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2006年11月の見聞録



11月1日

 篠田節子『弥勒』(講談社文庫、2001年(原著は1998年))を読む。独特の仏教美術が栄えているヒマラヤの小国・パスキム。かつて仏教美術展を開催した折りにパスキムへ訪れて、その美術と風土に魅惑された新聞社社員・永岡は、持ち出しを厳しく制限しているはずのパスキムの仏像の破片を日本で目撃する。パスキムで何が起こっているのかを知りたくて、単身で潜り込んだ永岡が見たものは、もぬけの殻となった首都と、内部を打ち壊された寺院に転がる虐殺された僧侶たちであった。奇跡的に破壊を免れた弥勒像を持ち帰ろうとした永岡は、正体不明の兵隊に捕まってしまう。パスキムではクーデターが起こって、国王を中心とする体制は打倒されてしまっていたのであった。支配階級や知識人階級、僧侶といった上流階級の存在は否定され、万人が平等に労働生活を送る社会へとパスキムは変貌しており、永岡は想像を絶する共同生活を経験することになる…。
 解説でもあるように、本書は恐らくポル・ポト政権下のカンボジアや中国の文化大革命をモデルにしていると思われる。皆が平等の生活を送り、革命に反抗する異分子を排除すれば、皆が幸せになれる社会を築けるという信念に基づいて行動すればするほど、悲惨な状態へと陥っていく様が、これでもかと書き連ねられているが、おそらくポル・ポト政権下や文化大革命でも似たような状況が生じていたのだろう。しかも、革命の指導者・ゲルツェンは極めて清廉かつ清貧な人物として描かれているにもかかわらず、悪化していく状況と同じく破滅への道を辿っていく。これが革命家も俗物であれば自業自得となるのだが、そうでないために彼の理想の崩壊に悲劇しか見出すことが出来ない。そして、将来を担う子供たちは、大人の監視役としてスパイになっている。家庭生活に安らぎを求めることも出来ない。さらに、永岡は捕まる前に弥勒像を隠しておいたのだが、混乱に乗じて脱出した最後のクライマックスで、その弥勒像に再会する。解説でも指摘されているが、その弥勒像は自らの逃避行にとっての重荷でしかなかく、永岡を幸せへと導くことはやはり出来ない。『弥勒』というタイトルとは異なり、この小説には救いがないのである。そのどうしようもない救いのなさを描ききった本書のパワーは凄まじいものがある。
 ちなみに、私はポル・ポト政権にも文化大革命にもそれほど詳しくないため、本書で描かれた共同生活は古代ギリシアのスパルタを何となくイメージしていたりする。ただ、結婚は指導者が決めた組み合わせで行う、ということまでスパルタでやっていたのかどうかは知らないのだが。あと、名前が否定され「兄弟4」といったような名前で呼ばれること、ゲルツェンの同士が「兄弟」と自称している場面を見て、フランス革命において訴えられた「兄弟かさもなくば死か」というスローガンを思い出した。革命は、その核においていずれも類似した性格を持ち、また同じような結末を辿ってしまうものなのだろうか。
 あと、ふと気になったことだが、永岡は無理にあてがわれた妻に対しても性的な欲求を抱いてしまう。ヴィクトール・E・フランクル(池田 香代子訳)『夜と霧』(みすず書房)で、収容所の生活では性欲が減退した、と読んだことがある気がするのだが、この辺りはどうなんだろう。


11月3日

 倉知淳『日曜の夜は出たくない』(創元推理文庫、1998年(原著は1994年))を読む。猫丸という、何にでも首を突っ込みたがり非常に個性的でありながら、洞察力の優れた人物が、様々な場面で生じる事件や出来事の謎を解き明かしていく連作短編集。エピローグとして、この作品へ込められた密かな意味が、猫丸と最初の短編に出てくる彼の後輩との間で語られてオチが付くかと思うと、さらにどんでん返しが待っているという構成。オチに関してはパズル的でもありギャグ風味であるため、どことなくコメディ風でもあるこの作品らしい終わり方だと思っていたら、どんでん返しではその作風そのものすらひっくり返されて、やるな、という感じ。軽妙でありながら本格というミステリが読みたければ、お勧めできる。


11月5日

 スタニスワフ・レム(長谷見一雄・沼野充義・西成彦訳)『虚数』(国書刊行会、1998年(原著は1973年))を読む。5つの想像上の本の序文と、そのうちの1冊の本文の抜粋を集めたという構成の小説。5つの本のうち3つはコンピュータに関連しており、コンピューターによる文学「ビット文学」の解説、未来を予測するコンピューターによる百科事典の販促用パンフレット、そして、人智を越えたコンピュータGOLEM XIVによる講義、となっている。あるところでお勧めする文章を読んで手に取ってみたのだが、何となく無意味に衒学的に見えて、個人的には余りピンとこなかった。現代思想に興味がある人ならば、私とは違って、その面白さを見出せて語ることが出来ると思うのだけれど。
ただ、幾つか目にとまった箇所もある。「ビット文学」の解説で、「高」慢や卑「下」といった概念は、機械によれば、人間を含むあらゆる生物は万有引力に対抗しなければならない、という事情から生じた、と語られている部分がある。なるほど、と思ったのだけれど、これは原語では何と書かれているのだろう。またGOLEMが人間の各個体ではなく、人間という種そのものに興味を示す、という部分も何となく興味深い。


11月7日

 井上夢人『プラスティック』(講談社文庫、2004年(原著は1994年))を読む。54個のファイルが納められたフロッピーディスク。それらは何人かの人間によって作成された文書が収められたファイルだが、冒頭のファイルである出張中の夫の帰りを待つ主婦・洵子の日記は、誰かが自分のふりをして行動していることを書き連ねている。しかし、次のファイルではいきなり洵子の死が語られている。そして、その次のファイルからは彼女の隣人やその知人たちによる断片的な文章が、洵子の死に関わる形で書き連ねられ、交錯していくそれらの文書は、事件の真相へと迫っていく…。
 最初はなかなか引き込まれるのだけれど、半分をすぎた辺りから何となくネタが分かってしまい、そこから先はなだらかな下降線で物語が終結していく感じ。最後にもう1つ盛り上がりが欲しいところ、といった感じか。


11月9日

 服部まゆみ『この闇と光』(角川文庫、2001年(原著は1998年))を読む。盲目の姫であるレイアは、王であった父親と共に離宮に幽閉されていた。レイアを憎む召使いとおぼしきダフネに怯えながらも、父からの愛情や父が読み聞かせてくれる本のおかげで、それなりに満ち足りた生活を送る。しかし、レイアが少しずつ年を取るにつれて、その世界は少しずつ歪みはじめ、初潮を迎えた後に、思いもよらぬ姿を見せ始める…。
 読み始めたときはファンタジー世界の物語と思って読み進めていくと、カセットテープのような小道具や、『嵐が丘』や『罪と罰』といった書名が出てきて、あれっと感じるようになってきたら、いきなり凄まじい場面転換を遂げる。この前半と後半の落差は凄まじく、やられた、といったところ。その落差は、パラダイム理論の変則的な具体例として本書は使えるのではないか、という気にさせられるほど。そういう堅苦しいことを抜きにしても、十分に面白い。
 なお、本書は直木賞候補になったらしいのだが、そのときの評者である井上ひさしや黒岩重吾は、「犯人」の心情が曖昧であるという評価であったらしい。しかし、文庫版の解説で鷹城宏が読み解いているように、闇と光を併せ持つ「犯人」を描きたかったので、その真相を暴くことに主眼は置かれていなかった、と捉えるべきであろう。最後の文が、「そこに居るのはアブラクサス…。闇と光の神だった」となっていることも、それを物語る。新堂冬樹『鬼子』を読んだときに、推理小説は回答を明示しなければならないという考えに縛られているのでは、といったことを書いたが、先の評者たちにもこれがあてはまる気がする。もちろん、読者を煙に巻くような終わらせ方をすることの方が格好いい、という考えは論外だが。


11月12日

 南和男『幕末江戸社会の研究』(吉川弘文館、1978年)を読む。パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』で、「日本では江戸時代の段階では結婚しても日雇い仕事をしていた者、つまりフリーターも多かった」という部分の典拠になっていたので読んでみた。内容は幕末の江戸の幾つかの地域の社会調査に基づいた、そこに暮らす人々の生活実態の報告のような感じであり、堅めの実証主義的な歴史書である。確かに、『反社会学講座』で引用されているように、日雇いの仕事をしている人間が多かったことは確認できたのだが、かなり異なった印象を受けた。というのは、これらの人々がかなり貧しい生活を送らざるを得なかったらしい事実に由来する。彼らは働きたいときに働いていたのではなく、働きたくても働けなかったのではなかろうか。たとえば、江戸における下層民のエンゲル係数が60%を越えていたらしいことも、こうした状況を間接的に物語っている気がする。とはいえこれも、下層民は困窮した生活にあったはず、という先入観によるものかもしれないので、何とも言えないのだが。紀田順一郎『東京の下層社会』での明治期の悲惨なスラムの状況は江戸末期からの連続性を示すのか、それとも明治期に始まった現象なのかによって、解釈もかなり変わる気もするが
 速水融『歴史人口学で見た日本』では、農村地方は人口が増加しているにもかかわらず、江戸や大坂といった都市部の人口は同じくらいか減少している現象に対して、経済的な発展を遂げる都市は絶えず農村部より人を惹きつけなければその発展を維持することが出来なかったとしているとする「都市アリ地獄説」が主張されているが、江戸に関しては若干状況が異なっていたようで、江戸は何度か急激な人口の増加が生じている。これは、江戸には流通の全国市場として流入人口を吸収しうる余地があったためと、推測されている。
 とはいえ、こうした人間は下層階級を形成し、さらに非人階級へと身分を落とすこともあったらしい。そして、これに関して興味深い記述があり、こうした新たに非人になった者を監督していたのが、世襲によって地位を受け継いでいた生来の非人であったらしい。つまり、元から下に位置していた人間が、上の身分に立つこともあるという倒錯した現象も生じていたことになる。これは、畑中敏之『「部落史」の終わり』が主張する、近世以前の非人制度と近代以降の部落を別のものとすべきという見解を、違った側面から補強しているような気がする。


11月14日

 恩田陸『月の裏側』(幻冬社文庫、2002年(原著は2000年))を読む。九州の水郷都市・箭納倉に、大学時代の恩師である協一郎に呼ばれた多聞。そして、失踪してはひょっこり戻ってきてその間の記憶はない、という人間が何人もいることを聞かされる。新聞記者の高安、協一郎の娘・藍子と共に調べていく協一郎は、失踪した人間は「人間もどき」と入れ替わっており、それはすでに箭納倉全体を少しずつ浸食している、との推測を多聞たちに告げる…。
 本作では、人間の入れ替わりに「水」が関連しているのだが、何とも言えない湿気を感じさせる水郷の町の描写が、じわじわと水に浸食されていくかのような不安感と一体になっている。ただし、それを単なる不安感では終わらせていない。「人間もどき」は無意識に行動したとき、すべての個体が同じ行為をする。たとえば、突然の交通事故を目撃したとき、全く同じ動作で驚く、といったようにである。つまり、個体としては別々でも同じひとつものもになってしまっているというわけだ。これは相反する感情の為せる技であるのだ、と協一郎は推測している。私たちはそれぞれが個別であると意識の上でも生物学的にも強く認識しているが、一方でひとつになる方が楽なのではないか、という感情もあるために、人間もどきとしてひとつに融合したのではないか、と。これは政治的な寓話のようでもある。
 なお、私は読んだことがないのだが、ジャック=フィニイ『盗まれた町』(早川書房、1979年)という小説は、本作と同じような人間が入れ替わっていくSFだそうであり、本作の本文中でも言及されている。恐らくオマージュなのであろう。しかし、それを劇中にうまく使っているところがよい。自分たち以外に人間がいなくなった高安は、この『盗まれた町』を読んでいる。絶望的なリアルの中でフィクションを読むとはどういう行為なのかを知りたいために。そして、こんな状況で読んでも面白いのだと気付き、「人間というのは、どんな状況でもフィクションを心のどこかで待ち望んでいるらしい」とのセリフを呟いている(356頁)。
 それ以外に幾つか興味深い記述をメモ的に。多聞は、箭納倉の夜は東京の夜よりも闇が濃い、と述べ、こういうところで本を読んだりラジオを聞くのは、都会のマンションでのそれとは違う体験になるのでは、との感想を漏らしている(106〜107頁)。これはラスト付近(377頁)で、外部からの情報が全く入ってこない状態になると時間の感覚を失う、という部分にも近い。また、藍子はメモ代わりに写真を撮っているが、それを見ることで他人にとっては意味はなくとも自分には分かるので、過去を思い出すことが出来る、とする。また、日記のように読まれても困るということはないからだ、と話す(208頁)。
 ちなみに、北原白秋の友人で、才能があったにもかかわらずスパイの疑いをかけられて自殺してしまった人がいるそうで、白秋は彼に捧げて、白いタンポポに君の血が滴る、という詩を書いたそうな。加納朋子『ななつのこ』には、白いタンポポをめぐる小学生と主人公の友誼が描かれているのだが、これを知った後でを読むと、かなり印象が変わってしまうような気が…。


11月16日

 津田大介『だれが「音楽」を殺すのか?』(翔泳社、2004年)を読む。音楽業界は1998年をピークとして落ち込んだといわれ、実際に1998年には6000億円超であった売り上げが、2003年には約4000億円へと落ち込んでいる。その原因は幾つか考えられるが、音楽業界の関係者からの弁として、違法コピーが挙げられることが多い。しかし著者は、「音楽」そのものが持つ問題というよりも、現状に対応する「音楽業界」のビジネスの下手さにその原因があるのではないかとして、レコード輸入権、CCCD(コピーコントロールCD)、違法コピーとファイル交換、音楽配信サービスをテーマとして論じていく。
 個人的に最も興味深かったのはレコード輸入権に関する部分(ちなみに、それ以外のと3つはまあそういうものかな、という印象であった)。東南アジアで正規に発売された日本のアーティストのCDが、日本に逆輸入されると国内版より安くなる、という現象を封じ込めるために輸入をするかしないかを定める権限を国内のレコード会社に与える動きが生じている。もし、これが日本に入ってくる海外盤すべてに適用されれば、海外のアーティストの輸入盤を日本に輸出するか否かの権利が国外のレコード会社に与えられることになり、海外盤が日本に入ってこない可能性もあるという。実はCDレンタルの著作権が改訂された1991年にも、CD貸与権を得た海外のレコード会社は、CDレンタル禁止期間を法文上で定められたの最大の期間である1年間にしてしまったらしいので、同じ事がまた起こらないとは限らないそうである。これに関連して、本書を読んで初めて知ったのだが、国内のレコード会社は洋楽部と輸入部が存在しており、後者が輸入盤に関するディストリビューションを行っている。輸入盤に関する業務をも自分たちで扱うことによって、少しでも自分たちの手元に金銭が入ってくるようにするためである。もし、輸入盤が入ってこなければ、輸入盤より割高な国内盤を安心して売ることが出来るし、洋楽特有の輸入盤対策のための国内盤におけるボーナストラックを付ける必要性もなくなるため、コストダウンにつながるのだから、輸入権を付与した方が自分たちの利益になるのである。私自身は洋楽を聴くので、輸入権の問題なんて関係ないだろうと読んでいたら、このような関連があるとは思いもよらなかった。
 また、CDにも時限再販制度が導入されたにもかかわらず、店頭で値引きされたCDをほとんど見ないのはなぜだろうと、思っていたのだが、これは店側がそれをしたがらないためだからのようだ。実は、レコード会社は再版期限が来たら廃盤にして、新たに同じCDを再発してまた期限を延ばす、ということをやっているのではないかと邪推していたのだが、違うようである。
 注文を付けるとすれば、JASRACの問題はもっと突っ込んで欲しかった気がする。確かにJASRACのおかげで著作権が守られてきた側面は否定できないのだろうけれども、本書だけではなくすでに多方面で指摘されているように、著作権使用料が本当にアーティストへと分配されているかどうかが不明瞭だからだ。特に最近それを強く感じたのは、BEATLESをはじめとする外国の曲を生演奏で聴かせていたスナック店主が、著作権法違反で逮捕された事件を知ってから(「痛いニュース」より)。細かい事情が分からないが、この人物は著作権法に違反する営利活動を行っていたのかもしれない。ただ、なぜTHE BEATLESの曲の著作権に関して、なぜ日本の団体がコントロールする権限を持つのかが分からない。もし、THE BEATLESのメンバーに著作権使用料をきちんと支払っているのであれば、問題はない。しかしながら、支払っていないとするならば、JASRACこそTHE BEATLESの著作権を侵害しているのではなかろうか。あくまでも素人考えなので、こちらが知らない事情もあるかもしれないとはいえ、何よりも情報を明らかにしてくれない限りは、こうした邪推を打ち消すことは出来ない。
 メモ的な情報を。著作権法におけるCDの私的複製に関して、法文では「家族内その他これに準ずる限られた範囲」となっているため、家族同然のごく親しい友人が10人ほどいるならば、それらの友人も私的複製の範囲内に入ると見なすことも可能らしい。


11月19日

 法月綸太郎「密閉教室」(講談社文庫、1991年(原著は1998年))を読む。早朝の教室で、高校生の中町は死んでいた。コピーの遺書が残り、さらには密室であるため自殺と考えられたのだが、奇妙なことに教室からすべての机と椅子がなくなっていた。クラスメイトの工藤は、現場に到着した刑事の森に協力を依頼され、事件を探っていくのだが、その背後には、思いもよらぬ真相が隠されており、奇妙な教室の状況もそれに由来していた…。
 トリックとしては、殺人現場の問題から密室に至るまで、「塩」や「鍵」を絡めつつその謎を解明していく過程に、特に破綻はないのけれども、何となく『金田一少年の事件簿』や『名探偵コナン』のようなパズル的な面白さに近い気がする。ただし、ラストの部分だけは少し趣が代わる。何度も状況や事実がひっくり返されていくのだが、最後に探偵役の工藤はその浅はかさを指摘される。曰く「ロジックの遊戯にうつつを抜かしていただけ」だと。そして、「何を言ったもあなたには全く通じないんでしょうね。あなた自身が自分のことを卑しくない、汚れても臆してもいない人間と考えている限りは」と。工藤は自答する。「謎解きが終われば、本を閉じてしまう無責任な傍観者」だと。この件は、浅羽通明『野望としての教養』(時事通信社、2000年)において、金田一耕助(と金田一少年)はたいてい関係者がバタバタと死んしまってから後付でその解読を試みる点で、全体を知的に把握しようと試みる近代的な知性に近い「近代知」である、と喝破したことを思い起こさせる。
 さらに工藤は「あなたは今日の事件で自分こそ主役みたいなつもりでいるんでしょうね」とも皮肉られている。これなども、出来事を鮮やかに解明する己に陶酔してしまいがちな、あらゆる意味での文筆家に向けられた言葉のようですらある。確かに、言葉によって具現化することで出来事は記録して残る。だが、その中に自分の自画像をどのように描くのかということを怠れば、自分も登場人物であるという意識を欠き、酔っぱらった一人芝居にしかならないだろう。


11月24日

 竹本健治『ウロボロスの偽書』(講談社文庫、2002年(原著は1991年))上を読む。小説家の竹本は、新たな連載を始めたのだが、自分自身とその友人たちが登場する部分、芸者たちの描写の中に、自分の書いた覚えのない隣に住むと主張する連続殺人鬼の独白が挿入されていた。そして、創作のはずの芸者たちが実在することが分かり、連続殺人と関連するように、自分の周りの人間も次々と怪しげな行動を取るようになっていき、現実と虚構の境界が曖昧になっていく…。
 メタ・フィクションといった感じの小説であり、楽しめはしたのだけれど、だからといって個人的にはピンとこない。何か最後に思いもよらない展開を迎えるのかと思っていると、作中で予言されていた作中人物による作者の殺害が、意識の消失に取って代わったような感じになっていき、結局のところやっぱりそれか、といった感じになってしまった。まあ私は、曖昧な感じで煙に巻くようなぼやかし方で終わるものがあまり好きではないため、こうした評価になってしまうが、メタ・フィクションが好きであれば恐らくかなり好印象なのではなかろうか。決して、内容が面白くないわけではないので。
 ところで、登場人物としての竹本の口を借りて、謎の解決を嫌う嗜好があると語られている箇所がある。さらに、数学や物理学では謎の解明が巨大な体系の中で新たな謎へと繋がっていくのに対して、ミステリでは謎が解決されるとそこで完結してしまう、とも不満を述べている。この不満を解消する方法として、最も単純な解決法として謎を解決しない、解決を読者の視点からずらす、といったものだけではなく、謎のサイクルを作品の外に投げかけるシステムを作り上げればいいのでは、と主張している。本作のオチは恐らくそれを意識しているのだろう。推理小説は答えを出さなければならないという概念に縛られているのではないか、と何度か書いたことがあり、本書はその1つの方法論だとは思う。ただし先に書いたとおり、あくまでも私個人の感想としては、システムを作っているというよりはシステムをごまかしているような感じがして、あまりうまくいっているようには感じることが出来なかった。
 内容とはあまり関係なく興味を覚えた部分に関して、メモを。殺人鬼の独白の部分において、彼が手記をうまく書くために小説を色々と読んでいくシーンが何度か出てくるのだが、その中で文章の時制には3つあるのではないか、と考えている箇所がある。文章を書いている時間、現在進行形のように書かれているが実際には過去になっている時間帯、回想シーンとして書かれている時間帯である。文章の上でなぜ色々な時間帯が成立するのか、殺人鬼は悩みつつ答えを出せないまま手記を書き進めている。この辺の文体論は、小説上のテクニックに思えるので、文芸批評をネタにしたものなのだろうが、推理小説のトリックに使うテクニックでもあるのだろうな。


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