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2002年3月の見聞録



3月1日

 畑中敏之『「部落史」の終わり』(かもがわ出版、1995年)を読む。近世以前の非人制度と近代以降の部落を別のものとすべきという立場にある著者による評論集。部落民であることを誇るべきという主張を否定する立場でもある。それは戦略としては正しいと思うけど、戦術としては著者が否定しているやり方もありなのではないかという気がする。現在、学歴社会での階級差が生じ始めてそれが再生産されている傾向が強いので(たとえば、取り上げたことのあるものとしては刈谷剛彦『大衆教育社会のゆくえ』)、そのときに「部落民であるから、教育の恩恵にも授かれない」みたいな主張をするのはありかもしれない。こういう提言は、現在も部落差別に悩んでいる人たちから見れば無責任な物言いかもしれないが、この問題が部外者にとって難しいのはまさにこの点にあり、当たり前のことであるが自分の問題ではないことに由来する。ぶっちゃけて言えば、真剣になれないのだ。「部落差別はいけない」と頭では分かっていても、それを解消するにあたって具体的に何をすればいいのかが、部落に属していない人間には見えてこないのである。部落出身者が悪いわけではないのだが、さっきも言ったような学歴社会の階級差で下層に位置する人たちと利害関係を摺り合わせていって、活動を幅広いものにするという戦術もまた必要な気がする。そうでないと、使命感に燃えている人以外の部外者を取り込むことは難しいだろう。


3月2日

 かわぐちかいじ『ジパング』(モーニングC、講談社)6巻を読む(5巻はココ)。アメリカ海軍との戦いのさなか、一戦闘機は「みらい」に玉砕覚悟で突っ込んでくるが、「みらい」はこれを撃墜する。そして「みらい」は自らの決断で戦艦にミサイルを発射する…。ついに、「みらい」が自分の手を汚して自分の道を切り開こうとする展開に突入。個人的には「みらい」そのものではなく、「みらい」の乗組員が壊れていく展開になったら凄まじいものになりそうなのだけれど、この人の作風からいってそうはならないんだろうな、たぶん。


3月3日

 北山晴一『美食の社会史』(朝日選書、1991年)を読む。フランス革命以降から19世紀のフランスの食生活を検証する。フランス革命以前は素材第一主義であったが、フランス革命を境に現在のような形態のレストランが登場していく過程を描き、また高級レストランが、格差維持手段として用いられていたことを具体的なレストランの描写から明らかにする。フランス革命直後の騒乱のさなかでも食欲への欲求は消えなかったという辺りは、すでにかなり前から言われている「祭典としてのフランス革命」という見方に一致するものだろう。どうでもいいけど、この本が10年前に出たものだなあと思いださせてくれたのは、日本の土地投機についての記述が見られる、バブルが弾ける直前に書かれたあとがきだった。


3月4日

 板垣恵介『バキ』(チャンピオンC、秋田書店)12巻を読む。(11巻はココ)。シコルスキーを捕まえたのもつかの間、ドイルが警視庁にいたオリバにドイルが戦いを挑む。決着がつかずに闘争したドイルに、鎬昴昇が迫る…。ドイルは結構強い。これじゃ、シコルスキーは本当にやられ役だな。それと、まさか鎬昴昇がでてくるとはなあ。確かにドイルの「刃」と鎬昴昇の「刃」の戦いは面白そうだけど。このマンガは過去のキャラの再利用がうまいね。


3月5日

 吉田秋生『YASHA』(フラワーC、小学館)11巻を読む(10巻はココ)。スミスの日記を探させられ故郷の奥神島に連れてこられた静。結局は見つからず沖縄に戻ってきた静と凛を抹殺すべく桜井一佐の引き連れる集団が襲いかかるも、二人の人智を越えて通じ合うコンビプレーに迎撃されて失敗する。そして、凛のためを思って裏切りとなってしまう行為をした尊は、それを知った凛に刺される…。
 相変わらず面白いのだけれど、別の意味で笑わせてもらったのは、このマンガが小学館漫画賞を受賞したことについてコメントしたある審査員の言葉。「高い知性を持った新人類の登場というSF的な設定ではあるが、学術的な専門用語を多用して、妙にリアリティーがある」。舞台設定はリアルなのかもしれないのだけれど、物語の進行は全然リアルには見えないマンガを書いているあなたには言われたくないなあ、弘兼センセ。物語の面白さはリアルかどうかだけでは決まらないのに、「リアル」ということにしかこだわりを持てないから、そんなことしか言えないのだろう。


3月7日

 武田徹『若者はなぜ「繋がり」たがるのか』(PHP研究所、2002年)を読む。副題に「ケータイ世代の行方」となっている、主に現代の風俗に関する時事評論集。そつなくまとまっているとは思うけど、何だか熱さがない文章に見える。熱さがないからそつなくまとまっているのかもしれないけど。十年ぐらい経ったときに十年前の流行を振り返るときに読むのがいいのかもしれない。1つ鋭いと思った指摘があって、ラッシュ時の電車の中で、「ペースメーカーご使用者のために電源をお切り下さい」というセリフは、電話をやめさせたいがために弱者救済を引き合いに出しているにすぎず、そこには携帯電話使用者と同じ「他者の不在」が見られる、という指摘。なるほどと思って、今日電車に乗っていてこのセリフが聞けるかと思っていたら、なぜだかこのセリフがなかった。たまたまなのか。それとも今はもう止めてるのか、どっちだろう?


3月8日

 諸星大二郎『碁娘伝』(潮出版社、2001年)を読む。唐の時代を舞台にした、碁も剣の腕も立つ美女・碁娘(ちなみに「ごじょう」と読む)の物語。4話からなる短編集なのだけれど、1話目が1985年で最終話が2001年と、完結にえらく長い時間がかかっている作品。いちばん面白かったのは翅鳥剣の話。逃げていっても石が取られてしまう碁の「征」という盤面になぞらえた作品で、特にクライマックスを描いている技法は上手い。碁娘が殺そうとしている相手が逃げているシーンと、碁娘が剣客と戦っているシーンがそれぞれ上下別々のコマに何ページかにわたって描かれて、逃げていたはずの相手が碁娘のところにめぐりめぐって戻ってきて結局は斬られてしまうシーンで1つの大きなコマに戻るのだ。その2つの話の流れを自然な感じで同時に追うことが出来るようになっていて技ありという感じだ。


3月10日

 ロンダ=シービンガー『ジェンダーは科学を変える!?』(工作舎、2002年、原著は1999年)を読む。近代科学から女性が排除されてきた歴史に触れ、現在でも女性らしさというジェンダー的な意識が女性の科学分野への進出を阻んでいるとする。まあ、それは事実なのだろうし、研究分野への女性の参加を促そうとしている人たちに敬意は払うのだけれど、むしろ科学者はかっこいいというイメージを作らなければ、男も女も科学者にはなろうとしないのではなかろうか。あと、科学者になるためには、恐らくモラトリアムの期間を必要とするのだが、そのときに世間のある種の蔑視に耐える必要があるということを、一流の研究者でありそのような体験をあまりしていないであろう著者は分かっているのかな、という気もする。そして、アメリカで起こったような黒人へのアファーマティヴ・アクションへの反動と同様のことが女性の科学分野への参入に対しても生じたときにこそ、誠実な態度が求められるだろうな、と思う。
 ふと思ったのだが、研究に携わる女性は自分の研究の脂がのり始める頃に妊娠することがあるために、男性の遅れをとるということが少なからず起こりうると思うのだけれど、それを避けるために体外受精を行うという女性研究者が現れるときが来るのかもしれない。
 ところで、本書の中心テーマとは関係ないが、アメリカの論文の半分以上が一度も引用されていないし、80%が一度しか引用されておらず、しかもその引用も自分自身による引用であるという記述があった(65ページ)。これは他の人のデータの引用みたいだが、これがもし本当に事実ならば「1.5人しか読まない」と言われている日本の論文とそれほど変わらないことになる。


3月11日

 森田まさのり『ROOKIES』(少年ジャンプC、集英社)18巻を読む(17巻はココ)。笹崎高校との試合がいよいよ始まる。観客からのブーイングを受けながらもがむしゃらに試合を進めることによって、観客席の雰囲気も変わっていったのだが、若菜が指に当てながらもポテンヒットを放つが、そのために骨折し「夏は絶望的」と球場の医師に宣告される…。ということは、この試合は負けるということか? でもそうなったらものすごく長いマンガになってしまう気がする。それとも、若菜が控えのまま=脇役に格下げのまま甲子園に行ってしまうのか?

 岸本斉史『NARUTO』(ジャンプC、集英社)1011巻(9巻はココ)。予選も終了し、本戦の日が近付いていくのだが、砂と音による木の葉への戦争の謀略が徐々に明らかになっていく。そんな中、ナルトは大蛇丸と同じ三忍の1人・自来也の修行を受け九尾のチャクラを引き出す術を身につけようとする…。陰謀が起きるという話の持って行き方そのものは面白いのだけれど、どうも舞台設定が分かりにくいからもったいない。同じように九尾のチャクラも初めの方の設定がそれほどシリアスなものではなかったため、ここに来てなぜそもそも九尾がなるとの中にいるのかという部分が気になり始めてしまった。『少年ジャンプ』連載の漫画につけるべきケチではないのかもしれないけど。

 宮下あきら『曉!!男塾』(スーパージャンプC、集英社)2巻を読む(1巻はココ)。赤石剛次の息子・十蔵が登場…って、赤石剛次は確か『魁!男塾』の中で死んだんじゃなかったっけ?


3月12日

 藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』(朝日選書、2001年)を読む。「七度の餓死にあうとも、一度の戦いにあうな」という格言の真意を飢餓と戦いの続いた中世日本の中に探る…と書かれているのだけれど、むしろ中世の民衆のサバイバルについて描いた書。以前読んだ同じ著者の『雑兵たちの戦場』と比べて、より下層階級へと視点を移した感じだ。論文の寄せ集めという感が強くてまとまりには欠けるが、それぞれ独立した論文として読めばそれなりに面白い。中世の飢饉において生産地がまず飢餓状態になるのは、生産地が自給自足ではなく権力者のいる都市に従属して、食糧を供給する基地としての役割を果たさざるを得なかったがゆえに、この需要バランスが崩れると生産地がまずダメージを受けるため、という説など様々な興味深い話が随所に見られる。また、この本に紹介されている書籍に興味深そうなのが多かったのが嬉しい。


3月13日

 鈴木みそ『おとなのしくみ』(エンターブレイン)4巻を読む(3巻はココ)。突然の連載終了でビックリしたけど、こうやってまとめて読み返してみると、最後の方は疲れがたまって苦しみながらかいてるよるなあ、というのが如実に分かるのであった。個人的に好きだった「ブラッキーシリーズ」が読めなくなるのは残念。それと、今までどの巻も多かれ少なかれ問題が生じたけど今回もやっぱり起こって、韓国ゲーム紀行の回が韓国のウェブ上で翻訳されて、韓国では反発が生じたらしい。韓国ではゲームのほとんどがコピーだということを紹介したことだけではなく、ジョークっぽく書いている部分も曲解されたらしい。後者はともかく、前者については「しつけが悪い」という言い方がなされているが、規制があるかないかの方が大きいと思う。日本でも昔はパソコンソフトのレンタルショップは決して珍しくなかったけど、今は規制によってほぼなくなってるはずだし。そういえば、『オールナイトライブ』も連載終了するみたいだけれど、これからどこに描くのかな?


3月15日

 浦沢直樹『MONSTER』(ビッグコミックス、小学館)18巻を読む(17巻はココ)。ついに完結。17巻の時にも書いたけど初めから中間部にかけての話の盛り上がり方(テンマがヨハンを狙撃しようとするあたり)に比べて、ラスト前は話が妙にちっちゃく終わってしまったような気がするなあ。もちろん、損所そこらのマンガよりも面白いのは間違いないのだけれど、張られていた伏線がすべて解決していないからかもしれない。著者はわざと読者の想像に任せたかったのだと思うけど、複数の登場人物の物語を組み合わせることによって1つの大きな主題を構成するという手塚治虫的なストーリー造りの妙を味わいたかった身としてはちょっと不満、かな。贅沢な不満だとは分かってるんだけど。

 曽田正人『昴』(ビッグスピリッツC、小学館)8巻(7巻はココ)。刑務所での昴の踊りに興味を覚えて訪ねてきたNYCBのプリンシプル・プリシラ・ロバーツのダンスを見て、始めて他人のダンスに圧倒された昴。ひたすら何時間も基本中の基本のポジションで立ち続けるプリシラに「“立つ意味”って考えたことある?」と問いかけられる…。またしても、謎かけめいた言葉が出てきた。プリシラ=ロバーツの強烈なキャラと相俟って、濃い展開が期待できそう。


3月16日

 T.フジタニ『天皇のページェント』(NHKブックス、1994年)を読む。近代日本において、天皇の巡幸と天皇を中心とする儀式や皇居などの景観創出によって、すべての権力を見渡す権力の中心として構築されていった過程を追う。近代日本において、天皇制がいかに利用されてきたのかということを、社会史的な観点から検証している読みやすい本だと思う。天皇の戦争責任や天皇制廃止を声高に主張している人は、それが単に悪だと主張するだけではなく、こういう真摯な研究成果を取り入れてるのかな、という気がする。ふと考えたのだけれど、天皇制廃止を訴える便法として「天皇制を維持するために使われている税金を不況対策に回すべし」みたいな主張をしている人はいるのだろうか? まあ、これは単なる思いつきの言い方だけれど、天皇制廃止がイデオロギーの問題の土俵だけで行われている限り、廃止が本当になされることはないだろう。反対運動をしている人も反対をしている自分に酔ってるだけかもしれないのだが。


3月17日

 ミスター高橋『流血の魔術 最高の演技』(講談社、2001年)を読む。副題に「すべてのプロレスはショーである」とあるように、プロレスは最初から勝ち負けが決まっており、マッチメイクを決める人間がどちらが勝つかを決めて、レフリーが試合前や試合中にレスラーにジェスチャーや耳打ちによってそれを知らせるということを、元レフリーの立場から暴露する。ただし、プロレスというよりはほとんどの記述は新日本プロレスに限定されており、さらにはアントニオ猪木を中心とした叙述になっている。アントニオ猪木のファン、もしくは興味がある人ははこれを読んで損はしないと思う。アントニオ猪木がシュートの実力も持った天才的なパフォーマーだということが分かるので。
 著者は、日本のプロレスもWWFのようにストーリーが最初から決まってることを公言して、エンターテインメントとして運営して行くべきだとしているが、カミングアウトすることが必要かどうかは分からない。WWFがカミングアウトしたのはごく最近のことで、その前から人気があったはずであり、カミングアウトしたから現在の人気に至ったというわけではない気がする。プロレスファンは結果よりも過程にこだわっているので、その部分の精度を上げるべきではなかろうか。ストーリーが綿密に練られているとされるWWFも、試合内容とあからさまなフィニッシュの決め方は、見ていてつまらないことは多々あるので。でも、今のままだとプロレスは所詮八百長だと思っている人間をファンとして獲得できないような気もするし、難しいところなのだけれど。

〔追記〕
 Amazonのリンクを張っていて気づいたのだが、Amazonのカスタマーレビューでは、そんなに売れているわけでもないのに、この本のレビューがやたらと多い。プロレスファンが内輪の論争で熱くなる傾向が強いということを示している気がする。〔2003年2月7日〕


3月18日

 北条司『エンジェル・ハート』(バンチC、新潮社)3巻を読む(2巻はココ)。グラスハートと新宿を守るために青龍との戦いを始めた遼。青龍の陰謀に気付いた李大人も自らの隠密部隊「玄武」を使い、娘であるグラスハート彼女を愛する青龍部隊に属する青年を守ろうとする…。ごく初期を除いて『シティーハンター』では人殺しをしていなかった冴羽遼が青龍部隊のボスを普通に暗殺している…ってこのマンガは『シティーハンター』のパラレルワールドということになってるんやったっけ。
 それよりも気になったのは、このマンガが香港で18歳未満禁止指定になったと作者のコメントに書かれていたこと。どこも別にダメなところはないと思うのだけれど。18歳未満禁止を決定した人にどこを読んでそう思ったのか聞いてみたい。もしかしたら日本人と中国人のエロの基準の感覚の違いが比較できるのかもしれないので。それとも、日本でも30年以上前だったら18歳未満禁止になったのなのだろうか。


3月19日

 島田紳助・松本人志『哲学』(幻冬社、2002年)を読む。お笑いや自分の生き様など様々なテーマについてリレー形式でつづったエッセイ。巻末に石川拓治の短いルポも収録されており、文体からすると二人の話をこの人がまとめたようである。島田紳助・松本人志のファンならば読んで楽しめることは間違いないと思う。松本という芸人は頑固一徹なそれだけが生き甲斐の笑いの職人、ただし天才的な職人なんだという気がする。


3月20日

 福本伸行『賭博破戒録カイジ』(ヤンマガKC、講談社)5巻を読む(3・4巻はココ)。チンチロの大勝負に勝ち班長の所有していた1800万ペリカを奪い取ったカイジ。仲間にペリカを換金したお金を託され地上に戻り、博打で自由を勝ち取れるだけの金額を勝ち取ろうとする彼の前に、坂崎と名乗る中年の男が現れ、帝愛裏カジノの1玉4000円のパチンコでのイカサマ話を持ちかける…。今度はパチンコ勝負のようだが、他力本願的な要素が強いパチンコみたいな博打で、うまくイカサマの混じり合った攻防を描けるのかどうかがちょっと気になる。最初の限定ジャンケン編だけが多人数がお互いに争いあっていて、あとのシリーズは1対1か自分との戦いだったのであり、限定ジャンケンだけが特殊かつ突出していたのだなあ、ということがよく分かる。


3月21日

 切通理作『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書、2001年)を読む。宮崎駿の作品論を当事者たちの言葉を引用しながら展開する。こういう文芸論は、その作品が社会の中でどのような位置にあり、また作者自身がそれとどう関わっていたのかというところまで踏み込んでいかないと、感想付きの単なる詳しい作品紹介になってしまうのでは? たとえば、宮崎は人を見下してからかうTVのお笑い番組が嫌いだと発言しているが(226ページ)、この発言から宮崎の作品には道化の存在が認められないと指摘するだけに終わっている。しかしながら、そこから不真面目なキャラの存在を許されぬ宮崎作品の精神性、また宮崎自身の共産主義への思い入れとギャグの存在が認められない共産主義との関連、ギャグのない作品をギャグ好きの観客が受け入れる同時代論など、これだけでも様々な方向性に持っていけると思うのに、一種の物知り知識的な議論で終わってしまっているように思えるのは何だかもったいない。そういうのをやりすぎて脂ぎった議論にしたくなかったからかもしれないので何とも言えないのだが。
 まあ、久しぶりに「未来少年コナン」のストーリーを読めたから、個人的にはそれだけでも楽しめたけど。ところで、その「未来少年コナン」のストーリーが26話まで紹介されていたけど、確かこの後にもラナの故郷へ帰っていって話が続いたような気がする。


3月22日

 井上雄彦『バガボンド』(モーニングC、講談社)13巻を読む(12巻はココ)。宍戸梅軒こと辻風黄平の鎖鎌に、武蔵は突如閃いた二刀流の構えで迎えうち勝利を収める。しかし梅軒の「殺し合いの螺旋から俺は降りる」という言葉に動揺する…。この巻の最後の方では黄平と佐々木小次郎までの物語が始まって、しばらく続くみたい。この巻では水墨画っぽい絵を「佐々木小次郎」という名前のバックに使っている。うーむ、こんな使い方もあるか。


3月24日

 皆川亮二『ARMS』(サンデーC、小学館)21巻を読む(20巻はココ)。ARMSの能力が失われた涼・隼人・武士は絶体絶命のピンチに追いつめられるが。アザゼルを使ってアリスの心を蘇らせた恵によって、ARMSが復活する…。今度こそ大団円を迎えそうな雰囲気になってきた。まあ、キース・ホワイトが地球になることを目論むなんて地球規模の話を持ってきてしまってるから、これ以上は続けようがないと思うけど。


3月26日

 中条比紗也『花ざかりの君たちへ』(花とゆめC、白泉社)1617巻を読む(15巻はココ)。桃郷学院主催の陸上部親睦会。佐野ももちろん参加するが、そこには弟の森の姿もあった。ぎこちなくも弟ととの再会を果たすが、弟に高飛びを教えているのが父と知り、佐野は激しく動揺する。そのためか佐野と瑞稀の仲もギクシャクし始め、中津が瑞稀に急接近する…。佐野はともかく中津も瑞稀を女として扱い始めているような気がするなあ。


3月28日

 川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社選書メチエ、1996年)を読む。源平合戦から鎌倉幕府成立までの戦乱を考察することによって、様々なイメージを覆そうとする。『平家物語』のイメージから、板東武士を中心とした源氏が文弱な平家の軍団を打ち負かしたとされることが多いが、騎乗しての弓芸である「馳弓」は高度な技術を必要とし、それを駆使できる武士はむしろ平家側にその多くが属していた。そのため源氏は、武装をしていた村落領主クラスを動員せざるを得なくなり、「馳弓」の技術を持たない彼らは、馬ごと体当たりして直接戦闘に持ち込み、それは戦術の転換を伴ったとする。そうした源氏による動員と戦術の変化は、要塞としてではなく交通の遮断物としての城郭、戦地での糧食の現地調達の調達という性格からも推測しうるものであり、奥州藤原氏の討伐は源平の内乱を勝ち抜いた頼朝が、全国の武士を動員することによって自分の元に武士層を再編成させることが目的であったとする。
 高橋昌明『武士の成立 武士像の創出』では、平安期に「武」を重んじていた中央貴族が武士の起源であり、こうした中央の武士貴族が地方へと広がっていった、とされていたが、高度な先頭集団としての武士階級がすでに中世に存在していたとしている点では一緒だが、本書ではむしろ平安貴族と中世貴族の質的な転換が見られたことを強調している感じ。というわけで、これは一般向けの啓蒙書としては、テーマ設定も議論の持って行き方もかなりいい出来の本ではなかろうか。日本史に興味ある人は楽しめることは間違いないと思う。
〔追記〕
 所用から少し読み直したのだが、源頼朝の奥州藤原氏征伐に関して興味深い知見が提示されていたにもかかわらず、書き漏らしていたことに気づいた。頼朝の遠征は朝廷の意向に反するものでもあり、頼朝自身の状況からしてもかなり無理なものと捉えられる。にもかかわらずこれを強行した原因として、治承・天寿期の内乱によって混乱した御家人制度を再編成するという目的があったとする。この遠征には全国の武士を動員しているのだが、これに参加することで頼朝への忠誠心をはかるというわけである。さらに、前九年の役と重ね合わせることで、清和源氏の神話性とも言える権威を確立するという意図も込められていたとしている。〔2006年10月27日〕


3月30日

 樺山紘一『エロイカの世紀』(講談社現代新書、2002年)を読む。『ベートーヴェン全集』(全10巻)の原稿を1つにまとめたもので、ベートーヴェンとナポレオンの交錯を軸に、近代ヨーロッパの「革命の世紀」を描く。ほとんどが概説的な近代史であり、名をなした人のみに許される余技のような感じ。


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