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2007年1月の見聞録



1月2日

 伊坂幸太郎『ラッシュライフ』(新潮文庫、2005年(原著は2002年))を読む。拝金主義者の画商と引き抜かれた画家、空き巣に入ると盗品リストを残すドロボウ、お互いのパートナーを殺害しようとする女性カウンセラーとサッカー選手、新興宗教の教祖に惹かれる青年とその幹部、失職中に犬を拾った中年、これら5つの物語が微妙に絡み合って、物語を展開させていく群像劇。
 割と評判が良くて、文庫版の表紙にも「巧緻な騙し絵のごとき現代の寓話の幕がいま上がる」とあるが、個人的にはそれほどピンとこなかった。たしかに5つの物語が絡んではいるのだが、たとえば恩田陸『ドミノ』のように、それが何らかの大きなストーリーのプロットになるわけでもなく、5つの物語に何か謎が込められていて、それが他の4つから見なければ絶対に分からないというわけでもない。たとえば、女性カウンセラーが遭遇するバラバラ死体の謎は、青年の話だけで謎が解ける。いわば、5つの物語を無理に絡めて読者を面白がらせてやろうとしたような印象が強いために、最後は盛り上がりに掛ける気がする…というよりも盛り上がるべきところでそのように感じないために、こちらが抱く読後感は逆に盛り下がって感じてしまう。むしろ5つを別々の短編にした方が、個々のストーリーを際立たせつつ、見えない1つの流れを構築できたのではなかろうか。
 ところで、水がある場所にライトを当てた水槽にプラナリアを入れておくと、ライトを当てるだけでプラナリアはその場所へ移動するようになるが、ある時からライトを当てても動かなくなり死んでしまう、という逸話が紹介されている(271〜272頁)。その理由は正確に判明していないのだが、飽きてしまったという説が有力であり、原始生物でも同じことの繰り返しでは飽きてしまうらしい…とのことだが、この話の典拠は何だろうか。それを読みたいのだが。


1月7日

 山田正紀『ミステリ・オペラ 宿命城殺人事件』(ハヤカワ文庫、2005年(原著は2001年))上を読む。平成元年の東京にて、編集者の萩原祐介はビルから投身自殺した。彼の妻・桐子は、祐介が残した戦前の探偵小説『宿命城殺人事件』を読み、自分が時空を行き来してパラレルワールドへと至る存在だと認識するようになる。一方、戦中の満洲を舞台にした『宿命城殺人事件』の中では、建国を奉納するオペラ『魔笛』の上演をめぐり、奇怪な事件がいくつも語られる。そして、『宿命城殺人事件』をめぐり桐子へ接触してきた、「検閲図書館」を名乗る黙忌一郎(ちなみに、「もだしきいちろう」と読む)が小説中に登場して、事件を解明していくという、現実と小説の交錯が始まる…。
 かなり内容を紹介しにくい小説である。無意味に難解だからという理由ではない。ミステリに見られる要素、つまり人間消失、列車消失、正体不明の仮面の人物、ダイイング・メッセージ、暗号、古文書、見立て殺人、密室殺人などが、これでもか詰め込まれているというのも理由なのだが、それらの要素をつなぐ設定そのものが説明しにくいので、読んでもらうしかない。はっきり言って、ミステリとしての設定やトリックは別段驚かされるようなものではなく、ある種のパズル的なものなのだが、小説の構造や舞台設定としては個人的な趣味と合致したので、面白く読めた。パラレルワールド(たとえば、山口雅也『奇偶』)、劇中劇、過去の解釈、といったテーマに興味がある人、しかもオチをはぐらかすようなタイプが好きではない人にお進めできる。
 それとは別に歴史の解釈に関わる内容もある。『宿命城殺人事件』のなかで、殷代の人骨に刻まれた甲骨文字の解釈を利用して、陰陽道に通じる関東軍の実力者・占部が天照大神を満洲の建国心に祭り上げようとする場面がある。そのときに黙は、占部の解釈に反対すると共に、そのとき起こった殺人事件をその甲骨文字に見立てることで、占部の目的を挫いている。時を経て黙は占部と再び出会うのだが、占部は黙に「事実がどうあろうと、そうでなければならない」と訴える。だから、探偵小説である『宿命城殺人事件』はすべて否定されなければならない、あんな歴史があってたまるか、と。それに対して黙は、世の中には異常なもの、奇形的なものに仮託することでしか、その真実を語ることができないものもある、この世には探偵小説でしか語れない真実というのもあるのもまた事実、と反論する。
 2人は結局分かり合うことがなかったが、皮肉なのは、もしこれを歴史と文学の対決と見なすのであれば、占部が歴史学の象徴になってしまいかねないこと。何も占部のように何らかの政治的な意図を持っていなかったとしても、真実とやらを追い求める態度は、「本人にとってそうあるべき」歴史に執心してしまう危険性もあるということだ。だからといって、黙が正しかったのかというとそうとも思えない。黙は「検閲図書館」という世間から隔離された立場から、俯瞰的に物事を眺めている点で絶対的な中立にいることになる。つまり、もし文学が主観的だというのであれば、彼の立場と行為は文学ではない。確かに、黙自身は幾度か自らの意志で行動に移しており、そのときには彼は中立ではない。ただし、小説に仮託したとして、その語る人物の立場と真実が正しいかどうかは、主観的であるがゆえに判断できないことになる。なお、これはあくまでも文学と歴史が対立すると考えた場合である。むしろ、対立すると考えない立場を取る必要があるのかもしれない。


1月9日

 多島斗志之『汚名』(新潮社、2003年)を読む。昭和30年代、少年だった「わたし」こと伊尾木は、叔母である藍子の元へドイツ語を習いに行っていた。独り身であり非常に慎ましい暮らしをしていた叔母に対して、母親は援助をするために息子である「わたし」を習わせに行かせていた、という事情があったのだが、叔母はいつも無愛想であり、何に対しても無関心でよそよそしかった。しかし、50歳を超えた「わたし」は、女学生時代の叔母が溌剌とした少女であったことを知る。何が叔母を変えたのかについて調べていくうちに入手した、戦前を舞台としたとある人物の手記には、ゾルゲ事件をめぐる叔母の意外な関わりが描かれていた。そして、叔母の愛情が、自分自身にも複雑な形でのびていたことを「わたし」は知る…。
 ゾルゲ事件はともかくとして、何か劇的な事件やトリックが登場するわけではないけれども、素っ気ない戦後の叔母の姿が、冒頭で丁寧に過不足なく描かれているために、叔母がなぜそのように変貌してしまったのかを探る部分へと引き込まれる構成になっている。そしてラストの場面へと入る頃にはオチが見えてくるのだが、しっとりとした文体ゆえか、最後まで飽きさせることはない。叔母を刺した人物や叔母と「交わった」人物に関して、もう少し伏線が張ってあれば、さらに意外な展開を持つストーリーへとなったのかもしれないが、おそらく著者が目的としたセピア色を思わせる全体の構成からすれば、余計な部分になったかもしれないので、これはこれでよいのだろう。


1月15日

 池上裕子『織豊政権と江戸幕府(日本の歴史 15)』(講談社、2002年)を読む。織田信長の台頭から大坂冬の陣までの概説史。ただし、「はじめに」で強調しているように、統一政権の成立と封建的諸関係の形成のみを重視するのではなく、信長・秀吉・家康は流通や貿易の促進にも配慮した、という視点に着目して叙述が行われている。たとえば、信長が安土に築城したのは、防衛面から安全性が高いという理由に加えて、物流の大動脈を掌握する意図があったとする。特に、東海道と東山道のみならず、琵琶湖を使った日本海へ通ずる水運ルートが重要であったとする。信長が尾張、近江、越前と勢力を拡大していった動向もこれに沿う。そして、秀吉もその流れを継ぎ、瀬戸内海(さらには朝鮮出兵へ)つながる大坂を本拠地に選んだとする。
 こうした点で、このシリーズの第0巻である網野善彦『「日本」とは何か』の流れに沿っていると言えるかもしれない。なお、家康については特に述べていないが、岡野友彦『家康はなぜ江戸を選んだか』によれば、家康もそれ以前から存在する太平洋岸の海運ルートとのつながりがあるとされるので、本書の内容とあわせると、織豊政権から江戸幕府までの流れが、違った側面からよく見える。
 必要があって読んだのだが、なかなか面白かった。基本的な歴史の流れを踏まえつつ、新しい視点も取り入れながら、単なる事実の羅列に陥らないように、読者を退屈させない話題を提供する、という概説書に必要とされる水準を軽くクリアしていると思う。著者の力量の高さを示しているだろう。というわけで、個人的に興味を引かれた箇所についていくつかメモを。
 天正三(1575)年、長篠の合戦を経て、越前の一向一揆を平定するが、このとき信長は一国の支配を部下に任せた。その際に定めた国掟には、細かい指示を出すとともに、信長の下にあることをも明確に述べている。ここに、信長が分国支配者から脱して統一政権の長としての自覚を持ったことが見て取れる(63〜65頁)。信長が撰銭令を出した結果、銭での取引が嫌われ、米による取引へと転換する。信長の意図は達せられず、これが石高制成立の背景となった(88頁)。
 天正十五(1587)年、秀吉はキリシタン禁令を発布したが、その中に大名・領主の知行は当座与えられたものにすぎず、替わるものであると明記されている。「この考え方は信長の段階には存在せず、秀吉は関白となって全国度と人民の統治権を持ったとする立場から新たに主張」した(209頁)。また、秀吉期の城下町は、大名のもとにある町でも、武家・町人・寺社の地域を明確に区分し、従来の町を村として、農民との区分をはかった。そして、こうした城下町を作ることで物流の拠点ともなった(277頁)。
 また、知らなかったのだが、関ヶ原の戦いに際して、徳川秀忠は中山道経由で譜代大名を引き連れて進軍したのだが、信州で真田昌幸の抵抗に遭い、戦いには間に合わなかったらしい。


1月19日

 佳多山大地・鷹城宏『ミステリ評論革命』(2000年、双葉社)を読む。『小説推理』に1月交代で連載している、ミステリの書評の2000年連載分をまとめたもの。各回の構成は、中心として論じる著作を1冊ずつ取り上げて、400字詰め原稿20枚程度の分量になっている。取り上げているミステリに関連する小説や評論などを取り上げるか、現在の時評を述べて、それと絡めつつ論じるスタイルをとっている。
 服部まゆみ『この闇と光』に添えられた鷹城の解説がなかなか興味深かったので、本書を読んでみた。力が入りすぎて、やや前口上が長すぎる場合も見られるが、個人的にはかなり好きなタイプの評論である。あまり読んだことがないので断言できないのだが、いわゆる文芸評論は自分自身をはるか高みに置いて、著者や作品の価値を見出せる自分が偉い、と感じて好きになれない。だが本書では、作品を解題するので俯瞰的な視点を取って、作品に込められた意味を解説することもあるが、それ以上にこの作品をこう読めばもっと面白い、と訴えかけるような愛情に溢れていて好感が持てる。あとがきを読むと、著者は二人とも社会人であり、だからこそそうしたバランス感覚が反映しているのかもしれない。さらに、作品を深く読み込むために様々な小説や評論を引用しているが、わざわざ難解な理論を持ち込んで解釈するような愚も犯していない。こういったタイプの評論をしようかな、と朧気ながら考えていたので、「やられた」といった感じでもあるし、やるからにはこれに迫るものか越えるものを書かなければならないなあ、という気合いも入った。また、幾つか興味を引かれる小説もあったので、いずれ読むことになるだろう。
 幾つかメモを。石田衣良『池袋ウエストパーク』(文藝春秋、1998年)は、十代の若者を中心とした青春群像を描いているが、そこには学校や教師は出てこない。1980年代までの中高生向けジュブナイルには、必ず反抗すべき対象として大人や教師が描かれていたのとは対照的である。これは、若者の敵が学校や社会制度ではなく、漠然とした不安が続く日常になったためと解釈できる(115〜116頁(佳多山))。服部まゆみ『シメール』(文藝春秋、2000年)にて、美少年と中年の美術評論家は、共に『ピーターパン』のフックをお気に入りのキャラだと語る。だが、前者がシャア=アズナブルに連なるアニメの美形的キャラと重ね合わせた印象を窺えるのに対して、後者は憂いのある悪役を想定している節がある。ここには異端文学の復興が試みられた60年代と、オタク的サブカルチャーが主導した90年代の違いを見て取ることができる(201〜203頁(鷹城))。


1月22日

 末木文美士『仏教vs.倫理』(ちくま新書、2006年)を読む。仏教の考え方を通じて、現在の状況や思想を考えている書。決して仏教を手放しで認めているのではなく、現代社会において仏教がどれほどの役割を持てるのか、という疑問に対して真摯であり、あくまでも現在の状況を考える物差しとして有効かどうかという視点から論じているために、好奇心をそそられる記述が少なからず見られる。特に、第1章の「仏教を疑う」は面白い。幾つかメモ的に挙げてみる。
 日本の本覚思想は、凡夫にあるがままの現状を認めることにつながり、これにより向上の機会が失われ、さらには何をしてもよいという無倫理主義に陥る可能性がある。しかし、この問題は仏教全体にも関連する。たとえば上座部仏教は、他者の救済を顧みない独善的な立場と、大乗仏教から批判される。だが、サンガ共同体は厳しい内部倫理を保つと共に、托鉢を行うため在家信者と倫理的な関係を維持していた。日本の本覚思想と絡めれば、他者の救済を求めるがゆえに、かえって大乗にこそ倫理の崩壊が生じることになる(第2・3章)。ブッダは悟りの教えを人に教えず死のうと考えていたが、梵天が請うたために教えを説き始めた。となると、ブッダの悟りの中には「人々に教えを説く」という考えはなかったことになり、慈悲の原理はブッダの悟りとは違うことになってしまう(第4章)。「あまりにも重すぎる倫理的な責任は、逆転してそれを他者であるブッダに委ねて、自らはそこから解放される」無責任が生じる(第5章)。仏性の平等は、現実の不平等を解消せず、現実の不平等を隠蔽する可能性がある。最終的には同じように成仏するのだから、現世の不平等は我慢せよ、という論法が成り立つからである(第7章)。
 ところが第2部の「<人間>から他者へ」と第3部の「他者から死者へ」に入ると、どうもあまり面白くない。もちろん興味深い記述も見える。たとえば、『万葉集』を引いて古代においては異性への呼びかけと死者への呼びかけはそれほど異ならなかった、と指摘している(第17章)。しかし、それでもペースダウンした感が強いのは否めない。おそらく、どちらかと言えば通俗的な現代文明の批評、もしくは反批判に収まってしまっているからだろう。あくまでも個人的な印象であるのだが、仏教は個人の倫理や思想を相対化するためにはまだまだ十分に有用であるけれども、個人を越えた世界を計るためにはすでに実用性を失ってしまっているのかもしれない、と本書を読んでいて感じた。


1月24日

 連城三紀彦『人間動物園』(双葉社、2002年)を読む。雪が降る埼玉県で起きた幼女誘拐事件。1億円という身代金は、別れた夫の父である政治家が、不正に得たとされる金額と同じであった。そして、現場に赴いた刑事たちは、被害者宅に多数の盗聴器が取り付けられたことを、手紙によって状況を知らされた隣人より知る。やがて彼らは、自分たちが詰め所とした隣人宅にも盗聴器が仕掛けられていることに気づかされ、自分たちがまるで檻の中に閉じこめられた動物であるような感覚へと陥る。そして、関係者の思惑が疑心暗鬼を生むとき、事件は思わぬ方向へと進む…。
 決して面白くないわけではないけれども、私にとってはノスタルジー小説の一種かなあ。最後の部分で、犯人が自分の行動を、体制に対する反抗といったような感じでまとめているあたりなどは、特に。


1月30日

 岩瀬彰『「月給百円」のサラリーマン 戦前日本の「平和」な生活』(講談社現代新書、2006年)を読む。その書名通り、戦前昭和の頃の、月給が100円だった頃のサラリーマンの一般的な生活を、価格との対比を行いながら見ていく。まず冒頭にて、いくつかの説を検討しながらおおざっぱな試算を行い、当時から物価は2000倍、給与は5000倍になったと概算している。当時のサラリーマンは、人口比率で言えば10%以下であったが、明治期のようなエリートと呼べる存在ではなくなりつつあった。にもかかわらず年配層は、息子がサラリーマンになれば立身種背を果たせると思いこんでいた節があり、意識のギャップがみられた。さらにいえば、大正期の好景気は終わり、昭和初期はホワイトカラーの余剰時代がやってきていた。このあたりから、昭和初期に対する暗いイメージが形成されているのだが、生活に密着する事例を取り上げて、その暮らしぶりを具体的にみていく。色々と興味深い記事が見られるので、まずはメモ的に羅列していく。
 早稲田・慶応の学費は大正末期から昭和2年頃まで120〜160円。当時は初任給の2倍と推測されるが、現在は4倍である(21頁)。年収1200円(さらに扶養家族の人数×100円は扶養控除がある)までならば非課税であったため、納税することは一定より上の階級たる証であった。その代わり、国からの保証は特になかった。だからこそ、子供は親の面倒をみるために同居せざるを得なかった(42〜43頁)。
 ただし、年収を見ると、かなり格差があることが分かる。当時の人々の9割が年収650円以下であった。不動産関係の仕事をしていた山本七平の父親が、事業に失敗した東北地方の取引相手にごちそうしたところ、故郷の百姓がこれを見たら革命を起こすだろう、と語ったという(88頁)。昭和初頭の一流企業の入社5年後の給与を見てみると、帝大卒ならば100〜150円、私大卒ならば90〜130円に対して、中卒ならば50〜60円であった(154頁)。旧制中学の学費は、年60円程度だったが、周囲の父兄に併せての付き合いがあったため、実際には大卒初任給なみの70〜80円程度が必要となった。一方大学だと、年600円程度は必要になった(49〜51頁)。
 なお、この頃の官吏の年収は(カッコ内は昭和6年の減俸以後)、内閣総理大臣が12,000円(9,600円)、大臣と朝鮮総督が9,600円(8,000円)、政務次官が6,500円(5,800円)、国会議員がだいたい3000円、帝大教授は級別に異なり1,200円〜4,500円(1,130円〜4,050円)であった(60〜62頁)。ちなみに、官吏の職においては、私学出身者はあからさまに冷遇された。
 その逆に、軍人はかなり安い給料であった。20代後半から30代の陸軍中尉でも、月給は100円前後に過ぎず、裏長屋暮らしでギリギリの生活を強いられた。40歳直前の官僚、東大教授、軍人の年収を比べると、商工局長で4,300円、東大教授で3,200円、参謀本部の陸軍少佐で2,300円とかなり開きがあった。さらに、中佐で53歳に予備役に編入されたため、その後の生活もかなり苦しまねばならなかった。なお、戦時体制になると在勤加俸が大尉で50円ほど付き、平時より待遇がよくなった(203〜212頁)。
 生活について見てみれば、洋服は自由の象徴である一方で、奔放と見なされるリスクもあったが、それだけではなく高価で機能的ではない和服こそ豊かな生活の象徴であるとされたため、洋服を着ると貧しいと捉えられることが普通であった(80〜81頁)。年金などが充実していない戦前においては、貸家を持つのは庶民にとって有力な老後対策だった。ただし、これはブルーカラーの方がよく行おうとしていたことであり、サラリーマンの資産運用は株で行うのが一般的であったため、賃貸収入を得ようとする者は出世を見限った変わり者とされた(93〜98頁)。学歴による階層差が激しかった戦前でも、激しい受験戦争が行われるようになっていく。そのため、昭和6(1931)年に文部省の役人が談話を発表したのだが、頭の悪い子供を競争の激しい学校へ入れるのよくなく、たとえ入っても、いつかはその頭の悪さから仲間から除け者にされる、という露骨なものであった(118〜119頁)。ただし、大正8(1919)年頃までの大学生は就職に困らなかったが、それ以後は帝大生といえども三井や三菱のような一流企業に入りにくくなり、昭和4(1929)年には、就職率が50%にまで下落した(128頁)。なお、大正期は好景気に沸いており、そのころの新人サラリーマンは、誰某が通っている高級料理店へと通い、自分の給料を超えるような支払いになってしまい、親に泣きつくものもいたらしい(174〜175頁)。
 現代と同じような考えも存在している。1930年5月の『文藝春秋』では、不景気をテーマに一般庶民の座談会を行っているが、「店賃なんどは満足に払って居る者は馬鹿みたいに言われる」や「道徳と云うものは今の人様にはちっともない」といった発言が見られる(69〜70 頁)。当時の学生に対する非難も同様である。前田一『サラリマン物語』(1928年)では、最近の学生は質が低下しており、色々なことを余計に知っているが、熱心さと誠意がないとしている。また、講義にも出ず、試験二週間前に友達から借りたノートを読んでおく輩がいるどころか、まじめに出た学生のノートをガリ版刷りにして売りさばく商売もあるほどだ、と散々である(131〜132頁)。また、慶応の学生が昭和6(1931)年に群馬県で軍事教練を受けたところ、飲酒によって器物を破壊し、付近の農村の子女を連れ出したり、東京から呼び寄せた女性とドライブするなどの行為を行ったという。著者も言うように「こうした人たちが企業に入って戦後復興や高度成長期をサラリーマンとして支えたのである」(139頁)。
 さて、色々と興味深いデータが多かったので、つらつらとかなりの量にわたって挙げてみた。学生の話や高級料理店に通うサラリーマンの話は、現在の学生の姿とさして変わらず、いまの学生を声高に批判する人々の多くが、自分を棚に上げているだろうと推測できる。この辺は、パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』の「日本人は勤勉ではない」を補強する資料といえよう。こうしたデータを踏まえた上での終章「暗黙の戦争支持」は示唆的だ。左翼はサラリーマンはプロレタリア化していると声高に主張したのだが、昭和6(1931)年の『実業之日本』の記事を読む限り、当のサラリーマンたちは自分たちはそこそこ恵まれていると感じていたことが分かる。大多数の恵まれないブルーワーカーは、満洲事変以後の大陸に自分たちの将来を見つけたように感じて、政策を受け入れる一方で、サラリーマンは自分たちの生活に満足して、暗黙のうちに戦争を支持していたのであった。このあたりは現代にも通じる問題なのかもしれない。
〔追記:2016年11月16日〕
 メモの追記。昭和初期の家系実支出に占める食費の比率は、サラリーマン世帯で33%、労働者40%、農家46%であったとされる(中村隆英『家計簿からみた近代日本生活史』東京大学出版会、1993年)。当時の婦人雑誌にあがっている個別家系を見ても、収入に対して食費は30%前後が主流だった。そのなかで米や麦の主食費は15〜20%であった。昭和4年の白米10キログラム(二等)の価格は2円45銭であり、月収100円の家族3人で50キロくらい買っていた計算になる。現在の日本人は1人月5キロでかなりたくさん米を食べていた計算になる。だからこそ米の値段は消費者にとっても農家にとっても大きく生活に影響した。たとえば大正15年には10キロ3円以上した米の価格は2円台に下落した。農家の平均所得は昭和4年には1326円あったが、6年には650円まで下落した(83〜85頁)。)



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