゼルダの伝説」(64版)が満点を取ったときよりも衝撃だったような気がする。


1月21日

 山形浩生『新教養主義宣言』(晶文社、2000年)を読む。経済・SF・サイエンス系を中心に、いままで発表した文章を集めて長い序文を付けたもの。著者が得意としている分野についてあまり詳しくない身としては、どの文章も教えられることが多かった。序文に書いてある、単発の知識として色々な要素を教え込むだけではなく、それをつなげていく教養の体系を伝えていきたいという姿勢は浅羽通明に近いような気がする。ただし、著者自身もあとがきで触れているように、文体は一昔前の橋本治に近いけど。こういう体系としての教養の仕事もガンガンやって欲しい。
 ちなみに、著者のホームページはこの本に収録されている文章はかなりの割合で読める。じゃあ、本にして出す意味があるのかな、とは思うけど、読み応えのある序文に価値があるということで。


1月22日

 生井英考『ジャングル・クルーズにはうってつけの日 ヴェトナム戦争の文化とイメージ』(筑摩書房、1987年)を読む。ヴェトナム戦争を政治史的にではなく文化史・社会史的に読み解いていく。これは自分の無知をさらけ出すことになるのだが、私にとってのヴェトナム戦争とは遠いものにすぎないのだな、と実感してしまった。個々の事例の中に興味深いと思うと思う記述はあっても、全体としてはそこに描かれているものが今ひとつピンとこないのだ。いまのアメリカの若者にとって、ヴェトナム戦争とはどんな意味を持つのか聞いてみたい気がする。私たちにとって太平洋戦争が遠いものになりつつあるのと同様に、ヴェトナム戦争もアメリカの若者にとって遠いものになっているのだろうか? もしくはヴェトナム戦争時代のアメリカを、荒俣宏『決戦下のユートピア』のようなスタンスで描いた本を読んでみたい。


1月23日

 高屋奈月『フルーツバスケット』(花とゆめC、白泉社)1〜8巻を読む。母親を亡くした女子高生の本田透は住むところもなく野宿をしていたのだが、そこは同級生の草摩由希の家の敷地内だった。なんだかんだで、透は草摩家の居候になるのだが、草摩家の人間は実は十二支の物の怪憑きであり、異性に抱きつかれるとそれぞれ十二支の動物に変身してしまうのであった…。
 ドタバタコメディっぽい展開なのだが、登場人物が心の内面に色々な思いを抱いており、シリアスな展開がときたま挿入される。泣かせようとして泣かせるのではなく、明るい話をしているのに思わずホロッとさせるような展開に持っていくのが上手いところが、なんとなく雰囲気的に川原泉に似ている。過去を回想するシーンで、コンピューターによる画像処理をしてちょっとぼやけ気味の画像にしているのも、効果的だと思う。ただ、草摩家のそれぞれの人間が抱えるトラウマが伏線として色々と張り巡らされているのだけど、それにきっちりと落ちを付けることが出来るのかどうかがちょっと気になる。


1月25日

 皆川亮二『ARMS』(サンデーC、小学館)20巻を読む(19巻はココ)。アリスに取り込まれたカツミは、破壊的な氷の力を操る「バンダースナッチ」へと変身してしまう…。どうでもいいけど隼人はともかくとして、涼・武士・恵がこんなにARMSなしでの戦闘に強いはずがないと思うんだけどなあ。


1月27日

 E.シュローサー『ファストフードが世界を食いつくす』(草思社、2001年)を読む。マクドナルド的な経営がいかにして現代社会を浸食しているか、店舗経営、パート・アルバイト労働者、生産者、原材料といった現場に関する取材を通して浮き彫りにさせていく。以前に読んだG.リッツア『マクドナルド化する世界』とは比べものにならないくらい水準の高いルポ。まあ、『マクドナルド化する世界』はルポなどというものではなくて、単なる偉そうな現代社会批判にすぎなかったのだが。
 ところで、著者は最後の方でマクドナルドでの劣悪な労働環境やサービスを改善することを提唱している。消費者としての私たちが、マクドナルドに代表されるファストフード産業なしでは、もはや生活に支障を来すところまでやってきてしまっているのだから、この主張は恐らく正しい。ただ、そうした改善はファストフード界そのものの改善にはつながるけれども、ファストフードを欠かすことのできない社会はさらに促進されてしまうのではなかろうか。だからといって、著者の主張とは違う建設的な代案を出すことは出来ないとも思うのだけれど。


1月28日

 福本伸行『アカギ』(近代麻雀C、竹書房)12巻を読む(11巻はココ)。鷲巣がテンパったカンドラ12の数え役満を、自分自身の揺れない心と安岡との連係プレーで阻止したアカギ。そして、「鼻が鈍ったな、鷲巣巌、怯えているから」と、鷲巣の生への執着を抉るように言い放つ…。鷲巣巌の本質を生きたがりのネズミにすぎないと見抜くのだが、いつものパターンならばここで終わるところ。だが、今回はそんなネズミという本質だけではこの国の王になれなかったはずだから、その奥にあるものを見たい、とアカギに呟かせている。話を引っ張るねえ。吉と出るか凶と出るか?


1月30日

 大月隆寛『独立書評愚連隊 地の巻』(国書刊行会、2001年)を読む。著者が今まで執筆した書評を網羅的に集めたもの。その多くに現在の短評が付されている。このサイトでは、書評本として立花隆『僕はこんな本を読んできた』、同『僕が読んだ面白い本・ダメな本 そして僕の大量読書術・脅威の速読術』、斎藤美奈子『読者は踊る』を取り上げたことがあるけど、この本が一番熱いかな(厚くもある)。演劇と競馬・馬関係については私はまったくの素人だが、それらを含めて取り上げた本やマンガなどの中でしょうもないものを、鋭くというよりも剛椀で猛然とバッサバッサと斬っていくのは、かなりエキサイティングだ。中でも一番楽しめたのは、書評の評論。それこそ容赦なし。まあ、気軽に感想文めいた文章を書き連ねているような私が偉そうなこと言うのも何だけど、なれ合いの書評って多いからなあ。ちなみにこの本は市立図書館で借りたのだけれど、地の巻はあっても天の巻はなかった。どこかにないかな?


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