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2005年4月の見聞録



4月14日

 鄭大均『在日・強制連行の神話』(文春新書、2004年)を読む。タイトル通り、在日朝鮮・韓国人は戦前に日本へ強制連行された人々の子孫であるとする説に対する批判なのだが、残念ながら少し不十分であると言わざるを得ない。あえて断っておくが、私はどちらの味方をしているわけではなく、あくまでも議論に説得力があるか否かで判断しているにすぎない。前半部分で行われている戦時中に日本へ北朝鮮人を主たる対象として行った聞き取り調査をまとめた『アボジ聞かせてあの日のことを』を用いて、出稼ぎのために主体的に日本へやってきた人が多いことを明らかにしたのは、重要であろう。ただし、強制連行を主張する人は、強制連行された人もいたという事実を重視すると思うが、それをもっていま日本にいる在日の人たちは全員が強制連行で連れてこられた人の子孫であるという説明は成り立たないことになる。この後に強制連行説に関する戦時中のデータのいい加減さを検証していくこともこの本の目的に添っている。しかし、ここで唐突にこの問題とは関係ない在日系の知識人批判へと向かい、終わってしまっているのだ。本来ならば、著者自身が何度も言及している1世と2・3世の間の考え方の違いから「神話」が形成されたという結果ではなく、その中に見られる心情を探り当てる必要があるのではなかろうか。先にも書いたがいくらデータ的な部分を明らかにしても、「それでも強制連行された人もいる」という主張をひっくり返すことは無理だ。となればタイトルにある通り、「神話」という言説を批判して、そうした主張によってアイデンティティを確立しようとする者もいるという、ある種のイデオロギーをさらけ出さなければならないだろう。そういう意味で、著者が目的としていることは、この本では十分に成し遂げられていないと思うわけだ。
 ちなみに、タイトルに「在日」とあって、「在日朝鮮・韓国人」となっていないのは、単にタイトルが長くなるのを避けてからか、それとも差別的な表現とクレームがくるのを恐れてなのか、どちらだろうか。


4月17日

 小塩隆士『教育を経済学で考える』(日本評論社、2003年)を読む。タイトル通りに教育をあくまでも経済学の観点から眺めたもの。「個性豊かな教育」と言ったようなスローガン的な観点はあくまでも廃して論を進めているため、やや味気なくも見えるのだが、だからこそこの本の訴えかけることがよく分かる。つまり、教育を経済効果で考えることの限界である。子供が学校にいる間は援助を行う、と考えている親が多い一方で、ほとんどの親たちは子供からの見返りを期待しないということは、彼らが教育への投資効果を期待していない状況を示している。また、頑張れば何とかなる、という戦後から高度成長時代の流れが失われ、最終的には教育による社会階層の固定化が進んでいくのではないか、との推測を行っている。これは、さほど目新しい論点ではないものの、それによって生じる大学格差が、より上のランクの大学に在学する者は、自分は下の大学の学生よりも上位にあるということを認識するために重要であり、それによって賃金の格差モデルという点で、下の大学にも存在意義がある、という指摘もある。
 興味深いのは、著者が教育を消費や投資の原理のみから取り上げることには決して賛成していないこと。その根拠は、一般的な子供は勉強したがらないのであり、さらに子供に勉強させる必要がない親も少なからずいるはずなので、経済学に基づく合理的な教育サービスの消費は成り立たないからというもの。著者自身、大衆蔑視的であると予防線を張っているが、そう見なされても仕方がない論理である。学校は「そういう〔子供を居残りさせることを怒る〕親から子どもを強制的に引き離さなければならない」とし、納税者の期待に応えるためには教育の底上げが必要であるとして、ゆとり教育を批判する形になっている。
 ここからさらに、高齢者などの本人による消費としての教育を考える人たちの需要を狙うことを勧める論へとつながっているのだが、これに関して私は少し懐疑的だったりする。というのは今の若い世代が年をとったとき、はたして大学の講義を聴きたいと思うのかということが疑問に思えるからだ。現時点での高齢者においては、面白い話を聞くということの選択肢のなかに、学問的な講演もまだ入っているだろう。選択肢そのものが少ない時代に生きた人たちが大部分を占めるからだ。ところが、現在の若い世代は選択肢も色々とあり、しかも大学進学率も高いため講義で聴いているような話はほとんどがつまらないことを経験してしまっている。こうした人間が年をとった際に学問的な講義へ興味を持つようになるとは考えにくい気がする。

 以下、少しメモ的なものを。公民権運動を受けて実施された1966年のコールマン報告では、教育効果が学校教育の質ではなく、生まれ育つ家庭や社会の差によって現れることを実証的に示したそうであり、以後のアメリカの経済学者の調査でもそのような結果が出ているようである(どれほどの絶対数なのかは分からないが)(117-18頁)。


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