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2002年4月の見聞録



4月1日

 呉智英『マンガ狂につける薬21』(メディアファクトリー、2002年)を読む。テーマ的に関連性があるマンガと書籍を1冊ずつ取り上げ短評をまとめたもので、シリーズ第2冊目にあたる。1冊目に比べると書籍にはフィクションが多いような気がする。取り上げているマンガは古いもの、もしくはかなりのベテランの最近の作品が多い。相変わらず読みやすくてかつ面白いとは思うのだけれど、規定原稿の枚数が少なすぎるせいか議論に性急な面が見られるように思える。この人の他の本を読んでいる人には分かっても、この本から読んだ人には取っ付きにくいような感じがするのだが、どうだろう?
 ひとつ分からないのはタイトルに「21」と付けてあること。21世紀を意味するのだとしたら、3冊目の本にはタイトルを付けにくいと思うのだけれど。それとも他の意味があるのだろうか?


4月3日

 井上三太『井上三太2』(祥伝社)を読む。短編集。キッチュな感じの作品が並ぶ。短編集と書いたが、むしろコラム集のような趣だ。この本を読んだ限りでは『TOKYO TRIBE』のような長編には精力を注ぎ込み、短編は気分転換の息抜きで書いているような印象を受けるが、かえってその方の力を抜いた感じがコラムっぽいいい雰囲気を出していると思う。挿し絵の仕事をしたらいい仕事をするんじゃないかなあ。


4月5日

 ローラ・シャビロ『家政学の間違い』(晶文社、1991年、原著は1986年)を読む。19世紀末から20世紀初頭のアメリカにおいて、科学的料理法を広めようとした家政学は味そのものよりもカロリーの高さや見た目の良さ、清潔さなどを追究し、家庭の伝統的な味を追放したと主張する。こういうノスタルジーに近いような議論の持って行き方にはどうも胡散臭さを感じてしまう。確かに近代以前には存在しなかったような科学的な料理法や化学調味料は伝統的な味を損なっているのかもしれないのだが、そのおかげで飢えを免れているし以前より健康になっているという状況はどう説明するのだろうか。よく、化学調味料が体を損なうという点から、それらを否定するような『美味しんぼ』のような主張が行われているが、それでも現代人は以前よりも体格がよくなって寿命が延びている。にもかかわらず、より寿命が短かった時代の料理を推薦して、本当に体によいと言えるのだろうか。まあ、これには医学の進展も大きな原因であり、食事のせいだけとは言えないのだが、批判されている科学的料理法を用いている先進諸国が、他の地域よりも健康面で優れている状況は事実だと思うのだが。そもそも本当にこれ以前の時代の料理は美味しかったのだろうか?
 ただし、当時の家政学が料理や火事を女の「性」と結びつける発想しか出来ず、男女同権化が進んでいくにしたがってその立場は凋落していった、という指摘は興味深い。
 なお、現代の「科学的料理法」の問題点のルポとしてはE.シュローサー『ファストフードが世界を食いつくす』が鋭く切り込んでいる


4月7日

 さそうあきら『富士山』(IKKIコミックス、小学館)を読む。富士山がそれぞれ登場する短編を集めたもの。富士山とを登場させる意味がないものもあるが、それほそれとして短編そのものは読ませるものが多い。ただし、どれも読んでいて気分が良くなるものはほとんどない。ついこの前読んだ『井上三太2』よりは短編集としての出来は上だろう。こういう短編集を読んでると、あまり元気がない日本の小説の短編集を引き継いでいるように思えるのだが、一昔の小説と違ってマイナーのままであるという点は違っているような気もする。


4月10日

 山口文憲『空腹の王子』(新潮文庫、1995年、原著は1992年)を読む。食事は外食一筋の著者による食事エッセイ集。外食に頼ることを貧しい食生活と哀れむ人々の視線に抵抗しつつ、外食を楽しむ姿は読んでいて非常に面白い。『家政学の間違い』で触れたが、ファミレスの食事やコンビニの弁当を伝統的な料理を壊すものであり、日本人の食生活を汚染しているというような『美味しんぼ』に代表される物言いが好きではない。そのような伝統的な食事は平安時代や奈良時代のものではないはずであり、せいぜい江戸時代にさかのぼれる程度のものにすぎないと思うからだ。料理なんてものは時代と共に変化し続けるのであり、ファミレスやコンビニを利用して上手に暮らす知恵こそ伝授すべきだろう。ちなみに私はファミレスはほとんど使わない。体に悪いからとか美味しくないという理由ではなく、高すぎるからである。そういう意味でもファミレスで食生活を続けられる著者は「王子」の身分なのだなあと思ってしまうが。


4月12日

 かわぐちかいじ『プロ』(竹書房、1990年)上下巻を読む。前々から読みたいと思ってたのになかなか見つからなかったのだけれど、とある古本屋で300円で売っていた。プロ麻雀師として生計を立てようとしている羽根満男は、うだつの上がらない生活を繰り返していた。そんなときに数年前に麻雀界の一世を風靡した「麻雀三銃士」と出会い、チャンスをものにしてい競技麻雀のプロ雀師として名をなしていくのだが、天才的な博徒である九佐井一平への対抗心を消せないでいた…。麻雀マンガは福本伸行と片山まさひろくらいしか読んだことがないのだが、この二人のマンガが麻雀の楽しさや純粋な勝負の展開に的を絞っているのに対して、この『プロ』は麻雀界そのものをリアルに描いていて、なおかつ麻雀のことも決しておろそかになっていない点で読ませる…って『近代麻雀』に載ってるようなマンガはみんなこうなのかもしれないけど。
 浅羽通明がむかし自著の中で取り上げていたシーンがやっぱり印象的。企業の社長を務めている羽根の彼女の父親が羽根の家に押し掛けてきて、麻雀は実業と認めていないので娘と結婚するならば実業に就け、と話すのに対して、羽根は麻雀の面白さを人に買ってもらっているのだから麻雀のプロも実業だと言い返す。そして、父親は人間は麻雀がなくても生きていけるし、小説や音楽を自分でも楽しんだことはあるがそれらも虚業と思っているとさらに反論するのだ。情報を売る職業は虚業であるという点からすれば、学校の教師もまた虚業にすぎず、知識を売っているのだという意識がない限り教師のプロにはなれないような気がする。学校教師には生徒と先生という上下関係の意識しかなく、生徒に知識を伝達するという横のつながりのプロ意識であると思うのだけれど。
しかしながら、さらに興味深いのは、この父親は自分の企業との絡みも含めて羽根を認めていくのだが、父親と面会した羽根の兄は弟は「いってみればヤクザ」と呟くのである。このシーンを見て、新約聖書の福音書のイエスが母親や兄弟と面会しながらその家族への愛を否定したシーンをなんとなく思い出してしまった。


4月14日

 菊池勇夫『飢饉−飢えと食の日本史』(集英社新書、2000年)を読む。日本の食糧問題の歴史を簡単に辿った後に、江戸時代の飢饉の実態を捉え直す。一般的に江戸時代の飢饉についてはそのの被害の深刻さや、農民の苦境ばかりが語られがちであるが(本書でもそうした面に関する叙述は行われている)、資料を冷静に読み直して飢饉の被害には地域差があったことや、凶作だけではなく近世の市場経済への移行によって食糧危機に対して無防備になったことが飢饉を引き起こしたと指摘している。読みやすくかつコンパクトな本であり、著者の他の本も読んでみたいと思う。
 網野善彦が『続・日本の歴史を読み直す』(筑摩書房、1991年)『「日本」とは何か』で「百姓=農民」否定論を元にして、江戸時代の飢饉は都市化が進んでいたがゆえに生じた災害であると述べていたが、これは本書の内容と合致するのではなかろうか。また速水融『歴史人口学で見た日本』では、危機年を除いて農村地方では人口が増えているものの江戸や大坂といった大都市では人口が減っている、と述べられているが、これもそうした都市化に伴う食糧危機ゆえではなかろうか。ちなみに、藤木久志『飢餓と戦争の戦国を行く』では、中世の飢饉において生産地が飢餓状態になるのは、生産地が権力者のいる都市に従属して、食糧を供給する基地としての役割を果たさざるを得なかったがゆえに、生産地がまずダメージを受けるためと述べられている。農村部の都市部への従属という現象は、すでに中世に始まっていた、と言えるのだろうか。
 ところで、著者はこうした市場経済の発展に伴う江戸時代の食糧危機の構造は、現代にもあてはまるとしているが、これは一昔前の鶴見良行『バナナと日本人』(岩波新書、1982年)の捉え方に近いと思うのだけれど、裏を返せばその頃から状況は何も変わっていないということになる気がする。


4月16日

 山本直樹『安住の地』(IKKIコミックス、小学館)1巻を読む。砂漠の町に突然現れた女の子は、父親の海外赴任によって留学していて被災した戦災孤児であった…。小さな狭い島で暮らしている3人の信者たちが徐々に壊れていく過程を描いたの前著『ビリーバーズ』から一転、今度は戦争で荒廃した広い世界を舞台として、どことなく気怠い暮らしぶりを描いている感じ。不条理に狂っていく展開になるのか、この気怠さを維持したまま狂っていくのか、どちらにしろ狂っていくことになると思うのだけれど、狂いっぷりが見事さにかけては素晴らしい漫画家(誉め言葉)なので、この先の展開が楽しみ。


4月18日

 劉建輝『魔都上海 日本知識人の「近代」体験』(講談社選書メチエ、2000年)を読む。明治以前において、「近代化」をすでに遂げていた上海は、日本に欧米の知識を伝えるための重要な拠点であった。しかしながら、国民国家へと変貌した明治以後の日本にとっては、欧米諸国と現地人が混在する上海は国家としての日本にとってはもはや模範とはなりえなかった。だが、国民国家のナショナリズムに閉塞感を持つ日本人にとっては、上海は自由な都市に映ったため、近代国家の知識を得ようとした明治以前の渡航者とは違って、「冒険」を求める人々を引きつけたとする。
 タイトルからして、原哲夫・武論尊『蒼天の拳』のネタ本かな、と思ってたけど、全然そんなことはなくて、むしろ副題に重点を置いた内容の本だった。明治維新前後の留学生が上海で受けた近代文化への衝撃や、上海から発信された情報などが丹念に追われており、明治成立の一側面を知る上で興味深い。ただし、明治以前をあつかった前半に比べて、明治以後を取り上げた後半は事例を並べた感じが強くて、あまり面白くない。いっそのこと前半だけをもっと掘り下げて後半はエピローグに縮小してしまった方がよかったのでは。
 とはいえ、いくつか興味深いエピソードもあって、まず、中国の聖書での「God」の訳語を巡る問題。中国では「上帝」と訳すか「神」と訳すかで意見が分かれたらしい。前者はイギリス系の宣教師、後者はアメリカ系の宣教師がそれぞれ主張し、日本ではアメリカ系訳本の影響を受けて「神」と訳されたと著者は述べている。中国の事例は興味深いが、日本に関しては柳父章がもっと掘り下げた考証をしていたような気がする。
 それと明治後期より昭和初期まで、「満韓支」への日本の中高生の修学旅行が盛んに行われるようになった、ということも知らなかった。そもそものきっかけは、文部省と陸軍の共同主催で行った中学生の満洲への旅行だったらしい。大戦後の日本で海外への修学旅行が行われるようになるのは1990年代以降だと思うのだが、すでに戦前には国策に沿う形で海外への修学旅行が行われていたことになる。


4月20日

 ジャンプコミックスの新刊を読む。許斐剛『テニスの王子様』13巻(12巻はココ)。この漫画はやっぱりテニス漫画として面白いのではなく、美形キャラのバトル漫画として楽しむべき漫画なのだと思う。だってこの漫画を読んでもテニスをしたいと思わないし、テニスに興味が出てこないもん。スポーツ漫画は題材としているスポーツに興味を持たせるか、漫画としてのストーリー展開そのもので引きつけるかができなければ、あんまりいい作品とは思えない。やっぱり読むのをやめるか。

 冨樫義博『HUNTER×HUNTER』14巻(13巻はココ)。グリードアイランドの中で、念の師匠であるウィングのさらに師匠であるビスケと出会ったゴンとキルア。二人の才能の可能性に惹かれたビスケは、二人に猛特訓を課す。一方で、ソフトの中にやってきた幻影旅団のシャルナークは、僅かな手がかりからこのゲームが実は現実世界のどこかで行われていると推測する…。どうやらグリードアイランドはカードゲームタイプのRPGみたいなのだが、ストーリー展開に絡んで見開き2ページ分を使って、呪文カード40種類の説明をしていたのには度肝を抜かれた。このままの設定で本当にゲームかできそうなぐらいリアルな設定だし。ある程度の自由度を持ちつつ緻密さも兼ね備えた設定を作り出すのがどんどんうまくなってる気がする。こんなことを考えているならば、休載が多いのも納得できる…ような気もするのだが、それならはじめから隔週連載にすればいいのに…ということにすると『BASTARD』のようにずるずるとなかなか作品が仕上がらないことを恐れて、あえて週刊連載のままにしているのかな。


4月22日

 青山剛昌『名探偵コナン』(少年サンデーC、小学館)37巻を読む(36巻はココ)。結局コナンは自分の正体を高木刑事に明かさず。そして黒の組織と関わりがあった人間が殺された事件を通じて、ついに黒の組織と直接接触しようとしたのだが、また別の事件に巻き込まれて…。今回は小五郎推理編というちょっと変わった趣向を凝らしてはいるが、やっぱりだんだんと緊張感がなくなってマンネリ化しつつあるのような気がするのだけれど、その方がかえって人気を保ちやすいのかなあ、とも思う。


4月24日

 羅川真里茂『しゃにむにGO』(花とゆめC、白泉社)11巻を読む(10巻はココ)。しかしまあ、出てくるキャラのほとんどが内部に悩みを抱えているというのは読んでいて暗くなりそうなのだが、延久のみが前向きに明るいのでそれがアクセントになってる気がする。と思ってたら、最後の部分で延久も試合中に足を怪我した感じで終わっており、話が暗くなる予感もする。ところで、この前『テニスの王子様』を読んだときに、テニスのおもしろさが描かれていないと書いたが、このマンガも『テニスの王子様』と同じくテニスそのもののおもしろさが伝わってくるマンガではないと思う。ただし、このマンガの場合は、テニスを題材にしてそれぞれのキャラの葛藤をうまく描き出しているから、それでもかまわないと思わせてくれるのだけれど。

 日高万里『ひつじの涙』(花とゆめC、白泉社)1巻を読む。『世界で一番大嫌い』に続く著者の新連載。過去のトラウマを消し去るために静かな一人暮らしの高校生活を送ろうとしていた神崎京介に、クラスメイトの蓮見圭は執拗に迫ってくる。その理由は彼の部屋に侵入するためであった。それは、圭がむかし憧れていた男性の婚約指輪をその部屋に隠してしまい見つからなかったことが、トラウマとなっているからだった…。圭とその双子の兄のキャラに比べて、京介のキャラと過去のトラウマの設定が弱いような気がするが、これからに期待、というところかな。


4月26日

 飯田史彦『日本的経営の論点』(PHP新書、1998年)を読む。「日本的経営」について論じた基礎的な文献を論点ごとに整理した本。1998年の出版だから、すでに最新のものではないのだが、これは非常に便利で百出する議論を出来る限り丁寧にまとめてあり、日本の企業論史について知りたい人だけではなく、「日本論」について何か調べたい人にとっても、最適のガイドブックとなるだろう。これを読むと、日本的経営の特徴が論者によってあまりにも多種多様にわたっていることがよく分かる。よく言われた日本企業における三種の神器、終身雇用制・年功制・企業別組合といった理論ですら、それが本当に日本独自のものであるのかということを疑う見解もあるし、日本人が勤勉だという一昔よく言われていた説に対しても、そうであるのはブルーワーカーだけで、同僚も残業しているからと言う理由での惰性的な残業や高校野球を観戦しているサラリーマンは少なくないという意見(90頁B.エモットによるもの)は説得力があるのではないかと思う。こうしたことから分かるのは、単純に決めつけた見解で通時的に日本全体を説明してしまうことの危険性ではなかろうか。三種の神器を例に取れば、著者が言っているように「「三種の神器が日本的経営である」と定義してしまうと、同時に「三種の神器以外の諸要素は日本的なものではない」という誤解を招いてしまう危険性がある」(77頁)ということであろう。しかし、ある程度の定型化を用いない限り特質を論じることは出来ないし、それを捨て去ってしまうと無味無臭の意見となっていまうだろう。著者の結論ともいえる「抜け目のない社員や、目立つ社員を過度に評価してしまい、正直者や、地味ながらも努力している社員を見落としてしまわないようなシステム」(335頁)という企業像は、よくないところを取り去ってしまった理念型すぎるのではないかという気がする。非常に難しいところではある。こういう意味でも「日本論」のガイドブックと言える。
 ただし、今から日本的経営を論じることがマクロ経済学の中で果たして有効なのかというと、どうもそうは思えない。著者自身が冒頭で告白しているように(12ページ)、ロンドン大学ビジネススクールの客員教授として訪英中に日系企業を含む企業で勤めているイギリス人に日本的経営や日本について尋ねてみたところ、彼らはほとんど知識を持っていなかった、というのだ。これはイギリスだけの、しかも著者の個人的経験であり、これのみから結論を出すことは出来ないだろうが、もしこれが先進国の一般的な傾向であるならば、いまさら日本的経営を論じることにそれほど意味はないことになる。日本的経営なるものは、日本の経済的成長があったときには諸外国に不思議さの意味をも含みつつ諸外国で興味を持たれたにすぎないのではなかろうか。この経験が日本的経営の論点をまとめようとする著者の決心につながったとのことだが、日本は日本人が思っているほど、悪役ですらないのかもしれない。
 ただし、日本においては日本の好況の自惚れ鏡、もしくは不況をくさすご意見番的なものとして、日本的経営に関する議論は利用されていたと思うが。日本的経営論が経済学的な議論として行われてきた過程よりも、いかにしてそれが「消費」されてきたかの展開について書いてある本が読んでみたい。


4月28日

 藤沢とおる『GTO』(少年マガジンC、講談社)2425巻を読む(21巻はココ)。ついに完結したので久々に読んでみた。週刊連載のマンガの単行本が2冊同時発売っていうのは滅多にないことなのでは? クモ膜下出血で死の間際まで行った鬼塚が、生徒の必死のお願いで蘇って学校を救いに行く、というベタな展開なんだけど、まあこのマンガは理屈抜きでカタルシスを楽しむマンガなんでこれでいいのだろう。さて、この人は次はどんなことを題材にしてマンガを書くのだろう? マンガの内容とタイトルは違っても、2作続けて主人公は同じ人物だったからなあ。今度は30年後の鬼塚が主人公…なわけはないか。


4月30日

 島本和彦『吼えろペン』(サンデーGXC、小学館)1〜4巻を読む。熱血漫画家・炎尾燃の熱い生き様をデフォルメかして描いているマンガ。確か同じような内容のマンガを描いてて、そっちを前から読みたかったのだけど、こっちを先に見つけたのでこっちから読んでみた。格闘漫画家マンガ、という表現が日本語的に正しいのかどうか分からないけど、そんな感じのマンガ。一筆入魂というか。ただ、ふと思ったのだけれど、マンガをペンで描いている漫画家とコンピュータで描いてる漫画家はどれくらいの比率になるのだろう? コンピュータで描く漫画家の方が圧倒的になったら、こういう一筆入魂マンガは成り立たなくなってしまうかもしれないなあ。最終回はそういう展開だったりして。


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