前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ


2005年3月の見聞録



3月4日

 山田昌弘『パラサイト社会のゆくえ−データで読み解く日本の家族−』(ちくま新書、2004年)を読む。著者は、現代社会の変質が1998年を境にして未来の不確実化とともに生じたとの分析から、現代の諸事情(少子高齢化、フリーター問題など)を読み解いている。以前の見聞録で前著の『パラサイト・シングルの時代』を取り上げたときに、親元で生活しつつ稼いだお金を自らの趣味や贅沢に使うと規定した「パラサイト・シングル」について私なりの簡単な考えを書いたが、それは概念そのものを否定したわけではない。今回の著書では、パラサイト・シングルの概念の変動を現在の状況から捉え直す本であると思い、前著を読みながら考えたことをもう一度まとめ直そうと読んだのだけれど、たとえば離婚問題や男女共学ブーム、努力すれば報われる世界としての「ハリー=ポッター」ブームなど、それはそれで興味を引かれてもこの問題と関連していない事例の方が多い。いわば、どちらかというとメインタイトルよりもサブタイトルが主な内容となっている。さらに言えば、「「パラサイト・シングルの変質」を手がかりにして考察」(10頁)とあるものの、1998年問題がパラサイト・シングルに「影響」を与えはしても、パラサイト・シングルの「結果」ではないのではなかろうか。少しだけ関係していると思われることを挙げると、パラサイトシングルが結婚するとパラサイト親子になり祖父母に財政を支えてもら得ているのではないか、という指摘がある(ただし、これはデータに裏付けられたものではなく、子供服へかける金額が減ってないことから推測したもの)。
 ただし、重要な指摘があって少子高齢化によって生活レヴェルはこれから下がっていくことに人々が耐えられるのかということ。いわば豊かにならないことを覚悟して暮らしていく必要があることになる。このことは、おそらくこれからあと20年もしないうちに真剣に向き合う必要が出てくるだろう。
 1つだけメモ的なものを。フリーターの70%が好きでやっているのではなく、正社員を希望しながらなれないでいるという『国民生活白書』のデータについて、経済不況よりも企業が正社員を選別し、それ以外の作業をパートに任せる構造ができあがっているとの指摘を行っている。こうした構造そのものは日本の会社の多くが社会がおばちゃんのパートによって成り立っている今までの状況と基本的に変わるものではない。ただし、それが成人社会全体へ広がったと言える。根拠のない推測ではあるが、ここには能力格差より身分格差の問題が重要な意味を持っているのではないか、という気がする。これに関しては、『論争・中流社会』も参照のこと。


3月10日

 後藤健生『サッカーの世紀』(文藝春秋、1995年)を読む。各国・各民族におけるサッカーの特色を、その歴史的背景から読み解こうとする。単純に国民性という言葉で片づけようとするのではなく、社会や文化が持つ歴史の中にサッカーがどのようにスポーツとして成立したのかを述べようとしており、とても興味深い。たとえば、ロングボールを多用するイングランドのフットボールは、中世のサドンデス的な祝祭に起因しているがゆえのものであり、ゴールが決まってしまえば祭りは終わってしまうのだから、無理に点数を取るスタイルではないとする。そして、大陸諸国は近代化したサッカーを受容したがゆえに、パスワークを主体とした点数を取るためのスタイルを受け継いでいるために、イングランドだけはスタイルを変えることが出来ないと述べている(第1章)。そして、この祝祭的な雰囲気を受け継いでいるのがフーリガンであるとするのは、フランス革命と祝祭の関係を思い起こさせて興味深い。また、イタリアの守備的な「カテナッチョ」を中・近世の都市国家になぞらえて、防御を固める都市と攻めに行く傭兵という当時の戦争のスタイルがその背後にある(第6章)というのも面白い。さらに、この傭兵隊長の代表がミラノへスクデットをもたらしたマラドーナであるとするのは(第7章)、「都市国家的カルチョ」説の確かさを思わず信じてしまう。他にも、イングランドでは労働者との娯楽としてフットボールは受け入れられたから工業都市に主要チームが多い、イングランドのビジネスマンがフットボールを広めたからヨーロッパの伝統あるチームは港町に多く英語名を持つことがある、同じ南米でもボールタッチの少ないブラジルと何回かのタッチでボールを望む場所へと持っていこうとするアルゼンチン、など面白い指摘が随所にある。また、アジア・アフリカにおけるナショナリズム形成の道具としてのサッカーなど、歴史学・政治学・社会学などにも応用が利きそうな感じすらある。
 著者自身は、あとがきで「こんな話、本当に面白いかなあ?」と思いつつ筆を進めたとのことだが、サッカー好きの人が読めば自然にヨーロッパへの興味もわくようなないようだと思うし、歴史の授業で「サッカーから見る歴史」で出来そうなほどの説得力は備えているのではないかと。ただ、ここで少し考えたのが歴史学の持つ役割について。おそらく「正統な」歴史学者はこういうことを研究対象としないだろう。なぜならば、サッカーに関する話は学術的ではないと見なしてしまうだろうから。今のところ歴史学者が手を出したということは聞いたことがない。細かい史実や解釈を突き詰めなければならないことに縛られ、普通の人が知りたがっている単なる豆知識以上の歴史を語れないというのが現在の歴史学なのかもしれない。


3月17日

 下条信輔『<意識>とは何だろうか』(講談社現代新書、1999年)を読む。副題に「脳の来歴、知覚の錯誤」とあり、これは錯誤が正常な精神機能と特殊な環境状況との相互作用の結果であるという著者の考えを示す。脳が環境に適合するように自らを変えた結果、環境の激変と過去に根ざした知覚と行動の記憶の総体が錯誤をもたらし、適応期間が与えられると錯誤とは逆の適応的な知覚あるいは行動をもたらすと述べる。これを脳の「来歴」と呼び、無意識の来歴が持続的に作用することによって発見や洞察がなされる意識へと至るとする。分子の数や組み合わせが異常であるとしても、ミクロのレヴェルまでいけば、その過程においてはそのレヴェルでの科学的な法則に従っているに過ぎない(75頁)という指摘は興味深い。光センサーを持ちそちらへ向かうように設計されているけれども、強い光は避けようとするように設定したロボットの動きを見たとき、人間はそのロボットに生命と意図を読みとってしまう、という指摘も興味深い。その他にも色々と引き込まれる記述はそこかしこにあるので、人間の意識に興味がある人にはお勧めできる1冊だろう。


3月23日

 呉智英『現代人の論語』(文藝春秋、2003年)を読む。『論語』に関して1章ずつ取り上げて、それに関する解説を施す。これまでのほかの本で述べてきた『論語』に関する考えを1つにまとめたような本。道徳的な教訓としての『論語』ではなく、白川静『孔子伝』(中央公論社、1972年)で描かれた漂白と挫折を経験した孔子の姿をベースにしつつ、『論語』から儒教だけではなく思想そのものの根元を問うかのような筆致は、読みやすく面白いにもかかわらず、深い。細かい内容に関しては読んだ方が早いので、ここでは記さないけれども、思想がその後継者によって形式化してしまうことを示した、顔回の死とその葬儀に関する話が一番興味を引かれた。『論語』という狭い枠組だけではなく、ものを考えることに関心がある人は読んで損をしない力作だと思う。


前の月へ   トップに戻る   インデックスに戻る   次の月へ