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2009年8月の見聞録



8月3日

 森見登美彦『四畳半神話体系』(太田出版、2004年)を読む。京都の大学(おそらく京大)に通い、恐ろしくぼろいアパートに暮らす「私」。大学入学時に選んだサークルとの揉め事と生来の捻くれた性格ゆえに悶々とした大学生活を送っていて…という全く爽やかではない青春小説。ただし、一種のパラレルものであり、全部で4つの章は、大学入学時に選んだサークルや同好会が異なっていたらどうなるか、というストーリーになっている。結局のところ小津という悪友との腐れ縁が続き、最後には明石さんという1学年下の彼女が出来て、小津は骨折するというところは変わらない。『ドラえもん』の第1話で、ドラえもんがのび太に将来のことを説明する部分を思い出した。といっても、この小説の肝となるのは、なんとも鬱屈としながらそれをどこかで楽しむ学生生活の描写なので、その辺りの青春小説が読みたければ、それなりに楽しめる。


8月6日

 高橋敏『江戸の教育力』(ちくま新書、2007年)を読む。寺子屋を代表とする江戸期の教育を眺めていく。江戸期の教育は、寺子屋での読み書きそろばんが有名だが、決してそれだけに留まるものではなく、しつけや礼儀などの教育も担われていた。そして、そこでの教育を支えていたのは地方の名望家の文人達であり、19世紀末には村レベルでも寺子屋が設立され、そのネットワークは日本全国に張り巡らされていた。江戸幕府の下では文書は御家流という書体で統一されていたが、教科書がこの書体でほぼ統一されていたのはその証である。教科書は固有名詞の読み書きから始まり、年中行事や借用証文、東海道の名所史跡案内である東海道往来、村人が守るべき基本法令の五人組条目などがあった。また、俳諧の結社が全国に広がっているのも、その延長線上にある。
 そして、教育活動は寺子屋を超えても広がっていた。たとえば、15歳から30歳までの男子から構成されていた若者組では、火事や災害などの非常事態への対応や、年中行事の執行などに関わったために厳しい規律が儲けられて、内部での教育が行われていた。それに対して、家族も村役人も口をはさむことは許されなかった。
 江戸時代の教育が寺子屋による読み書きだけではなく、それを超えて広がっていたことを豊富な実例と主に説明してくれていて、興味深い。このあたりについては、鈴木俊幸『江戸の読書熱』あたりでも指摘されていたことだが、読み物としては本書の方が面白い。
 もちろん、江戸時代の教育のレベルの高さには十分に納得するものの、プロローグにて、現代の社会や学校教育に疑問を呈し「学校がなかった江戸時代の教育に、何かこの病を癒す、副作用のない良薬が潜んでいるのではないかという淡い思いを抱いている」(11頁)とあるのは、過去を美化する安易な思いこみに繋がりかねない気がする。確かに、聾者であるもその学識によって尊敬を集めて、各地を流浪した教師である柳澤文渓のように、自分勝手な村人達によって荒廃した村の内部にまで立ち入って、教育によって立て直しを図ろうとした、という事例は分かりやすい良い例ではある(83〜87頁)。また、子供を預ける親から、自分が子供への愛情に溺れることのないように、世話を任せる、との一筆を書かせる教師もいたようだ(100頁)。これなども、現代の教育現場での問題と対比すれば、良いことのようには見える。けれども、著者自身が書いているように、文字を修得することで逆に遊芸を覚え家産を蕩尽する者もいたようだ(72頁)。だからこそ、しつけも寺子屋で行われたのだろうが、教育の負の側面を安易に流してしまうべきではなかろう。過去の良い所を評価したり過去に学ぶことがいけないというのではなくて、「昔は良かった」という独善に陥りかねないということだ。とはいえ、学校が共同体の教育の役割を奪ったと喝破した関曠野の主張からすれば、ついにその学校の限界が露呈し始めたのも無理はないのかもしれない。
 なお、江戸時代における読書好きの各地域の分限者は、屋敷内に文庫倉を建てて蔵書を集め、それを貸借していたそうだ。貸借のネットワークが地域社会に広がっていたことは、貸借記録からも分かる(154〜160頁)。


8月9日

 加納朋子『コッペリア』(講談社文庫、2006年(原著は2003年))を読む。美しく作られた人形。エキセントリックな人形師・如月まゆらの手によるその人形と生き写しとも言えるほどそっくりな舞台女優の聖、その人形に恋した了。両者が出会うとき、物語は動き始める…。
 著者にしては珍しく、登場人物のほとんどが底意地の悪い人間や得体の知れない人間など、ネガティヴな性格の者たちで占められているのだが、最終的には明るさを感じさせる方向へ進むことを予期させるエンディングを迎えるところが、やはり著者らしいといったところか。


8月12日

 秋山瑞人『イリヤの空、UFOの夏』(電撃文庫、2001年)を読む。新聞部員の浅羽直之は部長の水前寺邦博の一声で、夏休みの間、基地の裏山でUFO探しに従事させられる。その最後の日、プールに忍び込んだ浅羽の前に現れたのは手首に金属の球体を埋め込まれた少女だった。しかもその少女・伊里野可奈は夏休み明けに転向してきたのだった…。
 まだ物語は始まったばかりで、方向性は読めないのだが、日常に不可思議な現象が生じるいかにもライトノベルといった感じか(面白くないわけではないので、念のため)。とりあえず、第2巻も読んでみるか。


8月15日

 ケン・スミス(山形浩生訳)『誰も教えてくれない聖書の読み方』(晶文社、2001年)を読む。『旧約聖書』と『新約聖書』に書いていることをそのまま抜き書きしているだけなのだが、聖書がなにやら高尚な書物だと信じて全部を読んだことのない人などには知られていない、滅茶苦茶なエピソードがあることを様々な事例の引用から教えてくれる。個人的には、それなりに馴染みもあり読み通したことのある『新約聖書』についてよりも、トンデモ的な物語が多くてつまらなそうと判断して、斜め読みしかしていない『旧約聖書』についての方が色々と事例を知ることができた。以下メモ的に。
 アダムがエデンの園を追放されたのは、禁断の果実を食べたからではなく、2番目の木である生命の樹の果実を食べて彼が不老不死になることを神が恐れたからだった(「創世記」3:22-23、35〜36頁)。
 契約の聖櫃のつくりかたを記した場面には、そこで行うべき儀式についても触れているが、生贄を屠殺してその血を祭壇に振りかけるというものであった。さらに、内蔵の周りの脂肪や腎臓などを炎によって捧げものにすべし、とも書かれている(「レビ記」3:2-5、50頁)。田川建三『キリスト教思想への招待』によれば、こうした犠牲をいちいち必要とする儀式ではなく、1回かつただでよいとしたのがキリスト教だったようである。
 「汝自身を愛すように隣人を愛せよ」という言葉は、もとの文脈で読むと「隣人」は「隣のイスラエルの民」を指す(「レビ記」19:18、53頁)。
 神は、同胞達がお互いに利息を付けて金の貸し借りを禁じた。ただし、外国人から利息を取るのは構わないと付け足している(「申命記」25:11-12)。となると、ユダヤ人が中世ヨーロッパで金融業を営んだのは、聖書に反する行為ではなかったということになるわけか。
 磔にされた際のイエスの「主よ主よ、なぜ我を見捨てたもう」という台詞は、「詩篇」22の冒頭の文章である。さらに言えば、この後に続く文章は、人々から嘲笑われたり、着物をめぐってクジ引きになるなど、イエスが処刑される直前の描写と類似している部分が多い。もしこの部分の執筆時期が本当にダビデの時代に書かれたならば、イエスの処刑の描写はこの部分が元ネタということになる(91頁)。
 福音書に出てくるイエスは、やたらと食べていることを示す場面が多い(144〜145頁)。たとえば、ヨハネの弟子たちはイエスの弟子たちが食べ過ぎていると文句を付けている(「マタイ伝」9:14-15、「マルコ伝」2:18-19、「ルカ伝」5:33-34)。また、空腹だったイエスはイチジクの木に葉しかないのを見ると、「二度と実を付けるな」と言い、その木はすぐしおれた(「マタイ伝」21:18-19、「マルコ伝」11:12-14、20-22)。なお、「ルカ伝」24:41では、磔になった後に弟子達の前に姿を現したときに、食べ物を求めた(169頁)。
 モーセも預言者も金持ちは地獄へ行くとは言っていない。それどころか神はアブラハムに富をあげている(「創世記」24:34-35)
 磔の際、イエスは自分で十字架を担いでおらず、シメオンという男がむりやり担がされた(「マタイ伝」27:32、「マルコ伝」15:21、「ルカ伝」23:26)。着ていた衣服はむりやり脱がされたと言われているが、もともとイエスのものではなく看守のものであり、彼らは死ぬ前にそれを取り戻したにすぎない(「マタイ伝」27:31、「マルコ伝」15:20)。マタイとマルコは十字架に釘で打ち付けられたとは伝えておらず、ヨハネとルカだけが伝える。ただし、手のことだけであり、足には触れていない(「ヨハネ伝」20:25、「使徒行伝」2:23)。イエスの臨終の一言は、マタイ(27:46)とマルコ(15:34)は「主よ主よ、なぜ私を見捨てるのですか」、ルカ(23:46)は「父よ、あなたの御手にわが霊をゆだねます」、ヨハネ(19:30)は「終わった」と、それぞれまったく異なる(168頁)。十字架への磔で血の話が出てくるのは、槍で刺した際に関するヨハネの短い記述だけである(以上、166〜169頁)。最期の血に関する部分は、田川建三『キリスト教思想への招待』で語られているように、イエスを見捨てた弟子たちの言い訳がキリスト教の教義となったことを示すものだろう。
 マタイはユダに支払われた銀貨30枚が「エレミヤ書」に預言されていたと主張しているが(27:9-10)、その話が出てくるのは「ゼカリヤ書」11:12-13である(172〜173頁)。
 イエスはお互いを愛せと言いつつ、「もしおまえたちがわたしを愛しているなら、わたしの命令に従うはずだ」(「ヨハネ伝」14:15)、「もしおまえが世間で嫌われたら、世間がまずこのわたしを嫌ったのだということを忘れるな」(「ヨハネ伝」15:18)と言っている(180頁)。
 エフェソスの教会でパウロが語った最後の演説に、イエスの「受けるより与える方が貴い」という言葉が挙げられているが(「使徒行伝」20:25)、聖書にはイエスの言葉としてそのような文章は出てこない(189頁)。
 このように淡々と事実を挙げていくと気づかされるのが、『旧約聖書』の荒唐無稽さ。『新約聖書』は人間くささをまだ笑えるレベルなのだが、『旧約聖書』はどうみても滅茶苦茶にしか思えない。ジャック・マイルズ『God 神の伝記』で考察されているように、そもそも諸文化の神々が融合しているので、おかしなところがあるのは当然なのかもしれないが、なぜこれを崇めることができるのか、それとも自分たち自身の信条を騙し続けてきたのかという辺りを知りたい。


8月18日

 五条瑛『赤い羊は肉を喰う』(幻冬舎、2007年)を読む。ちっぽけな「計数屋」に勤務する内田偲。女好きの社長である内田雅弘の下で、儲からずとも東京の下町の平穏な日々を楽しんで暮らしていた。しかし、kohaku!というブランドが進出してくると、なぜかその雰囲気は壊れはじめる。少しずつ不穏な空気が流れ始め、犯罪が不自然なほど急増していく。ちょっとした偶然からkohaku!の関係者と知り合いになった偲は、その背後に見え隠れする研究グループの集団に気づく。かつて彼らは、統計とリサーチによるデータの分析に飽きたらず、それを利用して大衆を動かす方法についての模索を重ねていた。舞台を整えてやれば、大衆はごくわずかなきっかけで、仕掛けた側の望む通りに動く、と…。
 最後は、戦間期のドイツで起きた「水晶の夜」を想起させる舞台となっており、パニックと欲望のままに群衆が暴れてしまう場面がクライマックスとも言える箇所。統計が物語の道具として使われているとのことで読んでみたのだが、確かにメインの筋書きには関連しているけれども、あくまでも統計の結果を用いただけで、実際に統計を行っている場面でのスリルや欺瞞といった場面は期待とは異なりなかった。具体的に現在の例としてあげられているのは、年配の客が多いショッピングセンターでは、エスカレーターの速度を落とした方が周りの商品に目がいき売り上げが伸びるものの、若者が多い場合には、1人あたりの消費量よりも客を増やすことの方が重要なので、ストレスを溜まらせないように、エスカレーターは早いほうがいい、といったものが幾つかだけだったと思う。
 とはいえ、決して伏線の張り方は上手いとは言えないけれど(思わせぶりに書いているが、すぐにわかってしまうものがほとんど)、物語そのものは破綻なく楽しめる。ただ、最後は結局、群衆の行動は水は低きに流れるものだ、というようなやや通俗的な展開に沿ったものにすぎないものな気がするので、こうしたテーゼをさらに超えるような展開がほしかったところ。その意味での、続編ならば読んでみたい。


8月21日

 綾辻行人『どんどん橋、落ちた』(講談社文庫、2002年(原著は1999年))を読む。ミステリ作家・綾辻行人のもとへと持ち込まれる5つの難事件。そのいずれもが、出題編と解答編に分かれている構成を取っている。しかもどれもが、叙述トリックを織り交ぜたかなり無茶な解答になっている。あとがきによると、著者はデビュー以来人間が描けていない、という批判を受けることがあるようなのだが、それを逆手にとって極限にまで行き着かせてしまったかのような感がある。個人的には熱心に読もうとはしていないタイプの推理小説ではないのだが、ここまで開き直ってもらった方が、かえって楽しい。ただし、解説を見ていると、本書をせつないと評している人もいるのだから、ひとそれぞれ読み方というのは面白い。
 5つの短編の中で一番印象に残ったのは「伊園家の崩壊」。「サザエさん」をパロディ的に取り上げたものなのだが、著者が伊佐坂先生からの依頼を受けて、フネと波平亡き後に起きた、サザエとワカメの怪死事件の真相を探るというもの(なお作中では、「磯野」ではなく「伊園家」のように、全員の名前が微妙に変えてある)。「伊園家」は「磯野」家とは異なり、皆が少しずつ成長・老化していっているのだが、それぞれが何らかの不幸を抱えいる。幸せな家庭というユートピアは、円還する時間の中でしか存続し得ず、時が動き出してしまえばいつ崩壊するかも分からないのだな、と。


8月24日

 石黒圭『文章は接続詞で決まる』(光文社新書、2008年)を読む。接続詞を上手く用いることが、分かりやすく印象に残る文章へ繋がるという観点から、先行文脈の内容を受けて、後続文脈の展開の方向性を示すという接続詞の役割を定義する。その上で、論理・整理・理解・展開のそれぞれの分類ごとに用法を述べて、さらに文末や話し言葉での使い方や、そのさじ加減などにも触れる。
 接続詞を微妙に使い分けるにはどうすべきかというヒントがが、トピックのタイトルから読みとることができる。羅列していってみると、論理の接続詞には「「だから」系−原因−結果の橋渡しに活躍」(したがって、ゆえに、よって、そのため、それで)、「「それなら」系−仮定をもとに結果を考える」(だとすると、さもないと、など)、「「しかし」系−単調さを防ぐ豊富なラインナップ」(だが、でも、それでも、ただ、とはいえ、とはいうものの、そうはいうものの)、「「ところが」系−強い疎外感をもたらす」(にもかかわらず、それなのに)が挙げられる。
 整理の接続詞としては「「そして」系−便利な接続詞の代表格」(それから、また)、「「それに」系−ダメを押す」(それにくわえて、そればかりか、そのうえ、しかも、ひいては)、「「かつ」系−厳めしい顔つきで論理づけ」(および、ならびに)、「「一方」系−二つの物事の相違点に注目」(他方、それにたいして、反対に、反面、逆に)、「「または」系−複数の選択肢を示す」(もしくは、ないし(は)、あるいは、それとも)、「「第一に」系−文章の中の箇条書き」、「「最初に」系−順序を重視した列挙」(はじめに、続いて/ついで、その後)、「「まず」系−列挙のオールマイティ」(つぎに、さらに)など。
 理解の接続詞ならば「「つまり」系−端的な言い換えで切れ味を出す」(すなわち、ようするに、いいかえると、換言すると、いわば、いってみれば)、「「むしろ」系−否定することで表現を絞る」(かえって、そうではなく、いな、というより、(その)かわりに)、「「たとえば」系−抽象と具体の往還を助ける」(具体的には、実際、事実)、「「とくに」系−特別な例で読者を惹きつける」(とりわけ、ことに、なかでも)、「「なぜなら」系−使わない方が洗練された文章になる」(なにしろ、というのは、というよりも)、「「ただし」系−補足的だが理解に役立つ文章が続く」(もっとも、なお、ちなみに)。
 展開の接続詞は「「さて」系−周到な準備のもとにさりげなく使われる」(ところで、それにしても、それはそうと、それはさておき)、「「では」系−話の確信に入ることを予告する」、「「このように」系−素直に文章をまとめる」(こうして、かくして、結局、以上)、「「とにかく」系−強引に結論へと急ぐ」(いずれにしても、いずれ)。
 文末の接続詞には「「のではない」系−読み手の心に疑問を生む」、「「だけではない」系−ほかにもあることを予告」(ばかりでない、に限らない、にとどまらない)、「「のだ」系−文章の流れにタメをつくる」(わけだ、ということだ、ことになる)、「「からだ」系−理由をはっきり示す」、「「と思われる」系−「私」の判断に必然観を加える」(と考えられる、と言える)、「「のではないか」系−慎重に控えめに提示する」、「「必要がある」系−根拠を示した上で判断に至る」(べきである、てはならない)。
 こうやって書いてしまうと、本書のエッセンスをばらしてしまっていることになるのかもしれないが、本書の内容をよく示していると思うので書いてしまった。接続詞の使い分けは、これまでの経験で何となくやってきたのだが、こうして論理的に説明されると非常に分かりやすい。なお、接続詞を付けることの弊害としては、文間の距離が近くなりすぎる、間違った癒着を生じさせる、文章の自然な流れをブツブツ切る、書き手の解釈を押しつける、後続文脈の理解を阻害するの5つを挙げている。
 接続詞の使い方が重要だというのは、仕事がら学生のレポートを見ているとよく分かる。自分の文章のアラはなかなか見つけられないのに、他人の文章のアラを見つけるのはさほど難しくないものので。それはともかく、あまり出来が良くないレポートの場合、色々とその理由はあるのだが、個々の文章のつながりが良くない場合が珍しくない。たとえば授業の内容をまとめねばならない場合に、レジュメやノートをもとに書いているのだろうが、全体として1つの文章になっていないのだ。それと同時に、「そして」「また」「しかし」などの接続詞を安易に羅列している場合も多い。これらは、授業をきちんと聴いていないから、個々の文章を読んでも、授業中に教員がその行間をどのようにつなげて話していたのかが分からないためである。その際に、上手くつなげるための文章が接続詞と共に欠けている場合が多い。この辺りは、人間が文字から得られる情報を機械的に処理しているわけではなく、文脈から推論を行っており、接続詞はそのための論理となる、という著者の主張と重なるものと思う。実際に、著者も段落を一つのトピックで構成すると言うことは教えられてきたが、その間をつなぐ接続詞の重要性を指摘している(218〜221頁)。というわけで、この本は文章を書く人間だけではなく、学生にもお勧めしたい…のだが、結局のところ分からない学生には分からないのかもしれない。
 以下メモ的に。接続助詞は接続詞と微妙に異なる。接続助詞は先行文脈の不完全さもそのまま受け継ぐが、接続詞は先行文脈をいったん終わらせて、改めて文脈を起こす(25〜26頁)。確定条件によって因果関係を示す接続詞「だから」は、前提となる内容は読み手にとって一般的知識であるべきだが、「頭痛なので薬を飲んで寝た。だから、今朝は頭痛が治まった」というように因果を示す後続の文章が常識に依存していると、面白味に欠ける内容となる。したがって、読み手に推論をさせるような使い方をする良い。これは接続詞全般に言えることでもある(60〜61頁)。
 逆接の接続詞の多い文章が読みにくいのは、他者の意見にも、書き手の主張にも逆接の接続詞が用いられて、議論が入り組むため。したがって、他者の意見の後に、「しかし」を用いて書き手の主張というパターンのみに限定すれば、読みにくい文章になることはない(72〜73頁)。さらに、「しかし」と「だが」を使い分けると効果的である。「しかし」は先行文脈と後続文脈の食い違いを強調する接続詞であるの。それに対して、「だが」は先行文脈の延長線上に後続文脈が来ないことを示す接続詞で、それまでの文脈とは異なる事実や書き手の意見を「実は」という感じで提示する(74〜75頁)。
 「そして」は単なる「&」ではない。もともと「そうして」に由来するため、最後に情報を付け足す帰着点としてのニュアンスが強い。並列の役割ならば、「それから」や「また」の方が適している(89〜91頁)。
 「すなわち」と「つまり」を比べれば、前者は言い換えるときに書き手の主観や解釈が入りにくい。それに対して後者は、内容の同一性を保ちつつも内容や表現を分かりやすく説明しようとするために書き手の主観や解釈が入るのが普通である。「ようするに」だと、内容の核心を端的にかいつまんで言い換える点で、さらに主観や解釈が入り込む(118〜120頁)。
 「さて」は、文章全体の構造を視野に入れ、話題の重要な分岐点で使う。一方「ところで」は、自由な連想に基づく話題の切り返しを表す(142頁)。


8月27日

 田中芳樹『アルスラーン戦記13 蛇王再臨』光文社カッパノベルス、2008年)を読む(前巻はココ)。蛇王に対する対処をパルス軍が整えているなか、ついにその蛇王が復活してしまう…一言でまとめてしまえばそうなるのだが、もちろん様々な登場人物のストーリーが語られている。いかにも著者らしいのは、主人公の側の人間でも舞台から退場する人間が現れ始めたこと。以前から何度も言及されているアルスラーンの十六翼将も、揃ったと思えばあっという間に1人脱落してしまったし。ただ、なんとなく終わりへと急ぎ過ぎているような気もする。そのためか分からないけれど、個々の登場人物の描写が薄いようにも感じた。決して面白くないわけではないのだけれども。


8月30日

 エリザベス・ムーン(小尾芙佐訳)『くらやみの速さはどれくらい』(ハヤカワ文庫SF、2004年(原著は2003年))を読む。自閉症が治療可能になった近未来。その直前に生まれ育った、最後の自閉症患者の世代に属するルウは、その才能を生かして製薬会社で働き、またフェンシングの趣味を楽しみつつ暮らしていた。しかしある日、会社に新しい上司がやってきて、自閉症を治すためのプログラムを受けるように半ば強制され、ルウ自身も一緒にいると楽しい気持ちになる女性に対する感情を確かめたくなり始める…。
 大部分の箇所がルウの一人称で描かれているのだが、そのために著者は自閉症の人達への取材を行ったようである(なお、以前読んだ『火星の人類学者』の著者の名前も挙がっている)。私は、自閉症については全くと言っていいほど無知なのだが、もしこのルウの考え方が本当に自閉症の人達の考え方に近いのであれば、なるほど普通の(という言い方はあまりよくないのかもしれないが、他に言いようがないので)人達の考え方を理解できないのは当然であろう。自閉症患者が劣っているというのではなく、回りくどい考え方をしようとはしないといった感じだ。
 ルウに敵対的な人物がステレオタイプ的な悪役であるのが気になるが、自閉症の人間の感情を細やかに負うということに主題が置かれているのであれば仕方がないのかもしれない。ルウをはじめとする本書の自閉症患者は何らかの特別な才能を持つ人物として描かれているが、たとえばルウが自閉症以外の人間と関わるのを極度に嫌がる登場人物が一体どのような心境にあるのか、というのが知りたいところでもあるが、それをやるとダニエル=キイス『アルジャーノンに花束を』(早川書房)になってしまうか。ただし、感情を知ったルウが、さらに才能を発揮していくなかで、結局のところ楽しいという感情は愛へと昇華しなかったというラストは、あっさりしているからこそとてつもなく切ない。前へ進むことによって失うものがあることに気づけないというか。「光の前にはいつも闇がある。だから暗闇の方が光よりも早く進むはず」と考えていたルウは、「ぼくが光を追うかぎり、僕はぜったいに終局にたどりつくことはないから」(604頁)と考えるようになったことで、何を失ってしまったのだろうか。


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