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2001年12月の見聞録



12月2日

 曽田正人『昴』(ビッグスピリッツC、小学館)7巻を読む(6巻はココ)。刑務所での慰問公演を行う昴たち。そこで「異様」な空気を作った昴たちの公演は新聞の記事になり、ニューヨークのトップバレリーナ・プリシラ=ロバーツの目に留まる…。さっき「異様な空気」と書いたが、この場面が本当に凄い。踊ることが出来る自由をこれでもかと前面に出した昴の踊りが、囚人たちに牢屋の中で自分の自由が失われている状況の惨めさを思い起こさせて、昴に「踊りを止めてくれ」と泣き叫ぶシーンが見開きページで描かれている。その中で昴は「キモチイイーーーッ!」と心の中で叫んでいるのだ。阿鼻叫喚の群衆の中で飛び跳ねる天使といった感じなのだが、背筋が寒くなるぐらいに怖い絵だ。最後の方にも気になるセリフがあって、「(舞踏は)言語と違って観る者のエモーションを直接刺激できる…もし将来、人類が宇宙人と接触できたときに、最初に彼らと通じ合えるのはバレリーナなのではないだろうか」というセリフ。この人がマンガの中で登場人物にしゃべらせるセリフには、テーマとしてる題材の本質をつくようなものがいつも出てくる。
 ところで、どうでもいいのだがこの巻のサブタイトルである「Guns and Roses」は「Guns 'n' Roses」にして欲しかったなあ、やっぱり。


12月3日

 産経新聞の投稿欄のところに加藤秀俊氏のハングル語という言い方のおかしさを指摘するエッセイがあった。ハングルというのはアルファベットやひらがなと同じ文字の種類であっておかしな言い方であり、現在南北に別れている朝鮮半島の国家体制に遠慮して朝鮮語もしくは韓国語と言わないようにしているのはおかしい、といった趣旨のもの。ただ問題なのは内容じゃなくて、それは昔から呉智英氏が言っているのに加藤氏は文中で一言も言及していないこと。パクリじゃないのかなあ。


12月4日

 鷲田小彌太『新 大学教授になる方法』(ダイヤモンド社、2001年)を読む。タイトルには「新」と付いているが、10年前に出た『大学教授になる方法』(PHP、1991年(リンクは文庫版))『大学教授になる方法 実践編』(PHP、1991年(リンクは文庫版))のリニュアルというよりは、別のタイプの本である。ベストセラーにはなって一般人にも広く読まれたものの、どちらかというと大学院生もしくは大学院に進学しようとしている学部生向けであった前著よりも、本書は社会人もしくは大学教授という職業についてあまり知らない一般人向けといった感じである。その他にも、アメリカの大学教授にも終身雇用制度がある、という話などが書かれているアメリカの大学教授に関する実地調査の報告もある。
 大学教授になるための一般向けの分かりやすいガイド本であると思うけれども、気になることがいくつかある。まず、大学教授になるにあたっては、まだコネの力がかなり大きいことを書かなくていいのかな、ということが気になる。大学教授になるに当たってどのような研究態度を取り、生活を送るのかについては色々と書かれているのだが、コネのことに関してはほとんど書かれていない。大学教授になるには非常勤講師になることも必要だが、それも多くはコネである(もちろんある程度の業績がないとコネもくそもないが)。今は研究者人材データベースで公募状況を簡単に見ることが出来るが、それでも内定者が決まっていることが明らかな感じの公募情報も決して少なくない。たとえば、本書で公募情報の一例が挙げられているが、とある理由からこれは内定者が決まっているような感じを受ける。
 また、著者が勧める研究活動への情熱と、大学教授になりやすい専門との間の乖離についてはどうすればよいのかについて、コメントがないことも気になる。たとえば、今は福祉系・情報系が大学教授になりやすい分野だとしていてそれは事実だと思うのだが、それは大学教授になるにはそれらの学問をするべし、と言っているようでもあり、それらの専門に興味がないけれども大学教授になりたい人はどうすればよいのか、ということがよく分からないのだ。著者に言わせれば、そんなことは自分で考えろということなのかもしれないが、大学教授になりたいからといって福祉系・情報系を専門に選んだとすれば、もともと興味がないところを専門に選んだために研究・教育を十分に行わない大学教授が増える、という著者が望むのとは逆の状況が生まれるような気がする。
 最後に気になったのは、大学教授になって研究をしっかり行うためには学内行政に携わるべきではない、と著者は何度も言っているのだが、行政に関係する仕事をやりたいのではなくてやらねばならなかった教員も多いということに触れなくていいのか、ということである。著者は行政に関する仕事をやっていないようだが、他の教員にかなりのその分のしわ寄せが行っているのではなかろうか。そういう自分を棚上げしてしまっているような気がするのだけれど。
 大学教授になるためのより実践的なマニュアルとしては10年前の『大学教授になる方法』が、大学教授になるための初歩的なガイドとしては本書が、それぞれ向いているといった感じだろう。


12月5日

 貞本義行『新世紀エヴァンゲリオン』(少年エースC、角川書店)7巻を読む(6巻はココ)。エヴァ3号機に搭乗した親友のトウジを、自分の乗ったエヴァをリモートコントロールで殺させられたシンジはエヴァに乗ることを拒否する。しかし、リョウジの言葉に説得されたシンジは再びエヴァに乗り込み、エヴァとのシンクロが異常に高まったシンジはエヴァに取り込まれてしまう…。このマンガは地球に攻撃を行う「使徒」との戦いを描いたマンガなのに、バトルシーンの高揚感や意外なアイディアというのがほとんどないために、戦闘シーンになるとつまらなくなるという変わったマンガな気がする。


12月6日

 永江朗『批評の事情』(原書房、2001年)を読む。主に1990年代にブレイクした批評かを取り上げてその言説の紹介する。大抵の場合はその優れた部分を述べているのだが、たまに疑問も挟む。ただし、小林よしのり氏に対するものだけは例外で、かなりの嫌悪感混じり(感情が入った、とも言う)批判を、しかも他の人の紹介文のところでもしているしている。評論家を紹介するガイドブックとしてはそれなりによい出来なのではないかと思う。もしかしたら自分自身の紹介文を書いていたら、もっとスリリングな本になっていたかもしれない。


12月7日

 少年ジャンプ系の新刊コミックスを読む。樋口大輔『ホイッスル』19巻(18巻はココ)。東京選抜隊ソウル選抜の戦いは両者が終了間際に1点ずつゴールをあげて、3対3で終了する。そして、東京選抜の面々は新たにトレセンにおいて日本各地の選抜との戦いに乗り出すことになるのだが、同じく参加していた大阪選抜にはシゲの姿があった…。前に17巻を読んだときに、作者の言葉から「このマンガの主人公はあくまでもサッカーに対する熱意を持つ普通の中学生である。つまり、全国大会優勝とか世界を相手に戦いを繰り広げていくような、頂点を目指すスポーツマンガとは違うということになる」と書いたのだが、何だかそうではないような展開になってきている気がする。新キャラが続々登場して、ある種、「テニスの王子様」化している様でちょっと気がかりなのだが…。

 岸本斉史『NARUTO』10巻(9巻はココ)。ロック=リーvs.我愛羅。リーの命を削った「八門」も我愛羅には通じず、敗れる。そして、予選終了がして、ナルトは本線までの1ヶ月の間、自分を鍛える特訓に入る…。7巻か8巻辺りからその巻のハイライトとなるセリフをオビタタキに付けているて結構いい感じだったのだが、この巻のオビタタキは応募者全員プレゼント(マスコット)の告知のため、決めセリフはなし。残念。

 尾田栄一郎『ONE PIECE』21巻(20巻はココ)。サンジマネマネの実を食べたオカマ拳法の使い手とMr.2・ボン・クレーが、ナミvs.トゲトゲの実を食べた能力者のミスダブルフィンガーとナミが、スパスパの実を食べた全身刀人間のMr.1とゾロがそれぞれバトル。最後のページででゾロはMr.1を斬るのだけれど、その時の論法が何も斬らない剣=呼吸を知ること=鉄を斬るというのは何だか変な気がする。

 許斐剛『テニスの王子様』11巻(10巻はココ)。このマンガはテニスを楽しむスポーツマンがというよりは、美形キャラ同士の絡みを楽しむマンガになってきたなあ。


12月8日

 水谷千秋『謎の大王 継体天皇』(文春新書、2001年)を読む。跡継ぎを残さずに亡くなった武烈天皇の後に即位した継体天皇は、近江・越前を拠点とし「応神天皇五世の孫」と称する人物であった。このような遠い親戚が即位することになった理由は、武烈天皇が自分の親族を数多く殺害したために適当な人材がいなくなったためであった。その背景には、当時の王族たちが外戚である母方の豪族集団に依存して、王族としてのまとまりが弱かったことがあったとする。そうした中で、継体天皇は王族の一体化を図るとともに、弱体化しつつあった大和王権を立て直したのであるが、彼が後継者に指名した安閑天皇は殺害され、豪族たちが推した欽明天皇が即位した。これは継体天皇による専制君主化が否定され、豪族たちによる合議体制が確立したことを示すとする。そつなくまとまっている入門書といった感じで、この辺りの事情について知らなければ、まずまず楽しめると思う。ふと思ったのだけれど、血を受け継いだ子孫が途絶えることがなかったという点では、天皇家は歴史的に凄い存在なのだなあと思う。特に前近代では、子供が産まれなかったり、早死にしたりで、動乱に巻き込まれなくても断絶してしまう方が多いと思うので。それとも天皇家に子供が産まれなくて外部から密かに子供を養子として受け入れたということがあったのだろうか?


12月10日

 倉田真由美『だめんず・うぉーかー』(SPAコミックス、扶桑社)1巻を読む。作者と麻雀プロの友人を中心として、いかにだめな男たちと付き合ってきたかを読者から募って面白く紹介するマンガ。田島みるく『本当にあった愉快な話』で「恋のから騒ぎ」をやってるみたいな感じなのだが、なぜかそれほど笑えなかった。自分自身がだめんずに近いために素直に楽しめないのかも、とは思いたくないのだけれど…。


12月11日

 三代目魚武濱田成夫『俺の偉人達』(ぴあ、2001年)を読む。詩人である著者によるマンガ家との対談集。対談相手は板垣恵介・藤田和日ろ・能條純一・さだやす圭・高橋ヒロシ・井上雄彦・石川賢・小山ゆう・吉田秋生・森田まさのり・王欣太・本宮ひろ志・松本大洋の各氏。著者が、本当にマンガ好きであり読み込んでいる、ということが分かる一冊。ただし、読んでいて楽しいのだが、何か知見が得られるかというとそういうものはあまりない。喋っている当人同士は楽しいのだろうけど、第三者的な引いた視点というのもなければ、深さというものは得られないのだと思う。そういう意味では、著者のコメントなどが添えられていればよかったのだろうけど。最も、これは著者のせいというよりは編集のミスかな。マンガ家へのインタビューというのはそれほど数がないから、資料としては貴重だと思うけどね。


12月12日

 北条司『エンジェル・ハート』(バンチC、新潮社)2巻を読む(1巻はココ)。台湾の幇における内部抗争に巻き込まれたらしいガラスハートを助ける遼。そして、新宿ではついに銃撃戦が始まる…。1巻から気になってるのだけれど、喫茶「キャッツ・アイ」に海坊主はいても美樹がいないのは何故なんだろう? もしかして、彼女も死んでいるのか? と思ったけど、これは『シティーハンター』とは違う世界の話やねんな、一応は。


12月13日

 E.グリーン『《猿の惑星》隠された事実』(扶桑社、2001年、原著は1996年、改訂版が1998年)を読む。猿の惑星は当時のアメリカ社会における人種・階級差別を告発するメッセージが込められていたことを、各々の映画のシーンを詳細に検討することによって明らかにする。映画の中では、猿同士の間でもチンパンジーロゴリラでは差別があり、これはアメリカ白人内部における階級格差を反映したものでもあったとする。以前読んだ副島隆彦『アメリカの秘密−ハリウッド政治映画を読む』と同『ハリウッドで政治思想を読む』と同じような性格の本(どちらかで「猿の惑星」のことが取り上げられていたと思うのだが忘れてしまった)。「猿の惑星」は小学生の頃に第1・2・5作目を見ただけなので、そのようなメッセージが込められていることはまったく知らなかった。私は映画をまったくと言っていいほど見ないので論評する資格はほとんどないのだが、ここまで細かく検証を行っているのを読むと、さすがになるほどとは思わされる。サブカルチャーを鏡として同時代の社会論評を行うというのは、きちんとやり込まれていれば面白いという好例だろう。あくまでも「きちんとやり込まれていれば」なのだが。


12月15日

 坂上康博『権力装置としてのスポーツ』(講談社選書メチエ、1998年)を読む。戦前期、特に大戦間期の日本において、スポーツが国家のイデオロギーとして利用されていった過程を検証する。明治期には野球を始めとするスポーツは堕落を誘うものとして忌避される傾向にあったが、昭和にはいると娯楽としてではなく精神を鍛えるものとしてのスポーツという考え方が根付き始めた。そのように興隆しつつあったスポーツを、1930年代以前の政府は「思想善導」の手段として用いると同時に、国民の不満の目をそらす「安全弁」としても活用していたが、1934年前後を境に、後者の役目を切り捨てて国家主義の導入の道具として使うようになったとする。特に問題もなく妥当な主張だと思うのだが、戦争への緊張感が高まると政府が国民を統制するようになった、というごく当たり前となっている考え方を再確認するに留まっている気がしないでもない。ちなみに、ベルリン五輪で優勝と三位に入った「日本人」は孫基禎と南昇竜であったが、日本の新聞は朝鮮と日本の融和という観点から報道したが、朝鮮の新聞では日本の支配からの解放という主張を行ったという記述もある。こういう事実を教えてくれるのは有り難いものの、やっぱりごく当たり前の考え方の上に築かれた記述のような気がする。


12月17日

 桜沢エリカ『メイキン・ハッピィ』(祥伝社コミック文庫)上下巻を読む。平凡なOLだった都は、18億円の宝くじを当てて人生が変わってしまった。そして、ニューヨークで宝石や香水のビジネスを繰り広げていくのだが、彼女の心の中には満たされないものがあった。それはお金を手に入れた後に始めていったニューヨークで出会い、しばらく一緒に暮らしたトオルの存在であった…。18億円というお金をファッションの世界に注ぎ込むというバブリーな設定のように見えて、お金では満たされない心の内を描いているマンガであり、そうい心の寂しさの表現をするのに無駄な線のない画風がよく合っていると思う。ちなみに素朴な疑問なんだけど、18億円も当たる宝くじなんてあるのかな?


12月19日

 斎藤美奈子『読者は踊る』(文春文庫、2001年、単行本は1998年刊)を読む。流行りの本気にしてしまうそんじょそこらにいる普通の「踊る読者」を自認する著者が、テーマごとに本を取り上げてその紹介と書評を行うとともに、そのテーマに関する評論も行う。文庫化に際して、その後の事情に関する情報も書き加えられている部分が多数ある。書評・テーマに関する評論のどちらがメインになってる場合でも、必要な情報がきちんと拾い上げられるようになっており、かつ面白く読めるエッセイとして楽しめる。普通の「踊る読者」だと自称しているものの、書評を書くという面では明らかにプロとして優れとしているといて読みやすい。個人的に面白かったのは芥川賞候補作を読み比べて、芥川賞は文壇の就職試験であり、選考委員は人事部として自分たちへの仲間入りを認めるかどうかを話し合っていると述べた回(これが一番反響があったらしい)と、『大辞林』・『大辞泉』・『日本語大辞典』読み比べの回が興味深かった。
 同じようなタイプの本である立花隆『僕はこんな本を読んできた』、同『僕が読んだ面白い本・ダメな本 そして僕の大量読書術・脅威の速読術』が絞り込んだ情報のみを提示しているためにあまりにも簡素化されている(それを狙っているのだろうが)のに比べると、読み物としては明らかにこちらの方が楽しめる。まあ、読み物としての面白さは時事評論のセンスの差もあるような気がするけど。


12月20日

 羅川真里茂『しゃにむにGO』(花とゆめC、白泉社)10巻を読む(9巻はココ)。延久たちは2年に進級し、新入部員として延久にあこがれる白田と、ジュニア時代の留宇依を知っていて今はトラウマからプレイを出来なくなったいる黒田が入ってくる。そんな中、最後の大会に挑む青木は大胡落ちとのダブルス初勝利を目指して延久と留宇依から特訓を受ける…。試合で集中力を失う留宇依が、壁を乗り越える瞬間を見ることが自分の勇気につながるという黒田の言い方はかなりアクロバティックな気がしないでもない。


12月21日

 福永光司『「馬」の文化と「船」の文化』(人文書院、1996年)を読む。著者が色々なところに発表した文章を集めた評論集。本書の主題である冒頭の何本かの評論では、古代中国は北方の馬の文化と南方の船の文化が共存しており、前者が儒教的、後者が道教的であるとし、日本は両者の影響を強く受けていたことが述べられている。
 論点としては非常に面白く、文献史料を丹念に収集して時には考古資料も交えつつ論を展開しているのだが、それほどはっきりと二分されるものなのだろうかという気がする。たとえば、馬の文化を儒教をベースとした騎馬民族の文化であり道徳的な規律を重んじるとしているのだが、白川静『孔子伝』(中公文庫、1972年(原著))などによれば儒教の根本は呪術的なものであるとされ、また孔子も漂白のうちに人生を終えたとあり、こうした孔子および儒教の概念と著者の定義する儒教および馬の文化は相容れないような気がする。また、以前に徐朝龍『長江文明の発見』を読んだときにも、「南方は船の文化」という印象はあまり受けなかったように覚えている。中国が複数の文化圏から成り立っているのは事実だろうけれども、その分類があまりにも鮮やかすぎるのではなかろうか。


12月23日

 大澤武男『ユダヤ人とローマ帝国』(講談社現代新書、2001年)を読む。ヘレニズム期以降から古代末期に至るまでのユダヤ人の歴史をローマとの絡みを中心に論じたもの。ホロコーストのような近代におけるユダヤ人迫害が、古代においても生じていたことを主張している。それなりに、読みやすい概説書であるが、それ以上でも以下でもない。一番面興味を引かれたのが、プロローグにおいて紹介されているN.G.フィンケルシュタイン『ホロコースト・インダストリー』の文章だった。その本では、ホロコーストの悲劇がユダヤ人団体によって恐喝の道具として使われていることが批判されているそうである。日本における戦後補償問題に関する論争とも重なり合うような現象だと思うが、古代のことを扱った本の中で一番興味深かった文章が現代の事件を紹介しているところだった、というのは皮肉な気もする。


12月24日

 三浦健太郎『ベルセルク』(ジェッツC、白泉社)22巻を読む(20巻はココ)。ゴドーの墓前に帰ってきたガッツは再生したグリフィスに遭遇する。怒りのままグリフィスに突っ込むガッツを止めたのはゾッドであった。ガッツの元を去ったグリフィスはクシャーン軍の元に乗り込み、馳せ参じた数人の戦士たちとともにクシャーン軍を潰滅させる…。相変わらずストーリー全体の流れはよく分からないのだが、有無を言わせぬ迫力で押し切ってしまう力技はやっぱり凄い。ところで、ゾッドがガッツに向かって「よくぞ我が預言を打ち破り生き残った」というのは変な気がする。「預言」は「予言」と違って神の言葉なのだから、打ち破られたら預言じゃないと思うのだけど。


12月26日

 井上京子『もし「右」や「左」がなかったら』(大修館書店、1998年)を読む。言語人類学者による最新の研究成果を踏まえた上でのエッセイ的な読み物。表題となっているエッセイによれば、人間が方向について言及するとき、ある特定の視点を中心として座標軸を設定する総体的指示枠だけではなく、羅針盤の方位に相当する絶対的な方角を設定してしまう絶対的指示枠、何らかのものが座標軸の中心点となる固有的指示枠の3つの視点があるとされる。絶対的指示枠は日本人も用いている世界で最もポピュラーな方法であるが、絶対的指示枠を用いている民族は現在でも決して大多数であるわけではなく、それらの中には「右」や「左」という単語そのものがない場合もあることを紹介している。
 他にもそれなりに面白い事例があげられているのだが、気になるのはそうした事例を取り上げるだけの文化相対主義的な傾向が窺えること。これではかつての文化人類学と同じ道を辿るだけの気がするのだが。
 ちなみに、本書で取り上げられている「右と左の問題」と「太陽は男か女か」の問題は、福永光司『「馬」の文化と「船」の文化』でも取り上げられており、北方の「馬の文化」では太陽は男性的な存在であり左を重要視したのに対して、南方の「船の文化」では太陽を女性と見なす信仰があり右を重視したとされている。


12月27日

 小山ゆう『あずみ』(ビッグC、小学館)24巻を読む(23巻はココ)。伊達政宗の元に集う幕府転覆計画への参画者を斬るあずみ。それを目撃した宮本武蔵は、あずみの卓越した剣術に強い関心を持つ…。まさか、宮本武蔵が登場するとは思わなかった。それにしても柳生宗矩が陰謀者たちにあずみたちのことを知らせたということを、たった2コマと言葉だけで書くのは何だかもったいない気がする。余計な複線を造るよりも絞ったストーリーを見せたいという配慮なのかもしれないけど。

 七月鏡一・藤原芳秀『闇のイージス』(ヤングサンデーC、小学館)5巻を読む(3巻はココ)。雁人vs.ゼロ三度勃発。ユーゴのバイオリン演奏者をモチーフにした作品をセリフなしで描くなどの実験的な作品も収録(話としてはそれほど面白くないけど)。ただ、身近な人間が実は犯人というパターンがこの巻でも使われているのはやっぱり気になるけど。


12月29日

 古厩忠夫『裏日本』(岩波新書、1997年)を読む。明治以前には海運産業を中心として自立的な経済状態を維持していた北陸・山陰地方が明治以降の太平洋を中心とする開発のために、「裏日本」として従属的な地位に陥ったことを様々な統計データを元に論じる。ウォーラーステイン氏による世界システム論の定義を用いて「裏日本」は、東北・四国といった周辺世界と違い半周辺世界と定義しているのは面白い。
 ただし、かなり豊富な統計データを用いているにもかかわらず、肝心なところで統計データが弱いことも若干気になった。著者は裏日本の住民が還日本海世界として朝鮮・満洲へ関心を抱き、満洲への移民において新潟港・敦賀港が中心的な役割を果たしており、満洲への移民に裏日本の住民が多数参加しているとしている。しかし、移民数についてのデータは掲載せず、県別順位では最高でも新潟の5位であることを述べているにすぎず、「新潟を除いてはとりたてて多くはないが、人口比で見るとかなり高位になる」(143ページ)と書いている。これではせっかくの主張の裏付けが弱くなってもったいないのではなかろうか。
 あとこれは欲張りな欲求なのかもしれないが、なぜ太平洋側中心の開発になったのかについての考察が見られない点や、開発に携わった人々の言動がほとんど出ていない点が気になった。太平洋側中心の開発は、単に諸外国との関係が太平洋側中心だったからだろうと思うが、当時の政府の人間がそのようなことについて言及している史料があればさらに掘り下げた考察を行うことができたのでは?
 ちなみに、この本の中の雑学的な知識の中で、一番面白かったことは序章に書かれていることであった。1つは山手線の電力が信濃川の発電所によって賄われており、そのために取水制限が行われている信濃川は河床を露呈しているということ。もうひとつは、「裏日本」という言葉に差別的な意味が窺えるために、NHKが1960年から使用しなくなっており、変わりにに「日本海側」という呼称を用いるようになったということ。
 ところで、本書で紹介されている松尾小三郎『日本海中心論』(大正11年)で主張されていた「日本海中心の東洋平和策による民衆的海運政策」というのを読んで、宮崎学『アジア無頼−「幇」という生き方』の「アジアには国民国家型のナショナリズムは不要であり、自立した民族同士の自由なネットワークこそが必要である」という東南アジアの有力者の言葉を思い出した。


12月30日

 田島隆・東風孝広『カバチタレ』(モーニングC、講談社)9巻(8巻はココ)を読む。8巻のところで「依頼者が絶対善でないところがいい」と書いたのだが、この巻の話ではどちらかというと依頼者がいい人で、それを追い込む人が悪い人という図式になっている。この巻だけのことなのかもしれないけど。話は相変わらず面白いけどね。ちなみに毎度おなじみ青木雄二氏のオビタタキの言葉は「青木雄二もガッテン!ガッテン!」。もうネタ切れっぽい。

 田島隆・東風孝広『極悪がんぼ』(モーニングC、講談社)1巻。上記『カバチタレ』が微妙に方向転換の兆しを見せる一方で、同じ作者たちによるこの新しい作品は、見事なまでに小悪党どもの蠢くマンガとなっている。悪党じゃなくて小悪党というのがふさわしい人物がこれでもかと登場して、登場人物に対してだけではなくて話の流れ的にも読んでいて胸くそが悪くなるような思いになる場面もある。たとえば主人公が借金のかたに土木現場に放り込まれる場面があるのだが、同じような場面があった福本伸行『博打破戒録カイジ』などよりも、生々しくて読むのが怖い。不当な価格で売られている甘い食べ物に餓鬼のように群がるオッサン達の絵はおぞましいほどだ。それでも、小悪党たちが色々なやり方で金を奪い取る物語はこれからもっと面白くなる可能性がある。この路線で突っ走って欲しい。


12月31日

 日垣隆『それは違う!』(文春文庫、2001年)を読む。『「買ってはいけない」は嘘である』(1999年)に加筆・修正を行い文庫化したもの。『買ってはいけない』に対する詳細な検証やダイオキシンと環境ホルモンに対する行き過ぎた危険性の主張への冷静な反論、オウム信者に対する行政側の受け入れ拒否という人権無視などの問題について取り上げている。
 この人の特長であり優れていることは、徹底的な資料の調査だろう。ダイオキシンにしろ環境ホルモンにしろ、それについて書かれた原資料にまで逐一当たって、伝聞記事を一切排除している。この人の姿勢が目立つのは、ジャーナリストとしては本当は当たり前の基本であるはずの徹底した取材を出来ていない人が多いと言うことだろう。だからこそ少し残念なのは、その原資料の表記が今ひとつ分かりにくいことだ。本当に重要な文献だけを提示していることは戦術として正しいのだけれど、挙げられた文献の著者名とタイトルは書かれていても、その雑誌の原タイトル(日本語に訳したタイトルだけが載っている場合はある)や巻号数、発行年、ページ数が載っていない場合が多い。重箱の隅をつつくような物言いなのだが、著者が論戦を仕掛けている相手は、自分の言い分に勝ち目がないと悟ると細かい突っ込みをしてくるような人たちなので、こういうところにも気を配っておいて損はないように思う。というか、編集者がフォローすべきだろう。
 そういう細かい(つまらない)突っ込みはおいといて、著者が取っている論法は戦術的には完璧でも戦略的に有効かという問題があるような気もする。データに基づいた論理的な著者の批判は、「企業が本当のデータを隠しているために、そのようなデータになるにすぎない」という揚げ足取りに向かうだろうからだ。つまるところ相手の土台へ入り込んでしまえば、うやむやのうちに泥仕合で終わらされる可能性が高い。現代食汚染論者に一番聞いてみたいことは、じゃあ何で現代以前のいつの時代よりも寿命が長く餓死者が少ないのかということ。それは現代の先進諸国の人間が発展途上国の人間や弱者を踏み台にしているからだと反論するならば、現代食汚染論者は自分たちが推進しようとしている食生活が、どれほどのコストで運営できるのかどうかをきちんと示さねばならないだろう。ちなみにこうした人々は弱者の味方を自称していることが多いが、もし本当にそうであるならば、著者が弾劾しているように彼らが『買ってはいけないで』推進した反対運動のおかげで、知的障害者を雇っている零細企業の商品を潰してしまったことに対して、きちんと筋を通した説明を行わねばならないだろう。
 また、オウム信者の移転を断固として拒否もしくは阻止した行政や地域住民に対して批判を加えているが、その理論はもっともだとしても、私はオウム信者には同情しない。オウム真理教の教義がどのようなものかは知らないけれど、現世での利益を求めるならば、それは単なるイデオロギーに基づいた政治派閥にすぎない。来世での幸福を求めるならば、これこそが試練であるとして喜ぶべきだ。もし、信仰ゆえの様々な災難を恐れて幸福を望めないならば、信仰は捨てるしかないだろう。
 ちなみに、著者のサイトはかなり充実している。言論で商売していることに、ここまで責任を持っているプロのジャーナリストはいなかったのではなかろうか。


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