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2002年6月の見聞録



6月5日

 安藤哲也『本屋はサイコー』(新潮OH文庫、2001年)を読む。出版社から本屋のバイトを経て往来堂書店を開き、現在はbk1内にブックス安藤を開いている著者の回想記。売れ筋商品を中心とした並べ方をするのではなく、本好きの客に喜んでもらい買ってもらえるような棚づくりをすることによって、「町の本屋の復権」を目指した書店経営をつらつらと書いている。この人の棚づくりが優れたものであり、本を売ることだけではなく本そのもの、さらには世間の状況から自分なりのお薦め本を考え出す姿勢にはなるほどと思わされることは多い。だが、これは誰にでも真似できるものではないだろう。もっと具体的に言えば、「地方の町の本屋さん」では真似できないと思う。これには2つの点が考えられる。
 一つは情報の仕入れ方。著者が本好きの人に読んでもらえるに棚づくりをしていることは、『脳内革命』の横に『マインドコントロールとは何か』という本を並べて販売したことからもよく分かる。しかし、著者はこまめに問屋の倉庫に通って本を見つけてきていたと書いているが(それ以外にも夜はいろいろな人と出会って情報収集に努めたようだが)、それは東京という地の利を生かしたやり方であり、地方の人間はしようと思っても出来ない。いや、問屋に通わなくても情報収集は可能だ、という反論もあるかもしれないが、もう一つは「本を読む」という行為そのものに関する問題がある。情報収集のツールが本しかなかった時代ならば、町の本屋さんが重要な情報提供場所になったであろう。しかしながら今はテレビというあまりにも簡単な情報収集ツールがあり、本はせいぜいウェブ上の情報と同格であろうし、もしかしたらウェブすら下回るかもしれない。本の方が「深い」情報を仕入れられのかもしれないのだが、普通に世間話をする程度ならば、そのような本で得た「深い」情報を語るのはかえって浮いてしまうことにもなりかねないのだ。以前にもどこかで書いたように、本を読むという行為そのものに苦労を覚える人間は決して少なくないのであり、本を読める人間はこのことになかなか気づけない。となると、今の時点で本に求められているのはテレビの情報の補足とエンタテインメント性であろう。それ以外の教養的なものを求めるのはごく一部の人間であり、そのような人間は東京に比べると地方では圧倒的に少なくなる。むしろ著者の言うような棚づくりが出来るのは地方では古本屋になるのだろうが、古本屋で売り上げアップを目指すというのは、ブックオフのようなチェーン店でない限り少し違う気がする。つまり著者の見解ははからずしも東京と地方の格差を物語っているような気がする。


6月11日

 曽田正人『昴』(ビッグスピリッツC、小学館)9巻(8巻はココ)。昴が属する劇団システロンは20世紀のダンス作品における最高傑作「ボレロ」をニューヨークで公選することになる。しかし、同じ日にプリシラ=ロバーツも「ボレロ」を公演することになった…。いきなりもうクライマックスのような雰囲気だけど、この「ボレロ編」の後も物語は続くのだろうか? まあ、続かなかったら今まで伏線を張られて多キャラの意味がなくなってしまうから続くだろうけど、「宇宙人に分かってもらえるダンス」というテーマをこえる設定を作り出すことが出来るのかな?

 細野不二彦『ギャラリーフェイク』(ビッグスピリッツC、小学館)25巻を読む(24巻はココ)。もう一つのモナ=リザ編。ラファエロのモナリザも絡む中編で読み応えがある。フランツ=ポッセやリザなど過去の登場人物も絡んでくる。ただ、もう一つのモナ=リザ編が始まると、このマンガもついに終わるのかな、と思ってしまうのは私だけだろうか?


6月17日

 山本直樹『テレビを消しなさい』(平凡社、2001年)を読む。山本直樹のエッセイ集なのだが、平凡社から出たことにちょっと驚いた。山本直樹と平凡社ってキャラがなんか違う気がするので。ちなみに個人的に一番面白かったのは、冊子で入っている内田春菊との対談だった。内田の「小説に比べると、マンガって描く視点がどこか「神様」みたいになっちゃうところがない?」という発言は手塚治虫の発言を思わせて興味深い。ただし、続けて「自分が全能の神様みたいな勘違いが起こりやすい」と言って、常識がないにもかかわらず、そのような勘違いをしているような漫画家をたしなめるような発言をするところは、いかにも内田らしいのだが。


6月22日

 ほったゆみ・小畑健『ヒカルの碁』17巻(14巻はココ)を読む。伊角との対局を経て、立ち直ったヒカル。そして、ついに塔矢アキラとの2年ぶりの直接対決の時が来る…。というわけで第一部完。巻末の扉ページと柱のコピー特集を見ると、この人の絵がどんどんとうまくなっているのが分かる。ちなみに、韓国へ行った作者の一言ページによれば、このマンガは韓国の棋士たちの間でも割と愛読されているらしい。この間の最後の方の展開を読んでいると日中韓ジュニア杯をこの先のストーリーになりそうな感じなんだけど、おそらくヒカルたちがいる日本が対等に戦うか勝ってしまう展開になるだろうが、それを読んでも愛読するのだろうか? 確か、この前日本のジュニアは負けたとどこかで読んだ気がするので、実際の実力を反映していないストーリーは受け入れてもらえるのかな、と。


6月27日

 田中圭一『村からみた日本史』(筑摩新書、2002年)を読む。同じ著者による『百姓の江戸時代』の続編的な本。権力に虐げられた庶民という歴史観に対する一種のアンチテーゼを意図しているようだ。たとえば、君主の収奪に苦しめられた農民が一揆を起こして、反幕府の狼煙となった闘争とみなすのではなく、農民たちによる異議申し立ての手段と見なそうとしている。面白いトピックがいろいろとあり、言いたいことはよく分かるのだが、庶民の生活が質素ではあっても苦しいものではなかったという見解は、歴史学そのものとは別の観点で政治的に利用されるような気がする。たとえば『新しい歴史教科書』のテーゼの中で、反対派への攻撃の武器として使われるような気がするし、『新しい歴史教科書』反対派はこの本を黙殺する気がする。


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