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2002年5月の見聞録



5月1日

 塚本学『生きることの近世史』(平凡社、2001年)を読む。近世を視座の中心に据えて、生きることを脅かす様々な危険とその克服の努力を見ていく。近世における「生きる」ことに即した社会史という本文の内容そのものは楽しめるものだったのだけれど、序論と結論で述べられた著者の立場があまり納得できない。
 「人命に普遍的価値を認める歴史観」という考え方には特に何も言う気はない。著者は国家を相対化する近世史を目指しているとするのだがそれもまあいい。ただし、その過程の中であまりにも近代国家をマイナス評価しすぎている部分が気になる。というよりも、前近代をプラス評価しすぎていると言うべきか。近世と近代のイメージとして、一般的に明るい近代と明るい江戸時代、明るい近代と暗い江戸時代、暗い近代と暗い江戸時代の3つの見方があると主張し、これに対して著者は暗い近代と明るい江戸時代という見方から眺めるとして、この立場以外は近代の国家を強く意識し、国家史への関心を中心にしてもののであるとする。
 しかしながら、暗い近代という考え方そのものが、国家をネガティヴに意識していることの現れでではなかろうか。「前代の政権の力を近代の国家に相当するという立場から距離を取りたい」という言い方も何となく気にかかる。もし本当に国家を相対的に捉えたいのならば、明るいとか暗いというレッテルを先に貼るのではなく、歴史事象を眺めて検証した上で結論づけるべきだろう。著者は新しい教科書を作る会の見方に反発しているようだけど、著者の見方はその立場を単にひっくり返しただけで、とうてい相手を根本的に批判できるような見解ではないと思う。そもそも明るいか暗いかという二者択一をすることなど出来ないのでは? 前近代に比べて近代の方が死亡率が低いことは間違いないだろうし、前近代に著者が言うような天皇を中心とした国家がなかったとしても、地方レヴェルの安定は大名の権力によって守られている部分もあったはずだし。著者の考え方が間違っているとかそういうのではないのだけれど、もっと深い議論を期待したい。
 本書に関連したテーマで、菊池勇夫『飢饉−飢えと食の日本史』、山口文憲『空腹の王子』などを最近読んだけれども、これらに比べて本論の部分は一番詳細で読み応えがあっても、前提としている立場は一番納得できなかった。


5月3日

 樹なつみ『八雲立つ』(花とゆめC、白泉社)17巻を読む(16巻はココ)。闇己がより力強く立ち直り、憎んでいた母親を巫覡として迎え入れてまで念の浄化を目指す…。ストーリー上は重要な展開があったのだけれど、いつもみたいな愛憎劇があんまりなかったから、残念…って、このマンガは俺にとって本編よりも人間関係の怖さを楽しむマンガになってるな。もうそろそろこれもクライマックスだと思うから、次は恋愛ものを描いてくれないかなあ。ドロドロしたものを描いてくれそうなんだけど


5月5日

 永井均『マンガは哲学する』(講談社、2000年)を読む。書名の通り「私とは誰か」・「時間の謎」などのテーマに沿ってマンガを哲学的に解題していく。高踏的な文芸評論っぽい。おそらくあと10年もしたら著者のスタイルを模倣してマンガ学で学術論文を書く人間が出てくるだろうと思う。ただ、こういう評論スタイルの良さも分かるつもりだけど、マンガにストーリーの面白さを求める読み方をしている人間には、どうも馴染めないところもある。それと、マンガが発表された時代性というものをあんまり考慮していないような気がする。たとえば、『究極超人あーる』のギャグは取り立てて面白くない、としているが、あれはあのマンガが書かれた80年代に読んだパロディ好き人間には十分に面白いのであり、それ以外の年代の人間が読んでもさほど面白くないのは当たり前なのだ。人を選ぶという点で低く評価してもかまわないが、その時代性を無視して評価するのはどうもしっくりこない。逆のことも言えるのであり、『デビルマン』などは、その作品の歴史的意義は認めるけれども、ストーリー運びという点では、現在のマンガを読んでいる人間にはちぐはぐに感じられる。まあ、これは単なる拠って立つところの違いなのだろうし、そうした様々な観点からの見方を許すほどマンガの表現は深いとも言えるのだけれど。


5月6日

 田島隆・東風孝広『カバチタレ』(モーニングC、講談社)10巻を読む(9巻はココ)。今回は霊園建設に絡む貧乏住職と墓石屋の話。大金を得た貧乏住職の性格が、これでもかといわんばかりに意地汚くなっていく様子は読んでいて気分が悪いほど…ということは十分にストーリーづくりが成功しているという証なんだけどね。ちなみに、毎度おなじみ青木雄二のオビタタキの決めゼリフは「青木雄二もウラヤマシーッ!」。意味のないセリフやなあ。


5月8日

 古谷実『ヒミズ』(ヤンマガKC、講談社)3巻(2巻はココ)。前に望月峯太郎に似ているって書いたけど、だんだんと訳が分からなくなっていく展開も似ているなあ。『座敷女』のように狂気のうちにエンディングを迎えられたらいいんだけど、『ドラゴン・ヘッド』のように下手にストーリー展開をさせようとして尻すぼみで終わったら嫌やなあ。


5月10日

 岸本斉史『NARUTO』(ジャンプC、集英社)12巻(11巻はココ)。ネジvs.ナルトはナルトが勝利し、シカマルvs.テマリは戦術展開の先読みに長けたシカマルが勝利する。この巻に収録されている読者人気投票の結果ではシカマルは16位だったけど、このシカマルの戦い方でおそらくシカマルの人気が上がるのでは? どうでもいいけど、試合を観戦している大名たちの服装は、なぜ中国風なのだろうか?

〔お知らせ〕

 諸事情により忙しくなるため、更新速度がかなり落ちて、おそらく1週間に1〜2回の更新になります。この状態が9月末まで続く予定です。それ以降には通常の更新頻度に戻ると思います。


5月16日

 福本伸行『天』(近代麻雀C、竹書房)18巻を読む(17巻はココ)。赤木との最終面談は原田・ひろゆき・天と最後の3人の番になる。そして…。ついに完結。前にも書いたけど最後の3巻の主役は天ではなくて赤木。コミックの装丁も黒地に色つきのタイトル文字と『アカギ』そのものだし。まあ、『天』を読んでる人間は『アカギ』も読んでるだろうから別にいいのだろうけど。
 この最終巻では赤木の死生観が、ちょっと説教臭くもあるけど、たっぷりと味わえる。たとえば、「いいじゃないか三流で、熱い三流なら上等よ」というアカギからひろゆきへのメッセージを読んで、業田良家『自虐の歌』(竹書房文庫)の最後の場面、「幸せや不幸はもういい、どちらにも等しく価値がある」というセリフと共に描かれた場面を何となく思い出した。死のうとするアカギに向かって、天が「俺のために生きてくれと言ってるんだ」と怒鳴るシーンもいい。死のうとする人間に対して最も有効なのは、その人間が必要とされている現実を突きつけるしかないんだろうな。そして、「無念じゃねえのかよ」と詰問する天に対して、「無念だ」と言って涙を流しながらも「無念であることが生の証だ」と言って、死を受け入れるアカギもカッコイイ。まあ、こんなセリフを言わせても臭くないのは、今までのキャラづくりが成功しているからなんだけど。最後のラストシーンはあっさりしており、著者あとがきではくどくするかどうか迷ったらしいけど、あっさり終わらせてて正解だと思うな。
 何はともあれ、また複数の人間の思惑が絡む勝負にこだわったマンガを書いてほしい。どうも最近『カイジ』も『アカギ』も1対1っぽいのが多いので。


5月19日

 板垣恵介『バキ』(チャンピオンC、秋田書店)13巻を読む。(12巻はココ)。ドイルの「刃」と鎬昴昇の「刃」の戦いは、爆薬を使ったドイルの勝利に終わる。なんというか、なんでもありやね。そのほかにバキと梢の密会現場に範馬勇次郎が現れて「強くなりたければ、喰らいまくれ」というファニーな助言をする場面もあり。

 原哲夫・武論尊『蒼天の拳』(バンチC、新潮社)3巻を読む(2巻はココ)。同じ北斗の使い手、北斗孫家拳の刺客が現れる。さらに、フランス陸軍ギーズ大佐も孫家拳の使い手であることが分かる…。あれ、北斗孫家拳は一子相伝じゃないんだ。ところで、この巻には北斗の拳のフィギュアを応募者全員にプレゼントする応募権が付いているのだけれど、それがサウザー・ユダ・シュウというちょっと中途半端なキャラのフィギュアなのはなぜなんだろう?


5月25日

 B.L.ホーキンス・P.バッティン『デジタル時代の大学と図書館』(玉川大学出版局、2002年、原著は1998年)を読む。情報提供機関としての大学及び図書館が、現在の変革についていっていないことに警鐘を鳴らす内容の評論集。寄せ集めの感が強く、踏み込んだ議論にはいたっていないと思われる。また、1998年とそんなに古くない出版のものなのだが、翻訳されているうちにすでに情報が古くなってしまっているように見えるし、つっこみ方も理想論的な浅いもののように感じる。従って、1998年当時の参考資料としては有用であるとしても、それ以上のことは得られない本なのだが、図書館・大学の情報に関していろいろと考えさせられることはあった。
 まず、学術情報に関するデータのウェブ化は、ここ5年で急激に変化したことを、この本は改めて教えてくれた気がする。BK1Amzonなどの書籍販売サイトはいつ頃から普及し始めたのかきちんと覚えていないのだが、学術情報に関していえば全国の大学図書館の蔵書目録であるNACSIS Webcatなどは1995年頃まで個人利用が出来なかったように思える。これは私の記憶違いでこの頃からも個人利用が出来ていたのかもしれないが、それが出来る環境を持っていた個人ユーザーは1995年以前にはほとんどいなかったはずだ。この本が出版された1998年頃には個人でも簡単に利用できるようになっていた覚えがある。
 そうした状況はさらに進み、そこそこ名前の知られた大学の図書館はそのほとんどがOPACに対応しているし、ここ1年ほどで一番驚いたのが、ある学術文献を引用している学術論文を索引形式で調べることが出来るCitation Indexが、冊子形式からウェブ対応になって「Web of Science」としてものすごく便利に使えるようになったことだ(もっとも、個人レヴェルでは使用できないようだが)。このサイトでは、ある文献を引用した文献のサマリーも読めるし、その文献が引用した文献もすべて知ることが出来るようになっており、冊子形式のものよりも実用度は格段にアップしている。
 この辺のウェブ化はさらに進展していくと思うのだが、この本の著者に代表されるような大学人たちの、ここから先の考えはどうにも甘いような気がする。まず言えることは、こうしたウェブ化の波に大学は取り残されるべきではない、と彼らが本気で考えていることである。現在のところ、大学の研究や講義内容をウェブ化したところで、それをわざわざ利用する人はほとんどいないと思う。はっきり言って、価値がないからだ。自然科学系はそうでもないのかもしれないのだが、社会科学系の場合は民間の機関によってウェブ化されたデータの方がきっと有用であろうし、人文系に関してはわざわざ見るのはよっぽどの物好きであろう。つまるところ、ウェブ化されたデータは有用でなければ利用されないのであり、NACSIS WebcatやWeb of Scienceはその利用価値ゆえに、地位や立場に関係なく広く利用されているのだ。いま、大学の学術情報をウェブ化したところで、その情報を見るのはほとんどがその大学に属する学生だけにすぎないはずだ。考えなければならないのはむしろその中身のはずで、それはウェブ化をする以前の問題なのだ。ウェブ化するだけで情報化社会の流れに取り残されずにすむと考えるのは大間違いだろう。むしろウェブ化という言葉にごまかされて、より本質的な問題が残ったままになる危険があるのではなかろうか。
 そして、外国の大学の事情は知らないので、ここからはあくまでも日本の大学に限った話になるのだが、情報がウェブ化されても、それが部外者に利用できる体制が整っていないという問題もある。NACSIS WebcatやWeb of Scienceで読みたい書籍や論文が掲載されている雑誌が見つかっても、多くの大学ではどこかの研究機関に属している者にしか、その閲覧を認めていないのが現状である。これでは、学術情報がオープンになっても、身内の人間にしか利用する意味がないのに等しいのだ。情報化などという言葉に踊らされる前に、大学が考えねばならない問題は多い。
 ところで、学術情報のウェブ化は進んでも、学術論文のウェブ化は難しいと思われる。これは、本書の130頁においても指摘されているように「データは追加や削除や修正によって、原情報から変化しているかもしれない」のである。現在のところ、論文をいつの間にか改竄してもそれをきっちりと論証するのは難しいだろう。印刷されてしまったものはそれを修正するのが難しいという点で、意外にも印刷物は内容の確定化に役立っているのだと感じた。
 ちなみに、大学図書館の購買力が減少し続けているという話もある(161-62頁)。これに関しては、外国の場合は多少事情が異なるのかもしれないが、少なくとも日本に関してはそれほど深刻な影響を及ぼさない気がする。というのは、邦語の学術雑誌の多くは、発行者によって寄贈される傾向が強くなっているからだ。問題となるのは、むしろ蔵書の収容ということになるだろう。私は情報のウェブ化は進んでも書物のデジタル化はなかなか進まないのではないかと考えている。ウェブ化された情報ならば、パスワードをつけて有料化するのはそう難しくないと思うけど、デジタル化された書籍ではコピーが簡単なので元が取れなくなると思うからだ。ここでいう「簡単」とは、技術的な問題よりも手間が掛かるかどうかを意味する。実際、小学館や集英社が、これをやろうとしているという話を聞いたことがあるがうまく進んでいないみたいだし。それに印刷物の最大の利点である「見たいところまでパラパラめくってしまえる」という利便性に勝てるのかなという気もする。パラパラめくる必要よりも検索が必要な辞典類に関してはウェブ化が進むと思うけど、書物のデジタル化はまだ遠い気がする。


5月29日

 森川ジョージ『はじめの一歩』(少年マガジンC、講談社)61巻を読む(60巻はココ)。鷹村がイーグルに勝利して2階級を制覇する…。ほとんど視界がなくなった鷹村が、イーグルの足の位置だけを頼りに、練習によって体にしみこんでいるパンチを的確に打ち込んでいくシーンもいいけど、イーグルが倒れた後ももはやそれを確認できないほど視界が狭くなった鷹村がひたすらパンチを繰り出しているシーンと、鷹村に勝利を告げるためにそのパンチを会長が受け止めるシーンがたまらなくカッコイイ。

 天樹征丸・さとうふみや『探偵学園Q』(少年マガジンC、講談社)5巻(1巻はココ)。久々に読んでみたのだが、トリックの謎そのものよりもその基本設定のずさんさが気になる。それは次のような話。社長であった母親が飛行機事故で死んで保険金が入ったために、傾いていた会社の経営は持ち直した。しかし、ある女性霊媒師が家族の元に現れて死んだ母親の霊を呼び寄せるのだが、その霊媒師の口調や筆跡は明らかに死んだ母親のものであった。そして、母親が密かに作って隠していた遺産相続書を語る直前に、その霊媒師は殺されてしまう。実は、その社長は他人に飛行機のチケットを譲ったために助かっており、秘密裏に整形をして霊媒師となり、死んだはずの自分の霊のふりをして家族に語りかけていたのであった。最後は母親を殺した2人の兄弟が、母親の手紙を読んで改心する…と、ちょっと長くなってしまったが、恐らく殺人のトリックやその謎解きと最後の読者を感動させようとする場面に気を取られすぎて根本的な問題が見過ごされている。これって、この母親の保険金詐欺事件になってしまい、殺されたのが母親だと分かった時点で、保険金は没収され会社はつぶれるとならなきゃおかしいはず。そもそもの根本的な問題が完全に無視されているのであった。こんないちゃもんを言うなら読まなきゃいいんだけどね。このマンガの場合、内容そのものを楽しむのではなくて、あほらしい間違いを探すのが楽しくて読んでるので。


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