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苛立つ「神学者」のご託宣

−内田樹『下流志向』−


〔訂正した箇所に関しては「追記」を参照〕

(このサイト内の他の箇所と同じく、書名のみのリンクはサイト内の別記事へのリンクであり、著者名や出版社名を含むリンクはamazonへのリンクとなっている)

 内田樹『下流志向』(講談社、2007年)は、副題が「学ばない子どもたち、働かない若者たち」となっており、そうしたやる気のない若者が格差社会の原因となっているとする。そして、消費者としての主体をまずは確立しているがゆえに、その立場からしか価値判断ができず、そうした判断を行う自己決定に何よりも重きを置くという若者の風潮を批判する。
 その主張そのものには、若者に対する正しい認識もおそらく含まれていることだろう。だが、その正しさが「現在」の若者に特有なものかどうかは分からない。むしろ、「女子大生亡国論」や「しらけ世代」といった言葉のときと同じように、いつの時代の若者にも当てはまることを、現代の風俗や社会状況をまぶして提示しただけにすぎないように思える。こうした言葉も、過去を振り返る企画でもない限り、現代ではまったく聞かなくなった。いわば生もののようなものであり、賞味期限が切れれば、時代を感じるだけの特に意味のないものとなってしまった。本書も生ものなのかもしれないし、よくある若者批判の書といえるのかもしれない。だがそれでも、批判を通じて自分の考えを記しておくのも無駄ではなかろう。
 あらかじめ書いておくと、ここまでの文章からお分かりのとおり、おそらく私は本書の主張と逆の立場に立っている。ただし、私自身の不勉強のため、著者の本書以外の著作を全く読んだことがない。従って、以下に記す本書『下流志向』への批判は、あくまでも本書のみが対象であり、著者の思想全体に対するものではない。
 また、お互いが議論し合っても、何ら生産的なものにもなり得ないだろう。議論することによって、さらに主張が洗練され深まることもあろうが、今回について言えば、無意味な消耗戦になる気がする。言い訳のように聞こえるかもしれないが、そのようにとってもらって差し支えないし、負け犬の遠吠えだと思ってもらっても構わない。確かに、こちらの方が少数派だろうと思うので。したがって、ここから先はあくまでも自分自身の立ち位置を改めて確認するための文章と言える。
 長ったらしい前置きはこのくらいにして、本題に入る。

 さて、まずは若者に対する批判が、単なる個人的な印象論に偏りがちであるという点から見ていきたい。もちろん、個人的な経験が議論の導入になる場合もあるし、単なる印象論であっても、そこからより正しい指針を導き出せることもあるので、そのことそのものを完全に否定したいわけではない。けれどもそれと同時に、安易な思いこみに対して学術的な調査に基づいて疑念を呈することも、学者の重要な仕事だろう。その観点から見れば、著者の認識は個人的な印象や裏付けのなさすぎる根拠に基づいていることがあまりにも多すぎて、指摘せざるを得ないのだ。
 たとえば印象論に基づいていることが最も分かりやすいのは、ニートに関する部分だろう。著者は、現代の日本では「下流志向」を持つやる気のない若者が、労働から逃走してニートになってしまっていると見なして、ニートについて述べていっている。だが、ニートが働く意志のない人間であるのかどうかということと、果たしてそれは増加しているのかについては、本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』で明確に示されたように、両方とも正しくない。なぜならば、1992年から2002年の間に、仕事に就きたいが仕事を探していない「非求職型」のニートは約25万6千人から約42万5千人へと増加しているが、仕事に就きたいとさえ思っていない「非希望型」のニートは、約41万1千人から約42万1千人とほとんど変わっていないからである。さらに言えば、同じ時期の「就業に向けた活動を行っている」失業者数は、63万8千人から128万4千人へと増加している。つまり、ニート問題は若者の雇用が抑制されてしまっていることこそが主たる要因なのであり、若者の下流志向を裏付ける実例とはなり得ない。さらに、玄田有史『仕事の中の曖昧な不安 揺れる若年の現在』は、中高年が既得権を守ろうとしていることこそが若年層の就職の機会を奪っている、との主張さえ行っている。だからといって、著者が行ったニートに対する訴えかけが間違っているとは言えないのだが、それは後ほど見ることにする。
 同じような例はいくらでも拾える。特に目立つのは、最近の動向は自分たちの過ごしていた昔よりもよくないという、個人的な、そして安易な前提である。たとえば、80年代に高校生だった者が40代くらいの大人になってきて、責任を追及されてもそれをなかなか認めようとしない背後に、彼らが子供の頃から非行をとがめられてもまずはやってないと突っぱねることを習慣としてきたことがある、と述べている(30〜31頁)。これ以外にも、とんでもないクレーマーの事例を挙げている(58頁)。
 しかしながら、これは40代より若い世代に限られた傾向なのかといえば、決してそうとは言えない。「【溶けゆく日本人】蔓延するミーイズム(1)キレる大人たち 増え続ける“暴走”」(『MSN産経ニュース』2008年2月4日)には、警察庁がまとめた平成18年の犯罪情勢がデータとしてあげられており、以下のように書かれている。「刑法犯の認知件数が〔平成〕15年以降減り続ける一方で、暴行事件の検挙件数は10年前の約4倍に急増している。年齢別に10年前と比較した伸び率をみると、10代がほぼ横ばいなのに対して、60歳以上(12.5倍)、50代(5.6倍)と中高年層の増加が際立つ」(〔 〕内は引用者註)。
 ちなみに、これらの年代の人間の素行の悪さは、彼らが子供であった頃のデータにも表れている。パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』で明確に示されたように、1960年代前半は少年犯罪率が極めて高かった(これに関しては、河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』や浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会』辺りも参照)。ここで挙げられている統計に基づけば、14〜19歳の少年の殺人・強盗・強姦・放火の凶悪犯罪による検挙人数は、1960年で約8000人、1965年で約7000人であるのに対して、2000年で約2200人であり、明らかに減少している。なお、念のため付言しておくが、10歳代の人口は1960〜65年が約2000万人であり、2000年は約1400万人なので、人口比で考えても1960年代の方が状況は悪い。
 また、管賀江留郎『少年犯罪データベース』に掲載されている「平成15(2003)年の年齢別殺人率」によれば、10万人辺りの殺人検挙人数比率において未成年は0.73人であるのに対して、50歳代は1.60人であり、圧倒的に高い。未成年を14歳から19歳に絞っても1.15人だから、まだ大きな開きがある。ただし、20歳代は1.58人であり、30歳代は1.73人とさらに多い一方で、40歳代は1.34人と少ない。となると、20・30代の素行がよくないという結論を導き出せるのかもしれないが、過去と比べてみると興味深いことが分かる。長谷川眞理子「日本における若者の殺人率の減少─よりよい社会を作るために─」(『学術の動向』第10巻第10号、2005年)に挙げられている「戦後日本の年齢別男性殺人検挙率の変化」のグラフによれば、100万人当たりの殺人検挙数は、1960年に20代前半で約180人、20代後半で約140人であったが、2000年には約30〜40人へと減少している。確実に昔よりもよくなっているのだ。ちなみに、50代は常に20〜30人の間で変動している。
 なお、こういうことを言うと、昔は生活に困って凶悪犯罪を犯していたが、いまは何となくそのような犯罪を犯しているのでたちが悪い、といったことを言う人が必ず出てくる。これに関しては、先に見た『少年犯罪データベース』の記事や管賀江留郎『戦前の少年犯罪』を読めば、大きな間違いだということが分かる。昔にも、働きもせず親元でぶらぶらしている少年がいて、金銭ほしさに短絡的な凶悪犯罪を犯す若者はいくらでもいたのだから。
 とりあえずこれだけにしておくが、悪くなっているとすれば、何も若者だけが悪くなっているわけではない。若い世代を非難していればすむ問題ではなく、自分の問題として考えなければならない。私は昔の人間の方が悪かったと、ひとくくりにして批判したいわけではない。そうではなくて、若者だろうが大人だろうが、いつの時代にもいい人間もいれば悪い人間もいるにすぎない、と言いたいだけだ。
 ただし、そんな犯罪を犯すような特殊な人間について言いたいのではなく、もっと一般的な若者の傾向について言っているのだ、という反論が挙がるかもしれない。では、そうした事例について見てみよう。最近の若者が知的ではないという根拠として、以下のようなことを述べている。「分からない情報を『分からない情報』として維持し、それを時間をかけて噛み砕くという、先送りの能力が人間知性の際だった特徴なわけです。ところが、この『無純』と書く学生の誤字のありようを見ていると、どうやらその『分からないもの』を『分からないまま』に維持して、それによって知性を活性化するという人間的な機能が低下しているのではないかという印象を受けます」(23頁)。さらに、著者の大学のゼミ生が、学生に対して実施したアンケートで、ファッション雑誌の任意の1頁を配布して、知らない言葉にマークをしてもらったところ、マークだらけだったという(25頁)。
 学生の誤りをかばう気はないし、このアンケートを否定する気もない。ただ、これを若者の言語能力の低下の事例としてあげたいのであれば、年配の人間に対しても、彼らが読むような雑誌や新聞を対象に調査をする必要がある。加えて、過去の若者に対して行ったデータも提示すべきである。もし、前者も同じような結果であれば、それは若者の問題ではなく社会全体の問題であるし、後者が同じような結果であれば、昔から若者にはそういう傾向があることを意味する。両者の結果が現代の結果よりもよいと提示できて初めて、現代の若者は昔に比べて知的作業の能力が落ちているとの推測が可能になる。さらに言えば、学歴ごとのデータがあれば、その事象が成績上位層と下位層において、どのような変化を遂げたのかまではっきりと分かるだろう。
 他のデータとの比較を行わない問題点は、岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数が出来ない大学生』とも類似しており、こちらでも現在の状況に関しては学力低下をデータで示すのに、過去が優れていたと見なしうる証拠をデータで挙げていない。いや、たとえ現在の状況だけでも、自分たちの調査によるデータを挙げているだけましなのかもしれない。本書では、学生の調査に乗っかって自分の意見を提示しているだけだ。実を言えば、こちらの方が印象論よりたちが悪い。都合のよいものやほんの一部分のデータだけしかないのに、学術的かつ客観的な振りをして自説の正当性を主張するやり方は、疑似科学の常套手段だからである。
 そもそも、いくら調査したデータを提示しても、検討する側に偏見があればいくらでもネガティヴに解釈することは可能だ。たとえば、逆にマークの箇所が少なければ、見栄を張りたがる、という結論を導き出すことも可能だろう。ケチをつけようと思えば、いくらでもケチをつけられるものなのだ。完全に客観的であることは絶対に無理だが、主観が混じっても客観的であるように務めることが不要なわけではない。
 さらに言えば、これは現代の若者だけに見られる固有の現象とは思えない。柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書、1982年)によれば、明治以後の日本が欧米文化を受容していく際に、外来語の学術用語を漢字に置き換えていくなかで、そうした用語には何か重要な意味があると思いこむようになり、しかも一度定着した言葉ならば、使用者はその意味について責任免除されるようになっていったらしい。意味の曖昧な言葉をそのまま使うこと、そしていったん定着してしまえば何となくの意味に従ってその言葉を用いるという態度は、近代の読書階級、つまり知識人から広がっていったとも言える。その典型例として、「ニート」についてその言葉から受ける自分の印象と経験だけで議論を組み立てた、著者自身が挙げられる。
 まともな知識人はきちんと分からないところを突き詰めていった、という反論があるかもしれないが、ならば今の若者の中にも、そうした態度を持つ者もいるのではないか、と返しておこう。ファッション誌に関する調査を基に見解を述べた著者の教え子は、どちらに含まれるのか。また、そういった学生は著者の教え子にしかいないのか。しつこいようだが、今の若者の方が優れているなどと言いたいのではない。優れた若者もいれば駄目な若者もいるというただそれだけのことであり、それは昔も今も変わらない。
 他にも、自己決定を重視する若者について、最近の若者は正社員にならないかといっても断ることもあるし、上司から責任者になることを打診されたサラリーマンはそれを拒否した、という事例を挙げて、自由の方が出世よりも大事で、自分の自己決定を重視している、と批判している箇所がある(117〜118頁)。
 だがしかし、しばしば指摘されているように、こうした主張は昔から繰り返されている。非常に分かりやすい最近の指摘として、dain「近ごろの若者は当事者意識がなく、意志薄弱で逃げてばかりいて、いつまでも「お客さま」でいる件について」(『わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる』2007年5月17日)を挙げておこう。ここでは、今から30年前に出版された小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中央公論社、1977年(リンクは文庫版))にて、現在と同じような理屈で「最近の若者は…」と批判的に述べられている事例をいくつも紹介しつつ、その安易さが批判されている。そうした当時の言説を、「最近の若者は、定職に就きたがらない。あるいは、会社に入っても一定のポジションで身を立てようとしない。なぜなら、社会的なかかわりを、全て暫定的・一時的なものと見なしているからだ」とまとめる。これは先に見た現代の「下流志向」の若者に対する批判と何ら変わるところがない。さらに、こうした言説を現在でも繰り返す安易さを、以下のように批判する。「仮に、「ひきこもり」や「NEET」が問題であるとしよう。そして、現代の若者の無気力・無関心が原因なのであれば、それを「是」として実践してきたのは、まさしく若者を叩いているオヤジ連中だ」と。ちなみに私自身も、学生であった1990年代に『モラトリアム人間の時代』を読んだ記憶があるものの、「ふーん」で終わったように覚えている。いまから思えば、この批判は私の世代ではなく私より一回り上の世代に対して向けられた批判であったというわけだ。それはともかく、「モラトリアム人間」に対する批判は、先に見た「下流志向」を持つ現代の若者に対する批判とたいして変わるところはない。
 挙げていくときりがないので、これくらいにしておく。もし批判したいのであれば、その優れた点を最大限に評価した上で、その限界と短所を突かなければ、建設的な意見とはなり得ず、単なる愚痴にすぎない。飲み屋で友人相手にそれをやるのならばいいだろう。だが、いみじくも学者が、印象論と他人のちょっとした調査結果だけで、一般論を語るべきではない。たとえば、ニートについて書くときに、はたしてどの程度ニートについて調べたのだろうか。『「ニート」って言うな!』にすら触れていないのだから、どうしても疑ってしまう。本書には確かに古典や学術的著作からの引用がそこかしこにある。それは著者の知識の豊富さを物語る。だが、そもそも最も重視すべきニートや教育に関する文献には殆どと言っていいほど言及していないため、そうした不勉強をごまかすための目眩ましにしか思えない。
 その目眩ましで自分自身が見えていない一例として、リスクヘッジについて言及した事例を挙げておきたい。リスクヘッジの重要性を説き、あるプランが上手く行かない場合をリストアップしておき、それに代わる代返プランを用意することを指摘する箇所がある。それ自体は事実だろう。これについて長々と書いてあるが、そのあたりはどうでもいい。それよりもこう言っていることに注目したい。「政治家だけでなく、メディアに登場する知識人たちのほとんどは『私は正しい』ということを言い立てることにはたいへん熱心ですが、自分の理説や命題が破綻するのはどういう場合かについてはほとんどリスクを投じません」(98頁)。では、著者の場合はどうか。今まで見てきた若者批判への疑問を検証するなかで挙げた、素行の良くない年代から考えてみよう。掲載されている著者の略歴を見ると、1950年生まれということだから、現在50代である。先に見た通り、刑法犯の急増が昨今目立つのは50代以上であるし、戦後の犯罪率が最も高かったのは昭和30年代に少年であった世代であり、モラトリアム人間と批判されたのは1970年代に学生だった世代、つまりすべて著者の世代である。もし、著者の世代が日本の高度成長を支えていたのであれば、同じように駄目な現在の若者の世代にもその可能性は十分にあるだろう。確かに、「私は正しい」と熱心に訴えるが、その命題が綻びを見せる可能性をまったく考慮していない。
 著者の学術的な著作に関して、不勉強であるため、私は全くと言っていいほど知らない。だが、それらでは一定以上のデータや資料を集めた上で、自分の論を組み立てていっているはずだ。現代の社会が自分自身にとって身近な存在だからといって、それらを論じるにはそうした基礎を怠ってよいわけではないのだ。

 だが、印象論だけでも説得力のあることを言える場合もある。たとえば、ニートに対するメッセージである。ニートが、その生き方に固執するならば、彼らの老後は税金で扶養するしかない。そして、社会はお互いに迷惑をかけてかけられているのだから、君たちを飢えさせるわけにはいかない、気にしなくてよい、というメッセージが伝えられれば、ニート化を食い止めることができる、と(208頁)。すでに述べたように、現代日本のニートが働く意志のない人間であるという定義は、『「ニート」って言うな!』に従えば正しくない。その点において、第3章のニート論の大部分は言説としての実証性を失っていることは間違いない。だがしかし、たとえ本書での日本におけるニートの定義が間違っているとしても、働きたいと思っても職がない若者という社会的弱者に対する年長者のメッセージとして、さほど間違っているとは思わない。
 もし、こうした支えを受けた若者が、何とか職に就けたとしても、それは決して派手な仕事ではないだろう。だがしかし、著者のいう「ロマンティックでイノベーティヴな生き方」ではないけれども、「日常的でぱっとしないけれど、誰かがやらないといけない」(128頁)仕事は、社会に必要不可欠である。そうした人間を卑下しないような社会をつくる必要がある。
 しかし、そもそもそういった仕事に就く人間が、いわゆる学問を必要とするのであろうか。学ぶという姿勢そのものは大切かもしれないが、それは学校でしか学べないものではない。ましてや大学で学ぶ学問など必要ないであろう。つまり、大学に通うことなく、下手をすれば高校に通うことがなくとも、働くことを通じて自分自身の充足を計るという立場も認めねばならない。そうした人間にまで、必死で勉強することを勧める意味はなかろう。歴史上、そうやって暮らしてきた人たちはいくらでもいる。もちろん、進学したいという希望に添うことは大事だ。だが、別に進学を希望しない場合、学問を義務づけるとすれば、いかなる根拠に基づくのか。これはきちんと説明しなければならない問題である。
 そもそも若者が教育に対する疑念を挟むときに、「それが何の役に立つのか」と問うことは最もよくある事例だろう。このような問いが昨今の若者に目立つ理由として、本書の命題ともいえる、彼らがまずは社会の中の消費者として自分自身の主体を確立してしまったためという原因を重視する。そうした意識があるゆえに、教育においても商品としての価値があるか否かに重きを置いてしまっている、と見なすのだ(42〜44頁)。また、だからこそ今の学生は実学志向なのであり、その要望に応えるために学校が工場のようにカリキュラム化していることに疑問を呈して、「教育のアウトカムは数値的に評価できない」(159頁)とも批判する。
 これが事実かどうかは別として、もし本当にこのように考えているのであれば、どのように説明すべきかはそれほど難しいことではない。消費者としての主体が大事であっても、それは富や財産がなければ成り立たず、現在の日本では子供の力だけでそれを成し遂げるのが難しいシステムになってしまっていることを、自覚させるようにすればよい。だから、それができる年齢になるまでは学校にいる方が有利でもあると認識させるのだ。さらに言えば、消費だけで関係が成り立つならば、金の切れ目が縁の切れ目になるということに、注意を向けさせておけばよい。お金を払っている客だからといって、何をしてもいいというのであれば、お金がなくなれば相手にされない、というだけの話だ。そうなったときには、金銭を伴わない関係をどれだけ積み重ねてきたのか、ということが重要になってくる。確かに、著者のいうように単に消費者としての立場だけからしか物事を考えないのは、いざというときに危険であるし脆くもある。
 これに対して、著者はまったく違う説明を行う。いや、説明というよりも、質問そのものの全否定である。教育が何の役に立つのかという子供からの問いは答えの出るものではないのだから、どうして人を殺してはいけないのかという問いと同じく、「答えることのできない問いには答えなくてよい」(35頁)と。
 人間は論理を重んじながらも感情の動物でもあるので、ダメなものはダメ、という頭ごなしの否定をしてしまうことがあっても仕方がないと思う。特に、家族という小さな空間の中ではそうした衝突が起こるのも当然だろう。有史以来、そんなことは珍しくない。ただ、言い分にあまりにも矛盾が多ければ、言われた方は反発するというだけだ。それに対して、学校教育という不快という過程に耐える子供たちと同じく、現代の家庭では不快に耐えている人間ほど発言権があるので、それを示そうとする(53〜57頁)、と何が何でも現代をネガティヴに捉えて、どうなるものとも思えないが。
 それはともかくとして、こうした全否定のような主張を、社会全体に関連する概念にまで当てはめてよいわけがない。確かに、人を殺すことは決して善き行為ではないだろう。そして、戦争によって殺人が日常化している社会に比べれば、殺人を強制されない社会に生きている私たちは幸せである。しかし、だからといって人間社会から殺人がなくなるわけではない。しかも望まずして殺人を犯さざるを得ないことは、悲しいことであるけれども、幸せな社会でさえ生じてしまうのだ。たとえば、親から虐待を受け続けた子供が、思いあまって殺害してしまった、ということは、現代の日本でも起こりうる事例である。だがもし、人を殺してはいけないのかという問いを立てることさえ許されないのであれば、その子供の気持ちを理解することはできないだろうし、救うこともできないだろう。もちろん子供が親を殺すことは罪ではある。しかし、社会的・法的な罪を超えて、その子供を精神的に救うことは、またはそこから何らかの教訓を引き出すことは、人を殺してはいけないという問いそのものさえ否定する立場からは決して出てこない。
 学ぶことだって同じだ。「何の意味があるのだ」と嫌みったらしく言う輩もいるだろうが、素朴に、そして真摯に悩む子供だっているかもしれないのだ。そんな子供に対してまで、「その質問は質問そのものが間違っている」と言い放つことは、教育者として失格だとしか思えない。著者の言うように、学びの機会は「自分が享受している特権」(36頁)とも言え、世の中の多くの若者が、学校に通えるということは幸せなことだ。だが、そのことと学びの必要性への懐疑は、決して矛盾するものでもないし、お互いに敵対すべきものではないのだ。
 もしかすると、本当に間違っているのかもしれない。だが、間違っているかもしれないが、まずは考えてみる姿勢こそが大事なのではないのか。たとえば、あくまでも教育を経済のみから考えるという立場に徹した著作に、小塩隆士『教育を経済学で考える』がある。その上で最終的に、教育を経済効果で考えることの限界を認め、親から子どもを強制的に引き離さなければならないとの認識に至っている。正しいかどうかは別として、学問の作法としては正当でありかつ誠実である。
 これに対して著者は、学ぶことの必然性を歴史的な背景から説明しようとしている。教育を受ける権利が子供に保証されるようになったのは、近代までヨーロッパでは貧しい階層の親たちが子供を幼児期から労働力として使役するのが当然だったからである、とする。これは決して間違いではないだろう。それゆえ、公教育機関が子供を親による私的な収奪と支配から防衛するアジールの役割を果たしているということや、義務教育がこうした文脈から出てきたとしていることなどに簡単ではあるが触れている(124〜125頁)。
 そして、アフリカやアジアなどの内戦や基金に苦しむ国々で、学校がつくられると子供たちがはじけるような笑顔で学んでいるのを見れば、学ぶことが子供たちにとって犯すことのできない権利として要求すべきものであるとする。にもかかわらず、とりわけ1990年代以降の日本社会では学ぶことが苦役と見なされている、とする(126頁)。
 1990年代以前にも、学校へ行くのは嫌だという子供たちがいたと思うのだが、本書でのその辺りの調査に対する適当さをいちいちあげつらい、実情を調べるのは面倒くさいのでもうやらない。また、「ぼくたちの世代で、生まれて初めての社会的活動が労働ではなくて消費であった」(41頁)子供はほとんどいなかった、と述べているが、相変わらず自分たちは違うと言いたがっているのと、家事労働も親たちによる私的な収奪ではないのか、ということも気にはなる。おそらくは、家庭での家事と社会での仕事は違うと説明するのだろうし、実際に、当時の子供たちは「「やると父母の負担が軽減される」ことが分かっているから、していただけです」(47頁)と述べている。嫌々やっている子供たちはいなかったのかと思うけれども、自分に都合よく言おうと思えば何でも言えるのだな、ということで、とりあえずはおいておく。
 それはともかくとして、アジアやアフリカの苦境を持ち出して現状を批判するという手法は、よく見られるものである。だが、こんなものでよければ、これをひっくり返した言い方もできる。貧しい国々では子供を教えたくても学校がないから、学問を修めても教員になることすらできない。それに比べ義務教育と高等教育のシステムが整えられた日本は、教育者になることが決して不可能ではないだけ幸せである。にもかかわらず近頃の教員は、「最近の学生たちは…」はという愚痴を平然とたれてしまっている…。念のために言っておくが、こんなものは理論をこねくり回した単なる遊びにすぎない。遠く離れた場所を持ち出して現在を批判するのは、意識してか無意識かは別として、本当に取り組むべき何か重要なものから目を逸らしているようにしか見えない。
 それは何か。教育には完全な完成型はあり得ない、というごく当たり前のことだと思う。確かに、現在の教育は、そうした過去からの積み重ねによって成立していることは事実だ。だが、歴史的な過程があったことと、それが現在においても有効かどうかは別問題なのだ。歴史は、そこから現在の状況を考えるためにあるのであって、それに服従するためにあるのではない。もし、過去につくられた制度に直すべき点があれば少しずつ修正していくべきだし、また大手術が必要な場合もある。それは歴史上いくらでも見られたことだ。教育に関しても同じである。歴史的な経緯を絶対視して、それが不変のものであるとみなしてはならないのだ。現在の状況から改めて考え直してみようとした一例が、経済学という観点から教育学を考えてみようとした、先に挙げた事例と言える。
 だが、著者にとっては違う。義務教育を受けるべき理由は、過去からの流れによって定まっており、それに意見を挟むことは許されないのである。そのように思考停止してしまったいるからこそ、なぜ教育を受けるべきかという疑問に答えようとする者へ、このようなことを言い放つ。「『それはね』とすらすら『子どもにもわかるような説明』をしてしまう教師がいたとしたら、そういう人間にはむしろ警戒心を抱きます」(34頁)と。ここで違和感を感じるのは「すらすら」という言葉だ。単純なことほど、簡単に考えるのは難しい。だから、子供から真摯にそのような問いが発せられたならば 、教育者もじっくりと考えてみるべきなのだ。その努力の過程を無視して、ひとくくりに「すらすら」と批判するのは、現場で頑張っている教育者に対する侮辱ですらある。
 過去からの流れがあるからという説明は、確かに合理的ではある。だが、過去に定められたのだからそれに従えばよい、というのは長生きした年長者に従えばよい、という態度につながる。それは教育ではない。教えへの強制である。つまり、著者にとって教育を受けるべきというテーゼは、もはや疑うことを許されない完成された神学なのだ。
 学問からの逃走を下流志向と呼んでいるが、何のことはない、学問教の神学とそれに基づく階層組織を否定する若者を認めない、という強硬な態度にすぎない。そこから外れる者に対しては、異端者を排撃するかのごとく容赦がないと思えば、若者に対する疑問と批判に満ちあふれていることにも納得がいくというものである。また、教育の意味を説明しようとする教師への嫌悪感も説明が付く。そのような教師は、上位の聖職者である自分に反抗する下位の聖職者であり、教育の絶対性という教義への疑問を信者たる生徒に持たせる悪しき背教者だからである。
 実際に著者自身も、学校を神話になぞらえてこう言っている。「生徒たちは単に『学校でよい成績を取ることは人間の価値とは関係ない』という学校神話の否定にとどまらず、更に踏み込んで『学校で悪い成績を取ることは人間の価値を高める』という反−学校神話に同意し始めている」(112頁)。学校の持つ意味を神話になぞらえるだけでなく、それに対する批判も神話なのである。お互いに神話であれば、両者は絶対に分かり合うことのない敵対関係から抜け出すことはできないと認識するのも当然だろう。しかし、神話などと言ってしまえば、その本質や変化の原因を探ることは決してできない。
 それでは、なぜ学校に対する疑問が生じてきたのか。確かに、近代における教育は、むりやり働かされるという現況から子供を救うという、プラスの側面があったことを否定する気はない。だが、強制労働から子供たちを解放するために学校へ通わせるという歴史的背景が、少しずつ現代の社会に合わなくなっているからこそ、若者は学校で学ぶことに疑問を持ったのではないだろうか。そしてそれは、著者の説明とは異なる近代教育の歴史的背景から説明できる。というのは、学校教育は近代資本主義という制度のなかでの強制的なシステムとして作用した歴史もあるからだ。
 柳治男『<学級>の歴史学』にて論じられているように、計画を練る教員と指導を行う教員の分業制は、20世紀に急速に普及したテイラーシステムに基づく工場や、ファーストフードやコンビニなどのチェーン化に見られる、マニュアル的分業制の原型と言える。そして、子どもの未来のために良くない環境から切り離すという意味において、教師は宗教的な使命感を持つ司牧としての役割を担うことになった、と指摘している。さらに言えば、関曠野「教育のニヒリズム」(同『野蛮としてのイエ社会』(お茶の水書房、1987年)所収)が喝破したように、近代の学校教育は、家庭や共同体から教育権を奪うことこそ重要なのであり、だからこそ教育的な効果や効率は無視される。つまり、共同体から国家が教育権を収奪したという見方も可能なのである。となれば、学ぶことへ疑問を呈さないという立場は、近代資本主義下において、学ぶことが不得手な人間を資本主義の参与者たらしめず、弱者へと貶めるシステムを補強すると言える。
 実のところ著者は、これと同じような見解に行き着いている。学校を消費者としての主体から認識すれば、学校から外れていった先に社会的な弱者としての道しか残されていない、というのも著者の意見だからある(99〜116頁)。著者が言うように、消費者としてのマインドで学校教育に反抗的な態度をとるのは、確かに自殺行為につながりかねない。「子どもたちが自信を持つという目的は所属する社会集団の価値観や行動準則に同一化することでしか達成できません」(113頁)と述べつつ、自分らしさに価値を置く割には、若者の個性が定型化している(115頁)、という指摘には一理ある。学校の成功の否定により達成感を得ているというのは、ネガティヴなものなのかもしれない。実体験に基づいているからか、傍証としてあげている小説なども含めて、本書の中で私が説得力を感じた数少ない部分の1つだ。
 だが、これはものすごく皮肉なことである。なぜならば、学校が社会において持つ意味が、そこから外れなければ弱者にならずにすむためであると認めてしまうことは、学校にてカリキュラムをこなすことこそ重要であり、学校で学ぶ学問的な内容に意味があるわけではない、と認めてしまうことを意味するからだ。学問に疑問を持たず学ぶべし、という神学の教義に疑いを持たなかった人間こそが、社会的弱者にならずにすむというわけである。
 なお、歴史的に見れば、これは戦前の大学にさえ見られたことである。竹内洋『教養主義の没落』によれば、旧帝大の文学部在学生の多くは農村部出身であり、彼らにとって「教養」とは、都会で成り上がるために必要な衣装であったとあることから、文学部の学問も成り上がるための実学という側面があったと言える。
 もちろん、しつこいくらいに繰り返すが、すべての学生がそうであったというわけではなかろう。学問的な探求心に基づいていた学生もいたであろう。だが、そのような傾向もあったことは、文系の研究者であれば自戒の念として抱いておくべきであろう。加えて、そうした文学部出身の学生は教員となることが多く、教育現場で教養を再生産する傾向が強かったとの指摘もあるのだから、なおさらである。
 だがしかし、神学者である著者には、そのようなことにまったく考えが至らないらしい。その最たる例を挙げよう。ある国立大学の新聞部の学生からのインタビューで、最初に「現代思想を学ぶことの意味は何ですか」と問われたという事例だ。これに対して、自分の答えに納得できなければ「学ばない」と宣言しているとみなし、「ある学術分野が学ぶに値するか否かの決定権は自分に属していることを、問いを通じて表明しているのです」(76頁)と記す。そして、「教師を絶句させるほどラディカルでクリティカルな問いなんだ、これはある種の知性の証なのだと子どもは思いこんでいます」と批判的に述べる(76頁)。
 そのような質問をすることが知性の証と思いこんでいるかはともかくとして、先に見た「日常的でぱっとしないけれど、誰かがやらないといけない」仕事に就いている人間にとって、現代思想は必要なのだろうか。これが「現代思想」ではなく「学問」であれば、日常生活における有用性を、まだ説けるかもしれない。だが、現代思想をはじめとする何か1つの分野の知識が、万人にとって必要である状況が生じるはずはない。専門家にとって必要なことは、誰かに求められたとき分かりやすく説明したり、またはその誤りを指摘することなのだ。「ぱっとしない」仕事している人たちは、諸学問について学ばなければという恐怖感や劣等感に苛まれずに自分の役割をこなし、専門家は彼らの仕事に敬意を払いつつ、また自分自身の学問の限界を認めつつも、必要に応じて一部の人々に知識を提供する、というのは非常に健全な社会のあり方ではないのだろうか。現代思想は絶対であり、その意味を疑ってはならないとすれば、もはや狂信の域に達している。
 しかし、この意見に対しては反論が挙がるかもしれない。この批判は、汗水たらして働いている人間に向けたのではない、大学生ともあろうものがそのような質問しかできないのかと問うたのである、と。なるほど、大学生にもなって困らせるように質問することが知性の証だと思いこんでいるならば、いくらでもその馬鹿らしさを批判してやればよい。これは私の知人の言葉を少しアレンジした言い方なのだが、意味があるかないかは、人それぞれ違う。だから主体を省略した問いには、それこそ意味がない。自分にとって意味がないと思うのならば正直にそう言えばよい。一般論的な物言いでしか否定的な疑問を提示できないのは、自分に確固たる個がないのをごまかしているだけで、しかもそれを隠して他人に答えさせようとしている堕落した態度である、と。
 ちなみにこの点に関しても、先に述べた、昔に比べて今はそんなに悪いのかという問題が当てはまる。永嶺重敏『東大生はどんな本を読んできたか』によれば、三木清は、1937年に「学生の知能低下について」という一文を書いたという。やはり、学生の知性に対する批判は、たとえ国立大学の学生であっても、戦前の大学生にたいしても行われていたのである。なお2001年に、蓮實重彦は「東大生の3割は非常に優秀であり、学力低下は起こってない」と言っている(竹内洋・中公新書ラクレ編集部編『論争・東大崩壊』より)が、裏を返せば、東大と言えでも教員から見れば優秀ではない学生が昔からいる、ということになる。簡単に言えば、下だけを見て、または逆に上だけを見てその全体像を批判してはならない。
 ただし、ここで訴えたいのはそういうことではない。その学生が素朴にそのような質問をしたとするならば、なぜそのような学生が増えたのかという問題だ。本書で提示されている見解からすれば、そのような学生は最近になってから現れ始めたということになるだろう。それが大学生であるならば、その原因は時代の変化以外の大事な要因がある。それは大学進学率の上昇だ。文部科学省の平成19年度の学校基本調査の参考資料における「進学率(EXCEL)」によれば、1957年度は11.2%、1967年度は17.9%、1977年度は37.7%、1987年度は36.1%、1997年度は47.3%、2007年度は53.7%と確実に上昇している。つまり、以前であれば大学に入学できないような学力しかない階層まで、大学に通うようになったといえる。
 それでは、現在はどのくらいの大学生がいるのかというと、同じく文部科学省の調査による「在学者数の統計(EXCEL)」によれば、2007年度の短大在学者は約18万6千人、大学在学者は約282万8千人であり、合計すると300万人を超える。著者の文章を読んで学んだという人は、おそらくたくさんいると思う。そういった人は、受験のための学力の差異は抜きにして、大学で何か学ぼうという意欲を持った人たちだろう。だが、それは大学進学者における割合からすれば決して多いとは思えない。いくら著者の本が売れていて、また読んではいなくても潜在的な読者になり得る学生、言葉を換えると、著者の本を好意的に読むにせよ批判的に捉えるにせよ、自分から進んで読もうとする学生の数は、どんなに高く見積もっても100万人前後だろう。なぜ、100万人という人数を持ち出したかという、著者が大学に入る頃の大学生の人数に近いからである。1967年度の短大在学者は約23万4千人、大学在学者は約116万人だから、この時代のレベルにまで進学者を減らせば、先のような質問をする学生の数は、確実に減少する。なお、東大においてさえ学生が多すぎるから減らすべきと主張している、有馬朗人のような論者もいるほどだ(中井浩一編『論争・学力崩壊2003』より)。
 つまり、先のような質問をする大学生を減らしたければ、大学教員として自分から率先して大学の縮小化を訴えればよい。または、そういった学生がいないような、偏差値が極めて高い大学へと移ればよい。ピーター=サックス『恐るべきお子さま大学生たち』がアメリカのコミュニティ・カレッジのレベルの低さを批判したのに対して、「それならば、このような底辺校に職を求めずに、一流校へ就職するべき」と疑問を呈したことがあるが、それと同じようなことである。
 そんなことをすればまともな教育を受ける機会が減るではないか、という反論があるかもしれない。だが、著者の言葉に従えば、現在40歳代よりも上の世代が若者の頃の日本は、今と違ってよい社会だったのだろうから、そのころ、つまり1960年代末から1970年代初頭にかけての進学率に戻せば、古き良き時代が復活するかもしれない。また、戦後日本の高度成長を支えたのはこの世代の人々なのだから、大学で習うようなことがなくても、日本の経済を支えることは可能なはずだ。
 もちろん、これは著者の考え方に対する異論を提示するための空想の話にすぎず、大学の数を減らすなど非現実的な提案だ。今さらそんなことをしたら、大量の失業者が出る。2007年の大学・短期大学の教員数は約17万7千人であり、1967年度は約10万人だから、7万人ほどの失業者が出る。それに加えて職員にも大量の失業者が出るのだから、社会的な大問題になってしまう。もっとも、少子化によって大学の先行きは暗いかもしれないので、大学がつぶれて失業者が出るかもしれないがそれはさておく。いずれにせよ、大学の進学率を上げて、学問への好奇心のない学生を入学させることで、大学は産業としての基盤を確立してきた。それによって、自分たちの生活基盤を築いているならば、そうした学生たちのレベルの低さを嘆くのではなくて、自分自身で教育活動に力を込めるしかないのだ。現在の教師は神学者ではないのである。神学者のように敬意を払われることはあってもよいが、神学者として敬わせることを強制してはならない。

 さて、著者を神学者になぞらえて批判してきたわけだが、あくまでも状況証拠に基づく推測にすぎない。だが、その推測を私に確信させて、この文章を書かせたのは、著者が理想とする師弟関係を述べる部分であり、そこにこそ危険な考え方がはっきりと映し出されている。著者は、師弟関係について、弟子が師匠の技量を超えることはあっても問題ではないが、連綿と過去から続く師匠と弟子の連関関係を、師匠を超えたと思った弟子が壊してしまえば、何かがそこで終わると述べる(178頁)。この意見について、特に賛成もしないが異論もない。だが、これを「スターウォーズ」になぞらえてこのように言う。「アナキンは『俺は師よりも強い』という自信を得たときに『ドア』を閉じてしまう。自己完結してしまう。自己完結した『近代的自我』として自立してしまう。そして近代的自我であるアナキンは、前近代的な師弟関係に支えられたオビ=ワンに破れるわけです」(179頁)。
 前近代的な師弟関係だけは、師匠を雇えるような財産のある家に生まれた人間しか教育を受けられなかったはずだ。そして、生活のために働かざるを得ない子供がいたから、そのために近代的な機関として学校がつくられたと、自分で言っていたのではないのか。また、前近代的な師弟関係のしがらみゆえに、潰されてしまった弟子だってたくさんいるのではないのか。どの師匠も優れているとは限らないので、自分にとって本当の師匠を捜すために色々な人物に師事した者もいるのではないか。
 ちなみに、しつこいくらい言っているのだが、師弟関係そのものを否定するつもりはない。いい場合もあれば悪い場合もあると言いたいだけだ。前近代的な師弟関係からよいことも得られる場合もあるだろう。いや、むしろ先に述べた学校教育の歴史の中で触れたように、学校教師が宗教的な司牧の役割を果たし、生徒の上位者としての立場を絶対的に規定された立場にいるのであれば、そうした関係を打ち破る枠組として有効であるとさえ認められる。
 だが、残念ながらそうはならない。自分自身も神学者である著者は、師弟関係について以下のように結論づけているからである。「教育を再構築するというのは、この師弟関係の力動性、開放性を回復することから始めるしかない。「師弟の物語」にもう一度日本人全体が同意署名すること。これはマインドセットの切り替えだけですから、コストはゼロなんです」(184頁)。コストがゼロだろうが何だろうが、教育の再構築のためには、師弟の物語に「日本人全体が同意署名」せねばならないのだ。まるで、「最後の審判」を待ち望む聖職者と信者のように。同意署名しなかった者は、異教徒として地獄行きなのだろう。
 おそらくであるが、著者は師弟関係に基づく教育を、自分は完璧に施していると考えている。少なくとも本書には、自分への反省は見られないので、そのように推測しても構わないだろう。だがそれは、ここまで述べてきたように神学に基づく教育である。なぜ学ぶのか、現代思想にはどのような意味があるのかという問いそのものすら立てることを許されない神学である。そして、著者のもとには、著者の説教を聞いて入信した信者がやってくる。はじめから信者しか許されない世界であれば、神学者は完璧な講義を行いうるし、外界の状況や、外部からの視線や意見を無視することもできる。
 この点において、「自分がこれから何を学ぶかについて、学生があらかじめ知っているということを前提にしては、学びは成立しないからです」(149頁)という言葉の意味は非常に重い。これは、最近の若者は消費者の立場から自己の意見を通そうとするという本書の若者批判の主たるテーゼに絡めて、講義がシラバス通りに行われていないと文句を付けてくる大学生を批判したときの台詞である。この出来事の是非は、今はどうでもよい。これが武道などの師匠と弟子の関係ならばまだよい。秘伝は免許皆伝して流派を継ぐ直近の弟子のみに教えるべき事柄だからだ。だが、学問は違うだろう。知らないから学ぶということと、その教えてくれる事柄がどのような枠組を持っているのかは別問題なのではなかろうか。だから、普通に読めば、この部分は納得できるような気もするけど何か違和感を感じる読者も多いだろう。しかしこれも、神学と考えれば分かりやすい。学問を学びに来る人間は、信者としてまずは頭を垂れて説教を聞くことで、神学者から試される。その上で資格ありと見なされれば、一般の信者は知らないような秘密の神学を聞けるというわけである。こうして、教師を絶対のものとする組織は完成する。神学を信じている人間のみで構成された空間で教義の秘儀を授けているのだから、その教育は何の滞りもなく上手くいくのは当然なのだ。
 とはいえ、大部分の学生は、講義の内容以前にそのような立場からの教育を望んでいない。自分が興味を持っている分野もあれば、そうでない分野もある。自分の仕事に必須の分野もあれば、他の専門家に任せておいて必要なときに頼ればよい分野もある。いわば、いかなる学問といえども、大多数の人に敬意を払われることはあっても、万人にとって絶対のものではない。だから、学問を疑うなという教師に恭順することはできない。神学者から見れば、神学を信じていないこうした人間は、単なる無知蒙昧な人間と映る。学問の絶対的な有用性を疑う若者は、教育のありがたさがを理解していない「下流志向」を持った駄目な若者なのだ。そして、そうした若者の教育までしなければならないという使命感に燃えつつ、学問に対する態度がなっていないと説教する。まるで、異教徒を改心させようとするかのように。だが著者は、自分の信奉する教義を認めない人間が増えてきたことに気づく。先にも述べたように、それは若者のせいだけではなく、子供たちを労働の強制から救いつつも、システム化された教育から外れることを許さないという、学校制度の矛盾とも言える部分が前面に現れてきたためであろう。したがって、何らかの対処療法が生徒や学生のみならず、教員や学校にも必要となる時代がやってきたと言える。けれども、著者から見れば、今の状況は自身が信奉してきた神学の破壊にしか見えない。それに苛立ち、異教徒への批判とも言える書を、つまり本書を出したのである。
 その気持ちがまったく理解できないわけではない。誰でも、自分のやっていることを分かって欲しいという願望は持っているものなのだから。しかしながら、著者が、本書を読んだ若者が目覚めてくれると考えているのであれば、あまりにも愚かしい。これまで見てきたように、前提となる若者批判は、あまりにもあやふやな根拠に基づいており、それを古典や学者の言葉でコーティングしたものにすぎず、若者の心に響くはずもない。そして、師弟の物語に全面的に同意しなければ、その教育を受けることはできない。認めない若者は、この世界に参入することを許されず、結局のところ批判の対象となるだけだ。
 こうしたいかにも多彩な学識があるかのように振る舞うことと、資本主義との間に共存関係を見出したのは関曠野であった。「<学問>のラベルで世上に流通しているものを見さかいなくかき集め、いかにも学問風ないかつい用語でそれらをつぎはぎした、彼等のアブク学問が誕生する。この学問は各種のスノッブと学識経験者なる道化を生産する以外には、何の効用ももっていない。金メッキした言葉は資本主義的商品を流通させるに必要な手段としての言葉である。他方アブク学問とは、気取ったしかめ面で純粋精神を装いながら、その実は権威を売りのものに商品として流通している言葉である。この両者は互いに他を支えつつ、ブルジョア資本主義社会における言葉の退廃と死を促進している」(関曠野『ハムレットの方へ 言葉・存在・権力についての省察 改訂新版』(北斗出版、1994年)、293〜294頁)。「下流志向」とは、消費主体として自己を確立して、どんなものでも計算できる価値観のみから判断しようとする傾向を指すとすれば、古典や学説の引用で金メッキを施した本書は、それをさらに加速させる可能性すらある。
 つまるところ本書は、立派な志で書かれているかのように見えて、何ら全体的な状況を改善することもできない、思いつきのような文章をさも学術的であるかのように見せびらかしている代物にすぎない。そして、自分の神学の正しさを声高に訴えているだけだ。別に、私的な場所でそれをやる分には一向に構わない。だが、そのようなことを、価値観を多様とする万人が通う学校という組織の中でやられては迷惑なのだ。現代の社会に対していいようもしれぬ不安感を持つ若者たち、そしてそうした若者たちに生きていくための最低限の知識を身に付けてもらおうと、または何とかして学問の面白さをわかってもらおうと努力している教員たちに対して、学ぶことの意義を疑うなと偉そうに教義を宣うだけで、自己を絶対化するかのごとく師匠と弟子の関係を構築させようとする存在など有害でしかない。
 私自身も、曲がりなりにも教育産業の片隅で飯を食わせてもらっている。となれば、人の批判ばかりして、自分自身はどうなんだということを述べないのは卑怯だという誹りは免れない。私自身がどのような教育をしているのか、ということを述べていない以上、そうした批判には返す言葉もない。だがそれでも、あえてこのような雑文を書かずにはいられなかったのは、自分自身を顧みず、現在の若者をどうしようもない存在のように描き出すことに我慢ならなかったからだ。確かに、私だって教えていて腹の立つことだってある。けれども、そういう学生は昔だっていただろうし、自分自身の技術がまだまだ未熟なのかもしれないのだ。教師自身だって学び続けなければならない。その学ぶというのは、知識だけではなく、それこそ著者のいう師弟の関係のなかで学ぶ、知識を超えたものもそうなのだ。そしてそれは何も師匠から弟子に対するものだけではない。師匠もまた、教えることで優れた弟子から学ぶ姿勢を持たねばならない。その謙虚さを失えば、師匠への恭順を強制する神学へと陥る。いわばこの文章は、私自身に対する自戒のためでもある。
 何も私は、若者にすり寄って、訳知り顔で理解者になりたいのではない。いつの時代も年長者は若者の考え方や行動に違和感を持ち、何か文句をたれようとする。もちろん私自身もそうだし、さらには今はまだ若くても、年をとれば同じようなことをしてしまうものだ。そうした読者が本書を読んだとき、謂われのない若者批判を増幅させてしまう危険性がある。何と言っても本書は、学術的な引用文がそこかしこに散りばめてあるため、若者論に学問的な裏付けがあるようにみえるので、若者への良くない印象はやっぱり本当だった、と読後に思いこむこともできるのだから。それに加えて、本書のスタイルがそうした思いこみを助長するようになっている。本書は「下流志向」というメインテーマこそしっかりしているものの、様々な分野の著書からの引用に引きずられる形で議論があちらこちらへと向かうことがある。それを、展開が読めなくてスリリングと見なすこともできようが、話題が多岐にわたり論旨の流れを追いづらくもある。となると、現代の若者の行動に疑問を持つ読者は、全体を覆う学術的な雰囲気に幻惑されつつ、幅広い議論のなかから限定された自分好みの情報を得ただけで、やっぱり駄目なのは今の若者なのだという結論に落ち着き、満足してしまうかもしれないのだ。
 そして、本書に基づき、訳知り顔で若者をくさす人間も現れるだろう。その批判に違和感をもっても、それをどのように言葉にすれば分からなければ、もどかしく感じるだけで終わってしまうだろう。そして、もはや歩み寄る気も起こらず、お互いに決して理解できない関係へと陥るのは避けられない。そのような状況に直面したとき、もし万が一この雑文を目にした人たちが「こういう考え方もあるんだな」と思い、何かのヒントになれば、というのがささやかな私の望みである。さらに、安易な若者批判に対抗する武器として、この雑文が少しでも役立てば嬉しく思う。願わくば、本書によって若者と年長者の溝が広がるようなことがなく、互いに建設的な意見を交わしあえる関係が築けんことを。

 さて、長々と書いてきたこの雑文もそろそろ終わりにしたい。最後に確認するのは、巻末近くの一文である。「あと一つ二つを残して、大学で僕にできることはだいたいやり尽くした気がしますので、できれば少し早めに大学教師の生活からはリタイアして、余生は武道の道場で地域の子どもたちを教えることで過ごそうと思っています」(229頁)。ちなみに、すでに地元にも道場を開いているらしい。それは素晴らしいことだ。そして、著者の活動に影響を受けて自分自身の指針にしている人は、この雑文を読んでいる人よりも何万倍も多いと思う。それに対しては、決して嫌味などではなく、心から敬意を表する。
 ゆえに、できれば自分自身の言葉通り、早めに退職してその私塾で本書の主張を実践してもらいたい。そうすれば誰も不幸にはならない。そして、学校でやるべき仕事を自覚している方に、職を譲ってもらいたい。私自身、教育産業に携わっている。私にもこなさねばならない仕事が、現場でいくらでも待っている。だから…「このくらいにしておこう。私はシステムから逃れられない者としての任務の速やかな遂行で忙しいのだから」(浅羽通明『「逆襲版」ニセ学生マニュアル ミーハーのための「知」の流行案内〈平成元年版〉』(徳間書店、1989年)、294頁)。


※この文章を読んで何か感想や意見があれば、こちらから送ってください(メールアドレスはなくても結構です)。


〔追記:2008年9月11日〕
 ニートの人数と定義に関して間違っていたので、訂正した。


〔本文中で言及した文献(著者名の五十音順、リンクはすべてAmazon)〕

浅羽通明『「逆襲版」ニセ学生マニュアル ミーハーのための「知」の流行案内〈平成元年版〉』(徳間書店、1989年)。
内田樹『下流志向』(講談社、2007年)。
岡部恒治・戸瀬信之・西村和雄『分数が出来ない大学生』(東洋経済新報社,1999年)。
小此木啓吾『モラトリアム人間の時代』(中央公論社、1977年(リンクは文庫版))。
小塩隆士『教育を経済学で考える』(日本評論社、2003年)。
河合幹雄『安全神話崩壊のパラドックス』(岩波書店、2004年)。
玄田有史『仕事の中の曖昧な不安 揺れる若年の現在』(中央公論新社、2001年)。
関曠野『野蛮としてのイエ社会』(お茶の水書房、1987年)。
同『ハムレットの方へ 言葉・存在・権力についての省察 改訂新版』(北斗出版、1994年)。
竹内洋『教養主義の没落』(中公新書、2003年)。
竹内洋・中公新書ラクレ編集部編『論争・東大崩壊』(中公新書ラクレ、2001年)。
中井浩一編『論争・学力崩壊2003』(中公新書ラクレ、2003年)。
永嶺重敏『東大生はどんな本を読んできたか』(平凡社新書、2007年)。
浜井浩一・芹沢一也『犯罪不安社会 誰もが「不審者」?』(光文社新書、2006年)。
本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(集英社新書、2006年)。
パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス、2004年)。
柳治男『<学級>の歴史学』(講談社選書メチエ、2005年)。
柳父章『翻訳語成立事情』(岩波新書、1982年)。


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