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2009年7月の見聞録



7月1日

 福岡伸一『生物と無生物のあいだ』(講談社現代新書、2007年)を読む。DNAや細胞に関する研究史について、自伝的なエッセイを交えつつ述べていく。どちらかというと後者の方が前面にでている感じ。というわけで全体の内容をまとめるのは難しいので、メモ的にトピックを挙げていく。
 ウィルスは栄養を摂取することもなく、呼吸もせず、老廃物も排泄することのない。だが、ウィルスは細胞に寄生することで自己を複製するという機能を持っており、これこそがウィルスを単なる物質から一線を画している特質である(36〜37頁)。
 生物の体がなぜこれほど大きいのかということについて、シュレーディンガーは物体の運動がランダムであるという点から説明する。たとえば水に色の付いた液体を注ぐと、水の色は変化していってやがて両者が完全に混じり合った状態になるが、それはその色の付いた液体が色の薄い方へと動いた結果ではなく、ランダムに運動した結果として平均的に濃度の低い方へと流れていって、やがて濃度が一定になったにすぎない。これと同じように、原子は平均的な振る舞いをするものの、その動きから外れるものがいる。となると原子の数が少ないほど、活動が不正確になる確率は高い。それゆえに、生命現象に必要な秩序の精度を上げるためにこそ、原子は小さくて数が多くなければ、つまりその集合体である生物は大きい必要がある(139〜143頁)。
 ところで、本書を別につまらない本などというつもりは決してない。シュレーディンガーの生物はなぜ大きいのかということと、最後の方の生物は機械ではなく、欠落を平衡状態で埋めようとするという説明との結びつきあたりには刺激を受けた。だが、正直に言うと、何十万部も売れるほど面白いのかなと。私自身は、恥ずかしながら完全には理解できない部分が少なからずあったのだが、他の読者の方たちは理解した上で面白いと感じているのだろうか。とはいえ、何もすべてを理解できなければ面白さは分からないと言いたいわけでもない。むしろ、そうした理解できない部分を飛ばしても面白さを感じてしまうのも、また読書の楽しさであろう。強引な物言いかもしれないが、生命体はやがては必ず壊れる成分をあえて先に自ら壊し、先回りして再構成するというやり方で欠落を埋める、という本書の1つのメインとも言える動的平衡の理論は、読書についても当てはまるのではなかろうか。


7月6日

 真梨幸子『クロク、ヌレ!』(講談社、2008年)を読む。老いた母が、憎んでいた義兄の遺品を集めることに突如として熱中しはじめ、それに振り回されるOLの彰子。しかし、義兄が著名な小説家との関わりがあることが分かり、そこに広告代理店も絡み始め、義兄の物語はとてつもない勢いで虚構をも巻き込んでふくらみ続けていく…。
 プロローグは死んでしまった小説家のモノローグから始まり、実は殺人ではないか、というミステリでもあるのだが、その辺りは特に何と言うこともない。それよりも、義兄の物語が周りの人間によってどんどんと勝手に創られていく部分こそが、この本の面白いところだ。篠田節子『ロズウェルなんか知らない』のUFOの話が、その捏造が暴露されても、さらに勝手に大きくなってしまうという展開にも似ているが、本書でもその辺りの何だかよく分からないパワーには、読み進めることを止められないものがある。
 なおこの部分を読んでいて、物語は面白ければいい、という考え方の危険性を感じた。より優れた物語が人を動かす、と話す業界の人間を、他人事のように眺めるのは簡単だ。しかし、これは現在の学問の抱える問題点とも関係しているのではないか。極端に言えば、つまらない研究ではなく、面白い研究をすべきだという考え方だ。このように極端なことをいって、どちらかを全肯定してどちらかを全否定したいわけではない。ただ、研究を通じて物語を紡ぎ出すとき、自分自身の社会における位置を顧みず(学問的な立ち位置ではない)、当事者性を欠けば、物語の面白さのみに着目してしまい、そこでしか評価しなくなってしまう気がする。


7月11日

 安丸良夫『日本ナショナリズムの前夜 国家・民衆・宗教』(洋泉社MC新書、2007年(原著は1977年))を読む。明治維新と江戸から明治への移行を、民衆の思想や宗教から読み直した論考を集めたもの。こうしたスタンスは非常に興味深いのだが、こちらの知識不足ゆえに、今ひとつ面白みを感じることが出来なかったのが悔しい。それでも興味を持ったトピックもあるので、それらをメモ的に記していく。
 本居宣長の門人の多くは、伊勢・尾張を中心とした先進地域の人々であり、大部分が家業の傍らに学ぶ人たちだったのに対し、平田篤胤門下の人々は後進的な豪農層が中心だった。だからこそ後者は、生活秩序を再建する論理を探ろうとした(28頁)。このあたりは前田勉『兵学と朱子学・蘭学・国学 近世日本思想史の構図』の主張にも重なるところがある。
 江戸時代までの民衆による信仰は、神道国家主義とは全く異質なものであった。民衆信仰は、彼らの生活に深く根を下ろしていたが、世界について筋道立てて意味づけていくことはできなかった。これに対して、国家神道は筋道立てられた民族国家形成のためのイデオロギーであった(73頁)。
 近世後期の世直し的な一気では、その指導者たちが博打などに耽る身持ちの悪い人物や侠客であると記されている場合が多いという(210〜211頁)。これは長谷川昇『博徒と自由民権 名古屋事件始末記』(平凡社ライブラリー、1995年(原著は1977年))で述べられている状況へとつながるのではないだろうか。なお、一揆に参加した百姓には、秩序から解放される雰囲気になかで女郎と戯れるものもいたという(220頁)。ただしこうした一揆は、明治政府の軍事力に封じ込められると同時に、文明開化の中で非合理的な社会批判と冷笑されるにいたり、さらには村落が豪農層のもとに再編成されていく中で終息した(225〜226頁)。一揆に関しては、保坂智『百姓一揆とその作法』や井上勝生『開国と幕末変革(日本の歴史18)』などをこのサイトでも取り上げたことがある。
 ただ、読んでいてひとつ気になったのが、執筆当時の時代に近い内容を扱っている論考において、何となく自分自身を高みに置いた観測者としての性格が出てしまっているように思えたこと。日本の歴史的展開から見た政治の問題点を、自分は正しいことを知っているという立場から、読者に偉そうな物言いで啓蒙しようとしているというか。E.サイード『知識人とは何か』を読んだときと同じような感触だった。
 その点から見て少し疑問を感じたのは、平賀源内や司馬江漢について、彼ら少数の知識人が蘭学に基づき新しい知識や方法を発見したものの、その発見を受容し育てる社会的基盤はなかった、と論じた部分(19〜20頁)。彼らが、不遇を託ったのは事実だろうが、それでも井上勝生『開国と幕末変革(日本の歴史18)』にて指摘されているように、蘭学は日本へ静かに浸透していたのも間違いない。つまり、社会や幕府全体が悪しき存在であるのではなく、長期的に見れば単なる一時代の動向が、偶然ながら不幸にも彼らの生き方に影響を与えたにすぎないのではなかろうか。国家や社会は間違った方向にあり、知識人こそが正しい考え方を持っているという概念を、無意識のうちに江戸時代にも当てはめてしまっているような気がする。
 なお、1968年5月4日の『朝日新聞』に執筆した「日本社会の『非宗教性』」という原稿も本書に収録されているのだが、そこには「創価学会=公明党のような強力な宗教運動もあるが」(305頁)という文章が見られる。この文章は、別に批判的な内容の中で用いられなかったとしても、今の新聞には書けない文章ではなかろうか。


7月16日

 谷川流『涼宮ハルヒの消失』(角川スニーカー文庫、2004年)を読む(前巻はココ)。クリスマスを直前に控えていたある日、キョンの周りでは世界が一変し、クラスにはハルヒもおらず、SOS団の面々も単なる地球人として存在して、キョンやハルヒに関する記憶がなくなっていた。いつのまにやら世界が改編されてしまったその原因は、意外な人物の感情にあった…。
 なるほど、この巻で前巻までの伏線めいたものを回収していくというわけだなと納得。ただし、それほど深みのあるものではないのだが。キョンが、改変された世界よりも、非日常的なことが起こりまくりハルヒによって振り回される世界を望む、というところがライトノベル風に味付けされているところが、学校という面白味に欠ける場所に属する若者には受けるのかな、と。
 ちなみに、ここまで読んで気づいたのだけれど、学校を舞台にしているにもかかわらず、このシリーズには先生の存在がもの凄く稀薄だ。佳多山大地・鷹城宏『ミステリ評論革命』で指摘されている、「若者の敵が学校や社会制度ではなく、漠然とした不安が続く日常になったため」という理由が本作にも当てはまる。


7月21日

 布施克彦『昭和33年』(ちくま新書、2006年)を読む。昭和30年代は貧しかったが夢と希望のある社会だったと見なす、近年よく語られるような言説は、過去の美化にすぎないとし、実際には先行きの見えない将来への不安の強い貧しい時代であった事実を、様々な事例から明らかにしていく。日本人は風土的に「昔は良かった症候群」に陥りやすい環境にある、といった指摘は、まあそんなこともあるかなという程度で、数多くある日本人論の1パターンにすぎないので、特に何もいうべきことはない。それよりも、新聞や雑誌などの具体的な典拠に基づきつつ、昭和33年という時代を再構築している第2章からが、本書のメインといえる。幾つかメモ的に見ていく(以下、断りがない限り、事例は昭和33年のもの)。
 年末に、自民党内部で内紛が起こり、総裁選挙を起こそうとする主流派と反主流派が衝突した。結果として、財界からも助言されて総裁選挙を撤回した。その際に、新聞に載ったのは、国民から遊離して党利や派利だけで動く政治家たち、恥ずかしげもなく料亭会合を繰り返すばかり、といった酷評だった。「昔の政治家はいまと違って肝が据わり、志が高かったとはとても思えない」(46頁)。国会議員に国鉄の特急列車の座席をタダで確保せよ、という法案改正要求が出されて、法制化されてしまったのもこの年であった(53頁)。
 国家公務員の給与は、昭和29年に14%、昭和32年に6%引き上げられているが、霞ヶ関への官庁集約化が決まったのもこの年だった(51〜52頁)。また、12月14日の「朝日新聞」には、都庁職員の無駄遣いが非難され、カラ出張やカラ伝票、庶務課は各部門から出てくる申請を自動承認などの事例が挙げられている(53頁)。
 総務省統計局『家計調査年表』などの資料に基づけば、この年の勤労世帯における食料費の割合は41.2%であり、2004年の23.0%に比べれば、明らかに苦しいことが分かる(なお月消費額の合計は昭和33年が27,799円で、2004年が302,975円)。下層階級出身の子どもを、企業は雇いたがらず、定職に就くことも難しかった(53〜54頁)。さらに言えば、このころは労働力の過剰が訴えられる時代だった。
 テレビを見ると馬鹿になるというお決まりの批判のみならず、テレビがさらに普及すると、映像を見た経験と実体験の区別がなくなり、動物園に行く子どもはテレビで見たことのない動物を探すようになるだろう、と嘆かれた(なお、これは誰が言ったのかの典拠がない)。「現実とバーチャルの境界が曖昧化するという、昨今のインターネット時代への警鐘と同じことが言われていた」(120頁)。当時のテレビ業界は新興勢力であり、映画こそが文化の主役であった。しかし、テレビ業界など歯牙にも掛けなかった映画界は、やがてテレビが益々普及し映画俳優がテレビに出るようになり、映画館が空き始めるころになって、ようやく自分の慢心に気づいた。昭和33年はまさに両者が入れ替わる時代でもあった。
 このころはのんびりしていたのかというとそうではない。当時の東京は、交通渋滞の一途で交通事故は社会問題になっていた(132頁)。なお、交通事故の死者は昭和35年にはすでに1万2千人に達しており、昭和35年の1日あたりの交通事故死者数は33.0人だったそうである。これは1998年の28.3人や2005年の18.8人よりも多い(「交通事故死者数と事故件数」(『戦後昭和史』))。
 決してのんびりした時代ではなく、日本画家の福田豊四郎は、新聞のコラムで「騒々しすぎて日本が嫌になる」と嘆いた。当時の様々な音は懐かしさと共に日本の活気を表すものとして思い起こされるが、「当時としてうるさいだけの騒音だった」(132頁)。
 他にもいろいろあるが、本書で語られている内容は、昭和30年代を単純に美化する風潮への十分な批判たり得ている。ただし、著者の意図とは異なり、この批判が現代の若者への批判へと転換しかねない危険性を孕んでいる。著者は大学の非常勤講師をしているが、学生の試験答案やレポートは自分の時代と変わらないと述べる。大学生の学力が落ちたように感じられるのは、大学の数が増えて、本来は大学教育になじまないような人が増えたからだとする。このあたりはこのサイトでも幾度か触れてきた通り(たとえば「苛立つ『神学者』のご託宣〜内田樹『下流志向』〜」など)、全く同意見だ。その上で、本書に対して批判的な人間は、昭和30年代のようなつらい時代を自分たちは立派に過ごしてきたのに、最近の若者は恵まれすぎて甘えている、と本書を利用する可能性がある。それを封じ込めるためには、この当時の若者や大人たちの行動について見ていく必要がある。
 実を言うと、本書にはそうした部分をこそ期待していたのだったが、少し当てが外れてしまった。とはいえ、昭和30年代のどんよりとした空気を感じさせてくれたという点では有益であり、「昔は良かった」というある種のユートピア的な思いこみの過ちを指摘するためには、読んで損はない。


7月26日

 酒見賢一『語り手の事情』(文藝春秋、1998年)を読む。舞台はヴィクトリア朝時代のイギリスのとある屋敷。性的なものが忌避されて隠蔽されたこの時代に、この屋敷には筆おろしを求めて、女性になりたくて、SMの欲求を満たしたくて、そして求婚を求めて、さまざまな殿方がやってくる。しかし、この物語の中心人物は、本来舞台に登場しないはずの「語り手」なのであった…。
 単に性的な倒錯物語だけではなく、文章の語り手に登場人物が語りかけてきても、自分は語り手だからと拒否する、といったような錯綜した設定で、読んでる人間の意識を混乱させる。ヴィクトリア朝という時代設定を選んだことが、倒錯と混乱を生かすための上手い手なのだなあ、と。それどころかSMの章では、語り手が3人になってしまい、語り手自身がその混乱した状況に面食らって解説を始めるというややこしい状況まで現れる。最後には、語り手は語り手であることを止めて、旅だって行くのだが、その部分は一種の恋愛小説のような感じでもある。作者がこの小説で何を示したかったのかは、実を言うとよく分からないのだが、語り手であることを意識すれば、舞台の上の主人公として動くことはできない、ということなのだろうか。


7月31日

 スティーヴン・ハウ(見市雅俊訳・解説)『帝国(1冊でわかる)』(岩波書店、2003年)を読む。そのタイトル通り、「帝国」の概念について、その歴史的な背景を辿りつつ、現在の状況までを語る。広大で複数の民族集団を内包する政治単位と定義づけられる帝国について、手っ取り早く理解したい場合、または簡単に振り返りたいときには便利であろう。なお、訳者は日本の帝国についての議論がないのが残念と解説に書いているが、気持ちはわからないではないものの、それはやはり無い物ねだりな気がする。確かに西欧ばかり扱うのはいただけないだろうが、だからといって局地的なことまでも含めてしまうと散漫な書物になってしまうと思うので。


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